昭和の青年将校はなぜ暴走したか5――青年将校にとって満州は生命線だった

2011年7月 4日 (月)

 まず、前回提示した疑問についての私の考えを述べておきます。『森恪』の著者山浦貫一は、森恪の対支政策の「本当の狙い」について次のように述べています。

 それは「もともと国共を分離せしめ・・・ソ連と断絶した後の国民革命はこれを認めこれを助けて支那の統一を完成せしめる。そして、多年の懸案である満州問題を解決することだった。しかし、北伐に際し,政友会伝統の積極政策主張の建前から出兵せざるを得ない立場に立ったため、(やむなく)山東出兵したのである」。

  この間の事情について、『軍閥興亡史』の伊藤正徳は次のように記しています。 

 「これより先田中内閣の初期、蒋介石は革命運動に躓いて日本に逃避し、日本の援助を瀬踏みに来たことがある。その時、田中は箱根に於て蒋介石と密会し、蔣が南支を平定することに対し間接に後援するが、満洲の方は日本と北方軍閥(張作霖)の交渉に一任して干渉をしない約束をとり付けていた。だから半年後の蒋介石の北伐に対しても、田中は好意的でこそあれ、之を阻止する考えはなかった。

 にも拘らず、二回に亙って山東方面に出兵したのは、一に政友会内閣の方針が、山東方面の居留民(総数約三万五千名)に対しては一弾をも投じさせてはならぬという強硬主義に動かされたわけである。即ちこの出兵は選挙政策であり、軍部の主張に依ったのでもなく、また田中の発意に基いたのでもない。そうして却って済南事件(邦人十数名殺害)などを起こし、且つ支那国民の対日反感を増大させるような失敗に終ったのは、田中にとっては気の毒という外はなかった。」

 これを見ると、山浦の言う「北伐に際し,政友会伝統の積極政策主張の建前から出兵せざるを得ない立場に立った」というのは、政友会の選挙政策上やむを得ずそうした措置をとったということです。ということは、こうした政友会の政策(南京事件の処理に当たって幣原外交を軟弱外交と非難し居留民の現地保護を主張した)を主導したのは森恪だったのですから、これは田中の言い分とはなっても、森恪の言い分とはならない。これは、森恪による幣原外交攻撃が、政友会の党利党略に過ぎなかったことを物語るだけのものです。

 なお、田中内閣における外務大臣は田中義一首相自身が兼摂し、外務次官には森恪を充てました。このことは、田中内閣における実質的な外務大臣は森恪だったということを意味します。次に述べる東方会議は、この森恪が、陸軍の鈴木貞一や吉田茂(奉天総領事)らと図って、田中内閣の対支積極(=強硬)政策を、政府、政党、在外各関係者及び陸海軍の一致した国策に格上げしようとしたものです。

 しかし、その「東方会議も掛け声だけに終り、その後の張作霖との交渉も順当に進まず、結局は、陸軍方面の要望する武力による解決の外はないか、と田中は段々と転向を余儀なくされて行った。ただ、一点彼の大局観を弁護する材料は、帝国陸軍を表面の主動者とすることを飽くまで回避する方針であったことだ。

 そもそも田中の対支外交の一大原則は「満蒙をして内外人安住の地たらしめる」というにあった。言は壮なるに似たれども、満蒙は支那の主権下にある地域だから、日本がそれを安住の地たらしめる権能も責任もなく、その意味で外交標語としては粗笨(そほん)の非難を免れなかった。単に万難を排しても同地方の既得損益を擁護すると言えば、内外斉しくそれを非難する者はなかった筈だ。(幣原はそれをやろうとした=筆者)ところが「安住の地たらしめる」の一語の中に、何となく支配者の意慾が疑われる点があり、貴族院に於ける質問演説で幣原前外相から酷く油を絞られたようなこともあった。」

 この「満蒙をして内外人安住の地たらしめる」という言葉を対支外交の一大原則とするところに、田中首相の危うさが現れています。まして、蒋介石による中国の全国統一事業(北伐)が行われている最中に、わざわざ山東に出兵することや、そうした対支積極政策を日本の国策とするため、鳴り物入りで「東方会議」を開催するなどということが支那側を刺激しないはずがありません。当然、外交交渉による満蒙問題の解決は困難となる。その結果どういうことになったか。

