尖閣問題を機に国際協調・善隣友好を目指した幣原外交を再評価すべきでは?

2010年10月15日 (金)

 渡部昇一氏の本に『日本史から見た日本人 昭和編』があります。この本では「昭和の悲劇」を生んだ諸事情について、私たち戦後の日本人が読んでも”なるほど、そういうことだったのか”と納得できるような「ニュートラルな論述」(谷沢永一氏評)がなされています。その中でも、特に私が感銘を受けたのは、いわゆる昭和15年戦争に突入する以前の日本に「幣原外交」が存在していたということでした。

 この幣原喜重郎の外交について、渡部昇一氏は次のように評しています。 
「大正時代から昭和5年までの日本政府が誠実に、否、誠実すぎるほど国際協調路線を採ろうとし、日本人の利権を犠牲にすることは、そのためには止むを得ないという努力をしたことについては、疑う余地がない。したがって、国際環境さえよかったならば・・・統帥権干犯問題は暴走しないですんだ公算がすこぶる高い。」(従って、その後の「昭和の悲劇」も起こらなかったはずである)

 「しかし、西の方、アメリカでは排日移民法が成立し、さらにアメリカのホーリー・ストーム法によって全世界的不況と世界経済のブロック化が生じ、しかも日露戦争以来の大陸の利益まで排日・侮日運動で危うくなるに及んでは、国際協調外交の基盤は失われたと言ってもよく、最も文明的に進んだ幣原外交――第二次世界大戦後の世界の先進国外交の原則――も、情況音痴の外交とか時代錯誤の政策とか見られてしまうに至ったのである。」

 実際、幣原の外交政策は、国際協調、恒久平和、共存共栄、対外不干渉等一連の理念を信条として推進されました。こうした氏の外交政策は、第一次世界大戦後の軍備縮小を求める一般的潮流とも合致していて、それ故に、この時代を表象する最も崇高、適切なる外交として国内外で高く評価されました。氏自身、自らの外交理念を「世界人類とともに戦争なき世界の創造」といい、こうした外交理念こそが国際社会に平和をもたらすものであると信じていました。

 では次に、幣原の行った外交の主なものを見てみましょう。

 まず、1921年11月から翌年2月まで行われたワシントン会議において幣原が全権として担当した外交交渉について説明します。その第一は、日、英、米、仏四ヵ国条約を成立させたことです。これは、日本が第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約で、山東省の権益と、アメリカ領フィリピンとハワイの間に位置するパラオやマーシャル諸島の統治権を得たことに対して、アメリカが日本脅威論を唱え始めたことから起こったもので、日英同盟に代わるものでした。

 その内容は、西太平洋地域に権益を持つアメリカ、日本、イギリス、フランス間の、太平洋における領土と権益の相互尊重、諸島における非軍事基地化を取り決めたものです。これにより、日本は実質的にこれらの海域における制海権を持つことになりました。しかし、この条約には同盟的性格はなく、そのため安全保障条約としては全く機能せず、結果的には、日本の国際的孤立化を招くことになったとされます。(岡崎久彦氏はこのことを幣原の訓令違反と厳しく批判しています。)

 また、九ヵ国条約では中国の門戸開放政策が確認されました。これにともなって、日本の1914年以来の懸案だった山東還付問題について日中間の条約が成立し、日本は山東から撤退しました。この交渉の結果、支那側の幣原に対する信頼感は非常に濃厚となり、支那側の全権であった王寵恵は「実は私は日本をひどく誤解していました。今度の会議で日本を理解し得たのは私の大きな所得です。今後全力をあげて両国国交の改善のために尽くす決心です」と述べたとされます。

 また、幣原は例の「21ヵ条要求」の処理にあたって、満蒙権益以外は大幅に譲歩して、その内容を常識的に中国が満足するところまで修正しました。その上で、中国に「支那の内政にわれわれは関与しない。日本は支那の合理的な立場を無視する行動はしない。と同時に、支那も日本の合理的な立場を無視するがごときなんらの行動をとらないことを信ずる」と述べました。また、この九ヵ国条約の調印にともない、「中国における日本の特殊利益」を承認した石井・ランシング協定が廃棄されました。(これが軍の幣原外交批判の端緒となった)

