昭和の青年将校はなぜ暴走したか8――皇道派青年将校が生まれたワケ

2011年7月27日 (水)

*長文のため本文掲載とします。

健介さんへ
>皇道派と統制派という用語は興味深いものがあるが、その後の展開は皇道派の予測どおりに進んだ。

tiku 皇道派が軍で主導権を握っていれば日中戦争もひいては大東亜戦争もなかったという意見がありますね。近衛文麿が皇道派を支持し続けたことはよく知られていますし、これに対して昭和天皇は皇道派の領袖と目される真崎を嫌ったとされます。こうした天皇に対する最後の直諫として提出されたものが「近衛上奏文」で、「満州事変から大東亜戦争までを引き起こした張本人は、軍部内の一味の共産主義と両立する革新運動そのもの」であり、それを担ったのが統制派である、とする見方です。

 ジャーナリストでこうした皇道派擁護の論陣を張ったのは、岩淵辰雄で『敗るゝ日まで』(s21)があります。同様の主張をしているのは山口富永(『昭和史の証言―真崎甚三郎人・その思想』s45や、田崎末松(『評伝真崎甚三郎』s52)があります。また、山口氏にはNHK特集「二・二六事件消された真実」(s63)に対する反論となる『二・二六事件の偽史を撃つ』(h2)があります。私が前回用いた『盗聴二・二六事件』の著者中田整一氏は先のNHK特集番組制作のプロデューサーを務めました。

 まず、このNHK特集番組についてですが、私は丁度この番組をNHKオンデマンドより記録していましたので、それを見てみました。この番組ではその「消された真実」とは、戒厳司令官となった香椎中将少将が「陸軍大臣告示」(26日午後3時下達)より以前に「陸軍大臣告示」(午前10時50分)が近衛師団に下達されていたというものです。これにより、香椎や山下奉文少将さらには荒木大将や真崎大将が反乱軍を幇助した、というよりその首謀者であったらしい事が示唆されて番組は終わります。

 ただし、中田整一氏の著書の末尾には、二・二六事件の反乱軍将校安藤輝三の遺書の次のような一節が紹介されています。

 「吾人を犠牲となし、吾人を虐殺して而も吾人の行える結果を利用して軍部独裁のファッショ的改革を試みんとなしあり。一石二鳥の名案なり、逆賊の汚名の下に虐殺され『精神は生きる』とかなんとかごまかされて断じて死する能わず」

 要するに、私が本エントリーで紹介した通り、この事件は統制派に利用されたわけで、彼らはそのための計画を既に持っていたということです。で、この番組の結論としては、この事件の真相が明らかにされることによって、戒厳司令官でもあった香椎中将までがこの事件に関わっていたことが明らかになると、軍の国民に対する信頼や威信が崩壊する恐れがあったからその真相を封印した、というような説明がなされていました。

 しかし、そのために皇道派の領袖達に対する断罪を避けたのか、ということになると、私は必ずしもそうではなくて、実は、この事件の真相究明が進みすぎると、これら皇道派の領袖の罪だけではなく、安藤輝三が指摘したような石原完爾等統制派の隠された計画まで明らかになる、それを怖れたからだと思います。中田氏の本ではこのことへの言及がなされていますが、NHK特集番組ではそうなっていませんでした。

 で、真崎甚三郎についてですが、私は、事件の計画をあらかじめ知っていた、ということではないと思います。しかし、この事件に至るまでにいわゆる皇道派青年将校が引き起こした数々のクーデター事件の責任が真崎になかったかというと、私はそうとも言えないと思います。にもかかわらず、戦後氏が書いた手記などにはこの点についての言及がない。これが、責任転嫁とか言い訳に終始したとかと批判される所以だと思います。教育者としてはともかく、統制を重んずべき軍隊の大将としては、皇道派青年将校の行動を抑制・教導すべきでした。

 この、真崎の教育者としての側面については、田崎末松『評伝真崎甚三郎』(s52)が次のような解説をしています。少々長いですが、皇道派青年将校がどのような時代背景の下に誕生したか、真崎は彼らに何を教えたか、ということが大変わかりやすくまとめられていますので紹介しておきます。

