「昭和の悲劇」をもたらした日本における「悪魔」は実は「空気」だった!という”はなし”

2011年1月23日 (日)

 健介さんへ

> この領域は素人ながらいろいろ考えましたが、西洋では暴君という個人だがわが国はそれがことなり、それこそ空気でしょうか。

 日本とドイツの戦争指導者を比べて見てわかること、それは、ヒトラーのような「悪魔」的人間は日本には一人もいなかったと言うことです。竹山道雄の『昭和の精神史』に東京裁判で判事を務めたオランダのローリング氏との会話が紹介されています。竹山氏が Among the accused who impress you? と聞いたら、氏がAll. といい、被告の中の二人は小人物だが、他の人びとについては、その個人的能力を高く評価した、といいます。

 この小人物というのは、28人のA級戦犯のうち誰のことだろうと思って調べて見ましたが、『正論』2010年12月号に「危険な思想家 竹山道雄」という平川祐弘氏の論考があり、その中で、氏がそれを竹山氏から聞き出し『竹山道雄著作集』第八巻の年譜にその名を書いたところ、竹山氏がその文章に手を入れそれを消した、とありました。

 ローリング判事は1977年にイタリアの法学者アントーニオ・カッカーゼに東京裁判の思い出を語っており、その日本語訳が『ローリンク判事の東京裁判』という題で1996年に出版されています。その中で、ローリングは「独日両者の差異は、ニュールンベルグの被告は国家ではなく自分の生命、自分自身の立場を守ろうとしたのに対して、日本の被告は個人の運命についてはあまり腐心せず、国家、天皇、日本の名誉を法廷において守ることを主眼においていた」と語っています。

 それは、「ナチス・ドイツの場合はユダヤ人やジプシー虐殺の背後にいた人物を守ることなど誰にも出来なかったからだ」とローリングはいい「日本では事情が違っていました。日本人は、アジアと世界で、亜細亜を開放し、世界を変えるためにとられた日本の行動を擁護した」と、日本側の弁護団の主張に一定の理解を示しています。ドイツの場合はヒトラーの狂気は誰の眼にも明白だったが、日本の場合はアジア開放の大義はあった、と言っているのです。

 こうしたローリングの日本の行動を擁護する論調の背後には、彼の故国であるオランダが植民地所有国であるということについての反省がありました。それは、いわゆる「もてる国」が植民地政策をとってきたこと。その政策は人種的偏見に支えられていたこと。恐慌以降「もてる国」はブロック経済による資源の囲い込みを行うなど、「持たざる国」であるドイツや日本の発展を阻害したことに対して、批判的な見解を持っていたのです。

 実はこの論理は、近衛文麿の論理と同じなのですね。従って、前々回のエントリーで紹介したように、もし日本が、日米諒解案の線でアメリカと「諒解」に達することができれば、日本も名誉ある撤兵ができたと思います。しかし、その後、日本が、独ソ開戦に便乗する形で南進政策を取ったために、この「持たざる国」の論理が、「基本的人権を尊重する民主主義国家」対「人間侮蔑に立脚するヒトラーのファシズム国家」との戦いという図式に転化してしまったのです。そのため、日米交渉の最終段階になって、日本はアメリカに甲案、乙案の両案を提出し、日米諒解案に戻ろうとしたにも拘わらず、アメリカはこれをはねつけ、ハルノートによる最後通牒を日本に突きつけたのです。

 これは、日米諒解案を歓迎した当時の日本の指導者たちにとっては、予想だにしない展開でした。しかし、当時、多くの日本人がヒトラーを賛美し、三国同盟をバックに東亜に進出することによって、援蔣ルートを遮断して日中戦争に勝利し、南方の資源地帯を押さえて英米に対抗しようとしたことは紛れもない事実です。また、日本がそのような方向に進むであろうことは、日本が日米諒解案を拒否した時点で明らかになった、とアメリカは見たのです。

