日本政治思想の課題――本当の国家に対する忠誠は国民の自由意志から生まれる

2010年10月 4日 (月)

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 明治維新は尊皇思想に基づくイデオロギー革命だったといわれます。尊皇思想とは、後期水戸学によって確立された国体論(従来の藩中心の武士意識を忠孝一致の道徳論によって天皇中心の民族的家族的国家意識に高めたもの)と、国学者の説いた復古神道(記紀などの古典に立脚した、日本古来の万世一系の天皇による祭政一致の政治の尊厳を称揚したもの)とが合流したものです。これが幕末期の攘夷論と結びついて尊皇攘夷運動となり、それが大政奉還、明治維新へと発展したのです。

 では、この明治維新のイデオロギーとなった尊皇思想は新政府によってどのように扱われたのでしょうか。言うまでもなく復古神道は、儒教や仏教の影響を受ける以前の日本固有の神道のあり方を理想としていましたので、それ以前の神仏混合的な神道のあり方を否定しました。そのため、こうした復古神道の影響の強かった地域(会津、水戸、岡山など)では、維新前より神仏分離が行われていました。明治政府はこうした流れを受けて江戸時代の仏教檀家制度を否定し神道国教化政策を進めました。

 その一環として発布された法令が1868年「神祇事務局ヨリ所社ヘ達」を嚆矢とする一連の神仏分離令でした。これは神仏習合のため「別当」「社僧」と呼ばれていた僧侶の還俗・神官への転職、神体に仏像を用いているものの廃棄、仏式の葬儀をやめ神道式の祭儀を行うことなど、神社から仏教的要素を排除することを目的としていました。しかしこれが拡大解釈され、神仏分離から排仏棄釈運動にまで発展し、この時期に全国の寺院の約60%は破却され、仏像の多くも棄却されたといいます。

 また、天皇家も、四条天皇以降その菩提寺を京都東山区の泉涌(せんにゅう)寺としていましたが、これ以降、仏事の全面的廃止と神事の復興、新設が続き、重要な神事は天皇の親祭とされました。1871年になると、天皇の祖先神の墓(宗廟)は伊勢神宮とされ、これを頂点として、他の神社を官弊社・国弊社・府・藩・県社・郷社・村社に列格し矮陋神祠(わいろうしんし)の破却が命じられました。その一方で、宮中祭祀と神社祭祀の一体化が進行しました。神社祭神の記紀神名化も進められました。

 また、神道国教化政策の具体的な現れとしては、1869年(明治2年)に太政官制を敷き太政官の上に神祇官を復興させ教化政策を展開しましたが行き詰まりました。また、廃仏毀釈に対する仏教界の反発もあって、それまで退けてきた儒教、仏教も取り込んだ形で民衆教化を行うことにしました。そこで明治5年に神祇官を廃止して教部省を発足させ、神官、僧侶を教導職に任じて教化の担い手とし、「敬神愛国」「天理人道」「皇上奉戴・朝旨遵守」の三条教則を発布し教化体制の整備を進めました。

 仏教各宗もこれに呼応する形で、その教員養成機関として大教院の設立を建議し翌明治6年に大教院が設立されました。ところが、教部省の薩摩系官僚は西郷隆盛の影響もあり平田派神道に傾斜していましたので、結局神道宗教化路線が継続することになりました。また、大教院での講義も「神仏大混淆をなし。・・・袈裟にて神前に魚鳥を供せしが如き奇態」が生じ、その一方、儀式は明らかに神主仏従となって仏教側の反発を招き、その結果真宗の大教院分離運動が起こることになりました。

 結局、神仏合同で国教をつくるという試みは失敗したと言うことですが、この間、どのような教化政策が採られたかというと、先の三条教則の教化指針を具体化するため十一兼題(明治6年2月)や十七兼題(明治6年10月)という教導職用のテキストが発行されました。十一兼題の項目とその内容の概略は次のようになっています。

1.神徳皇恩ノ説 神徳は五行(儒学に言う万物を構成する五つの元素、木・火・土・金・水)の如く、皇恩父母の如し(皇国史観に基づく家族的宗族的国家観が現れている)
2.人魂不死ノ説 皇国は神国なり、心霊を祭祀し玉うは御国の皇掟にして霊魂はひとえ不死とこそ確定すべし(民俗学的な心霊観を反映している) 
3.天神造化ノ説 乾坤は則ち造化の具にして、神は則ち天地の司令なり(諸説あることを紹介しつつ古学の説を採用するとしている)
4.顕幽分界ノ説 昼夜あるが如し(所説を紹介しつつ、一世中の顕幽二界と解釈し、仏教的な輪廻説や地獄・極楽などの二世説を否定している)
5.愛国ノ説   僻地幽谷の一村民もその住所を慕うが如し(自分の故郷を思慕する如く国を愛せよ、ということ)
6.神祭ノ説   一家の祖を祭るもその情を忘れず、その恩を失わず、礼を家族に伝う、天下の至礼を民に示すなり(家族の祭礼と同じように国家の祭礼が大切であることをいう)
7.鎮魂ノ説   魂を鎮めるは己が心を清くして永く情を忘れず(鎮魂の心を持つことの大切さを教えるもの)
8.君臣ノ説   我が国天の日嗣の大王たる所以は、その帝一なり(我が国は万国の中でも最も優れた国であるということ)
9.父子ノ説   父子の情人各々知るところ、知らざる人は孝教を見るべし(五倫五常の教えなど、必ずしも儒教の教えを排斥しないということ)
10.夫婦ノ説  この情男女の性による曾て定め難し、聖賢の教えは情実の正道を言うのみ(夫婦のあり方はまず男女の性によるもので、規範化は大切だが難しいということ)
11.大祓ノ説  時々お祓いあるは世代を清め穢れを佛うなり、毎朝己が身を清めるが如し(毎朝祓いを行い身を清めることの大切さをいう)

