昭和十五年戦争のなぞを読む――「東洋文明VS西洋文明」と言う対立図式の誕生
今の時代は、思想的にいえば総保守化の時代ではないかと思います。私の周囲の人びとと話していても、かっての左翼全盛時代のようにマイナスイメージで日本の近現代史を語る人は極めてまれになってきました。かっての左翼全盛時代の雰囲気を知っている者からすると隔世の感がありますが、それだけに、かってと同じような空気支配に陥らないよう注意することが必要だと思います。 そのためには、かって左翼の陥った「他人事」の歴史観から脱却する必要がありますね。その上で、かっての戦争の時代を、自らの歴史として省みること。もし自分が、同じような境遇に生きていたとしたら、どのように行動したかということを、自分のこととして想像してみることです。「歴史は想起だ」と言いますが、それができて初めて、歴史は自らの教訓となるのではないでしょうか。 そんなわけで、私なりに「戦争の時代」を理解しようと努めているわけですが、一番判りにくいのが、1920年代ですね。それは、1921年のワシントン会議前後から1930年のロンドン軍縮会議までの間のことですが、一体なぜ、この大正自由主義の時代に昭和軍国主義の種が蒔かれることになったのか。本来なら、大正自由主義こそ明治の文明開化以来、日本人が夢みてきた近代化の完成する時代ではなかったか・・・。 本来なら、1930年代は、大正時代に芽生えたデモクラシーが根付き、自由主義経済の下に民主政治が定着する時代のはずでした。ところが1930年代初頭の統帥権干犯事件を嚆矢として、浜口雄幸首相暗殺、三月事件(一部幕僚軍人と民間右翼によるクーデター未遂事件)、満州事変、一〇月事件(三月事件と同様のクーデター未遂事件)、上海事変、五・一五事件と、テロ・クーデター・対外的軍事行動が相次ぎました。 次いで、天皇機関説攻撃、国体明徴運動に伴う言論弾圧事件を経て、尊皇思想に基づく思想・言論統制が徹底していき、二・二六事件を経て、統制派幕僚軍人による高度国防国家の建設へと続きます。そして、廬溝橋事件を契機に日中戦争が始まり、当初はそれを三ヶ月で片づけるつもりが、四年経っても終わらず、長期消耗戦を強いられ、遂に、中国のみか米英蘭を相手とする世界戦争に突入したのです。 このような昭和の軍国主義が、なぜ、明治維新以来の近代化の完成形であるはずの大正デモクラシーの後に、突如として猛威をふるうことになったのか。調べて行くと、どうやら、その芽は、大正デモクラシー自体の中に深く宿されていたことが判ります。そこで、以下、この時代の思潮がどのようなものであったか。そこからどのようにして昭和の軍国主義が成長していったかを、同時代の記録の中に探ってみたいと思います。 次の文章は、戦前の日本の思想家の中では第一級と思われる大川周明が、『日本二千六百年史』の中で、この昭和20年代から30年代までの時代の思潮の流れを概観したものです。この本は、第一次近衛内閣が東亜新秩序声明が出した直後の昭和14年に出版されたもので、的確にこの時代の雰囲気や人びとの考え方を伝えています。 ここでは、第一次大戦以降、それまで二つの戦争の勝利のために一致団結していた国民が、シベリア出兵(1918)でまとまらなければいけないこの時期に、米騒動という自分の衣食のための騒動を起こすほど、自分中心になったことが嘆かれています。また、政府はこれに対して有効な防貧・救貧対策を立て得ず、巨富を有する資本家に迎合している。このため、米騒動や頻発する労働争議が起きているのだ、と言っているのです。 「爾来日本の国情は、巨巌の急坂を下るが如きものがあった。貧民と富豪との敵視、小作人と地主との確執、労働者と資本化との抗争は年とともに深刻を加え、最早温情主義などをもって如何ともすべからざるに至った。この国民生活の不安を救うためには、幾多の欠陥をあからさまに暴露せる資本主義経済機構に対して、巨大なる斧を加えねばならぬ事が明白なるに拘わらず、富豪階級と権力階級との多年にわたる悪因縁は、ついに徹底せる改革の断行を妨げて、唯一日の安きを偸(ぬす)む弥縫的政策が繰り返されるだけである。曾(かっ)て万悪の源なるかに攻撃せられし藩閥政治は滅び去り、専制頑迷と罵られたる官僚政治また亡び、明治初年以来の理想なりし政党政治の世となった。而して国民は早くも政党に失望し、その心に新しき政治理想を抱くように至った。」 こうなった原因は、結局、資本主義経済体制にある。従って、これを根本的に変革しない限り問題は解決しない。