昭和の青年将校はなぜ暴走したか7――皇道派の暴走を利用した統制派

2011年7月24日 (日)

 昭和の歴史を主導した青年将校グループに皇道派と統制派があり、両者が激しい主導権争いを行ったことはよく知られています。その争いの頂点となったのが、皇道派将校相沢三郎による軍務局長永田鉄山斬殺事件でした。この事件は、一青年将校が、軍服軍刀で陸軍省に行き白昼堂々軍務局長を斬殺したもので、軍紀の常識上考えられないことでした。しかし、さらに異常なのは、事件直後、相沢は上司に「これから御前はどうする気か」と尋ねられると、「これから偕行社に寄って買い物をして、直ぐに任地(台湾)に出発します」と答えたことです。

 こんな話を聞くと、多くの人は、この相沢という軍人は精神的に異常だったのではないかと思うでしょう。もしそうであれば、この事件は精神異常者の引き起こした特異な事件として処理されたはずです。ところが実際は違った。陸軍省より「相沢中佐は永田鉄山中将に関する謝れる巷説を盲信したる結果云々」と発表されると、皇道派の軍人は「『誤って巷説を盲信し』とは怪しからぬ、それは真実に基づき信念を持って実行した帝国軍人の行動である」といい、恰も永田が殺されるのは当然である言わんばかりの態度を以て抗議したもの」もいたといいます。

 さらに皇道派は、この相沢の裁判を利用して統制派に打撃を与え、同志相沢の行動をむなしく終わらせないことを誓い合いました。そこで彼らは次々と裁判の証人台に立ち「永田は国軍を毒する蛇であり、その横死は天誅である」と卓をたたいて叫びました。これに対して永田を弁護する統制派も立ち上がり、これに応じて皇道派の御大である真崎甚三郎が証言台に起つことになりました。こうして皇道派は、「公判に世間の視聴を集め、統制派を痛撃する一方に於いて、クーデターを断行する工作を秘密に進め」、真崎大将が出廷した翌日の2月26日、突如二・二六事件を起こしたのです。(『軍閥興亡史Ⅱ』p250)

 この二・二六事件ですが、その基本的な性格は、皇道派対統制派の対立抗争がその頂点に達した段階で起こったクーデター事件である事が示す通り、現体制を掌握している統制派に対して皇道派が権力奪取を図ったものということができます。この時殺された重臣は、内大臣斉藤実、蔵相高橋是清、教育総監渡辺錠太郞、重傷は侍従長海軍大将鈴木貫太郎、未遂は首相岡田啓介、前内大臣牧野伸顕、元老西園寺公望でした。この内文官は高橋是清、牧野伸顕、西園寺公望で、彼らは「君側の奸」と目されたために攻撃を受けました。また、その他は軍人出身あるいは現役軍人(渡辺錠太郞)で統制派と目されたためです。

 この襲撃が終わった約1,400名の将兵は、予定通り、首相官邸、警視庁を占領し、麹町区西地区一帯の交通を遮断し、午前五時、大尉香田清貞、村中孝次、磯部浅一の3名は川島陸相に面会し、決起趣意書を朗読した上次のような要望書を突きつけました。

