昭和の青年将校はなぜ暴走したか10――立憲政治を守れなかった戦前の日本人

2011年8月 7日 (日)

「昭和の青年将校はなぜ暴走したか9」の私の健介さんに対するコメントですが、大切な論点を含んでいますので、本文掲載とさせていただきます。

健介さんへ

>(二・二六事件で北から安藤への”○○はあるか”という電話について)偽電話の可能性があるのですか。

tiku 前エントリーで紹介しましたように、中田氏の推理通り偽電話だと思いますね。北がこの事件の進行に関して心配していたことは金のことではなくて、彼らがその程度上部工作をしていたか、だったと思いますから。

 しかし、北は、事件発生後それがほとんどなされていないことを知りました。そこで、27日午前10時頃、彼らに真崎に一任するよう勧め、彼らはそれに従いました。27日午後2時頃、彼らは真崎(山下、小藤、鈴木、山口立ち会い)と会い、事態の収拾を依頼しました。しかし、真崎は奉勅命令が出される見込みであるとして「維新部隊」の原隊復帰を迫りました。

 一方、石原は27日夜、磯部と村中を呼び、”真崎の言うことを聞くな、我々が昭和維新をしてやる”と伝えたといいます。

 28日午前5時、奉勅命令が戒厳司令官に下達されましたが、戒厳司令部の香椎戒厳司令官が叛乱軍支持だったため、この実施は保留されました。皇軍相撃を避けるための説得を継続するという理由で・・・。

 その後、石原は香椎に対して、臨時総理をして維新断行、建国精神の明徴、国防充実、国民生活安定について上奏するよう意見具申しました。しかし、杉山次長はこれを受けた香椎の進言を拒否して武力鎮圧を命令し、その結果、香椎も、決心変更・討伐断行となりました。

 一方、反乱将校らは帰順か抵抗かで迷っていましたが、ついに自刃し罪を天皇に謝し、下士以下は原隊に復帰させることで意見一致しました。そこで、自らの死に名誉を添えるため、侍従武官の御差遣を天皇に奏請しましたが、天皇はこれを拒否しました。

 一方、青年将校等の自刃の話を聞いた北は、村中を通じて、極力自刃を阻止すると共に初志貫徹のためあくまで上部工作を継続するよう伝えた、といいます。

 28日午後5、6時頃、北、憲兵に逮捕される。

 で、お尋ねの北から安藤への電話ですが、これは、28日午後11時50分頃であると、東京陸軍軍法会議の勾坂主席検察官の「電話傍受綴」に記されています。また、その発信元は憲兵司令部となっている(交換手にはそう告げた)ことなどから、これが、安藤隊の兵力を聞き出すための偽電話だった可能性が高い、ということになるわけです。

 しかし、以上のやりとりで問題は、石原が皇道派青年将校の蹶起を利用してカウンタークーデターを実現しようとしていたことは明白だとしても、では、北自身は青年将校等の行動に何を期待していたのか、ということです。その主張する「上部工作」が”真崎止まり”であれば、それは見込み違いだったことになりますが、北のことですから、あるいは石原等に対する工作まで含んでいたのかも知れません。

 そうした構想をぶちこわしたのが天皇の断固たる討伐意思だったわけで、このことは上記の経過説明を見ればよく判ると思います。

 ただ、ここで私が疑問に思うのは、皇道派と統制派の国家改造イメージに果たしてどれだけの違いがあったか、ということです。

 『評伝 真崎甚三郎』の著者である田崎末松氏などは、二:・二六事件で天皇が皇道派を弾圧して統制派を助けるようなことをしなければ、日中戦争も大東亜戦争も起こらなかったなどと、その罪を昭和天皇お一人に帰すようなことを言っていますが、仮に、天皇がこうした意思を示されなかったとしても、事態の収拾は、結局、石原を中心とする統制派が行うことになったと思います。

 その場合、反乱軍将校の処罰は5・15事件と同じようなことになり、将校等は軽い刑で済まされ、北や西田などの民間人には重刑が科されることになったでしょう。だが、「動機さえ純粋であれば重臣や上官を殺すことも許される」という下克上的雰囲気は、軍隊内に一層蔓延することになる。そこで石原は、軍の統制回復のため、青年将校等に名誉の自決を迫ったかもしれませんね。いずれにしろ、その行き着く先は、ナチスをモデルとする一国一党、軍主導の高度国防国家建設だったろうと思います。

 また、皇道派青年将校等が、本当に3月事件や10月事件における統制派の大権私議を怒りそれを告発したかったのなら、なぜ、彼らは「私兵」を動かし重臣らを殺害し軍首脳に国家改造を迫るというようなクーデターまがいの大権私議を犯したのでしょうか。なぜ、満州事変という破天荒な大権私議を犯した石原完爾を攻撃目標としなかったのか、あるいは彼に期待するものがあったのではないか・・・。また、彼らが本当に中国との和平を願っていたのなら、なぜ、関東軍の華北分離工作に反対しなかったのか。なぜ、満州への転属を絶望視して、その前に「昭和維新」と称するクーデター事件を起こしたのか等々。

 これらの疑問を解く鍵はどこにあるか。それは、こうした矛盾に満ちた彼らの行動について、彼ら自身がそれをまるで矛盾と感じなかった、その思想にこそ問題があったのではないか。実際、そうした青年将校の行動に同情と共感を寄せる空気が当時の世間にはあった。その空気が、青年将校をして彼らの矛盾を矛盾と感じさせなかったのではないか。つまり、この事件の真犯人は、その「空気」であり、この空気が生んだ事件を巧みに利用して、自らの国家改造に利用しようとしたのが、統制派だった、ということではないでしょうか。