 この時、「持たざる国」である日本は、恐慌に伴う混乱を経て自由貿易体制に復帰しようとしていた英米の自由主義を選ぶべきだったのです。しかし、当時の日本人は、英米中心の自由主義を敵視する一方、ナチスの全体主義を支持しました。この点は、近衛も、ヒトラーの仮装をしたことがあったように、ナチスの思想の危険性には気付いていませんでした。気づいていたのは、幣原を初めとするごく少数の人たちだけでした。

 つまり、この頃の日本には、ヒトラーのような独裁者がいたわけではなくて、また、そのような強力な指導者がいなかったからこそヒトラーを――彼に二度までも騙されながら――讃仰し続けたのです。こう考えれば、この時代の日本を導いたのは、ヒトラーを讃仰したこの思想、というより、この時代の「空気」だったわけで、この意味で、日本における独裁者は、実は「空気」だったということができるます。

 では、当時の日本にその「空気」を充満させた責任は誰にあるのか。丸山真男はこれを天皇制に求めました。しかし、では、天皇制をなくせばこの問題は解消するのかと言えば、そんなことはなく、別の「偽天皇」が独裁的権力を振うだけです。こうした認識は、天皇を「象徴」とした「後期天皇制」(北朝以降の天皇制)の意義を没却するもので、実は、明治政府が採用した立憲君主制は、この「後期天皇制」の伝統を引き継ぐものだったのです。

 昭和のエリート軍人たちは、この「後期天皇制」における「象徴」天皇を玉(ぎょく)として担ぎ、その権威をカサに来て、自分たちが思い通りに国を引き回すことができると考えた。これが、彼等における「統帥権」の意味でした。つまり、これによって自分たちを絶対化しそして失敗した。その心理的補償としてヒトラーを讃仰した。そして当時の日本人の多くも、同様の心理的陥穽に陥りました。

>しかし欧米派とドイツ派に日本人が分かれた日本側の原因は何でしょうか。

 岡崎久彦氏は、日本が日英同盟を廃棄するまでは、日本の海軍はイギリスやアメリカに武官を留学させていた。また、アメリカや英国から外交上の支援やアドバイスを受けていた。ところが、ワシントン会議で幣原が日英同盟を廃棄し、これを四ヵ国条約に代えたために、海軍までドイツに留学するようになり、こうして陸海共に親独派の将校を大量に生むことになった、といっています。

 この時、日本に日英同盟の廃棄を迫ったのは中国とアメリカで、イギリスは何とかこれを維持しようとしました。この点、アメリカの了簡も狭かったのでしょうし、幣原も理想主義に流れたと言えると思います。岡崎氏はこの点で幣原を批判しています。といっても、この頃は、同盟に比べて集団安全保障体制が無力であることは判っていなかったわけですし、アメリカも急に反日になったわけではありません。

>>この、「人間性」に対する日本人の無条件の信仰こそ、日本人は疑ってみる必要があるのかもしれませんね。それが、日本人における昭和の戦争を反省する第一歩ではないかと私は考えています。

>人間には皆仏性があるという浄土宗の考えですね。これには賛成です。なぜ神は悪魔を作りたもうたかに通じる問題ですが、「これについては知人と話した事がありますが、”そんな面倒くさい事はやめようぜ”でした。

 「仏教では、一切の人々が仏性を持っているから、どんな人間でも尊重しなければならない」と説いているわけですが、「しかし、ただ仏性を具えているから人間を尊重する原理が見出されるかというと、そうではなく、人間は修業すれば必ず仏になれる」(『法華経を読む』鎌田茂雄P427)としているわけですね。

 われわれの内には真理、つまり、人間は他人と共感し、心を通わせることによってのみ、愛情のある豊かな心を持つことができることを理解し、それを体得実現しようとするする力=能力がある、仏教ではその能力を仏性と言っているのです。つまり、それはあくまで可能体なのであって、その真理を体得実現しようとする努力があって初めて身につくものだ、と言っているのです。

