昭和の青年将校はなぜ暴走したか11――日本人の「法意識」について

2011年8月12日 (金)

健介さんへ

 おっしゃる通り、問題は日本人の「法意識」にあります。つまり、日本人の「法意識」においては、「法」よりも「実情」を優先する傾向があるのです。そのために、個々人から自制心が失われた場合には、無秩序状態に陥りやすい。戦前の陸軍では、五・一五事件以降、この「実情」主義が軍内に蔓延するようになりました。この流れを作ったのが皇道派で、これに対して、軍の統制がとれなくなると危機感を抱いたのが、いわゆる統制派で、ここに皇道派と統制派の対立が生まれたのです。

 この両者の関係を象徴的に表しているのが、「陸軍パンフレット」(国防の本義と其の強化の提唱)と国体明徴運動の関係です。つまり、 「陸軍パンフレット」は、統制派の国防国家建設の青写真であり、そのために軍の統制力の回復が必要であることを訴えたもので、一面、皇道派に対する批判の書でもあったのです。これに対して、皇道派が統制派に対して猛烈な巻き返しを図るために起こした運動が「国体明徴運動」でした。

 ではなぜ、「国体明徴運動」が、皇道派の統制派に対す対抗措置となり得たか。要するに、統制派のやり方は皇道派から見た場合、自らの権力欲・権勢欲を動機としている。また、彼らが理想と考える天皇親政の「一君万民平等」の統治理念にも反している。彼らのやっていることは江戸時代の「幕府」と同じで、これは、天皇の統治大権を簒奪するものである、とする理屈です。その根拠として、三月事件や十月事件が持ち出されたのです。

 結局、この対立は、二・二六事件の時、統制派が皇道派をカウンタークーデターで押さえ込んだことで解消し、軍内の横断的な青年将校運動もなくなり、軍の統制力も回復しました。しかし、満州事変の後遺症もあり、軍の中央組織と関東軍など出先軍との下克上的関係は依然として残ったままでした。そのため、その後も出先軍が暴走し、これを中央組織が抑えられず、結果的にそれを追認してしまうという、昭和の日本軍の宿痾ともいうべき悪弊がその後の軍を悩ますことになったのです。

 また、統制派は、このように皇道派を弾圧することに成功したのですが、国民の統制強化の方策としては、皇道派による国体明徴運動を利用することになりました。というのは、この運動は「天皇機関説排撃」に連動して提起されたものである事から判るように、これは明治憲法に規定された立憲君主制を否定し、教育勅語的な国体観を全面に押し出そうとするものでしたので、これと統帥権を結びつければ、統制派の考える一国一党の国防国家建設を正当化できると考えたのです。

 こうして、軍主導による一国一党の国防国家体制が完成したのですね。そして、それを支えた国体思想は、明治憲法に定められた立憲君主制を否定するものだったために、まず、政党政治が否定され、次いで政党の自主解党となり、最後は翼賛議会となって実質的に議会は予算審議権を失うに至りました。また、国民思想的には、大正自由主義下で芽吹いた個人主義や自由主義が徹底的に排撃されることになりました。

 ところで、冒頭に述べた日本人の「法意識」は、こうした個人主義や自由主義の考え方を受け入れることは出来ないのでしょうか。実はこの点が最も注意を要するところなのですが、日本人の「法意識」の根底には、仏性→本性→本心と言い替えられてきた、日本独自の自然法意識に支えられた性善説的観念があります。そのため、「法」の運用においては、実情主義が重んじられ、法に訴えるより、当事者間の示談による和解が最良とされます。つまり、「法」の裁きより、相互に自制心を働かせることで和解することが求められるのです。

 ところが、近代資本主義社会は、人間の利己心を当然としていて、利己心をお互いにぶつかけ合うことで、予定調和的に社会正義が実現されると考えます。これがうまくいく場合は、例えば、日本でも明治のように個人の立身出世欲と国家目標とが一致しているような場合には問題は起こらない。しかし、大正時代のように、この予定調和が破綻して社会的混乱が起こり、社会的正義が損なわれたと考えられるようになると問題が生じる。

 つまり、この混乱の原因は、利己心を野放しにする資本主義体制にあるのだと考えられるようになるのです。従って、この混乱から脱却するためには、資本主義的を否定しなければならない。丁度、ロシア革命が成功して社会主義思想に基づく平等主義が日本でも風靡するようになった。しかし、この思想は王政を否定するので日本の天皇制と矛盾する。そこで、これに代わるものとして、日本の伝統思想である尊皇思想の一君万民平等思想及び天皇親政の国体観念が、呼び覚まされることになったのです。

 さらに、この国体観念は、日本を盟主とする八紘一宇の世界観や、忠君愛国、滅私奉公の道徳観念を伴っていました。そのため、大正時代の国際協調主義や、個人主義・自由主義的道徳観念が否定されることになりました。また、その自己絶対性から、物事を相対的・客観的・合理的に見る事ができなくなりました。その結果、何のためか判らない意味不明の日中戦争から抜け出すことができず、その果ては、英米中ソという世界の大国を敵に回した無謀な戦争に突入することになったのです。

 こう見てくると、戦前の昭和における日本の問題点は、この時代に支配的となった日本思想に問題があったことが判ります。確かにこの思想は、理念としては植民地主義や人種差別に反対していました。しかし、それは「陸軍パンフ」に見るように、多分に建前上のものに過ぎず、本音では優勝劣敗を肯定していました。また、皇道派の主張した天皇親政下の「一君万民平等思想」は、八紘一宇という世界家族観念を世界に拡大しようとするもので、日本人の思想の独善性を病膏肓とするものでした。