 続けて、幣原の外相時代の外交事績を見てみます。(『幣原喜重郎』幣原平和財団刊参照)

一、加藤内閣外相時代(大正13年6月11日~大正15年1月19日)
・大正13年9月、対支不干渉政策宣明(奉直戦争が発生した際、それが満州に及ぶことを恐れられ出兵が求められたが幣原は「合理的権益の合理的擁護」の原則の下にこれを抑えた。大正14年の郭松齢事件の時も同様の政策を堅持し出兵を抑えた)

・日ソ国交の調整(日ソ基本条約及び議定書に調印し、久しく途絶していた対ソ国交の開始を見た)

・中国関税自主権の確認(支那の合理的立場を尊重し、同情的且つ友好的にその国家的飛躍への道を図るため、支那の関税自主権の確認に協力した)

・支那治外法権撤廃への努力(支那における治外法権撤廃に関する委員会招集について協力した)

・対支文化事業の推進(文化事業日支共同委員会を設置して上海に学術研究書、図書館を設立するなどするなどして、日支両国の文化方面の連携・協力を図った)

二、第一次若槻内閣時代(大正15年1月30日~昭和2年4月20日)
・支那の通商条約改定要求応諾(支那政府より一方的な日支通商航海条約及び付属文書の改定提議がなされたが、終始対支親善の態度をもって臨み、支那側の信頼を深からしめた)

・大正15年9月、治外法権委員会の勧告(北京における治外法権委員会で署名された報告書第四部勧告を容認)

・経済外交の展開(大正15年5月、日華事業協会の兒玉謙次に中国実業団を日本に招待させるなど、日支経済関係の緊密な連携を図った)

・英国の大使共同出兵要求拒絶(昭和2年3月、南京事件勃発し、次いで同年4月漢口に暴動が起こった際、英国は日本に共同出兵を求めたが、幣原はこれに応じなかった。また、北京外交団は蒋介石に対し共同通牒を発し武力的圧力を加えようとしたが幣原はこれにも反対し結果的にこれを阻止した。しかし、これが幣原外交反対派に非難攻撃のための口実を与えることとなり、ついに第一次若槻内閣総辞職となり、田中積極外交に取って代わられることとなった)

三、浜口内閣時代(昭和4年7月2日~昭和6年4月13日)
幣原は、浜口内閣成立とともに四度目の外相に就任したが、それまでの田中内閣の対支積極外交の失敗(三次にわたる山東出兵、その間に発生した済南事件、東方会議の開催、さらに張作霖爆殺事件さらにその犯人隠蔽工作等)により、日支関係改善の基礎的条件はほとんど失われていた。

・ロンドン海軍軍縮会議(ワシントン海軍軍縮条約で主力艦比率(米10英10日6)を受け入れたのに引き続き、補助艦総トン数対米比率10対6.97で調印した。これに対し軍部、右翼、政友会は条約調印は軍の統帥権干犯だとして反対運動を繰り広げ、このため浜口首相狙撃事件が起こった。こうして、幣原は五奸七悪の一人にあげられ、その外交は「軟弱外交」と目され、身辺を刺客に狙われるようになった)

・支那の革命外交との苦闘(蒋介石の南京国民政府が安定するに従い支那の革命外交はますます強力に推進されるようになった。同時に満州の張学良による排日・侮日政策がとられたため、幣原外相の対支政策は苦境に陥ることとなった)

四、第二次若槻内閣時代(昭和6年4月14日~昭和6年12月13日)
・満州事変の勃発(幣原は国際協調外交を基調として国民政府との間で満洲問題の解決を図ろうとしたが、関東軍はこの問題の武力解決の謀議を進めた。しかし、この間万宝山事件、中村大尉事件が発生し、事態は急転直下悪化の一途をたどり、ついに昭和6年9月18日柳条湖事件の勃発を見た。その後も軍は政府の不拡大方針を無視して軍を進め、ここにおいて幣原外交は完全に破綻し退陣を余儀なくされた)

