昭和の青年将校はなぜ暴走したか6――満州問題が国家改造に発展した

2011年7月16日 (土)

 これまでの考察で、昭和の青年将校の暴走は「満州問題」の処理をめぐって始まったことが明らかになったと思います。まず森恪によって、その武力解決に向けた政治的道筋が開かれ、それが結果的に張作霖爆殺事件を引き起こすことになった。そして、それが反省されるどころか、一夕会に集う青年将校等によって引き継がれ、周到にその計画が練り直され、理論化され、世論工作がなされて、満州事変となった。この時、満州における日本の権益擁護という問題は、満州を前進基地とする日本国の国家改造の問題へと転化した・・・。これが,その後の日本外交を狂わせた根本的な原因となった、ということです。

 ではなぜ、彼らはそれほどまでして日本の国家改造にこだわったのか、ということですが、その理由は、当時の民政党若槻内閣における幣原外交が、中国の主権尊重を基本とするものだったからで、彼らの主張する満州問題の武力解決を容認しない、と考えられたからです。それは、九カ国条約や不戦条約のもとでは当然のことでしたが、問題は、当時の国民党や張学良政権が、そうした幣原の基本姿勢にも拘わらず、満州における日本の条約上の権益を無視した過激な排日運動を繰り広げたということです。これ は、田中内閣における対支積極(強硬)外交の帰結でもあったわけですが、いささか度が過ぎた。そのため、その責めが総て「幣原外交」に帰され退場を余儀なくされたのです。

 この当たりの事情については、当時、中国に勤務したアメリカの外交官ジョン・マクマリー(中国関係条約州を編集し、ワシントン会議にも参加して、1920年代のアメリカでは、中国問題の最高権威の一人だと考えられていた)が、そのメモランダム(1935年)に次のように記しています。

 「我々は、日本が満州で実行し、そして中国のその他の地域においても継続しようとしているような不快な侵略路線を支持したり、許容するものではない。しかし、日本をそのような行動に駆り立てた動機をよく理解するならば、その大部分は、中国の国民党政府が仕掛けた結果であり、事実上中国が「自ら求めた」災いだと、我々は解釈しなければならない。

 人種意識がよみがえった中国人は、故意に自国の法的義務を軽蔑し、目的実現のためには向こう見ずに暴力に訴え、挑発的なやり方をした。そして力に訴えようとして、力で反撃されそうな見込みがあるとおどおどするが、敵対者が、何か弱みのきざしを見せるとたちまち威張りちらす。そして自分の要求に相手が譲歩すると、それは弱みがあるせいだと冷笑的に解釈する。中国人を公正に処遇しようとしていた人たちですら、中国人から自分の要求をこれ以上かなえてくれない”けち野郎″と罵倒され、彼らの期待に今まで以上に従わざるを得ないという難しい事態になってしまう。だから米国政府がとってきたような、ヒステリックなまでに高揚した中国人の民族的自尊心を和らげようとした融和と和解の政策は、ただ幻滅をもたらしただけだった。

 中国国民と気心が合っていると感じており、また中国が屈従を強いられてきたわずらわしい拘束を除こうとする願いを一番強く支持してきたのは、外国代表団の人々であった。この拘束とは、中国が二、三世代前に、国際関係における平等と責任という道理にかなった規範に従うことを尊大な態度で拒否したがために、屈従を余儀なくされてきたものであった。彼らの祖父たちが犯したと同じ間違いを、しかもその誤りを正す絶好の機会があったのに、再びこれを繰り返すことのないよう、我々外交官は中国の友人に助言したものであった。

 そして中国に好意をもつ外交官達は、中国が、外国に対する敵対と裏切りをつづけるなら、遅かれ早かれ一、二の国が我慢し切れなくなって手痛いしっぺ返しをしてくるだろうと説き聞かせていた。中国に忠告する人は、確かに日本を名指ししたわけではない。しかしそうはいってもみな内心では思っていた。中国のそうしたふるまいによって、少なくとも相対的に最も被害と脅威をうけるのは、日本の利益であり、最も爆発しやすいのが日本人の気性であった。しかしこのような友好的な要請や警告に、中国はほとんど反応を示さなかった。返ってくる反応は、列強の帝国主義的圧迫からの解放をかちとらなければならないという答えだけだった。それは中国人の抱く傲慢なプライドと、現実の事態の理解を妨げている政治的未熟さのあらわれであった。

