昭和の青年将校はなぜ暴走したか12――北一輝から見た皇道派と統制派の違い

2011年8月26日 (金)

 まず、本エントリー№9で紹介した、二・二六事件裁判における検事の聴取書「第五回」を再掲します。

 「・・・終りに私の心境は、私は如何なる国内の改造計画でも国際間を静穏の状態に置く事を基本と考へて居りますので、陸軍の対露方針が昨年の前期のに如くロシヤと結んで北支に殺到する如き事は国策を根本から覆すものと考へ、寧ろ支那と手を握ってロシヤに当るべきものと考へ即ち陸軍の後半期の方針変更には聊か微力を尽した積りであります。

 昨年七日「対支投資に於ける日米財団の提唱」と云ふ建白書は自分としては日支の同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置く事を目的としたもので、一面支那に於いては私の永年来の盟友張群氏の如きが外交部長の地位に就いたので、自分は此の三月には久し振りに支那に渡ろうと準備をして居たのであります。

 実川時次郎、中野正剛君が支那に行きました機会に単なる紹介以上に突き進んだ話合をして来る様取計ひましたのも其為めでありますし、昨年秋重光外務次官と私とも長時間協議致しましたし又広田外相と永井柳太郎君との間にも私の渡支の時機に就いて相談もありました位であります。

 年来年始となり、次いで総選挙となりましたので此の三月と云ふ事を予定して居りました。私は戦敗から起る革命と云ふ様な事はロシヤ、独逸の如き前例を見て居りますので、何よりも前に日米間、日支間を調整して置く事が最急務と考へまして、西田や青年将校等に何等関係なく私独自の行動を執って居った次第であります。

 幸か不幸か二月二十日頃から青年将校が蹶起することを西田から聞きまして、私の内心持って居る先づ国際間の調整より始むべしと云ふ方針と全然相違して居りますし、且つ何人が見ても時機でないことが判りますし、私一人心中で意外の変事に遭遇したと云ふ様な感を持って居ました。

 然し満洲派遣と云ふ特殊の事情から突発するものである以上私の微力は勿論、何人も人力を以てして押え得る勢でないと考へ、西田の報告に対して承認を与へましたのは私の重大な責任と存じて居ります。殊に五・一五事件以前から其の後も何回となく勃発しようとするやうな揚合のとき常に私が中止勧告をして来たのに拘らず、今回に至って人力致し方なしとして承認を与へましたのは愈々責任の重大なる事を感ずる次第であります。従って私は此の事によって改造法案の実現が直に可能のものであると云ふが如き安価な楽観を持って居ません事は勿論でした。

 唯行動する青年将校等の攻撃目標丈けが不成功に終らなければ幸であると云ふ点丈けを考へて居りました。之は理窟ではなく私の人情当然の事であります。即ち二十七日になりまして私が直接青年将校に電話して真崎に一任せよと云ふ事を勧告しましたのも、唯事局の拡大を防止したいと云ふ意味の外に、青年将校の上を心配する事が主たる目的で真崎内閣ならば青年将校をむざむざと犠牲にする様な事もあるまいと考へたからであります。

 此点は山口、亀川、西田等が真崎内閣説を考へたと云ふのと動機も目的も全然違って居ると存じます。私は真崎内閣であろうと柳川内閣であろうと其の内閣に依って国家改造案の根本原則が実現されるであろうと等の夢想をしては居りません。之は其等人々の軍人としての価値は尊敬して居りますが、改造意見に於いて私同様又は夫れに近い経綸を持って居ると云ふ事を聞いた事もありません。

 又一昨年秋の有名な「パンフレット」「(昭和九年陸軍省新聞班発行のもの――広義国防の強化と其の提唱――財閥と妥協せる国家社会主義的色彩濃厚なり)を見ましても、私の改造意見の〔二字不明〕きものであるか如何が一向察知出来ませんので、私としては其様な架空な期待を持つ道理もありません。要するに行動隊の青年将校の一部に改造法案の信奉者がありましたとしても、〔二字不明〕の事件の発生原因は相沢公判及満洲派遣と云ふ特殊な事情がありまして急速に国内改造即ち昭和維新断行と云ふ事になったのであります。