 以上、幣原外交を全体的に見てみると、ワシントン会議以降、満州事変に至るまでの日本対支外交の基調は、田中内閣の一時期を除いて、極めて国際協調的であり、支那の合理的立場を尊重し、かつ、その主権回復に向けた努力に対しても、同情的且つ友好的なものであったことが判ります。懸案となっていた満州における日本の合理的権益についても、幣原は、そうした友好的基盤の上に、外交交渉によって解決可能であると信じていたのです。

 だが、こうした幣原の対支融和的な外交姿勢は、日本国内の軍部や右翼、さらには政友会やマスコミなどによる「屈辱外交」「弱腰外交」といった激しい反発を招くこととなりました。渡部昇一氏は、昭和5年の統帥権干犯事件の発生も、こうした幣原外交に対する反発がもたらしたものと見ています。まあ、政治は結果責任ですから、幣原の責任は免れないとは思いますが、幣原の責任ばかり追及するのは私はバランスを欠いていると思いますが・・・。

 渡部昇一氏はまた、前述した通り、こうした幣原外交が失敗した外的要因として、一、アメリカの人種差別政策、二、ホーリーストーム法(米国で1930年に成立した超保護主義的関税法)による大不況と、それに続く経済ブロック化の傾向、三、支那大陸の排日・侮日問題を指摘しています。

 確かに、一は1924年の「排日移民法」につながるものであり、日本人に激しい反米感情を巻き起こすとともに、その人口問題の解決を満洲に求める一つの契機となりました。二は、アメリカの大恐慌に端を発するもので、資本主義・自由主義経済に対する信頼を根底から揺るがし、日本人をして満州進出さらにはアジアのブロック化へと突き動かす原因となりました。三は、日本がアメリカの画策によって日英同盟を破棄され国際的に孤立したことが、中国の日本に対する排日・侮日政策を招く原因になったとされます。

 といっても、これは、あくまで外的要因であって、それが日本人のナショナリズムを刺激し対支強攻策を採らせる一因となったことは否めませんが、だからといって、それで日本人の主体的責任が免除される訳ではありません。そこには、以上紹介したような幣原の外交理念や政策に執拗に反対し、幣原の国際協調路線を妨害し、帝国主義的な領土拡張策を押し進めた人たちがいたわけで、その彼等が、最終的に国民の支持を獲得し、日本の政治・外交を支配し、日本を破滅の道へと導いたのです。

 つまり、ここで問題とすべきは、このように日本を破滅の道に導いた人たちの思想はどのようなものだったか。それを大多数の国民が支持したのはなぜか、ということなのです。確かに、この時代の日本は、渡部昇一氏が指摘する通り、厳しい国際的環境の中に置かれていました。では、現代の日本人が同様の環境の中に置かれたとしたらどうか。多分、同じような選択をする?というのでは、日本人はこの経験から何も学ばなかったことになります。

 確かに幣原外交は失敗しました。では、そのアンチテーゼとして昭和2年に登場した田中内閣の外交政策は成功したか。三次にわたる山東出兵、その間に発生した済南事件(中国の国民革命への武力干渉をしたと理解され、中国の反日民族意識を決定的なものにした)、東方会議(張作霖の排斥を含む対満蒙強硬策が提出された。結局採用されなかったが、しかし、その周辺の資料をもとに「田中メモランダム」(=偽書)が作られ、日本の帝国主義的侵略意図が国際社会に宣伝された)、そして張作霖爆殺事件の発生(その息子張学良が日本を恨むのは当たり前)、さらにその犯人の隠匿(国際的信用の失墜)・・・、まさに、”むちゃくちゃ”外交というほかありません。

 この結果、日支間の関係改善を図るための外交的基盤はほとんど失われました。だから、私は、何も幣原がそれを引き継ぐことはなかった!と思うのですが、それをこだわらずに引き受けたところが、幣原の偉いところなのだろうと思います。しかし、結局、張学良との交渉は進展せず、幣原としては”堅実に行き詰まる”外なくなりました。すなわち、国際社会の理解を得ることに努めつつ、最終的には国民党幹部と協力して張学良を満洲から排除するとか、あるいは限定的な武力行使をも視野に入れていたのではないかと思われます。