 このような態度に対する報いは、それを予言してきた人々の想像より、ずっと早く、また劇的な形でやってきた。国民党の中国は、その力をくじかれ、分割されて結局は何らかの形で日本に従属する運命となったように見える。破局をうまく避けたかもしれない、あるいは破局の厳しさをいくらかでも緩和したかもしれない国際協調の政策は、もはや存在していなかった。

 (日本の幣原外交による=筆者)協調政策は親しい友人たちに裏切られた。中国人に軽蔑してはねつけられ、イギリス人と我々アメリカ人に無視された。それは結局、東アジアでの正当な地位を守るには自らの武力に頼るしかないと考えるに至った日本によって、非難と軽蔑の対象となってしまったのである。」(『平和はいかに失われたか』p180~182)

 マクマリーはここで、日本がこのように東アジアにおいて孤立するようになったのは、当時アメリカが「アメリカ以外の国々に頑固に楯突くよう中国人を鼓舞し、彼らにへつらっただけの無意味で偽善的な」行動をとったためである、と言っています。そうした「協力国の利害に与える影響を無視してでも自らの利益を追求」しようとしたアメリカの態度が、武力ではなく外交による国際秩序形成をめざしたワシントン体制を崩壊させ、日本をして、その「正当な地位を守るには自らの武力に頼るしかないと考えるに至」らしめたと言うのです。

 おそらく、これが、第二次若槻内閣のもとでの幣原の対支外交を行き詰まらせ、満州事変を必然ならしめた当時の国際政治要因だったのではないかと思います。また、マクマリーは、張作霖時代における彼と日本との関係や、その後に起こった張作霖爆殺事件、そして張学良について、次のように述べています。

 「張将軍の機略は抽象的もしくは理論的な性格のものではなく、極めて実践的なものであった。彼自身、北京から華北を支配していたころ、自分が馬賊の頭領時代に学んだずる賢しさをむしろ機嫌よく自慢していたものだ。彼の部下たちは外国公使館の友人に、老元帥が日本人を手玉にとる利口さを、むしろあっけらかんと話していた。

 たとえば、鉱区使用料等について条件を定めた上で、日本のある企業に鉱山採掘権が与えられたとする。まもなく、既定の鉱区使用料以上の取引があるとわかると、使用料値上げの要求がなされる。そして日本側がこれを拒否すると、どこからとなく馬賊が近辺に出没して鉱山の運営を妨害し、操業停止に追い込まれる。そうなると日本企業側も情勢を察知し、もっと高価な鉱区使用料を支払うと自発的に申し出る。双方が心底からの誠意を示し合って新しい契約が結ばれる。そのあと馬賊は姿を消すといった具合である。

 中国人自身の証言によると、満州における日本の企業は、事態を安定させておくという満足な保証すら得られず、次々と起こる問題に対応し続けなければならなかった。しかし日本人は、張作霖をよく理解し知恵を競い合った。そして西欧化した民族主義者タイプの指導者、例えば郭松齢のような人より、張将軍の方が日本の好みには合っていた。だから、一九二六年の郭松齢の反乱では、日本が張将軍の方を支援し、郭の反乱は鎮圧されてしまった。

 そこまでは理解可能である。分からないのは、なぜ日本人が、――軍人のグループであったにせよ、あるいは無責任な「支那浪人」の集団であったにせよ―― 一九二八年(昭和三年)に張作霖を爆殺したかということである。

 なぜなら張作霖の当然の後継者は、息子の張学良であったからである。張学良は危険なほどわがままな弱虫で、半ば西洋化しており、あいまいなリベラル思想と、父から学んだ残酷な手法のはざまで混乱してしまって、あぶはち取らずになっていた。現状での頼りにならない不安定要因が彼であった。日本人と張作霖との関係は、全体的にみて満足できるものではなかったが、どうしようもないというわけではなかった。これに反して、張学良との関係を保つのは、日本にとってたぶん耐えられないものであったろう。だから彼が国民党へ忠誠を表明した時、彼が、満州での日本の既得権や支配力を攻撃してくる中国の革新勢力の先鋒になると、日本人が考えたのも十分理解できる。