 それは(一)全権の奉還、(二)統制経済の実施、(三)以上を実行し得る協力内閣の出現を上奏する、の三項目を主文とし、これに加えて十二項の付則細目がありました。
一、現下は対外的に勇断を要する秋なりと認められる
二、皇軍相撃つことは避けなければならない
三、全憲兵を統制し一途の方針に進ませること
四、警備司令官、近衛、第一師団長に過誤なきよう厳命すること
五、南大将、宇垣大将、小磯中将、建川中将を保護検束すること
六、速やかに陛下に奏上しご裁断を仰ぐこと
七、軍の中央部にある軍閥の中心人物(根本大佐(統帥権干犯事件に関連し、新聞宣伝により政治策動をなす)、武藤中佐(大本教に関する新日本国民同盟となれあい、政治策動をなす)、片倉少佐(政治策動を行い、統帥権干犯事件に関与し十一月事件の誣告をなす)を除くこと
八、林大将、橋本中将(近衛師団長)を即時罷免すること
九、荒木大将を関東軍司令官に任命すること
十、同志将校(大岸大尉(歩61)、菅波大尉(歩45)、小川三郎大尉(歩12)、大蔵大尉(歩73)、朝山大尉(砲25)、佐々木二郎大尉(歩73)、末松大尉(歩5)、江藤中尉(歩12)、若松大尉(歩48))を速やかに東京に招致すること
十一、同志部隊に事態が安定するまで現在の姿勢にさせること
十二、報道を統制するため山下少将を招致すること
次の者を陸相官邸に招致すること
26日午前7時までに招致する者――古庄陸軍次官、斎藤瀏少将、香椎警備司令官、矢野憲兵司令官代理、橋本近衛師団長、堀第一師団長、小藤歩一連隊長、山口歩一中隊長、山下調査部長
午前7時以降に招致する者――本庄、荒木、真崎各大将、今井軍務局長、小畑陸大校長、岡村第二部長、村上軍事課長、西村兵務課長、鈴木貞一大佐、満井中佐(wiki「二・二六事件」参照)

 要するに「彼らは、『昭和維新』の詔勅を賜った後、具体的には陸軍大将・真崎甚三郎か、陸軍中将・柳川平助などを担いで維新内閣を樹立し、志の実現を図ろうという思いを抱いていた」のです。(『盗聴・二・二六事件』p64)

 ただし、真崎も荒木も事前にはこれを知らなかったとされます。しかし、これらは一見して皇道派の天下を画策したものであること歴然たるものがあり、彼ら(真崎、荒木、柳川)は皇道派の領袖として、また軍事参議官として、この要望書に沿った事件の処理に努めました。

 具体的には、26日午後2時には全軍事参議官の外、杉山次長、本庄侍従武官長、香椎東京警備司令官等が出席して軍事参議官会議が開かれ、鎮撫、原隊復帰を第一の収拾策とする立場から、午後3時30分、香椎司令官を経て、次のような陸軍大臣告示が叛乱軍に示されました。

一、決起の趣旨に就いては天聴に達せられあり
二、諸子の行動(原案は「真意」)は国体顕現の至情に基づくものと認む
三、国体の真摯顕現の現況(弊風をも含む)については恐懼に堪えず
四、各軍事参議官も一致して右の趣旨に依り邁進することを申合わせたり
五、之以外は一つに大御心に俟(ま)つ

 さらに、午後7時20分には東京警備司令部より、歩兵第一連隊長(小藤恵)に対し、反乱軍である歩兵第一、第三、野重砲七の部隊を指揮して、叛乱部隊が占拠している地区を、之と対決している武力(警備司令部)とともに一括して警備せよという驚くべき命令が発せられました。つまり、大臣告示とこれによって、決起部隊は賊軍ではなく官軍となったのです。こうして一日だけの食糧を携行して兵営を出た反乱軍は、原隊からの食料によって食事をするようになりました。

 このため、反乱軍将校の大部分は情勢は全く自分たちに有利と判断し、一挙に維新の断行を推進しようとして、歩一連隊長に対し全面的にはその指揮下には入らず、独自の権限を与えよと要求しました。しかし、こうした軍事参議官等の出した大臣告示以下の措置は、全く天皇の意思に背くものであって、その後、天皇の怒りの激しさを知った彼らは、この上は、皇軍相撃を避けるため、反乱軍をおとなしく原隊に帰すべく、叛乱側を説得しようとしました。しかし、叛乱側は大臣告示等の内容を盾に、こうした説得を受け入れようとしませんでした。

 一方、こうした動きの裏で、また別の動きが始まっていました。それは石原作戦部長を軸とする統帥幕僚らの動きで、26日夜、石原、橋本(欣五郎)、満井(佐吉)らが会談し次のような結論を得たとされます。

 「陛下に石原より直接奏上して、叛乱軍将兵の大赦を請願し、その条件のもとに反乱軍を降参せしめ、その上で軍の力で適当な革新政府を樹立して政局を収拾する。」(『二・二六事件』高橋正衛p91)この時石原は、当初「維新大詔渙発」によって、天皇親政を基軸とする皇族内閣を構想していました。しかし後継首班については意見一致せず、山本英輔海軍大将を推すことになりました。