 実際は、その前に、関東軍の一部参謀の謀略による「柳条湖事件」が発生し、満洲全土の武力占領が独断専行的に進められました。幣原外相としてはなすすべもなく、退陣に追い込まれたわけですが、その結果責任を幣原に負わす訳にはいきません。この間の外交責任を問うとするならば、私は、田中内閣の一連の外交政策を取り仕切った政友会の森恪の責任を追及すべきだと思います。(不思議なことに、岡崎氏なども、この森恪の責任を重く見ていませんね)

  彼は、南京事件における幣原の外交政策を「国辱外交」として批判し世論を煽ったことを皮切りに、田中内閣の事実上の外務大臣(外相は田中首相が兼摂、森は外務政務次官)として、上述の東方会議を仕切り、軍と協力して対満強硬手段を画策しました。さらに、蒋介石の北伐開始にともない、田中首相を脅して山東出兵を強行しました。第一次出兵は北伐の中断によって事なきを得たものの、再北伐にあたって行った第二次山東出兵は、済南事件という痛恨の悲劇を生むことになりました。さらに、それに引き続く張作霖爆殺事件も、張作霖の満洲帰還を機に満洲問題を武力解決しようとした森らの画策がもたらしたものでした。

 このことについて森恪の伝記である『森恪』は次のように総括しています。

 「而して第二次出兵は、田中外交の功罪を決するとともに、済南事件以後の日支関係の複雑錯綜即ち、満州事変となり支那事変となり、共に東亜の開放の為に協力せねばならぬ筈の日本と支那とが血みどろの戦いをしなければならなくなった歴史的運命の岐れ路にもなったものである。」(同書p619)「若し、田中内閣の時代に、森の政策(張作霖排除を機に満州問題を武力解決すること)を驀進的に遂行していたなら満州事変も支那事変も・・・その姿は余程趣を異にしていたであろう。」(上掲書p643)

 つまり、満州事変は、昭和6年ではなく森恪が画策した通り、昭和3年の張作霖爆殺事件の際に強行しておれば、当時はまだ蒋介石の革命が中途であり、内には共産党との抗争、旧軍閥との対立があったのだから、もっとうまくいっていたはずだ、と言っているのです。

 この森恪の政治家としての行動で特に問題なのは、彼が以上紹介したような政治的主張をし、それを実現させようとする過程において、軍を政治に引き込み、その政治的・軍事的圧力で政策実現を図ろうとしたということです。東方会議然り、山東出兵然り、張作霖爆殺事件然りです。そして、そのハイライトとでもいうべき軍人抱き込み策が行われたのが、昭和5年のロンドン海軍軍縮条約締結時における統帥権干犯問題でした。

 「森がロンドン条約の否決に努力した理由は、単純な倒閣熱からでは勿論なかった。何時でも彼の言行の根幹をなす所の大陸政策の危機を防ぐためであった。即ち彼は、先ず支那大陸から米軍の勢力を駆逐するにあらざれば到底日本の指導権を確立する事が出来ぬと考えていたし、(米国の野心を)」防ぐには海軍力の確保以外に途はないと信じていたからである。

 要するに対米七割の海軍力を保有することの政治的意義は満蒙生命線を保有することことになるのである。・・・海軍と歩調を合せて、森がその成立阻止に渾身の努力を費やしたことは、世の常の人の如く便乗でもなければ単に内政上の倒閣運動でもなかったのである。」(上掲書p671)

 「森は、専ら宇垣陸相と、軍令部方面に働きかけ、一方国民大会を開いて秘訣倒閣の方向を辿った。」「ロンドン条約を繞る森の活動は、その一面では日本の国家主義運動発展の基礎となった。・・・それが大陸政策の形で、現実に政治の上に姿を現し始めたのは、田中内閣における森の積極政策であり、国内政治運動として勢力を擡げはじめたのはロンドン条約の問題からである。

