昭和の青年将校はなぜ暴走したか9――真崎甚三郎と北一輝の違い
健介さんへ 興味深いコメントありがとうございます。大事な部分について私見を申し述べさせていただきます。 tiku このことは、皇道派といわれる青年将校達がどのようにして生まれたかを考えればおおよその見当がつきます。彼らは隊付きの尉官級将校で、天保銭組といわれた陸大出の将校等が独占する省・部の幕僚となる道が閉ざされていました。中には、あえてそうした出世の道を拒否して隊付きとなった者もいたそうですが、それだけに、その一君万民平等をめざす尊皇思想は純粋主義・精神主義的となり、他からは国体原理主義とも呼ばれるようになったのです。 その出発点は十月事件で、このクーデター事件を計画した幕僚将校等の指導原理を覇道主義と批判したことから、彼ら幕僚将校と親交のあった大川派と対立していた、北、西田派と一派をなすようになったのです。こうして北の日本国家改造法案が彼らのバイブルとなったのですが、ご存じの通り、北の根本思想は「社会民主主義」で、その天皇論も天皇主権的なものではなく、国民主権的な位置づけ(一種の象徴天皇制)であり、天皇機関説により親和的なものだったのです。 このあたり、皇道派の青年将校の間でも、彼を教祖として信奉する者がいる一方、それに疑問を呈する者もいました。つまり、北の思想が彼らに正確に理解されていたわけではなかったのですが、おそらく、北の「霊告者」的カリスマ性が、彼らの純粋思想の非現実制を埋め合わる役目を果たしていたのではないかと思われます。彼ら自身の身の処し方としては、いわゆる「捨て石主義」をとることで、覇道との差異を主張していたわけですが・・・。 しかし、このような考え方をしていたために、クーデター後の政権構想をあらかじめ準備するということができまず、その後は全て「大御心」を信じることとしたのです。もちろん「縦横の奇策」を用いればあるいは成功したかも知れない。 例えば、「山下奉文が杉山参謀次長野後藤文夫臨時首相代理を説得して『青年将校の動機・目的はこうこうである。これをぜひ、あなたは陛下に奏上して、陛下から彼らの希望する人(真人物)に大命降下するように、ではなく、することに決定したと奏上して下さい』ともっていく」。そうすれば、「公的手続きを踏んだ決定には、天皇個人の私意は絶対におよぼしてはならないという、天皇機関説による天皇の機能を十二分に生かすことになる」(『二・二六事件』高橋正衛p171) しかし、これは彼らが否定する天皇機関説の考え方であり、また、彼らの信じる尊皇思想から言っても、大権私議となる。従って、彼らの論理が貫徹されるための究極の希望は、彼らの思いと天皇の「大御心」が一致すること。しかし、立憲制下の政治機構を国是とする天皇にしてみれば、股肱と頼む重臣等が殺されることは、その政治機構を破壊することと同義ですから、こうした青年将校等の行為を認めるわけにはいかない。 つまり、ここにおける対立構造は、立憲政治を守るか、あるいはそれを打ち倒して天皇親政に復るかという、明治以来の政治思想の二重構造の矛盾に端を発するものだったのです。この対立関係が調整不能となり暴発したのが二:二六事件であったわけですが、皮肉なことに、首相が暗殺(未遂)されたことで、「天皇親政」が一時的に復活した形となって、「断固討伐」を主張する天皇の意思が貫徹されることになったのです。 >北一輝についてですが、彼の予言は色々当たりました。結果として彼が予言したようになりました。 tiku 北の予言と言うことについてですが、このことを論ずるためには、北の思想とそれに基づく日本の将来に関する具体的提言を知らなくてはなりません。そこで、これを二・二六事件裁判における検事の聴取書の中に見てみたいと思います。そこには、注目すべき北の次のような言葉が綴られています。 私は、第一次世界大戦後ウイルソンの似非自由主義に基づく平和主義が高唱される中で、帝国主義が忘れられていることを指摘し、早晩第二次世界大戦が来ると警告してきた。近年、その機運が次第に醸成されているが、日本はそうした対外戦争を決行する前に、合理的な国内改造を行い金権政治を一掃し支配階級の腐敗堕落を根絶する必要がある。それと共に、農民の疲弊困窮、中産以下の生活困難などの問題に有効に対処することによって内部崩壊を防ぐ必要がある。 また、対外政策については、陸軍がロシアと結んで北支に殺到するような政策をとろうとしているが、これは日本の国策を根本から覆すものである。従って私は、こうした陸軍の方針を変更させるため、昨年七月「対支投資に於ける日米財団の提唱」と云ふ建白書を提出するなどして微力を尽くしたつもりである。