 しかし、天皇の怒りの激しさを知る杉山参謀次長は、石原のこうした進言を拒絶しました。一方、石原は戒厳令の施行を主張していました。戒厳令は、まず閣議決定を必要とし、続いて枢密院の諮詢を経て天皇裁可・布告となります。実は、戒厳令の施行には軍部以外の大臣らは反対で、彼らは、これに乗じて軍部が軍政を布き、政治的野望を図るのではないかとの警戒心を持っていました。しかし、未曾有の大事件であって、軍部以外の手では鎮圧できない弱みがあるので、やむなく賛成したといわれます。(『盗聴二・二六事件』p72)

 この間の石原の行動については、当初は、「大赦の請願」や「維新大詔渙発」を画策するなど叛乱軍を幇助するかのような姿勢を見せていました。しかし、天皇の叛乱軍に対する怒りが激しく、それが無理だと判ると、戒厳令の施行(27日午前3時50分「緊急勅令」公布)に伴い、戒厳参謀として叛乱軍の鎮圧する側に立ちました。一体、この間の石原の真意はどこにあったのか、ということを巡って様々の意見が戦わされています。が、おそらくその真相は、次のようなものだったのではないでしょうか。(下線部訂正8/4)

*石原は戒厳令の施行は当初から主張していたとも言う。

 「・・・二・二六事件の時の戒厳令は、私が中心になって作った対策要綱が原案になって居るんです。」

 これは、二・二六事件発生当時、軍務局軍務課員であった片倉衷が、戦後、NHKの中田整一に語った言葉です。彼は、二・二六事件が勃発したこの日の早朝、陸相官邸に駆けつけ、その玄関前で反乱軍の磯部浅一に頭部を拳銃で撃たれました(一命はとりとめた)。片倉は石原や武藤章等とともに、打倒すべき重要幕僚の一人として、かねてより皇道派の青年将校に狙われていたのです。

 その彼が中心となって、この事件が発生する2年前に作っていたものが、この「対策要綱」、すなわち「政治的非常時塩勃発に処する対策要綱」でした。これは、予測される皇道派による「軍事クーデター勃発に際し、その鎮圧過程を逆手にとり、自分たちの側が依り強力な政治権力を確立するための好機として利用しようという、いわば”カウンター・クーデター”の構想」をまとめたものでした。

 その序文は次のようなものです。

 「帝国内外の情勢に鑑み・・・国内諸般の動向は政治的非常事変勃発の虞(おそれ)少なしとせず。事変勃発せんか、究極軍部は革新の原動力となりて時局収拾の重責を負うに至るべきは必然の帰趨にして、此場合政府並国民を指導鞭撻し禍を転じて福となすは緊契(ママ)の事たるのみならず、革新の結果は克く国力を充実し国策遂行を容易ならしめ来るべき対外危機を克服し得るに至るものとす。即ち爰に軍人関与の政治的非常事変勃発に対する対策要綱を考究し、万一に処するの準備に遺憾なからしむる」(片倉衷『片倉参謀の証言 叛乱と鎮圧』)」

 つまり、この「要綱」は、「国内において軍人による事変が勃発することを予見しつつ、併せて、国力充実のため、国家体制の革新が求められているとの基本認識」に立って、こうした事変勃発を逆に利用して「軍部自らは直接手を汚すことなく、しかも結果的に『革新の原動力』たらんとする意思」を明確に打ち出したものです。「それは、皇道派青年将校らの国家改造案とは異なり、緻密な計画性と戦略をもった、統制派の省部幕僚たちによる反クーデター計画案であった。」(上掲書p77~78)