 ここには、平田神道の天神造化説や神国思想は見えるものの、死後の審判を伴った幽冥信仰などは影をひそめています。また、国学者流の強引な儒仏排斥の態度も取られていなくて、家族道徳を説いた中国の経書を見ることが勧められています。つまり、こうした日本の伝統的な神儒仏混合のなかで出来上がった庶民の平均的な神仏観をもとに、新たに日本の国教を定め国民の教化を図ろうとしたわけです。十七兼題ではこれに文明開化的・啓蒙的内容が加えられましたが、こうした各宗教教派の教説を溶かして一つの合金を造るようなことは宗教においては所詮不可能な事だったようです。

 一方、こうした国教の創出による国民の教化を目指すこととは別に、普通教育の実施による国民の育成が重視されるようになりました。こうして、宗教と教育の分離を目指す運動が起こるようになりました。また、欧米に視察した真宗僧侶島地默雷による宗教混淆の愚の指摘に続いて、政教分離や信教の自由が唱えられるようになり、ついに明治8年5月には大教院からの真宗の分離が決定され、大教院は解散となりました。その後、明治8年11月には信教の自由の口達がなされ、明治10年には教部省が廃止されました。

 こうして、日本の国教創出の取り組みは挫折することになったのですが、他方、国民教育の分野においては、1872(明治5)年に学制発布、1879年には地方分権的な教育令が発布されました。また、この年には「教学聖旨」が出され、維新後の教育が開化の末に走り、仁義忠孝の精神をないがしろにしているので、以後「祖宗の訓典に基づき、専ら仁義忠孝を明らかにし、道徳の学は孔子を主とすべき」ことが説かれました。こうして、1780年の改正教育令以降教育内容の全国統一と、教育を通じた国家統括の基礎作りが目指されるようになったのです。

 次いで、1890年地方朝官会議の「徳育涵養ノ義ニツキ建議」をうけて同年「教育に関する勅語」が発布されました。これは、天皇の建国、天皇の徳治と臣民の忠節を「国体の精華」とする皇国史観を前提に、日常道徳として孝、友、和、恭謙、博愛、義勇、奉公など15項目の徳目を列挙するものでした。これは、井上毅の主張を受けて、形式上は「君主は臣民の心の自由に干渉せず」の建前から天皇の社会的著述としての体裁を採っていましたが、そのため、この「天皇の個人的著作」が逆に法制を越える権威を持つことになったとされます。

 こうして、政府は勅語謄本を全国の学校に配布し、天皇、皇后の写真の拝礼と勅語奉読を核とする学校学校儀式の強制や、修身はじめ各教科の内容編成は勅語の趣旨に基づいて行なうこととしました。こうして教育勅語は、以後の日本の教育を完全に規制することとなりました。その最大の問題点は、その道徳論が皇国史観を前提にしていたことで、そのため、その後の天皇の神格化、歴史研究への干渉、教科書の皇国史観に沿った書き直しなどがなされるようになり、国民の思想統制が次第に強化されていきました。

 以上のことを総括的に述べるならば、明治維新をドライブした尊皇思想は、維新後の神道国教化政策の中では、日本人の神儒仏混合という宗教的伝統に妨げられて「国教」となることはできなかった。しかし、それは世俗教育たる学校教育において、国民の徳育涵養の指針として生き残りが図られた。その結果、その思想の持つ祭政一致の国体観念が、軍部によって政党政治打破のイデオロギーとして活用されることとなり、ついに超国家主義思想として相貌を露わにするに至った、ということになります。

 さて、こうした日本における神道国教化政策の挫折と、その国民教育の中における復活そしてその破綻の歴史から、我々は一体何を学ぶべきでしょうか。私は、それは、日本の宗教的伝統の中において、政教分離・信教の自由の原則をいかに確立するかということなると思います。確かに祭政一致の政治思想は国民の国家に対する忠誠を約束する。しかし、国家に対する国民の自由は認めない。しかし、本当の国家に対する忠誠はそうした国民の自由意志の中から生まれるのではないか。

 このことを可能にする伝統思想の思想的発展こそ、私たちは求めるべきではないか、私はそう思っています。

(以下追記10/5 11:00)

 おそらく教育勅語を作ったそもそもの動機は、維新後開化政策が進められる中で国民の伝統的モラルが失われることを恐れたためで、その主眼は、後期水戸学によって確立された忠孝一致の道徳規範を国民に明示することにあったのではないかと思われます。だから、それが明治憲法の立憲君主制と矛盾するとは必ずしも認識されなかった。つまり、まさか教育勅語が、明治憲法に定められた立憲君主制を打倒し、祭政一致を名目とする軍による「独断専攻政治」に道を開くとは思われなかった・・・。

 山本七平は、この尊皇思想のもつ祭政一致の政治思想について、それに明治憲法が採用した立憲君主制(=制限君主制)にる思想的決着をつけておかなかったことが、昭和の悲劇をもたらしたと繰り返し指摘していました。この時、政教分離(=政治と道徳の分離)・信教の自由の大切さがどれほどのものかに気づくべきだった。だって、日本にはすでに鎌倉時代にそうした近代的政治思想に通じる考え方が生まれていて、日本の政治に定着しつつあったのですから。明治維新の成功がもたらした陥穽と言うべきでしょうか。