温情主義や一次的な弥縫策では如何ともしがたい。国民は、藩閥政治や官僚政治が打倒されて政党政治が実現すれば、理想的な政治が行われると夢みてきた。しかし、いざ政党政治が実現して見ると、政党は資本家に阿諛追従するばかりで、貧富の格差は一層拡大し、物価は騰貴し政治は混乱を重ねるばかりだ。 「古人曰く『水流究まらんとしてまた通じ、一路絶えなんとして大道開弘すと』。昭和六年九月の満州事変は、叙上の形勢を転向せしむる一大転機となった。もと満蒙の地は、日本が東洋永遠の平和を確立し、世界平和を維持する目的を持って、国運を賭してその保全に努め、実に三十年の久しきに亙りてその開発に拮踞(きっきょ)し来れるものである。然るに昭和三年六月、張作霖の爆死の後を承けて満洲の支配者となれる張学良は種々なる誤解から豫(かね)て日本に対して敵意を抱ける支那政府と結び、満州における日本の特殊地位を無視して、その政治的・経済的勢力を駆逐せんとしたので、猛烈なる排日運動を満洲に激成し、遂に昭和六年秋に至り、所謂九・一八事件を惹起するに至った。」 そんな折、満州事変が起きて形勢が一大転機を迎えることとなった。それは、張学良が、日本が日露戦争以来、多くの犠牲を払い、そして東洋の平和のために開発を進めてきた満蒙における「特殊権益」を無視して、かねて日本に敵意を抱いてきた蒋介石と結んで、日本の政治的・経済的勢力を満蒙から駆逐しようとしたためである。 (しかし)「張学良政権は、日本の神速果敢なる行動によって、一挙満洲から掃討された。多年張政権の圧政と誅求とに苦しめる満洲人は、この機に乗じて独立運動を開始し、翌昭和七年二月、目出度く独立を宣言するに至った。而して此年九月十五日、吾国は此の新しく建設せられたる満州国を承認し、日満議定書を締結して、両国共存共栄の基礎を法的に確立し、茲に日満両国は、相携えて東亜新秩序の建設に拮踞することとなった。日本が此の荘厳なる事業に当面するに及んで、国民の魂に眠れる愛国心が俄然として目を覚ました。先に一世を風靡せる民主主義、次いで横行せる共産主義は漸くその影を国民の間に潜め、これに代わって国家主義的傾向が空前に旺盛となった。而して我国が、満州事変に対する列強の圧迫を峻拒し、敢然として国際連盟を脱退し、更にロンドン条約を廃棄するに及んで、国民的自覚は一層強烈を加え、従来の過度なる欧米崇拝を超克し、溌剌たる自主的精神の更生を見るに至った。」 しかし、張学良のこうした行動は、日本の軍事力によって駆逐され、これを機に、これまで張政権の暴政に苦しめられてきた満洲人は独立運動を開始し、昭和7年2月満州国の独立を宣言した。日本はこれを承認し、日満議定書を締結して共存共栄の基礎を確立した。この荘厳な事実を前に、眠っていた国民の愛国心が目覚め、民主主義や共産主義は影を潜め、代わって国家主義的傾向が盛んとなった。しかし、列強はこうした日本の行動を、国連を通して圧迫を加えたので、日本は敢然として国連を脱退し、ロンドン軍縮条約を廃棄し、従来の欧米崇拝を超克して、自主的な東亜新秩序建設に赴くことになった。 「然るに満洲建国は、甚だしく支那を刺激した。さなきだに吾国の真意を誤解し、多年排日抗日を続け来たりし支那は、満洲建国を以て日本の帝国主義的野心に出でたるものとなし、失地回復を叫んで国民の敵愾心を鼓舞した。之がために日支両国の間に屡々不祥事件が繰り返されたが、昭和十二年七月七日、北京郊外廬溝橋に於て夜間演習を行いつつありし日本軍の一隊が、突如支那兵のために射撃せられるに及び、形勢は遂に爆発点に達した。しかも吾国は、隠忍に隠忍を重ねて、事を平和的且局地的に解決せんと努力したが、支那は自国の国力を過信し、且吾国の国力を軽視して、飽くまで挑戦的行動に出たので、吾国は止むなく武力に訴えて、徹底的に支那の反省を促すに決し、遂に建国以来未曾有の大兵を大陸に用いるに至った。而して事変勃発後、夙(はや)くも二年に垂(なんな)んとし、此間我海陸の将兵は大御稜威(おおみいつ)の加護の下、疾風の枯葉を捲くが如く支那を撃破した。日章旗はまず北支一帯に翻り、難攻不落と恃(たの)める上海を陥れ、次で首都南京を奪い、更に迅雷の勢いを以て広東を取り、また長江を溯って武漢三鎮をを陥れ、進んで南昌を奪った。」 しかし、本来、東亜新秩序建設のために日本と相携えて進むべき支那は、日本の行動を帝国主義的野心に出でたるものと誤解し、遂に廬溝橋事件の勃発となった。