 この「対策要綱」の実施案は次のようになっていました。

(一)事変勃発するや直ちに左の処置を講ず
イ、後継内閣組閣に必要なる空気の醸成
口、事変と共に革新断行要望の輿論惹起並尽忠の志より資本逃避防止に関する輿論作成
ハ、軍隊の事変に関係なき旨の声明
但社会の腐敗老朽が事変勃発に至らしめたるを明にし一部軍人の関与せるを遺憾とす
(二)戒厳宣告(治安用兵)の場合には軍部は所要の布告を発す
(三)後継内閣組閣せらるるや左の処置を講ず
イ、新聞、ラジオを通じ政府の施政要綱並総理論告等の普及
ロ、企業家労働者の自制を促し恐慌防止、産業の停頓防遏、交通保全等に資する言論等に指導
ハ、必要なる弾圧
(検閲、新聞電報通信取締、流言輩語防止其他保安に関する事項)
(四)内閣直属の情報機関を設定し輿論指導取締りを適切ならしむ

 つまり、「統制派幕僚たちは、いつクーデターが起こっても素早く対応できるよう、既に万全の体制を整えていた」のです。そして、二・二六事件の勃発についても、それは第一師団の満州移駐が決定的な引き金になるだろうと予測し、2月22,23日には、憲兵より事件勃発の警告を得ていました(片倉談)。つまり、先に紹介した石原の奏上案も、また、一転して布くことになった戒厳令も、全て、統制派幕僚である石原や片倉等の構想した、カウンター・クーデターへの道筋に沿うものだったのです。(上掲書p79~80)

 結局、28日午前5時には、蹶起部隊を所属原隊に撤退させよという奉勅命令が戒厳司令官に下達され、反乱部隊の下士官兵は29日午後2時までに原隊に帰りました。残る将校らは午後5時に逮捕され反乱はあっけない終末を迎えました。また、同日、北、西田、渋川といった民間人メンバーも逮捕されました。こうして、2月29日付で反乱軍の20名の将校が免官となり、事件当時に軍事参議官であった陸軍大将のうち、荒木・真崎・阿部・林の4名は3月10日付で予備役に編入されました。

 また、侍従武官長の本庄繁は女婿の山口一太郎大尉が事件に関与しており、事件当時は反乱を起こした青年将校に同情的な姿勢をとって昭和天皇の思いに沿わない奏上をしたことから事件後に辞職し、4月に予備役となりました。陸軍大臣であった川島は3月30日に、戒厳司令官であった香椎浩平中将は7月に、それぞれ不手際の責任を負わされる形で予備役となりました。さらに、皇道派の主要な人物であった陸軍省軍事調査部長の山下奉文少将は、歩兵第40旅団長に転出させられました。

 この事件の裏には、上に見た通り、皇道派の大将クラスの関与が疑われたわけですが、事件の基本的性格としては「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した」という形で世に公表されました。そのため、民間人を対象とする裁判を担当した吉田悳裁判長が「北一輝と西田税は二・二六事件に直接の責任はないので、不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁固刑を言い渡すべき」と主張したにもかかわらず、寺内陸相は、極刑の判決を示唆した、とされます。

 この事件は、武藤章らの主張に基づき厳罰主義で速やかに処断するため、緊急勅令による特設軍法会議で裁かれることになりました。特設軍法会議は常設軍法会議にくらべ、裁判官の忌避はできず、一審制で非公開、かつ弁護人なしという過酷なものでした。また、判決は、陸軍刑法第25条の「反乱罪」が適用され、元歩兵大尉 村中孝次、元一等主計 磯部浅一を含む将校16名が死刑という過酷なものとなりました。

 以上、二・二六事件で極点を迎えた皇道派vs統制派という昭和の青年将校グループの対立を見てきました。だが、この皇道派と統制派という二つの青年将校グループは、一体何を巡って、ここまで対立を深めたのでしょうか。実は、本稿でも指摘している青年将校運動の出発点となった「満州問題の武力解決」という点では違いはなかったのです。そこに対立が生じたのは、満州事件に呼応する形で計画された10月事件の処理を巡って皇道派の青年将校側に次のような不満が生じたためでした。

 ここで皇道派というのは、いわゆる「隊付き」将校を中心とする青年将校グループのことです。一方、統制派というのは、陸大出の――いわゆる天保銭組といわれ、陸軍省や参謀本部など軍の要職を占有した――いわゆる幕僚将校とよばれた青年将校グループのことです。この両者に、満州事変以降対立が生じたのです。なぜか、幕僚将校等のクーデター計画段階での美技を侍らし酒色に耽る態度が、隊付き将校等の眼には私利私欲に見えたこと。また、クーデタ成功後、彼らが自らを大臣とする閣僚名簿を作成したことが、天皇大権を私議するものに見えたのです。

