二人のA級戦犯刑死者の人生観とその思想――悲劇はこのどこから生まれたか

2010年11月 3日 (水)

*私HP「山本七平学のすすめ」談話室記事再掲です。

(東條英機について)

 戦争責任の話が出る時真っ先にやり玉に挙げられるのが東條英機です。読売新聞が行った「戦争責任検証委員会」の報国でも、「東條元首相に最大の責任、国際感覚なき開戦」としています。

東條英機が昭和の歴史に登場するのは昭和3年で、革新派のエリート軍官僚が作った「木曜会」の主力メンバーとしてであり、永田鉄山、岡村寧次らと共に「長州閥の打倒、国家総力戦体制、統帥権確立」をめざし、そのためには満洲の確保が必要と考えていました。

その満洲では、昭和35年から38年まで関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長を務め、当時参謀次長だった石原莞爾に「上等兵程度の頭脳」と酷評されています。昭和12年の日中戦争開始時には強硬論を唱え、内蒙古制圧の指揮を執っています。この時多数の中国人を処刑したとされます。

第二次近衛内閣では陸相として入閣――陸軍の悪弊であった「下剋上」を押さえ込み統制を回復させたことが評価されたためとされる――したときも、中国からの撤兵を拒否して対米強硬論を吐き、近衛内閣を退陣に追い込みました。結果、その後継内閣を組織することになりました。

その後の対米交渉では、天皇より前回御前会議における対米戦決定の白紙撤回の要請をうけて「戦争回避」に努めましたが、陸軍も海軍もアメリカ軽視で知米派の人材を追い出していたこともあり、対米交渉はうまくいかず「人間一生のうちに一度は清水の舞台から飛び降りる」覚悟で日米開戦に踏み切りました。

その決断を下すまでに、最も問題になったのが、アメリカに8割を依存していた石油の確保ができるかどうかでした。日本は昭和12年に昭和18年までに人造石油200万キロリットルを生産する目標を立てていましたが、昭和16年に達成できたのは月に一万キロリットルがやっと。従って、昭和16年6月21日にアメリカが対日石油輸出全面禁止した後は、日本は日支事変だけでも2年で石油はなくなってしまう。そこで陸軍省燃料化の担当者は、このことを、当時陸相だった東條に報告し、早急に蘭領インドシナの石油資源確保の手を打つ必要のあることを訴えました。

「したがいまして、一刻も早く御決断を・・・」。これに対して陸相は「泥棒せい、というわけだな」といい、「人造石油」が駄目だったとの報告を受けた後次のように言ったそうです。
「この切羽詰まった時になって、(人造石油が)役に立つとは思えません、とぬけぬけといいおる。自分たちのやるべきことをおろそかにしておいて、困ったからと人に泥棒を勧めにくる。いったい、日本の技術者は何をしておるのだ!」。続けて、すごすごと引き下がる担当者に向かって、「泥棒はいけませんよツ!」といったそうです。(『油断の幻影』髙橋健夫)

東條は、憲兵を使っての政敵押さえ込み、言論弾圧、特攻の称揚、過度の精神主義が批判されます。しかし、その一方、大変な努力家であり、律儀・勤勉、それは「東条メモ」(徹底した情報処理・情報管理)によって、身内の女性関係にも厳しく、賄賂や贈り物は一切受け付けなかったそうです。

そうした生真面目さが、一方で、愛憎の強い偏狭な性格を形成していたのでしょう。また、その人生観も、昭和17年の東京帝大の卒業式の訓辞で「自分も・・・努力して総理大臣にまでなった。諸君も悲観することはない」といって学生の失笑を買うほどのものでした。

戦後は、自殺未遂の後「責任は全部自分で負い、悪者となって終わる考えなりき・・・勝者は敗者に対し全能の神なり」といい、敗戦の原因としては統帥権の独立と陸軍の下剋上を挙げ、アメリカの戦力を過小評価したことは認めましたが、太平洋戦争は自存自衛の防衛戦争であったという信念は曲げませんでした。

そうして、二年半続いた裁判で、多くの被告が投げやりな態度を見せる中で、生来の勤勉さと綿密さを発揮して、法廷で丹念にメモをとる東條の姿は際だっていたと言います。冒頭に紹介した「泥棒はいけませんよツ」という言葉は、そうした氏の性格を象徴しているように思えました。(『昭和史の軍人たち』秦郁彦「東條英機」参照)

(広田弘毅について)

いわゆる東京裁判で死刑判決を受けた7名の被告のうち唯一の文官が広田弘毅でした。この広田弘毅の運命を同情的に書いている本が城山三郎の『落日燃ゆ』ですが、その末尾には次のような他の死刑囚との会話が印されています。

処刑はまず、東条・松井・土肥原・武藤の組から行われた。
Pマークの付いたカーキ色の服を着た四人は、仏間で花山(教誨士)の読経を受けたが、そのあと、だれからともなく、万歳を唱えようという声が出た。そして、年長の松井が音頭をとり、「天皇陛下万歳!」と「大日本帝国万歳!」をそれぞれ三唱し、明るい照明に照らされた刑場に入った。