 では、この「真理を体得実現する」ためにはどうしたらいいか、ということですが、その要諦は”自己を絶対化しない”ということで、そのことを知るためにこそ、絶対の存在である仏(あるいは神)への信仰が説かれたのです。では悪魔とは何か。山本七平氏によれば、それは神の傍らにあって人間の罪を告発するようなもの――一種の検事のような・・・――であり、ただし、その告発の動機は「愛」の反対の「憎悪」だと言っています。

 つまり、「仏性」はあくまで絶対者である仏(あるいは神)によって与えられるものであって、それを実現体得しようとする努力があって初めて身につくものなのです。そうした信仰なしに「人間性」を絶対化しようとすると、結局、それは自分自身を絶対化することになる。まあ、平和の時には何とかなっても、危機の時代には通用しないと言うことですね。

 ところで先に、「日米交渉の最終段階になって、日本はアメリカに甲案、乙案の両案を提出し、日米諒解案に戻ろうとした」と言うことを申しました。この甲案は、「米国側の同意を取り付ける前に、先づ我が連絡会議通過せしむること頗る容易ならざる形勢」にあった。そこで、この甲案が成立しない場合でも、なお戦争の危険を防止するため、極めて必要なる数項目だけの協定を作り、以て平和を維持したいという考えから用意されたものです。

一、日米両国政府は孰れも佛印以外の南東亜細亜及南太平洋地域に武力的進出を行はざることを確約す。
二、日米両国政府は蘭領印度に於いて其必要とする物資の獲得が保障せらるゝ様相互に協力するものとする。
三、日米両国政府は相互に通商関係を資産凍結前の状態に復帰すべし。米国政府は所要の石油の対日供給を約す。
四、米国政府は日支両国の和平に闘する努力に支障を与えるが如き行動に出でざるべし。
五、日本政府は日支間に和平成立するか又は太平洋地域に於ける公正なる平和確立する上は現に佛領印度支那に派遣せられ居る日本軍隊を撤退すべき旨を約す。
日本国政府は本了解成立せば現に南部佛領印度支那に駐屯中の日本軍は之を北部佛領印度支那に移駐するの用意あることを闡明す。                    (備考)
(一)必要に応じ本取極成立せば日支間和平成立するか又は太平洋地域に於ける公正なる平和確立する上は日本軍隊を撤退すべき旨を約し差支なし。
(二)必要に応じては甲案中に包含せらるゝ通商無差別待遇に関する規定及び三国条約の解釈及履行に関する規定を追加挿入するものとす。

 実は、この乙案は、「幣原元外相が局面収拾の方策として立案せしものなりとて吉田(茂)元大使が持参したもので、自分はこれに若干の修正を加えると共に、支那関係の一項を追加して乙案とした」というものでした。(『時代の一面』東郷重徳)つまり、幣原は何とか日米諒解案の線に戻ることで、日米戦争を回避しようとしたのですね。「また吉田茂の語るところによると、11月26日付けのハルノートなども幣原に見せて最後通牒とせず、何とか切り抜ける方法はないか懇談した」といいます(『幣原喜重郎』p527)。

 では、この幣原は、日独伊三国同盟や日ソ中立条約をどのように見ていたのでしょうか。
まず、「日独伊三国同盟」について、

「近来我国に於いて欧洲戦争の経過に徴し独伊に依存して我国利の伸張を図らむとするの説を耳にすること有之、其性質上所謂自主自力主義を抛棄するものと解せられ候。然るに、第一に英国現下の立場は果して独逸の強襲に対し絶望的なりや、今日迄交戦国側より発表せる情報は双方とも多分に宣傅の目的を含むものと思はれ、戦況の真相を判断するに十分ならず、