 つまり、皇道派というのは、満州事変以前の幕僚将校主導の青年将校運動に、隊付き将校を中心とする青年将校グループが反発し、独自の国家改造運動を始めたことで生まれたものなのです。これに対して、幕僚将校たちは、満州事変の成功で軍主導の革命拠点を作成したことでもあるし、クーデターという非常手段に訴えなくても、軍の統帥権を盾に政権を合法的に掌握することが可能だと考えるようになった。そして、そのことは同時に、隊付き青年将校等が北一輝等民間の革命家と結んで計画するクーデターを、軍の統制や軍紀を乱すものとして厳しく弾圧するようになった。

 といっても、両者が日本を国家改造することで達成しようとしていた新しい国家体制イメージにどれだけの違いがあったかというと、いずれも、政党政治には反対で、天皇中心の一国一党制、軍部主導の国家社会主義的政治体制を作ろうとしていた点では同じだったのです。あえてその違いをいえば、前者が一君万民・忠孝一致の家族主義的国家イメージ、後者がナチス的国家社会主義的国家イメージだったということ。前者は実際権力から阻害されていた分だけ、非現実的な忠誠無私の大御心信仰となり、後者は先に紹介した石原や片倉のように、こうした皇道派の暴発を、自らの国家改造目的達成のために逆利用するというしたたかさを持っていたのです。

 この統制派のしたたかさを如実に示すものとなったのが、二・二六事件後、組閣することとなった広田弘毅内閣における組閣人事への軍のあからさまな干渉でした。その閣僚名簿に、外交官の吉田茂、朝日新聞社社長下村宏、前司法大臣小原直、中島飛行機の中島知久、平民政党幹事長川崎卓吉らの名前があることについて、時局認識の不足を露呈するものだとして排撃したのです。その理由、吉田は軍人嫌いで、かつ、二・二六事件で襲撃された牧野伸憲の女婿である。下村は自由主義者だ。小原は国体明徴問題で法相として優柔不断だった。中島は新興財閥で財閥否定の時勢に反するというものでした。

 従来は、軍が内閣の人事に干渉することがあっても、それは軍事費を繞る防衛戦闘のためであって、内閣の構造自体に嘴を入れることはなかったのですが、今度は、閣僚を狙い撃ちして、軍の思想及び国策上の要求を貫こうとする攻撃戦闘だったのです。この談判に出かけたのが寺内寿一で、その後4回にわたり組閣本部を訪れ、その間、軍は28センチ砲を発射して、間接射撃の轟音に政界を震撼させたといいます。その結果、川崎が罪一等を減じて伴食ポストに座った外の四人はオミットされました。(『軍閥興亡史Ⅱ』p296)

 さらにその後、二・二六事件で反乱軍将校を幇助したとして予備役に回された皇道派の陸軍上層部が、陸軍大臣となって再び陸軍に影響力を持つようになることを防ぐために、次の広田弘毅内閣の時から軍部大臣現役武官制が復活することになりました。こうして、「原敬が苦闘幾年にして漸く一本打ち樹てた『軍部横暴制止』の官札」は取り払われることになりました。こうなると陸軍の気にくわない内閣には軍は陸相を出さない。故に内閣は潰れる。こうして、内閣の運命は軍部の掌中に帰するという、軍権横行時代を現出することになったのです。(上掲書p303)

 次回は、こうして皇道派や北一輝の思想を打倒することで勝利を手にし、その後の日本の政治を掌中に収めることになった統制派の思想について、その問題点をもう少し詳しく見てみたいと思います。というのも、この思想は、その後の日本を、泥沼の日中戦争へと引きずり込んだだけでなく、常識では考えられない対米英戦争へと突入させることになったからです。勝った思った思想が実は負けていた?いや、負けた思想はそれ以上に脆弱だった?この辺りの思想的な課題について、大正デモクラシーの時代に遡って再点検してみたいと思います。