「自分としては日支の同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置く事を目的とした」のである、など。 以下、その部分を抜粋しておきます。(『現代史資料5』「国家主義運動」p731~) 第 三 回 ・・・最近暗殺其他部隊的の不穏な行動が発生しましたが、其時は即ち金権政治に依る支配階級が其の腐敗堕落の一端を暴露し、初めて幾多の大官巨頭等に関する犯罪事件が続出して殆んど両者併行して現れて居る事を御覧下されば御判りになります。一方日本の対外的立場を見ますとき又欧洲等に於ける世界第二大戦の気運が醸成されて居るのを見ますとき、日本は遠からざる内に対外戦争を免かれざるものと覚悟しなければなりません。此時戦争中又は戦争末期に於いて、ロシヤ帝国、独逸帝国の如く国内の内部崩壊を来たす様な事がありましては、三千年光栄ある独立も一空に帰する事となります。此の点は四五年来漸く世の先覚者の方々が紹識して深く憂慮して居る処であります。 其処で私は最近深く考へまするには、日本の対外戦争を決行する以前に於いて先づ合理的に国内の改造を仕遂げて置き度いと云ふ事であります。国内の改造方針としては金権政治を一掃すること即ち御三家初め三百諸侯の所有して居る富を国家に所有を移して国家経営となし、其の利益を国家に帰属せしむることを第一と致します。右は極めて簡単な事で、之等諸侯財閥の富は地上何人も見得る所に存在して居りますので、単に夫れ等の所有を国家の所有に名儀変更をなすだけで済みます。 又其の従業員即ち重役から労働者に至るまで直ちに国家の役人として任命することに依りて極めて簡単に片付きます。私は私有財産制度の欠く可がらざる必要を主張して居ります。即ち共産主義とは全然思想の根本を異にして、私有財産に限度を設け、限度内の私有財産は国家の保護助長するところのものとして法律の保護を受くべきものと考へて居ります。 ・・・私は十八年前(大正八年)日本改造法案を執筆致しました。其時は五ヶ年間の世界大戦が平和になりまして、日本の上下も戦争景気で唯ロシヤ風の革命論等を騒ぎ廻り又ウィルソンが世界の人気男であった為めに、涙の所謂似而非なる自由主義等を伝唱し殆んど帝国の存在を忘れて居る様な状態でありました。従って何人も称へざる世界第二大戦の来る事を私が其の書物の中に力説しても又日本が其の第二大戦に直面したるとき独逸帝国及びロシヤ帝国の如く国内の内部崩壊を来たす憂なきや如何・・・等を力説しても、多く世の注意を引きませんでした。然るに四五年前から漸く世界第二大戦を捲き起すのではないかと云ふ形勢が何人の眼にもはっきりと映って参りましたし、一方国内は支配階級の腐敗堕落と農民の疲弊困窮、中産以下の生活等が又現実の問題として何時内部崩壊の国難を起すかも知れないと云ふ事が又識者の間に憂慮せられ参りました。 私は私の乏しい著述が此の四五年来社会の注意を引く問題の時に其の一部分を材料とせらるるのを見て、是は時勢の進歩なりと考へ又国内が大転換期に迫りつつあることを感ずるのであります。従って国防の任に直接当って居る青年将校又は上層の或る類者が、外戦と内部崩壊との観点から私の改造意見を重要な参考とするのだとも考へらるるのであります。又私は当然其の実現のために輔弼の重責に当る者が大体に於いて此の意見又は此の意見に近きものを理想として所有して居る人物を希望し、其の人物への大命降下を以って国家改造の第一歩としたいと考へて居たのであります。 勿論世の中の大きな動きでありますから他の当面の重大な問題、例へば統帥権問題の如き又は大官巨頭等の疑獄事件の如き派生して、或は血生臭い事件等が捲き起ったり等して、現実の行程はなかなか人間の知見を以ては予め予測する事は出来ません。従って予測すべがらざる事から吾々が犠牲になったり、対立者側が犠牲になったり、総べて運命の致す所と考へるより外何等具体的に私としては計画を持ってば居りません。 唯私は日本は結極、改造法案の根本原則を実現するに到るものである事を確信して、如何なる失望落胆の時も此の確信を以て今日迄生き来て居りました。即ち私と同意見の人々が追々増加して参りまして一つの大なる力となり、之を阻害する勢力が相対立しまして改造の道程を塞いで如何とも致し難いときは、改造的新勢力が障害的勢力を打破して目的を遂行することは又当然私の希望し期待する処であります。但し今日迄私自身は無力にしての未だ斯る場面に直面しなかったのであります。私の社会認識及国内改造方針等は以上の通りであります。尚今回の事件に関する私の前後の気持は後で詳しく申述べたいと思ひます。 