 次の記述は、引き続き『軍閥興亡史』からのものですが、おそらく、東方会議以降第二次山東出兵に至るまでの軍の内情を記したものではないかと思われます。

 「満州問題の解決は外交交渉では片附かないとなれば、最早や武力の行使しかない。が、陸軍を表面に出してはならない。軍が満洲へ出て行く場合は、既得権を擁護する上に万己むを得なかったということを、内外ともに承認するような形に於て行われるのでなければ不可(まず)い。」

 つまり、当初は、冒頭に紹介したような方法で満蒙問題を解決しようとしていた田中でしたが、そのための外交交渉が進展しないとなれば、従来より武力行使による問題解決を主張してきた青年将校らの意見に耳を貸さざるを得なくなる。その時、そうした武力行使のプラニングをしたのも森恪ではないか、というのです。

 「世上、それは参謀長森恪の画策に依るとも言われているが、要は満洲の某地点に一つの紛擾事件を起こし(民間人の手に依って)、日本軍が出動しなければ平和を回復し得ない状態を造り上げ、そこで出兵して一挙に懸案を解決する方式であった。

 田中は密かに親交のあった大新聞の実権者を招いて内容を打ち明け、その場合には、言論の支持を得られるか否かを質した。それに対し、そのI博士は襟を正して、「表面は誰が事件を起すにしても、世間は陸軍がそれを起したことを信じて疑わないであろう。俗に謂う、頭隠して尻隠さずで、軍の信用が失墜するだけである――」と率直に苦言を呈した。暫く問答した後、田中は沈痛に「そうかノウ、では暫時中止するか」と言って別れたという。

 後で調べると、時余にして田中は陸軍次官畑英太郎を招致し、「あの計画は暫く止めておくから至急手配せよ」と命じている。即ち知る、その計画なるものは、軍が中心となるか、少なくとも某有力パートナーとして画策していたことが明白である。

 既にして政友会院外団の一味や、満洲事業家の乾分達は満洲に入り込んで内乱作製の手筈を進めていたのだ。満蒙の地に内乱が起こっては日本は見物をしている訳には行かない、大至急陸軍を動員して之を平定するという筋書が出来上がっていたのである。軍の若い一部将校達は、そこまで策謀しなければ内部的にも治まらない所まで激昂していたのだ。穏健な大・中佐級の一部を評して、「一身のみを守る不忠の輩」と罵るような乱暴な青年将校が、五人や十人ではきかなかったのだ。上級将官が断乎として之を処罰しない限り、そのままでは軍紀軍律を紊る陸軍の一大不詳事を惹起することは必定であった。

 ところが、大・中将は既に弱かったばかりでなく、彼らの満州擾乱、出兵平定の筋書きには本心賛成なのであるから、それを抑えるよりは寧ろ心で歓迎し、何時しか「軍の内面指導」の下に計画を進め、一方に外務省は森次官が連絡係として奔走し、今は単に時日を待つばかりに熟していたのだった。そこへ、突如田中から暫時中止の命令が下ったのだ。驚きは忽ち憤りと変わった。以来、田中に対する軍部の信頼と支持とは急角度を以て消散して行った。それは実に、張作霖爆殺事件の発生する僅か一ヶ月前のことであった。」(以上引用、上掲書p134~136)

 張作霖爆殺事件は昭和3年6月4日ですから、その一ヶ月前といえば5月4日、丁度済南市街で北伐軍と日本軍第6師団間に軍事衝突が起こっていた頃です。それが拡大して5月8日より日本軍の済南城攻撃・占領となり、北伐軍に多大な死傷者を出すに至りました。このため北伐(国民革命)軍は済南を迂回して北上し北京に向かいました。日本はさらに出兵兵力を増加(第三次山東出兵)し、5月18日には満州治安維持宣言を出し、同時に関東軍を奉天に出動させました。

 このねらいは、もし北伐軍と北京の張作霖軍の間に戦闘が始まれば、関東軍が長城線近くの錦州――山海関まで出動して両軍を武装解除し、この機に張作霖を下野せしめて、満州の軍事的支配権を握ろうというものでした。ところが、ここでも田中は、アメリカ政府が抗議めいた動きを見せたこともあって、10日間迷ったあげく「オラはやめた。張作霖は無事に帰してやれ」と初心に逆戻りしてしまいました。