日本は隠忍自重し事件の局地解決をはかったが、支那は日本の実力を軽視して挑戦的行動に出たので、日本は、反省を促すためやむなく、大陸に大兵を送ることとなった。そして、北支、上海、南京、広東、武漢三鎮を占領した。 「日本出兵の目的は、畏くも昭和十二年九月四日の勅語に喚呼たる如く、『一に中華民国の反省を促し、速に東亜の平和を確立せんとする』に外ならない。然るに支那政府は、吾国の軍事的制圧によって殆ど致命的なる打撃を受け乍ら、尚四川の一角重慶に拠って、長期抗戦を叫んで居る。彼等の是くの如く執拗なる抗日は、一つには、英、仏、ソ連の後援を恃(たの)み、また一つには、日本の国力消耗を期待する故である。叙上の援蔣国家群は、それぞれ利害を異にし、目的を異にしているが、日本を指導者とするアジアの復興を喜ばざる点に於いて、一致している。それ故彼等は、あるいは外交政策によって日本を掣肘し、或いは資金を融通して、時局を日本の不利に導かんとしている。かくて日本は積年の禍根を断てとの大御心に添い奉り、東亜新秩序の建設を実現するために、獅子奮迅の努力を長期に亙りて持続する覚悟を抱かねばならぬ。東亜新秩序の確立は、取りも直さず世界維新の実現である。建国以来二千六百年、日本は未だ曾て是くの如き雄渾森厳なる舞台に立ったことは無い。我等は内外一切の艱難困苦を克服して、此の神聖なる任務を果たさねばならぬ。」 日本の出兵の目的は、東亜の平和を確立するという日本の真意を理解しないで抗戦をつづける支那政府に反省を促すためである。こうした支那政府の対日抗戦を助けている英、仏、ソ連は、日本をアジアの復興の指導者となることを妨害しようとしている。しかし、こうした西欧文明の資本主義や共産主義のもたらす禍根を根絶するためには、日本は世界維新を実現する覚悟で、東亜新秩序の建設という神聖な任務を果たさなければならない。 以上の大川周明の言葉は、先に述べたように、昭和14年に書かれたもの――昭和13年11月3日の近衛声明で「東亜新秩序建設」が謳われたことを反映しており、記述にはかなりの潤色が見られるがこの件については後述――ですが、氏は、こうした考え方が国民一般に通用するものとなることを、先見性に富む思想家らしく、すでに大正14年の段階で次のように予見していました。(『亜細亜・欧羅巴・日本』) 「いま東洋と西洋とは、それぞれの路を往き尽くした。しかり、相離れては両ながら存続し難き点まで進み尽くした。世界史は両者が相結ばねばならぬことを明示して居る。さり乍ら此の結合は、おそらく平和の間に行われることはあるまい。天国は常に剣影裡にある。東西両強国の生命を賭しての戦が、恐らく従来も然りし如く、新世界出現のために避け難き運命である。 この論理は、果然米国の日本に対する挑戦として現れた。亜細亜における唯一の強国は日本であり、欧羅巴を代表する最強国は米国である。この両国は故意か偶然か、一は太陽を以て、他は衆星を以て、それぞれの象徴として居るがゆえに、その対立は宛も白昼と暗夜との対立を意味するが如く見える。この両国は、ギリシヤとペルシア、ローマとカルタゴが戦わねばならなかった如く、相戦わねばならぬ運命にある。」 「一年の後か、十年の後か、または三十年の後か、それはただ天のみ知る。いつ何時、天は汝を喚んで戦を命ずるかも知れぬ。寸時も油断なく用意せよ。」 「建国三千年、日本はただ外国より一切の文明を摂取したるのみにて、未だかつて世界史に積極的に貢献するところなかった。この長き準備は、実に今日のためではなかったか。来るべき日米戦争における日本の勝利によって、暗黒の夜は去り、天つ日輝く世界が明けはじめねばならぬ」 私は、今までに、こうした日米戦争宿命論を石原莞爾の「最終戦総論」に関わって論じてきました。しかし、こうした「西洋文明VS東洋文明」という対立図式は、氏のオリジナルではなく、先に述べたような、第一次世界大戦勃発後の資本主義の爛熟と貧富の差の拡大、大正デモクラシーに伴う個人主義的・功利主義的思想の蔓延、政党政治の腐敗堕落という社会現象、それに対する批判の中から生まれたものだったのです。 なんだか、今日の日本の政治・社会情況似ているような気がしますが、それにしても、日本を太陽、米国を衆星と、それぞれの国旗の意匠になぞらえ、両者を白昼と暗夜を共にできぬもの、と説くレトリックの巧みさは、さすがに見事という外ありませんね。(『大川周明』松本健一参照) (お断り)当初、エントリーを「昭和二十年史のなぞを読む」としていましたが、「昭和十五年戦争のなぞを読む」に変更しました。(6/14) つづく |