三月十九日 第五回 ・・・終りに私の心境は、私は如何なる国内の改造計画でも国際間を静穏の状態に置く事を基本と考へて居りますので、陸軍の対露方針が昨年の前期のに如くロシヤと結んで北支に殺到する如き事は国策を根本から覆すものと考へ、寧ろ支那と手を握ってロシヤに当るべきものと考へ即ち陸軍の後半期の方針変更には聊か微力を尽した積りであります。 昨年七日「対支投資に於ける日米財団の提唱」と云ふ建白書は自分としては日支の同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置く事を目的としたもので、一面支那に於いては私の永年来の盟友張群氏の如きが外交部長の地位に就いたので、自分は此の三月には久し振りに支那に渡ろうと準備をして居たのであります。 実川時次郎、中野正剛君が支那に行きました機会に単なる紹介以上に突き進んだ話合をして来る様取計ひましたのも其為めでありますし、昨年秋重光外務次官と私とも長時間協議致しましたし又広田外相と永井柳太郎君との間にも私の渡支の時機に就いて相談もありました位であります。 年来年始となり、次いで総選挙となりましたので此の三月と云ふ事を予定して居りました。私は戦敗から起る革命と云ふ様な事はロシヤ、独逸の如き前例を見て居りますので、何よりも前に日米間、日支間を調整して置く事が最急務と考へまして、西田や青年将校等に何等関係なく私独自の行動を執って居った次第であります。 幸か不幸か二月二十日頃から青年将校が蹶起することを西田から聞きまして、私の内心持って居る先づ国際間の調整より始むべしと云ふ方針と全然相違して居りますし、且つ何人が見ても時機でないことが判りますし、私一人心中で意外の変事に遭遇したと云ふ様な感を持って居ました。 然し満洲派遣と云ふ特殊の事情から突発するものである以上私の微力は勿論、何人も人力を以てして押え得る勢でないと考へ、西田の報告に対して承認を与へましたのは私の重大な責任と存じて居ります。殊に五・一五事件以前から其の後も何回となく勃発しようとするやうな揚合のとき常に私が中止勧告をして来たのに拘らず、今回に至って人力致し方なしとして承認を与へましたのは愈々責任の重大なる事を感ずる次第であります。従って私は此の事によって改造法案の実現が直に可能のものであると云ふが如き安価な楽観を持って居ません事は勿論でした。 唯行動する青年将校等の攻撃目標丈けが不成功に終らなければ幸であると云ふ点丈けを考へて居りました。之は理窟ではなく私の人情当然の事であります。即ち二十七日になりまして私が直接青年将校に電話して真崎に一任せよと云ふ事を勧告しましたのも、唯事局の拡大を防止したいと云ふ意味の外に、青年将校の上を心配する事が主たる目的で真崎内閣ならば青年将校をむざむざと犠牲にする様な事もあるまいと考へたからであります。 此点は山口、亀川、西田等が真崎内閣説を考へたと云ふのと動機も目的も全然違って居ると存じます。私は真崎内閣であろうと柳川内閣であろうと其の内閣に依って国家改造案の根本原則が実現されるであろうと等の夢想をしては居りません。之は其等人々の軍人としての価値は尊敬して居りますが、改造意見に於いて私同様又は夫れに近い経綸を持って居ると云ふ事を聞いた事もありません。 又一昨年秋の有名な「パンフレット」「(昭和九年陸軍省新聞班発行のもの――広義国防の強化と其の提唱――財閥と妥協せる国家社会主義的色彩濃厚なり)を見ましても、私の改造意見の〔二字不明〕きものであるか如何が一向察知出来ませんので、私としては其様な架空な期待を持つ道理もありません。要するに行動隊の青年将校の一部に改造法案の信奉者がありましたとしても、〔二字不明〕の事件の発生原因は相沢公判及満洲派遣と云ふ特殊な事情がありまして急速に国内改造即ち昭和維新断行と云ふ事になったのであります。 [三字不明〕日私としては事件の最初が突然の事で〔三字不明〕二月二十八自以後憲兵隊に拘束され〔三字不明〕たので、唯希望として待つ処はこう云〔四字不明〕騒ぎの原因の一部を為して居ふと云【四字不明】家改造案が更に真面目に社会各方面〔四字不明〕され、其の実現の可能性及び容易性が〔四字不明〕ますならば不幸中の至幸であると存ま〔四字不明〕千如何なる建築に心人柱なる事に「四字不明〕帝国の建設を見ることが近き将来に迫〔三字不明〕ではないか等と独り色々考へて居ります。 以上何回か申上げた事によって私の関係事及び心持は全部申上げたと思ひます。昭和十一年三月二十一日 >確か2.26事件における盗聴において、決起将校の安藤輝三に電話をしていますがそのとき北が<マルはあるか>とたずねています。