 森によって、あるいは森の政治活動を機縁にして、政治に現実の足取りを取り初めた日本の大陸政策と国家主義思想の傾向とは、平和主義、自由主義の外交、政治思想と、相克しながら、年一年と発展していった。今日、いわゆる革新外交とか政治の新体制とかいわれるところの政治理念は、森恪に発しているといっても敢えて過言ではあるまい。」(上掲書p673)

 以上の記述は、山浦貫一という「森恪」伝記作家が、昭和16年7月に発行した本からの引用です。しかし、この本は森恪の思想と行動を称揚するために書かれたものであり、森恪の思想を知る上では最も参考になる資料ではないかと思います。何しろこの本の「序」は近衛文麿が書いていますし、その他、その「反響編」においては、発起人として、小畑敏四郎、鈴木貞一、十河信二、白鳥敏夫、それに鳩山一郎など、当時のそうそうたる人物が名を連ねています。

 以上、この時代の日本を支配した思想がどういうものだったかということを一言でいうと、それは「帝国主義的・国家社会主義」だったと言うことになります。その思想は、幣原の国際協調主義、平和主義、内政不干渉主義とは対蹠的で、反自由主義、反資本主義、反政党主義に立ち、日本政治の全体主義的支配を目指すものでした。そして、その本性を隠すダミー思想として、天皇親政に基づく一君万民的平等主義、忠孝一致の家族主義的国家観を唱え、国民に天皇に対する滅私奉公的忠誠を求めたのです。

 で、なんで、当時の国民は、以上のような軍のトリックにひっかかり、本気で国のために自らの命を捧げる気になったのか。不思議な話ですが、実は、日本人の伝統思想は、皇国史観によって形成されたもので、その統治イメージは「天皇親政に基づく一君万民的平等主義、忠孝一致の家族的国家観」を理想とするものだったからです。これが、国家社会主義思想の統治イメージと重なるところがあって、そのため、この思想に尊皇思想の仮面をかぶらせることで国民を全体主義的に統治することが可能になったのです。(10/15 11:00書き換え)

 といっても、日本人がこのダミー思想に絡み取られ、「無自覚なバカ集団」のようになってしまったのは、大正デモクラシーの後・・・昭和に入って以降、とりわけ満州事変以後のことでした。司馬遼太郎はこの時代を、「日本史における異胎」と呼びましたが、これに対して潮匡人氏は、”昭和は当然、明治、大正に連続している”と激しく反発しています(『司馬史観と太平洋戦争』)。実際その通りなのですが、「異胎」としかいいようがないほど、昭和のこのダミー思想がリアリズムを欠いていたことも事実です。

 実は、平成元年8月に、山本七平と吉本隆明氏が「天皇、その位置を考え直す」というタイトルの対談でこの問題を論じています。吉本氏は戦中、先に述べた「天皇親政に基づく一君万民兵藤主義、忠孝一致の家族国家論」、いわゆる日本の伝統的国体論において、自ら天皇を現人神と信じ、そのために命を捨てようと思っていたことを告白しています。そして、山本七平が、天皇は自らを立憲君主と規定していて、二・二六事件の将校を逆賊とした、と言っていることに対して、自分はそれは承伏できない、と反発しています。

 確かに、当時の私は世界認識の方法を知らず、バカだったと言えるが、人間はそうした共同幻想を求めるのであって、その中に入ってしまえば、どんな冷静で理想的な人でも、バカなことをやるのではないか。当時の私たちは、平等な社会、貧困をなくする社会をどう実現するか、やはり天皇はそのままにしておいて、その中間を排除すればいいんだというふうな考え方をしてそれで納得していた。だから、それを”騙されていた”といわれても、ちっとも納得できないと言うのです。