 上述の状況が、日本の政情の変化の底にあった。そしてワシントン会議以来の日本政府の穏健な政策に対抗して、満州での”積極政策″を唱えていた陸軍閥が優位に立った。それが一九三一年(昭和六年)九月十八日の満州事変の背景であり、これがきっかけとなって、満州および他の中国領への日本の侵略が続いていった。そして、日本国民の間に思想の変化が芽生えはじめる。それは中国ならびに極東全般における日本の好機、使命および運命についての考え方の変化である。この考え方は陸軍の指導者や、特定の狂信的な国家主義者知識層にとっては別段目新しくはないが、勤勉で重税に苦しむ大多数の零細農民達の思考とは全くかけ離れたものであった。」(上掲書p177~180)

 ここで注目すべきは、マクマリーが張作霖爆殺事件について「分からないのは、なぜ日本人が、――軍人のグループであったにせよ、あるいは無責任な「支那浪人」の集団であったにせよ―― 一九二八年(昭和三年)に張作霖を爆殺したかということである。」と疑問を呈していることです。一体、この事件がいかなる事情の元に発生したのか、ということについては前回詳しく述べましたが、ここには明らかに、日本人の思想の変化というより思想的劣化が見て取れると思います。おそらく、こうした彼らの「理解しがたい」行動の根底には、例の「十年の臥薪嘗胆」の思いが伏在していたのではないかと思いますが・・・。

 というのも、この時の首相は、彼ら帝国陸軍軍人の大先輩である元大将田中義一であり、その田中が、ようやく張作霖を説得して満州に帰順させ、新たな日満の共同関係を築こうとしたその矢先、関東軍の一将校が、張作霖を列車ごと爆破し死亡させたからです。それだけでなく、彼の同僚である青年将校等はその犯人を英雄視し、政府に圧力をかけて事件の真相をもみ消し、単なる警備不行き届きの行政処分に止めさせただけでなく、その彼を、その後も軍の諜報組織の中で重用し続けた・・・。

 つまり、彼らは、日本国に国家改造を求める以前の、自らの政権とも言うべき田中内閣下において、これだけの独善的・背信的行動を行っていたのです。これを、政府も軍首脳も厳正に処罰することができなかった。こうして、軍内に、軍紀を無視した下克上的行動を蔓延させることになったのです。こうして、昭和6年には軍首脳をも巻き込んだ三月事件というクーデター事件、次いで満州事変、そして、それに連動した再度のクーデター事件である十月事件が引き起こされることになりました。では、これらの連続するクーデター事件の目標は何であったか、それは「日本国の国家改造」ということだったのです。

 で、この「国家改造」という言葉ですが、これはおそらく、北一輝の『日本改造法案大綱』からとられたものではないかと思います。ということは、こうした考え方は、この時代、軍人だけに通用した言葉ではなく、一般に通用した言葉だったということです。では、こうした北一輝の言葉=思想は、これらの事件にどのような影響を及ぼしていたのでしょうか。また、これらの事件に関わったとされるもう一人の右翼イデオローグ大川周明の思想についてはどうだったのでしょうか。次回はこの問題について考えてみたいと思います。これによって、この国家改造という言葉の意味するところが分かりますし、その妥当性を検証することができるからです。

 結果的には、こうした言葉=思想を生み出した大川や北は、前者は五・一五事件で投獄(15年)、後者は二・二六事件で処刑されてしまいました。つまり、彼らは最初は軍に利用され、そして最後はスケープゴートとされたのです。とはいえ、彼らを単なる右翼イデオローグと決めつけ無視することはできません。特に、北の思想には極めて独創的な見解や、戦後民主主義にも通じる優れたアイデアが数多く含まれています。それを正当に評価した上で、では、なぜそれが「三年間憲法を停止し両院を解散し全国に戒厳令を布く」とか「在郷軍人団を以て改造内閣に直属したる機関」とするなどの、立憲政治や政党政治を否定する「国家改造」法案へとつながったか。

 ここに、昭和の悲劇を理解するための、もう一つの鍵が隠されていると思います。

最終校正7/17 1:30