 第二に、往年「ヴェルサイユ条約は独逸の軍事的復活を予防せむが為独逸領土内に於ける各種武器の製造を禁止したるも、独逸は此条項の適用を免れんが為露領内に於て右武器の製造及使用練習を行ひ、数年間にして英佛の軍備を凌駕し遂に今日の戦勝を得たる先例に鑑み、今回若し英国が屈服の已むなき場合に至るとも、英本国の締結する講和条約は当然其自治領を拘束するの効力なきを以て、自治領内並に米国内の資源及工業能力を極力利用し、右独逸自身の先例に倣ひ、数年を出でずして独逸に対抗し得べき軍備充実を整ふることあるべきを覚悟せざるべからず、
(中略)

 小生は昭和二年一月外交当局者として帝国議会に於ける講説中、「我々の目標とする所は領土に非ずして経済上に於ける利害共通の連鎖である」と声明したること有之、此根本方針は目下の時局に当たりても何等変更すべき謂はれあるを認め難く候。」(昭和15年7月24日付)

 次ぎに「日ソ中立条約」について
日「ソ」両国が中立条約を締結せる各自の目的(幣原喜重郎稿 昭和16年5月5日)

 近年「ソヴィエット」政府の外交は他の諸國をして互に相戦はしめ、鷸蚌(いっぽう)の争いに乗じて自ら漁夫の利を収めむとするの方針を一貫するものと認めらる。此の目的を達せむがため、他国間の紛争に付ては紛争国の一方に対し、

 一、或は其後顧の憂を除くに足るべき中立又は不侵略条約を締結し、
二、或は戦時財政経済の遂行に資すべき通商便法を協定し、
三、或は精神的又は物質的の後援を暗示するが如き好意ある態度を声明し、
以て他の一方の紛争国に對する抗戦の決意を促がすを常とす。

 昭和十四年八月[ソ]聯邦は独逸と不侵略条約を締結し、之が為独逸は世界大戦当時に於けるが如き東西両面作戦の難局に立つの虞なきを見て、直に意を決し、対英佛作戦に邁進せり。又今回独逸は対英作戦の遂行上「バルカン」方面に進出するの必要を認め、其目的の為逐次「ルーマニア」、「ブルガリア」、「ユーゴスラビア」等の協力を求めて、枢軸国同盟に參加せむことを迫るや。此等の諸国は当初何れも狐疑して去就に惑ひたるが、「ソ」連邦は隨時右諸国に同情ある態度を声明したるのみならず、「ユーゴスラヴィア」とは特に不侵略条約を締結し、以て暗に独逸に対する抗争を使嗾し、結局英独戦争の拡大を策せり。

 然るに「ルーマニア」及「ブルガリア」は先づ独逸の圧迫に屈して枢軸国同盟に参加し、[ユーゴスラヴィア]亦一たび同趣旨の協定に調印したるも、俄然政府の革命あり、前政府は新政府の政策を否認するに及んで独逸は直ちに兵を同国に進め、一挙にして之を攻略するに至れり。何れの場合に於てもソ連邦は一切他国間の戦争に加はることなく、徐ろに戦局の経過を察し、或は勝勢歴然たる交戦国に対しては之と結んで戦敗国の領土を分割し、或は交戦国双方共に長期戦に依りて疲弊するを観望し、其間「ソ」連邦自国の国防強化と国力充実に全力を挙ぐるの方針を執り来れり。                

 最近締結せられたる日[ソ]中立条約は「ソ」連邦に於て左の二大目的を有するものと認めらる。

一、日本が米国よりの軍事行動の対象となる場合には「ソ」連邦に於て米国に加膽せざることを保障せる結果、日本の対米立場は強化せられ、勢の赴く所、遂に日米戦争を惹起せしむるの可能性ある事。
二、「ソ」連邦が独逸よりの軍事行動の対象となる場合には、日本に於て独逸に加膽せざることを保障せる結果、「ソ」連邦の対独立場は強化せられ、日独伊同盟条約に対しても「ソ」連邦に有利なる影響を及ぼすこと。