 これに対して山本七平は、私は大正生まれで、つまり大正自由主義時代の子で、かつクリスチャンの家庭だったこともあり、はじめから天皇制など投げたところにいた。実は、昭和の初めは、そんなに天皇絶対主義じゃなかったのだ。大正時代もそうじゃない。大正天皇が自転車に乗ってぐるっと皇居の周りを一巡したとかそんな話がいっぱいあった。それがある時から急に現人神みたいになった。だから、むしろそっちがなぜかということが問題になる、といっています。

 さらに「一木喜徳郎とか美濃部達吉のような、ああいう考え方が当たり前だった時代で、天皇というのはそれでいいんだという、あの時代の常識が大正時代にはなんとなくあったんです。国務大臣は天皇が憲法に違反しないようにする義務があるんで、憲法に違反した命令が出たときは、国務大臣はこれを執行しない責任を有す、これが一木喜徳郎でしょう。こういうことが大正時代ですと、ごく当たり前なんですね。つまり現人神じゃないんです。」

 「大正時代でも、宇垣軍縮なんて四個師団廃止してしまうなんてことも旧憲法下でできたわけなんで、あながち旧憲法が悪かったからとも言えないんです。ああいうことができた時代もあるし、ロンドン条約、ワシントン条約どおりに、出来た軍艦を沈めていることもあるわけなんで、われわれはそういう時代を多少知っているもんですから、現人神というのが出てきた時に、へえーってなった。」

 「これは昭和一桁世代の、あるディレクターの方から聞いたことですが、終戦の時に何が一番ショックだったかといえば、大正生まれの兵隊が、ああ、大正時代に戻るんだなといったのが何よりもショックだったっていうんですね。自分たちはずーっと日本はこうだ、天皇は現人神だと思っていた、いつもそう教えられていた。そうしたら、なんだ、それは案外短い期間だったのだなというおどろきです。」(『仏教』別冊21989.11)

 結局、”教育とは恐ろしい”と言うことなのかもしれませんが、このような昭和の教育を受けた人たちが、吉本隆明氏の言う共同幻想を必要としたのは、この時代にはずっと戦争が続いていて、いつ何時、自分が戦場に送られて死ぬかわからなかった。そのため、そうした自分の運命を自分なりに納得する必要があった。そこでそうした「死の美学」を説く尊皇思想に多くの若者が囚われてしまった、ということではないかと思います。実際、そうでなければ戦って死ぬことはできなかったのだ。だから、それを騙されていたと簡単にいうな、と吉本氏はいうのです。

 それにしても、このように国民を共同幻想の中に閉じこめ、国民を「死ぬこと」以外考えさせないようにしておいて、その一方で”訳のわからない”日中戦争を8年間も継続し、あまつさえ、当初から”勝つ見込みのない”対米戦争に、一か八かで泥縄式に突入していった軍人たちの「ほんとうの思想」とは、一体どのようなものだったのでしょうか。山本七平は日本軍が同胞に犯した罪悪の最大のものとして、日本人から「言葉を奪ったこと」をあげています。言い替えれば、それは国民の「思想・信条の自由を奪った」ということでしょう。

 少なくとも大正時代には――確かにこの時代は明治の富国強兵策が一段落し、資本主義は爛熟期を迎えたが貧富の差は拡大し、政党政治は達成されたが金権腐敗を極め、思想的には功利主義、自由主義、そして社会主義が風靡した。また、米騒動が起こるなど社会不安も増大し、労働組合が組織され争議が頻発し、エロ・グロ・ナンセンスと言われた退廃的文化が栄えた、といったような混沌とした時代でしたが――言葉はあった、つまり思想的自由はあった、ということではないかと思います。だから天皇についても自由に考えることができ、平和を維持することができた・・・。

 そこから私たちが学ぶべきこと、それは、右からであれ左からであれ、人からその言葉を奪うようなことはしてはならない、ということだと思います。そのように考えれば、幣原外相の外交方針が、当時の軍や国民のナショナリズムの感情に受け入れられなかったとしても、それは基本的に”言葉による問題解決”を目指していた訳で、そのことは改めて評価されるべきではないかと思いました。その後、軍や国民のナショナリズムに迎合して破滅した近衛文麿のことを知って見れば、そのことは自明なのでは・・・。