 [三字不明〕日私としては事件の最初が突然の事で〔三字不明〕二月二十八自以後憲兵隊に拘束され〔三字不明〕たので、唯希望として待つ処はこう云〔四字不明〕騒ぎの原因の一部を為して居ふと云【四字不明】家改造案が更に真面目に社会各方面〔四字不明〕され、其の実現の可能性及び容易性が〔四字不明〕ますならば不幸中の至幸であると存ま〔四字不明〕千如何なる建築に心人柱なる事に「四字不明〕帝国の建設を見ることが近き将来に迫〔三字不明〕ではないか等と独り色々考へて居ります。

 以上何回か申上げた事によって私の関係事及び心持は全部申上げたと思ひます。
昭和十一年三月二十一日」

 これを見ると、北一輝という人物は、右翼イデオローグとしての一般的なイメージとは随分違って、その対支、対米関係調整の視点は、当時の省部の幕僚軍人と比べてもはるかに冷静かつ妥当なものであったことが判ります。また、広田外相や重光次官等外交官を始め、中野正剛、永井柳之介等政治家との連絡の他、中国国民党外交部長張群との盟友関係もあるなど、外交的にも幅広い人脈を有していたことになります。

 その彼が、どうして皇道派青年将校と関係したのか。なにしろ、彼の天皇観は、彼等が主張した万世一系の天皇観とはまるで違っていて、それは、彼らが執拗に排撃した「天皇機関説」そのものでした。このことは、北一輝の著作『国体論及び純正社会主義』を見れば明らかで、彼はその中で「万世一系の一語を一切演繹の基礎となす穂積八束の論」を、哀れむべき「白痴の論」といい、彼らのいう「『国体論』中の『天皇』は迷信の捏造による土偶にして天皇に非ず」と痛烈に批判しています。

 その上で、次のような彼流の維新革命論が展開されます。(次は『北一輝著作集第一巻』神島二郎による解説文からの引用です。長大かつ難解な『国体論』の本文をわかりやすくまとめていますので)

 維新革命、この「万機公論の国是を掲げて民主主義に踏みきられたこの法律的革命は、当初、国民の法律的信念と天皇の政治道徳とによって維持され、23年の議会開設に至って完成した。幕末志士の国体論は、古典と儒教という被布をかぶった革命論(天皇への中によって封建貴族への忠を否認!)であり、その裏には、外国との接触によって触発された国家意識と国内に盛り上がってきた平等感の拡充とによる社会民主主義の要求があった。

 彼によれば、社会主義は、主権が国家にある(国体)となすものであり、民主主義は、政権が広義の国民にある(政体)となすものである。これが彼の言う公民国家である。そこでは、国家は国民の特権ある一部分たる天皇と平等な権利を持つ他の部分とから成り、天皇は議会と共に国家の機関として活動し、国民は、天皇の利益のためにではなく、国家目的にのみ奉仕する。その意味で、彼は、国家法人説、天皇機関説を主張し、天皇主権説を否定する。

 彼によれば、君民一家、忠孝一致、天皇主権説は、已に述べた国家体制の進化を逆進的に理解する「復古的革命主義〈反革命思想の意味〉であり、こうした「朝権紊乱」「国体破壊」の思想に対して現国体を断固擁護しようとするのがまさに彼の社会民主主義だと彼は揚言する。」ただし、「維新革命は、法律革命によって政治的に公民国家を実現したが、経済的には貴族階級国家に逆倒してこれを空文化している」ので、「維新革命の理想を実現するため、私有財産制を廃棄して共産制度に変える第二の維新が必要」。