それに対して安藤はその意味がすぐには分からず、少ししてその意味が分かる、やり取りがあります。北が一番に心配したのは<マル>つまり金で、これは初めてテレビを見た時強く印象に残っています。北一輝は2.26事件が目指したものは心底、思っていたわけではないのではという印象を持ちました。 tiku その<マルはいらんかね>ですが、中田整一の『盗聴 二・二六事件』では次のような指摘がなされています。 この会話の傍受記録がある録音盤には「2/29北→安藤」というラベル記述があるが、実は、北は28日の午後8時に憲兵隊に逮捕されている。この件について北は東京憲兵隊の福本亀治特高課長の尋問を受けている。 問 其方は、二月二十七日午後、安藤大尉を電話に呼び出して『給与はよいか』『○はあるか』と尋ねたことはあるか。 誰かが、北の名を騙って安藤に電話をかけたとも考えられるが、中田は、この裁判を担当した東京陸軍軍法会議の勾坂主席検察官の「電話傍受録」を含む裁判資料の中から、次のような傍受メモを見つけ出した。 28ヒ ゴ11・50分頃 北より→憲兵司令部だと称し 安藤に給与は如何にと問フ 安 順調(細部録音セリ) これは、ある男が憲兵司令部からだといって交換手に安藤に取り次ぎを依頼し、安藤が出たら、キタだと名乗って行った会話の記録です。この傍受メモの会話の日時は2月28日午後11時50分であり、「2/29北→安藤」というラベル記述とは大きく矛盾していない。おそらくこの勾坂の記述は、彼が各種情報を総合的に検証した結果の記述で、検察調書の二月二十七日は、北逮捕後に安藤に電話がかけているという矛盾を回避するため改ざんしたのではないか。また、勾坂のメモには安藤大尉に兵力を尋ねている箇所があり、傍受録音では雑音で聞き取れなくなっているが、おそらく、この北を騙った男は、安藤大尉の兵力を聞き出そうとしたのではないか。 中田氏は、この偽電話を、他の証拠資料とも併せて戒厳司令部通信主任であった濱田萬大尉ではないか、と推論しています。しかし、そのことを確かめに行った1987年には、濱田大尉はすでにその2年前になくなっていました。 実際のところ、北には右翼団体との仲介を図り財閥から謝礼金を受け取ると言った後ろ暗い一面があり、青年将校との関係で金を渡して背後から扇動していたのではないか、という疑いをもたれても仕方ない部分がありました。しかし、その後、統制派が、北や西田をこの事件の首魁に祭り上げ、処刑したその意図を考えて見ると、この北を駆った会話に出てくる「マルはいらんかね」という会話は、そうした統制派の思惑によって挿入されたものではないかと見ることもできます。 いずれにしても、先に紹介したような北の陳述によって、北が二・二六事件を引き起こした青年将校等の行動に困惑しつつも、彼らへの情宜を捨てられず同意を与えてしまったこと。そのことの責任をとろうとしていること。事件の収拾策としては、真崎に一任させれば「青年将校をむざむざと犠牲にする様な事」はあるまいと考えたこと。しかし、真崎内閣であろうと柳川内閣であろうと、彼ら軍人の国家改造案は「国家社会主義的色彩濃厚なもの」であって、自分の改造意見とは全く異なっており、それに期待したことはない、と述べていることなど、北独自の卓越した考え方を知ることができます。 また、北は「対露方針が昨年の前期のに如くロシヤと結んで北支に殺到」しようとする陸軍の方針を変更させるため、「日支の同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置く事を目的」とする具体的活動をしていました。つまり、「支那に於いては私の永年来の盟友張群氏の如きが外交部長の地位に就いたので、自分は此の三月には久し振りに支那に渡ろうと準備をして居た」というのです。このあたり、石原完爾の「最終戦争論」にもとづく「華北分離中止論」などより、はるかに現実的かつ外交戦略としても優れていたのではないかと思います。 こういった点を真崎と比較してみても、真崎は教育総監更迭問題以来、皇道派の青年将校達との対応を誤まり、その結果、永田鉄山惨殺事件や二・二六事件という青年将校の暴走を許してしまいました。また、北が日支衝突を回避するための具体的行動をとったことにおいても、また、青年将校の行動に同意を与えたことについて、その責任をとろうとしたことにおいても、私は、真崎と北を同断に論ずることはきない、私はそう思います。 もちろん、そのことを踏まえた上で、なぜ北が三年間憲法停止した上での国家改造を提案するに至ったかを考える必要があります。 |