 これに関して、昭和26年2月『文藝春秋』に掲載された”対決二・二六事件の謎を解く”と言う座談会記事があります。メンバーは二・二六事件で襲撃された生き延びた岡田啓介元首相、首相秘書官であった迫水久常、生き残り青年将校大蔵栄一、皇道派理論家古賀斌、戒厳司令官参謀長安井藤治です。この中での岡田の発言は次の通りです。

 「青年将校の気持ちはよくわかるが、要するに三月事件、十月事件の経験で幕僚達は信用できないというので、今度は自分たちだけで事を起こす、起こしてしまえば軍の上層部が自分たちの信念を理解して、これを生かして何とか始末をつけてくれるという確信の下にやったことだね。そうすると、事件そのものの中心人物は誰だったかと言うことは寧ろ小さい問題で、若い連中に今言ったような確信を持たせたのは誰だと言うことが重要なことになるわけだ。さあ、それは誰かな、君たちに言わせればこれは空気だと言う事になるのだろう。」(『評伝 真崎甚三郎』p251)

 この本の著者田崎氏は、要するに岡田は真崎が教唆扇動したと言いたいのだろう、と言っていますが、私は岡田はそんな”当てつけ”を言ったのではなく、文字通り、この時代の空気が彼らに以上のような確信を持たせたのではないか、ということを言ったのではないかと思います。

 さて、事件後、皇道派青年将校等は、統制派のカウンタークーデターの陰謀に引っかかったと怨嗟の声を上げました。思っていた以上にひどい奴らだったと・・・。この時彼らはどれだけ自らの不明や、無意識の内に石原らに期待を寄せた自分らの甘さを自覚したのでしょうか。磯部などは、その責任を天皇に求め呪詛しました。なぜ貴方は、我々の心情を理解し、我らの味方をし、統制派を懲らしめなかったのかと。

 だが、昭和天皇は自らを立憲君主と自己規定していたのです。従って、天皇にとっては、青年将校等の行動はそれを破壊する以外の何物でもなかった。彼らの行動は、張作霖爆殺事件以来の軍の天皇の統帥権をも無視した独断的行動の延長、というよりその極致に見えたのだと思います。それも、天皇の名(大御心)によってなされたのです。だからこそ、それは「真綿で朕の首を絞める」ような行為に見えたのだと思います。

 つまり、この事件のポイントは、共に立憲政治を否定する、陸軍内部の皇道派と統制派の派閥争いの決着を、立憲政治を守ろうとする天皇に求めたところにあるのです。それも、天皇の統治大権を輔弼あるいは輔翼によって支えている重臣等を、「君側の奸」を除くという理屈で殺害した上で、天皇に、自らの組織の派閥争いの決着を求めたわけですから、天皇にしてみればむちゃくちゃな話で、天皇が激怒したのも無理はないと私は思います。

 では、再び問いますが、陸軍内部で派閥争いをしていた皇道派と統制派の対立点は一体何だったのか。

 皇道派の村中孝次の主張は、「陸海を提携一体とせる軍部を主体とする挙国内閣の現出を願望し、大権発動の下に軍民一致の第国民運動により国家改造の目的を達成せんとする」ものでした。また、「小官等の維新的挙軍一体に対し、彼らは中央部万能主義なり、小官等は、軍部を動かし国民を覚醒せしめ、澎湃たる国民運動の一大潮流たらしめんとするに対し、彼ら(=統制派)は、機械的正確を以て或いは動員日課予定表式進行によって・・・中央部本意の策謀により国家改造を行わんと欲したり」と言っています。

 これに対して統制派は、「軍首脳部が国家革新の熱意を持ち自ら青年将校に代わって・・・軍全体の組織を動員して」これを実行しなければならない。従って、軍内の一部のものが蠢動して横断的結合を図ることはよくない。青年将校の政治活動は軍人勅諭に反しているし、荒木、真崎を担ごうとすることは軍を私物化するものだ。また、北一輝の改造法案は徒らに扇動的であり飛躍、独善的であって害はあって益はない」というものでした。(『軍ファシズム運動史』秦郁彦p93)

 つまり、両者の理想とする国家改造イメージは実はほぼ同じで、違いは、それを軍中央の指揮下に組織的に行うのか、「維新的挙軍一体」つまり、隊付き将校達も含めた一大国民運動として行うのかという、いわば実施主体の比重の置き方の差に過ぎなかったのです。卑近な言い方をすれば、これは隊付き将校等の陸大出の幕僚将校等に対する不満から出たもので、旧軍における旧軍における極端な学歴主義がもたらした弊害の一側面とも言えます。

 つまり、皇道派対統制派の争いは、田崎末松氏がいうような国策上の争いではなく、派閥次元の争いと見るべきです。で、氏は、昭和天皇が皇道派の言い分を聞かず統制派を応援したと言って、それが泥沼の日中戦争や大東亜戦争をもたらしたと批判していますが、両者の派閥争いで統制派が勝つのは組織論からいって当然であり、また、この時昭和天皇が守ろうとしたものは、立憲政体であって、従って、張作霖爆発事件以来軍が繰り返してきた独断行動に対しては、昭和天皇は派閥の如何を問わず反対だったのです。

 その立憲政治を戦前の日本人は思想的に守りきらなかった、この思想的問題点を明らかにすることが、私たちの務めなのではないか、私はそう考えています。
(8/7 21:20最終校正)