四 昭和維新の原点
「昭和維新」ということについては、いろいろの解釈があるはずである。わたくしは、天皇信仰を中心とする国体原理への回帰と、それを軸とする体制内の変革運動であると理解している。
そして、青年将校運動の萌芽と、教育者真崎甚三郎少将の登場をその原点の一つとしてあげるものである。
この青年将校運動の結晶体ともいうべき二・二六事件こそ、真崎の運命を一挙に逆転せしめた決定的な事実でもあった。

(1)青年将校運動
昭和のはじめころの青年将校といえば、たんに若い将校一般という意味ではなく、いわゆる隊付の「一部青年将校」または「要注意将校」といわれ、軍の上級幹部や憲兵隊によってある特別な眼をもって注視されていた「政治化した軍人」とくにある種の「自己-社会変革」を志向する一群を指すものということができる。

 彼らのすべては陸軍幼年学校――陸軍士官学校の卒業生である専門軍人であった。
しかし、そのほとんどが、高級軍事官僚の養成機関である陸軍大学校に入校することを意識的に拒否し、いわゆる立身出世コースからはずれた。そして隊付将校として、一般国民から徴募された下士官・兵とともに国防の第一線、現場にとどまろうとする志向をもっており、その場から自己ならびに日本の変革を考えた。

 こうした青年将校のリーダーたちのいく人かをあげて見よう。
(氏名)      (生年月日)          (陸士卒業期)
西田税    明治三十四(一九〇一)年 三四期
大岸頼好   明治三十五(一九〇二)年 三五期 
村中孝次  明治三十六(一九〇三)年 三七期
大蔵栄一  明治三十六(一九〇三)年 三七期
菅波三郎  明治三十七(一九〇四)年 三七期 
○磯部浅一 明治三十八(一九〇五)年 三八期 
○安藤輝三 明治三十八(一九〇五)年 三八期
末松太平 明治三十八(一九〇五)年 三九期
○栗原安秀 明治四十一(一九〇八)年 四一期
(○印は二・二六事件のリーダー)

 このように、青年将校たちは西田から栗原まで、大正十一(一九二二)年から昭和四(一九二九)年にかけてのほぼ一九二〇年代に少尉に任官し、連隊付将校として兵とともに社会に接していたことがわかる。

 この時代の世相はどのような状態であったかといえば、要約すると次のような時期であった。
このころの日本は明治維新以来順調にたどってきたコースを登りつめ、ある曲り角にさしかかっていた。
経済的には、第一次大戦後間もなくから慢性的不況のうちにあり、ついで昭和初期の金融恐慌、銀行の取り付けさわぎに出合い、そして二〇年代末から金解禁恐慌と世界大恐慌の大嵐にまきこまれていた。

 対外関係の面では、民族独立、一切の外国利権の奪還を呼号する隣邦中国における「反帝愛国」運動が次第に無視することのできない要因に成長しつつあった。
植民地隷属からの脱却をのぞむ中国民衆の声は、いまやようやく高く、日本をふくむ外国の既得権益擁護政策と真正面から衝突するようになってきた。

 こうした時期に、青春時代を生きた青年将校たちにとって、内政面でも世間の風は冷たかった。世は滔々として「デモクラシー」の時代である。思想的にはリベラリズム、のちにはマルキシズムが、政治的には政党政治が、一世を風靡していた。軍の存在はとかく煙たがられ、あるいは軽視、あるいは蔑視される傾向にあった。

 大正十一 (一九二二)年二月、ワシントン会議で海軍軍縮条約決定、同七月陸軍軍縮計画(いわゆる山梨軍縮)発表、翌々大正十四(一九二五)年、いわゆる宇垣軍縮が実施された。青年将校の「先輩格」であり、のちに二・二六事件に連座した山口一太郎(明治三十三年静岡県生まれ、三三期、本庄繁大将の女婿)は、この宇垣軍縮について次のようにいっている。