 ただし、以上のような主張をなした『国体論及び純正社会主義』は、北一輝23歳の時に書かれたもので、明治39年(1906)5月に自費出版されたものです。北一輝はこれによって社会主義者と見なされるようになりました。その後彼は、片山潜、幸徳秋水等社会主義者や宮崎滔天、萱野長知等国体論者との接触を通じて中国革命に関心を持つようになり、1911年には中国に渡り、その後十年間、宋教仁等と共に中国の革命運動に挺身することになりました。

 この間、大正4年から5年にかけて中国で書かれたものが『支那革命外史』で、北一輝はこの中で、日本のいわゆるアジア主義者に伝統的な「支那軽侮論」に対して、次のような痛烈な批判を浴びせています。「笑うべき支那崇拝論者よ。(軽侮論者たるべき奴隷心の故に崇拝論者たる者よ)」と。(『北一輝著作集』p87)

 つまり、中国革命の起動因となったものは、日本の国家民族主義的な思想であり、その結果、中国人に国家民族的な覚醒が生じたのであって、そこに日本の中国に対する本質的な援助がある。つまり、そうした中国人の「国家的覚醒による愛国心こそ、まさに親日排日の両面」を持つのであって、中国の排日運動を見て、忘恩民族とそしるのは無理解も甚だしい。

 「日本人の支那革命に対して受くべき栄光は当面の物質的助力又は妓楼に置酒して功を争う者の個人的交友に非ず。実に日本の興隆と思想とが与えたる国家民族主義に存するなり。」「不肖は何が故に日本人が佔らざるの恩を誣ひて忘恩民族呼ばわりをなし、却て四億万民に愛国的覚醒を導けるこの嚇嚇たる教鞭を揮って誇らざるかを怪しまずんばあらず。」(上掲書p42)

 つまり、北一輝にとって革命とは、有機体としての社会において、その部分である個人が、自らの自由の拡大を求めてより高次の統一社会に到達せんとして起こるもので、歴史的には君主国から貴族国を経て民主国へと進化していくものである。つまり、その変革のエネルギーはその社会自身の中にある。それ故に、その社会=国家の利益は即ち権利であり正義である。だから、そのような中国の内在的発展として中国革命を捉えよ、と言うのです。

 北一輝は、中国革命をこのような歴史の進化過程において捉え、それが成功するためには、中国は、まず封建的代官制度を廃して国家統一し、自らの国家的利益を外邦に対して主張出来るようにならなければならない。そして、そのための方策は「対露一戦」であり、これによって「代官階級の一掃も、財政革命も、軍制改革も、郡県的統一も、省部的軍国的精神の樹立」も可能となる。そのためには中国は東洋的共和制下の大統領制を布く必要がある。

 これと共に、「日本の革命的対外策も立案される。日本は露支戦争に乗じて、一方では日英同盟を破棄して英国を「南支那」から駆逐し、他方ではロシアを退けて満州に進出する。「支那は先づ存立せんが為に、日本は小日本より大日本に転ぜんが為に」露支戦争は戦われねばならない。かくしてこれを基にして「日支同盟」が成立するであろう。」これが、北がこの本で提示した「革命的対外策」でした。(『北一輝著作集第二巻』野村浩一解説p419)

 というのも、「満州は日露戦争の当時已に日本が獲得すべかりしもの」であって、これは「支那のためにも絶対的保全の城郭を築くもの」だというのです。おもしろいのは、この時北が主張した対米政策です。それは、米国における排日熱は支那の排日熱のようなものであり、これを解消するためには、支那の鉄道建設への米国資本の導入に日本が協力すればよい。そうすれば、米国の世論を「頼もしき親日論」に一変させることが出来るというのです。

 「由来米国と日本とは何の宿怨あり、何の利害衝突あって今日の如く相警むるや」「何者の計ぞ日米戦争の如き悪魔の声を挙げて日本の朝野を混迷せしめ、支那に事あれば先づ米に備ふるの用意を艦隊司令官に命ずる如き狂的政策を奔らしむるや」・・・米国の対支投資は日本の保障がなければ元利一切不安になるのであって、日本は、米国の投資によって支那が開発されない限り日本の富強は達成されない。」(『支那革命外史』p193)