 右第一の目的に付ては日本は「ソ」連邦の期待に反し、極力米国との開戦を避くる方針を執るものゝ如し。果して然らば、日「ソ」中立条約は両国互に相背馳する動機に出でたるものと謂はざるべからず。
(中略)

 次に日ソ中立条約は日本の為如何なる目的を達すべきや。査するに日本が米国よりの軍事行動の対象となる場合には、ソ連邦に於て中立を守るべきことを保障する日ソ条約は一見日本に取りて有利なるやに感ぜらるゝも、事実上に於ては日米両国が互に軍事行動の対象となるが如き事態は、
一、日本の武力に依る南進政策に対し、米国亦武力を以て之を阻止せむとする場合、又は二、日本が独逸より日独伊同盟条約第三條の規定に基く援助の要求を受けて参戦する場合の外、発生の可能性ありとも思はれず。

 然るに右二個の場合に於て日米戦争発生するときは、日ソ条約は果してソ連邦の中立維持を保障するものと解釈せらるべきや、条文の趣旨必ずしも明確ならず。若し日ソ条約は日本に取りて日米戦争発生後の事態に備ふるよりも、寧ろ其発生を予防せむが為、主として日ソの親善を誇示し、以て米国に威嚇的姿勢を執るの目的に出でたるものとせば、一方に於て斯かる威嚇的姿勢は、米国の反省を促がすに足らずして却て其反発を激成することあるべく、

 他の一方に於いてソ連邦が日ソ条約上約束せる義務の性質は前述の如く明確を缺く所あるのみならず、同政府の条約を尊重する態度も亦従来幾多の実例に徴するに深く信頼し難きものあり、之を要するに日ソ中立条約は、ソ連邦の為重要なる価値を有すること明瞭なるも、日本の為には事実上何等有利なる目的を達すべきや、少くとも疑問として今後局面の発展を注視するの外なし。

 ソ連邦政府の中立及不侵略条約を無視せる事例
「ソヴィエット」連邦が従来中立又は不侵略条約を結せる対手国はアフガニスタン、支那、エストニア、フィンランド、仏蘭西、独逸、伊太利、ラトヴィア、リストニア、イラン、ポーランド等の諸国にして、今回日ソ間にも中立条約締結せられたり。

 ソ連邦は以上条約の対手国中エストニア、フィンランド、ラトヴィア、リストニア、ポーランドの五国に対しては、何れも全然条約上の保障を無説して侵略行動に出で、結局此等五国領土の全面的併合又は部分的奪取を行ふに至れり。(後略)

 いずれも、三国同盟、日ソ中立条約締結当時における幣原の所感です。また、例のハルノート発出直前の11月22日の書簡には、

 「政府は日米関係につき米国と交渉して平和的解決を図るの方針を累次声明せるに拘わらず、本邦各新聞紙挙って国内の人心を煽動し、又外国の世論も挑発するを黙認するは全然矛盾の措置と謂わざるを得ず。斯かる言論は対外交渉の雰囲気を荼毒(とどく)して現実の平和的解決を阻害するものと相信じ候。小生は今尚帝国の威信権益を確保して和局を成立せしめ得べき望みを絶たざると共に、我が国に於いて正しく対外認識を誤るもの多きを痛感し、私に浩嘆に勝へず候」とあります。また先に紹介した如く、ハルノートさえも最後通牒としないよう知恵を絞っています。

 「空気」支配から自由でありさえすれば、これだけ透徹した外交的認識が可能になると言うことです。近年「K・Y」という言葉がはやっていて、これは「空気読めない」という意味だそうです。この点幣原は、この時代の「空気」が読めず「軟弱外交」を行い失脚した人、と言うことになりそうです。だが事実は逆で、「空気が読めなかった」のではなく、読めたからこそ、その危険性を誰よりも的確に把握し、事態を冷静に認識することができたのです。

 このような「空気」支配に屈しない言論空間の構築こそ、昭和の歴史が私たちに残した最大の教訓と言えるのではないでしょうか。