「懐しい奈良の歩兵第五十三連隊は廃止となり、此の御旗の下で死を誓った軍旗は宮中へ奉遷される。最後の軍旗祭が、さみだれそぼ降る奈良練兵場で行われた。時の連隊長は江藤源九郎氏である。市民悉くが泣いた。こんなに国防力を減らしてどうなるか、列強は第一次大戦後の尨大な陸軍を擁しているのに、目本だけ減らすとは何事か。しかも街には戦争成金がうようよして百円札で鼻をかんでいるではないか・・・青年将校たちの気持はこれで一ぱいだった」(「嵐のあとさき、一丁二六事件の起きるまで」『時論』昭和二四年八月号)

 経済過程の混乱、対外関係の困難という重大な客観的危機の存在、これに有効に対処し得ない″進歩主義的″観念をもつ当局者――こういった図式で問題状況をとらえようとする人達が、第一次大戦時、戦後徐々に、しかし確実に発生し増加してきた。彼らの多くは、こういった問題状況に対し、天皇の下に「維新日本」をつくり「復興アジア」と連帯しようという、国内的かつ国際的の「日本らしい維新」(彼らはしばしば「革命」という言葉をきらった)を構想した。

 このような「維新」の思想こそ、いわゆる革新右翼、あるいは日本ファッシズムの典型的思考様式といってもよかろう。それは、巨視的に見れば、世の「欧化主義」的風潮に反発した「国粋主義」的傾向に棹さすものであると同時に、一面それを乗りこえようとするものであった。
このような「土壌」の上に青年将校運動の華が開花するのである。

(2)教育者・真崎甚三郎少将の登場

 真崎甚三郎が士官学校教育に奉仕した四ヵ年は、教育者真崎のイメージを定着させた。
しかし、このことは元来、変革思想の信奉者でもない真崎を、昭和維新の原点のひとりとして位置づけることにもなった。

 そして、青年将校からは、維新変革運動の最大の同調者として過大に評価され、一般からは変革運動=二・二六の元凶として烙印されることによって、致命的な打撃をうけることになる。

 戦争中のマンモス化した軍隊のイメージしか想起することのできない人びとにとって、大正デモクラシーの時代の軍隊は極端に軽蔑されていたといっても、おそらく信じられないことであろう。
しかし、事実はまったくその通りであった。

 英国の首相であったチャーチルの言葉を借りるまでもなく、少くとも近代国家において真に権力を握っているものは、予算の審議権、議決権、執行権をもつものである。

 明治憲法にどのような欠陥――たとえば統帥権の独立――があったにせよ、予算の審議権と議決権は、一貫して帝国議会が握っていた。したがって議会が予算を通して軍をもほぼ完全に統御しえた時代があったし、またあって当然であった。いうまでもなくそれは、大正時代から昭和初期で、大正元年の閣議の二個師団増設案否決による上原陸相の単独辞職、三年の貴族院による建艦費の大削減、同年の衆議院による二個師団増設費否決にはじまり、「尾張」以下七隻の建艦中止、ワシントン条約の締結、四個師団の廃止等から昭和五年のロンドン海軍軍縮条約の無条件批准まで、後の″軍の横暴″と対比するとき、全く信じられないぐらいの軍の凋落ぶりであった。

 「当時の私を回顧すると全く煩悶懊悩時代であった。第一次世界戦争の中頃から世界をあげて軍国主義打破、平和主義の横行、デモクラシー謳歌の最も華やかな時代であって、日本国民は英米が軍国独逸の撃滅に提唱した標語を、直ちに我々日本人に志向した。我々軍人の軍服姿にさえ嫌悪の眼をむけ、甚だしきは露骨に電車や道路上で罵倒した。娘たちはもとより親たちさえ、軍人と結婚しよう。又させようとするものはなくなった。物価は騰貴するも軍人の俸給は昔ながらであって、青年将校の東京生活は、どん底であった。

 書店の新刊書や新聞雑誌は、デモクラシー、平和主義、マルクス主義の横溢であった。鋭敏な神経をもつ青年将校で、煩悶せぬ者はどうかしている。多くの青年将校が軍職をやめて労働中尉や何々中尉となった。