 こうした提言は、大正5年5月22日稿了とされた本書に記されたものですが、冒頭に紹介した、二・二六事件裁判における検事の聴取書「第五回」に述べられた北の対支・対米政策は、基本的には、このような北の対支・対米認識に支えられたものであったことが判ります。

 その後、北は、大正8年8月、36歳の時、「故国日本を怒り憎みて叫び狂う群衆の大怒濤」を眼前に見る上海の客舎で、『国家改造法案原理大綱』(後に『日本改造法案大綱』)を書きました。ここでは、『国体論及び純正社会主義』の末尾において彼が主張した「維新革命の理想を実現するため、私有財産制を廃棄して共産制度に変える第二の維新(=国家改造)」を、明治憲法下の議会政治によってではなく、天皇大権の発動による3年間の憲法停止、全国に戒厳令を布く中で、一気に行うとするものでした。

 この戒厳令下の国家改造において秩序維持や改造の執行機関となるのは、改造内閣に直属する在郷軍人団とされました。ここで「在郷軍人」というのは、検閲を顧慮して用いたもので、実は、現役軍人をさすのだという説もあります。ではなぜ北が、このように国家改造の主体を軍人に求めたかというと、彼が経験した中国革命の進行過程において、その推進力となったものが、「武漢の新軍に見られるように、腐敗した将官ではなくて、まさに『軍隊の下層階級』」であったためとも言われます。

 実際、北が『日本改造法案大綱』書いた大正9年は、ロシア革命、ウイルソンの民族自決主義に刺激された中国の五四運動、韓国の三一万歳事件等の勃発、日本の米騒動など混迷する時代状況の中にありました。また、北一輝が大川周明等の招きに応じて日本に帰った大正9年末以降の日本では、ワシントン条約に基づく軍縮の実施や国際協調主義の流れの中で、軍人に対する世間の目は冷たく、特に青年将校等に不満が嵩じていました。昭和になると、それに経済不況が重なることになります。

 そんな中で、彼らを国家改造へと目覚めさせたものが、北一輝の『日本改造法案大綱』でした。その国家改造における主体とされたものが軍人であって、これが天皇の号令の基に行われる。その政治目標は、軍閥・吏閥・財閥・党閥など特権機関を排除して、平等社会を実現すること。具体的には、私有財産や私有地に限度を設けること。大資本を国家統一することの他、労働者の権利や国民の生活・教育の権利、国家の権利としては、自己防衛や不義を行う国に対する戦争、大領土を独占する国に対して開戦する権利などが規定されました。

 では、この「改造計画」は皇道派青年将校等にどのような思想的影響を与えたかと言うことですが、昭和11年3月号の「日本評論」には、「青年将校運動とは何か」という対談記事が掲載され、その中で青年将校はその運動において何を望んでいるかと問われ、次のように答えています。

 「簡単にいえば、一君万民、君民一体の境地である。大君と共に喜び大君と共に悲しみ日本国民が本当に天皇の下に一体となり、建国以来の理想実現に向かって前進するということである。」「日本国内の情勢は明瞭に改造を要するものがある。国民の大部分というものが、経済的に疲弊し経済上の権力は、天皇に対して、まさに一部の支配階級が独占している。時として彼等は政治機構と結託して一切の独占を弄している。それらの支配階級が非常に腐敗している状態だから承知できないのだ。」

 これは、北一輝が『国体論・・・』で否定した、君民一家、忠孝一致、天皇主権説に基づく「復古的革命主義」そのものです。しかし、国家改造を必要とする時代状況認識や具体的な改造計画は同じであり、というより「改造計画」の影響を受けたものです。しかし、そこから変革のエネルギーも生まれている訳ですから、それをあえて訂正するようなことはしなかったのだと思います。そこには、隊付き青年将校等が幕僚将校に対して持った不満に対する同情もあったのではないかと思います。