 おさまらぬのは、刀の鞘を払って振りかぶっていた関東軍である。温厚な斉藤参謀長すら日記に『現首相の如きは寧ろ更迭するを可とすべし』と書いたぐらいで、肚に据えかねた関東軍村岡軍司令官は、密かに部下の竹下義晴少佐を呼んで、北京で刺客を調達し、張作霖を殺せと指示する。それを察知した河本が『張抹殺は私が全責任を負ってやります。』と申し出て、列車ぐるみの爆破プランへ合流させたのであった。(『昭和史の謎を追う(上)』秦郁彦p32~33)

 この間の事情について『森恪』では次のように記述しています。

 「田中男をして、首鼠両端的態度に出でしめたものは、田中男周囲の古い伝統であり、さらにそれを動かした動力は華府会議以来の米国の日本に対する圧力であった。
我が大陸政策の遂行上千載の好機を逸したというのは、それがやがて満州事変となり支那事変に発展し、東洋における二大国が血みどろになって相剋抗争を続けていることを指す。若し、田中内閣の時代に、森の政策を驀進的に遂行していたなら満州事変も支那事変も、仮に起こらざるを得ない必然的な運命を帯びたものであったにしても、その姿はよほど趣を異にしていたであろう。」(上掲書p643)

 こう見てくると、張作霖爆殺事件のような暴虐無比の事件も、それは決して河本大作の個人的憤激により惹起されたものではなく、田中内閣外務次官森恪が、軍の青年将校等と図って引き起こそうとしていた「第一次満州事変」――満洲の某地点に一つの紛擾事件を起こし(民間人の手に依って)、日本軍が出動しなければ平和を回復し得ない状態を造り上げ、そこで出兵して一挙に懸案を解決しようとした――の一つの暴発的形態だったということが判ります。つまり、満蒙問題とは、この時代の軍の中堅以下壮青年将校達にとっては、こうした謀略的手段に訴えてでも解決すべき死活的な問題だったのです。

 「満蒙を何とかせねばならぬ」というのが田中の国策第一条であった。これより先き「満蒙を制圧せねばならぬ」というのが軍部の念願、特に中堅以下の壮青年将校の燃えるような願望であった。これによってのみ、多年軍縮下に抑えられた不満を晴らすことが出来、戦闘によって軍人は蘇生し、軍旗は原隊に還るであろう。この利己的注釈が全部では無論ない。満州の野は二十万同胞の霊の眠るところ、日本発展の運命の地域。それを領有しないまでも、確実に我が勢力下に安定させることは、民族の発展を願う者、国を愛する者の当然の信条でなければならぬ。人心廃れ、政党腐り、恬としてこれを顧みないならば、吾等こそこの天地に廓清の血の雨を降らしても目的に邁進するであろう――と彼らは自ら注釈した。(軍閥興亡史Ⅱp135)

(以下、論旨を明確にするため書き換えました。7/16)

 そして、こうした彼ら「自らの注釈」に、国家改造へと進む政治的道筋をつけたのが、田中内閣において実質的な外務大臣を務めた森恪でした。これが、結果的に張作霖爆殺事件という暴虐とも愚劣とも言いようのない事件を引き起こすことになったのです。問題は、これが反省されるどころか、一夕会に結集する青年将校等によって継承され、より周到に計画され再び実行に移されたということです。こうして引き起こされた満州事変は、単に満州における日本の権益擁護という意味だけでなく、日本国の国家改造を牽引する前進基地づくりとしての意味を持つようになっていました。

 つまり、満州における既得権益擁護の問題が、日本国の国家改造を求める革命運動へと転化したのです。おそらくこれが既得権擁護の問題に止まっていれば、満州問題はもっと合理的な解決ができたでしょう。しかし、満州事変以降軍によって推し進められた国家改造の動きは、明治・大正を通じてようやく根付きはじめた日本の政党政治、立憲政治を圧殺することになりました。代わって、一国一党の国家社会主義が追求されました。そして、その思想の日本的読み替えが尊皇思想に基づく忠孝一致の天皇親政だったのです。

 この辺りの思想的絡み合いは、アジア主義者や支那通軍人の「アジア諸国連帯論や西洋列強からの解放論」、近衛の「持てる国、持たざる国論」、森恪の「『浮城物語』的冒険主義」、右翼イデオローグの巨頭北一輝や大川周明等によって唱えられた国家社会主義や日本主義、石原完爾の「最終戦争論」などが入り交じって、一体、どこにその中心があるのか容易には分かりません。もちろん、その中心的な担い手が昭和の青年将校等であったことは間違いなく、ではなぜ、彼らがその中心的な担い手となったか。この問いに答えることが、本稿の主題「昭和の青年将校はなぜ暴走したか」に答えることになります。