 私もその例に洩れず、盛んに思想、経済、文化等の書を読み耽った。いわゆる何々中尉の一歩手前まで進んだ。が私には母が生きていた。私の軍人になったのは母の希望であった。私は母の悲しみを思って立ち止った。」

 この文章は、永田軍務局長暗殺以後の日本を事実上動かす実力者といわれた武藤章(二五期、軍務局長、A級戦犯として処刑される)が、大正九年十二月、陸軍大学校を卒業した当時を追憶した一節である。(沢地久枝『暗い暦』)

 エリート中のエリート軍人とうたわれた武藤にして、この軍籍離脱すれすれの煩悶の時代があったのである。
他は推して知るべしである。
まさに軍全体が士気温喪した時代である。

 この風潮は、必然的に陸軍将校の養成機関である士官学校に伝播しないはずはない。
この自由主義的風潮は、士官教育の総本山として鉄の規律を誇る陸軍士官学校にもおしよせてきた。
自由主義の嵐にゆらいだ市ヶ谷台は軍紀風紀の弛緩という、創設以来の危機をむかえていた。
こうした空気のなかにあった大正十二年八月の初旬、この士官学校に新しい本科長が着任した。
歩兵第一旅団長から転補された、陸軍のホープ、真崎甚三郎少将である。
そうして、これから、彼が引きつづき学校幹事から校長へと昭和二年八月二十六日、陸軍中将に昇進して第八師団長として弘前に栄転するまでの四年間、いわゆる独特の皇国観にもとづく徹底した士官教育が実施されたのである。

 昭和維新を志向する青年将校のほとんどはこの真崎時代の生徒であり、国家改造の思想的原点を天皇制絶対の皇国観、国体原理に求めたのである。
この意味で、真崎の士官学校における教育方針が、昭和維新の原点となったということもできよう。

 しかし、ここで明確にしておかなければならないことは、この真崎の皇国観教育というのは、真崎の創意ではなく、沈滞していた天皇信仰、国体原理信仰の興起振作というところに重点があったということであり、昭和維新、国家改造の革新的行動の原点ではなかったということである。

 昭和維新の思想的原点は天皇信仰にあったけれども、その変革原理は真崎らの想定することのできないほどラジカルな行動原理、北一輝的な国家改造方式に傾斜していたのである。

 この青年将校運動が、二・二六の蜂起となって結晶したとき、ひとびとはその革命的行動原理までもふくめて、真崎の皇道教育にあったと非難した。
このことは、皇国思想即昭和維新と速断するあやまりからくるものである。」(『評伝 真崎甚三郎』p31~35)

 つまり、真崎は大正12年8月に士官学校本科長に就任以来校長となり、昭和2年8月に広前第八師団中となるまでの4年間、士官学校教育に専念し、先に紹介したような「一部青年将校」を育てたのです。といっても、この時真崎が進めた皇国観教育、国体精神教育というのは、大正自由主義が風靡し自我主義が放縦に流れる中で、皇国史観に基づく国民道徳の回復とともに、軍における天皇への忠誠を基本とする兵の統率、部隊の指揮のあり方を説いていたのです。ここから彼の国体明徴論も出ていたのです。

 こうした真崎の、皇国思想と兵士の気持ちを分かってやろうとする教育者的な態度、これに加えて、三月事件や十月事件などのクーデター事件を引き起こして「軍人の政治的中立主義と統帥権の独立」という健軍の本義を破壊せんとする幕僚将校等に対する真崎の批判の眼。それと、先に紹介したような隊付き将校等の当時の政治・社会情況に対する憤激、その正義感に発し、天皇の「大御心」による一君万民平等社会の実現を目指した、いわゆる「君側の奸」排除のクーデター計画。それを逆利用し彼らを弾圧することで、軍の統制回復と共に、軍主導の国家社会主義的体制を実現しようとする幕僚将校たち・・・。