 一方、統制派といわれた幕僚等の国家改造計画は、満州問題の抜本的解決のための対外的膨張政策の推進がその中核にあり、それに反対する政党政治の否認であり、資本主義の是正による国民生活の安定でした。そのために、三月事件や十月事件などの暴力革命による軍事政権の樹立が図られたのです。しかし、満州事変が成功したこともあり、こうした暴力革命主義は次第に統制派による合法的漸進的国家改造へと代わっていきました。

 こうした統制派の漸進的国家改造の進め方を明瞭に示したものが、昭和9年に陸軍が公表した「国防の本義とその強化の提唱」でした。ここでは、国防は国家生々発展の基本的活力の作用であるとし、”国民の必勝信念と国家主義精神との培養のためには、国民生活の安定を図るを要し、就中、勤労民の生活保障、農村漁村の救済は最も重要な政策である、と説かれていました。このように国防と内政は切っても切れない関係にあるとして、軍のこの方面の発言を強化しようとしたのです。

 いずれにしても、その具体的な政策は、自由経済に代えるに、統制経済を狙いとすること、統制経済は資本主義そのものを否定しないが、思想的には個人主義、自由主義より全体主義への移行を示していること。具体的には、議会は停止しないが、但し、ヒトラーの授権法に倣い、広範な権限を政府に授権する仕組みとすること。政党は否定しないが多数党が政権を取るといういわゆる憲政常道は認めない。あくまで哲人政治を主張する、等がその目標とされました。(『昭和憲兵史』大谷敬二郎p225)

 ではこれら統制派の主張と北一輝の思想とはどのように関係していたのでしょうか。いうまでもなく統制派は、軍が組織を動かして軍の一糸乱れぬ統率の下に上記のような国家改造を行おうとしていました。そこで、青年将校等が軍の統制を無視して横断的に結束し政治活動をすることを止めさせようとしていました。従って、それを外部からコントロールしていると見なされた北一輝等が警戒されたのも当然です。ただし、両者の求める国家像には大きな違いはなく、違いは、その対支・対米政策にありました。

 よく、支那事件を拡大に導いたのは統制派で、皇道派はこれに反対したというようなことが言われます。しかし実際は、冒頭に紹介したように、北一輝は皇道派青年将校等の動きとは別に、日支同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置くべく外交工作を展開していました。従って、二・二六事件を引き起こした皇道派青年将校等は、北をそれに巻き込むことでその努力を挫折せしめ、一方、統制派は、軍の無統制の責任を北に転嫁する形で、この事件を処理したのです。

 北の「国体論」は天皇機関説を当然とし、「万世一系」を論拠に「天皇主権」を唱える「国体論」の愚を指摘しました。また、日本人の「支那軽侮論」が「支那崇拝論」の裏返しであることを喝破する一方、日支同盟の必要性を説き、米国の投資を支那に呼び込むことで日米親和が図れるとしました。その達識とリアリズムは、アジア主義者や青年将校等の思想をはるかに凌駕していたわけですが、『日本改造法案大綱』はそれを単なるクーデター扇動文書に矮小化してしまいました。

 この原因は、北の国家論において、国家と社会の区別がついていなかったとか、国家有機体説をとったたため、個人の人権が国家主権に吸収されてしまい、それが彼を超国家主義へと導くことになったとかが指摘されます。おそらくそれは、日本が一民族一国家であることの反映だと思いますが、根本的には、この文書は、彼の10年間に及ぶ中国革命運動の挫折が生み出したものと見るべきではないでしょうか。それは日本においては、一部皇道派青年将校に「一君万民平等思想」と誤読されることでしか機能しなかった。

 思想家がその読者を迷わしたことの責任を問われることはよくあることですが、通常、それは読者の責任とされます。この点、北一輝は二・二六事件を起こした皇道派青年将校等に対して自らの責任をとったわけですが、それは彼等に対する情宜の故であったか、それとも自らの言葉に対する責任の故であったか・・・、おそらく、西田税に『大綱』の版権を譲ったことが彼の失敗の始まりで、北はそのことの責任をとったのではないか、私はそのように推測します。