広田・板垣・木村の組は、仏間に連行されてくる途中、この万歳の声をきいた。
広田は花山にいった。
「今、マンザイをやってたんでしょう」
「マンザイ?いやそんなものはやりませんよ。どこか、隣の棟からでも、聞こえたのではありませんか」
仏間に入って読経のあと、広田がまたいった。
「この読経のあとで、マンザイやったんじゃないか」
花山はそれが万歳のことだと思い、
「ああバンザイですか、バンザイはやりましたよ」といい、「それでは、ここでどうぞ」と促した。
だが、広田は首を横に振り、板垣に、
「あなた、おやりなさい」
板垣と木村が万歳を三唱したが、広田は加わらなかった。

著者の城山はこれを広田の「最後の痛烈な冗談」といっています。

「土肥原、板垣の両大将は、満洲(満州事変、溥儀担ぎ出し外)・華北(華北分離を進めた土肥原・秦徳純協定外)・内蒙古(内蒙古分離を進めた綏遠事件)で謀略による事件を惹き起こし、外相広田の対中国和平交渉を挫折させた。

武藤中将は、(広田の2.26事件後の)組閣本部に乗り込み、外相候補吉田の追放など要求(自由主義者だという理由)、広田内閣の組閣を妨害した男である」

東条大将は、広田ら重臣の参内を阻止し、対米開戦諫止論に耳を貸そうとしなかった。木村大将は、その東条の陸相時代、次官として補佐した男であり、松井大将は、南京における麾下軍隊を統制できず(その南京進撃を主張したのも彼)、結局、広田にまで「防止の怠慢の罪」(南京事件のこと。ただし、その実相は謀略宣伝が中心だった)をかぶせる結果になった将軍である。(括弧内は筆者補注)

そうした彼等と同罪の罪に問われ、同じ屋根の下で、死刑執行される間際の「万歳!万歳!の声。それは、背広の男広田の協和外交を次々と突き崩してやまなかった悪夢の声である。」その万歳!の果てが鬼畜米英が行った戦争裁判による死刑執行、”あなた、それは万歳!ではなくてマンザイなのではないか”」
広田はそういいたかったのではないかと思います。

そうした自己の運命について、広田は法廷で一切弁明しようとしませんでした。また、「検事側が軍と外務省との喧嘩を望んでいる。その手に乗ってはいけない」ともいったそうです。花山氏との最後の面接の言葉は「日本のどこかに、静かに世界の動きを見る人がなければいけませんね。このいそがしい時代に一々世界の動きなど考えている人はないから」でした。

この広田の運命を決したもの、それは、日本が軍の統帥権独立の主張により、ほとんど二重政府状態に陥り、外交の統一性も一元主義も損なわれ、自らの主張する外交政策が全く行えない状況に立ち至った。広田はこの現実を誰よりも痛切に知りながら、あえて斉藤内閣、岡田内閣で外務大臣を務め、2.26事件後は首相を引き受け、さらに近衛内閣で外務大臣を務め、最後は、軍に同調する近衛首相のもとで「成行き委すより仕方がない」状態に陥ったことです。

”そうした危険が当然予測されたのに、なぜ火中のくりを拾ったか”。西園寺ら自由主義者に説得され「誰かが、軍に正面から反対して暗殺されるようなことを避けつつ、その地位に止まり、またある程度軍と妥協しつつ、軍の無謀な行動を抑制し善導していく。その苦業を引き受けた」(守島伍郎)という。そして、次第に「成行き委すより仕方がない」状態に陥った。

そのために、東京裁判で死刑判決を受けたばかりでなく、国内でも、日独伊防共協定(あくまで防共が目的で広田は同盟には強く反対した)、軍部大臣現役武官制(その代わり大臣指名を三長官会議ではなく首相指名とした)、トラウトマン和平工作の失敗の責任(軍部の条件加重が原因)を負わされ、日中・日米戦争の元凶とまで目されるようになったのです。

広田に死刑判決を下した東京裁判の形式論の”ひどさ”もさることながら、国内の広田評がこのようなことではいけない”私はそう思います。広田の最大の失敗は、近衛内閣の外務大臣を引き受けたことで、本人もそう言っていたようですが、それだけ”自分の運命を甘受する”性格だったのでしょう。では、誰か外に日本の運命を転換できる人がいたか。おそらくこの段階では誰にもできなかったのではないかと思います。

幣原喜重郎は、こうして戦犯となった広田を弁護するため、マッカーサー総司令官あて嘆願書を書きました。広田はその在任中、「対外侵略の国策を立案し、軍部と共謀して右国策実行の準備を完遂した」ように外面的には見えるけれども、「本人の真情は之に反し、かかる陰々たる策謀に参加せずして、却って極力阻止せんと努めたにかかわらず、時利あらずしてその努力がむくいられなかったのが実情である」と訴えました。

その幣原は、戦争末期、吉田茂から鈴木首相に早期和平を説得するよう依頼されましたが拒絶しています。「幣原の観点から言えば、軍が徹底的に敗北感を抱かない前に、外交官が和平に乗り出すのは責任の所在を曖昧にして将来のため危険だ」というものでした。(『日中外交史研究』臼井勝美P183)

問題は、こうした軍の行動を、なぜ多くの国民が支持したかということです。この観点を飛ばして、昭和十五年戦争を反省したことにはならない。山本七平はこの不可思議な問題の解明に生涯をかけたのでした。