 では、日本人の思想は、以上述べたような問題点を克服することができるか。これが、戦後の日本人にとって最も重要な問であったはずです。私は先に、日本人の「仏性→本性→本心」と言い替えられてきた日本人の性善説的観念について言及しました。私はこれはこれで大変貴重なものだと思っています。しかし、これを社会組織に適用するときは注意を要する。つまり、この場合は、家族主義的なものではなく、能力主義を基本とした合理的・流動的・契約的なものに転換しなければならないと考えています。

 こうしたことは、今日の企業経営においては当たり前になっていると思いますが、戦前の軍組織においては、能力主義に反する薩長の藩閥支配に対する反発から、過度の学歴主義に基づく陸大卒業者による学閥支配に陥ってしまいました。これが隊付き将校等皇道派青年将校の反発を生んだのです。結果的には、統制派が皇道派を押さえ込んだのですが、彼らが作り上げた軍主導の一国一党制の国防国家体制を思想的に支えたものは、皇道派の主張した国体観念に基づく忠君愛国、滅私奉公、八紘一宇の世界観だったのです。

 こうした世界観の下で、日本がその盟主として主導権を発揮し、大東亜の新秩序を形成し大東亜共栄圏を完成させる。これが、日中戦争及び大東亜戦争を理由づける軍の考え方というか後付けの理屈でした。しかし、それが日本の伝統的な国体思想と結びついたことで、それから脱却することは極めて困難になりました。また、多くの国民もこの国体思想に巻き込まれることになり、軍が実際にやっていることや世界の現実を、相対的かつ客観的に見ることがほとんどできなくなってしまったのです。

 これが、戦前の昭和に悲劇をもたらした思想的現実でした。では、再度の問いになりますが、この思想的現実をどのように克服するか。これが戦後日本人の第一の課題だったはずです。しかし、GHQの巧妙な占領政策もあって、日本人はこれを一部の軍国主義者の責任にしてしまいました。そのため、国民は、これら一部の軍国主義者の引き起こした戦争の犠牲者だとする見方や、さらにそれが嵩じて、日本人を残虐民族と見なす「自虐史観」が蔓延することになったのです。

 しかし、それでは問題は解決しない。確かに、満州事変から華北分離工作までの政治的責任は、私は、当時の軍指導者が負うべきだと思います。しかし問題はその後です。なぜ、日本は、何のためにやっているのか判らない意味不明な日中戦争を止められなかったのか。なぜ、それが大東亜戦争へと発展したか。この疑問を解くためには、当時の軍人及び多くの国民を熱狂させ、戦争へと導いたこの思想の問題点について、それを自らが信じた思想の問題点として、初心に返って総点検する必要があるのです。

 この思想の問題点を一言でいえば、私は、それは日本人の「法意識」の問題ではないかと思います。といっても、日本は明治以降この西洋的法概念を学び、それによって政治制度を運営し多大な成果を上げて来たのです。だから、この知恵を日本文化の発展に生かせぬ筈はない。では、昭和はなぜこれに失敗したか。まず、大正時代の軍縮期における軍の処遇を誤った。次いで森恪がその軍人の不満を政治的に利用し軍を政治に引き込んだ。その結果、張作霖爆殺事件が引き起こされ、日本政府はそれを厳正に処罰できなかった。

 ここから、日本軍の、何よりも厳正であるべき軍法下の「法意識」が根底から毀損されることになったのです。さらに、こうした傾向が、昭和初期の政治的・経済的混乱の中で、国民の政治に対する信頼――つまり立法措置によってこれらの問題の解決を図る政治への信頼の喪失となり、それに代わって、軍部による拡張主義的な国策遂行が支持を集めるようになったのです。次いで、そうした軍の行動が、前述の国体思想によって正当化され、国民もそれを信じ込むようになったのです。

 しかし、戦前の昭和の歴史をトータルに見た場合、その最大の責任は誰にあるかというと、先ほど申し上げた通り、私は、満州事変から華北分離工作までの軍の責任は否定すべくもないと思います。しかし、立憲政治体制下における政治責任は、あくまで政治家が負うべきであって、私は、その戦犯第一号は森恪だと思っています。彼は、第二次南京事件では軍縮に不満を持つ軍人をあおり、これを政治的に利用して政権を獲得し、さらに軍人を政治に引き込むことで自らの大陸政策の実現を図ろうとした。

 これが、日本の政治に軍人を介入させることになり、さらに統帥権干犯問題(この時は犬養毅や鳩山一郎の責任も大きい)を契機に政治は軍を制御できなくなり、出先軍の暴走を生んで満州事変となり、さらに関東軍の華北分離工作となり、ついに蒋介石をして抗日戦を決断させることになったのです。以後、日本国は戦時体制に突入し、さらに総力戦の観点から軍主導の一国一党の国防国家建設となり、政党政治、議会政治が否定され、ついに明治憲法に定められた立憲政治までもがなし崩し的に否定されるに至ったのです。

 こうした流れの道先案内をしたのは、紛れもなく政党政治家でした。従って、昭和の悲劇をもたらしたその第一の責任は、まず、この時代の政治家が負うべきなのです。彼らは、決して軍の被害者ではない。この事実をはっきりと自覚することが、日本に民主政治を確立するための第一の関門であると、私は思っています。