 こういった三つどもえの構図の中で、真崎の責任が問われているのだと思います。まあ、真崎が、「軍人の政治的中立主義と統帥権の独立」という健軍の本義を守ることが本当に大切だと思っていたのなら、一元的な指揮命令系統の絶対の条件とする軍の組織において、青年将校等が横断的結合を強めて政治的要求を行うことなど絶対に許すべきではなかった。まして、その軍の組織において上官の命令なしに「私兵」を動かし、重臣を暗殺しクーデター事件を引き起こすなど、こんな行為に同情を寄せるなどとんでもない話です。

 ところが、これに同情というか理解を示し、逆に、そうした過激な行為に青年将校等を追い込んだ政治が悪いというようなことで、彼らの暴走を弁護しようとする・・・それが自己矛盾を犯していることに気がつかなかった。そこに皇道派の失敗の原因というか甘さがあったのです。この点、統制派はこの皇道派の矛盾から生まれる破壊的行動を断罪することで軍の統制を回復するとともに、彼らの政治批判の論理を逆利用することで、自らの信じる国家改造計画を推し進めたわけで、まあ、皇道派はうまく利用されたわけです。騙された方が負け、恨んでも仕方ないということですね。

 この点、北一輝はこの理屈がよく判っていたのです。

二・二六事件の裁判で、北を裁いた当時の吉田悳裁判長は、法廷における北の態度を次のように語っています。

 「法廷で尋問すると、北は”そうですか、それじゃあそうしておきましょう、とどんな罪でも裁判官のいわれるとおり、私は認めますから”と、そんな態度でしたよ。私は北の死刑直後に刑場に行ったんですが、執行に立ち会った法務官の話では、銃殺の前に、項目隠しをされてですね、刑架に座らされ、縛られた時、”ああ、いい気持ちじゃ”といったというんです。」

 そのリアリストの北が、なぜ、皇道派青年将校に付き合ったか。”若殿に兜取られて負け戦”、ということで、天皇の断固たる討伐意思を読めなかったことと、その後の統制派の戦略――この事件の基本的性格を、「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走したもの」として世に公表し、北等を極刑に処することとしたこと――に兜を脱いだ、ということなのではないでしょうか。そこが純真な青年将校達との違いですね。

 なお、「二・二六事件をきっかけとして、真崎が発言力を失った瞬間から支那事変はおこったのである」という山口富永氏の主張が正しいかどうか、について、私は次のように考えています。私は支那事変のが最大原因は、関東軍が広田と蒋介石の妥協を妨害するために始めた華北分離工作にあると思っています。そこで、真崎や荒木を中心とする皇道派が、そうした関東軍の独断行動を掣肘するための具体的行動をどれだけとったか、ということが問題になります。真崎はその証拠として、熱河討伐作戦で関東軍が長城の線を越えようとしたことを止めたことや、第一次上海事変出の兵力引き揚げに尽くしたことなどを挙げていますが、これは天皇の意向があったからこそできたことです。

 その天皇と心を一つにして、関東軍による華北分離工作に起因する華北への戦争拡大を防ぐためには、まず、軍の統制を回復する必要があった。そのためにも、皇道派青年将校が軍の統帥や統制を無視して横断的に結合し政治的行動に出ることを厳しく諫めるべきだった。事実、彼らは五・一五事件以降いくつものクーデター事件が引き起こしていた。なぜ、彼らを説得し善導しようとしなかったのか。まさか、”真崎は皇道派青年将校の犠牲になった気の毒な将軍”などとはいえないわけで、結局、彼は純真な青年将校を扇動して自らの復権を図った、という風に見られてしまうのです。

 このあたり、近衛の持っていた弱さと同じものを感じますね。それを利用しようとした統制派の思想を凌駕するものを、彼らは持ち得なかったということだと思います。これを日本の宿命といえば確かにその通りですが、立憲政治や政党政治を守ろうとする意見もあったわけですから、やはり、不明というほかないと思います。もちろん、最大の責任が、国民の政治に対する信頼を損ねた当時の政治家にあったことは申すまでもありません。この点、今日の民主党の政治の現状を見れば、戦前の日本国民が軍の言い分の方を信用する気になったのも、無理ないと思いますが。