昭和の青年将校はなぜ暴走したか4――満州問題と十年の臥薪嘗胆
前回の末尾に私は次のように書きました。 「それにしても、問題は、なぜそこまで、陸軍が「満州問題の抜本解決」にこだわり、政党政治に敵意を抱き「国家改造」しようとしたかということです。一般的には、満蒙は日本の国防の第一線であるとか、生命線であるとかが、その理由としてあげられます。――私も、それは必ずしも間違いではないと思いますが――しかし、その胸中を支配していた真の動機は、あるいは、先に紹介したような、彼らの「十年の臥薪嘗胆」ではなかったか、私はそう思っています。」 なぜ、私がそのように考えるか。これを説明するためには、まず、「ワシントン体制」というものについて理解してもらわなければなりません。というのは、上記のような陸軍の、異常なまでの「満州問題の抜本解決」へのこだわりや、政党政治に対する敵意、クーデターを起こしてまで「国家改造」しようとしたその理由は、このワシントン体制――ワシントン会議で成立した諸条約(海軍の主力艦を制限する五カ国条約、中国に関する九カ国条約、太平洋問題に関する四カ国条約、日英同盟廃棄)によってもたらされたもの――に対する次のような不満に根ざしていたからです。 一、米・英・日の主力艦の比率を5・5・3と定めた海軍軍縮条約は、米英の圧力により屈辱的に調印されたものである。日本がこの条約で劣勢比率を押しつけられたことが中国の排日侮日態度を強めることになった。 二、二十一箇条要求以来の日華両国間の懸案であった山東問題について、日本が大戦中に獲得した山東のドイツ権益はほとんど大部分が中国に返還された。また、南満州・東部内蒙古における借款引き受けの優先権と二十一箇条要求中の第五号希望条項も放棄された。 三、九カ国条約によって、アメリカから中国の領土保全・門戸開放、機会均等を押しつけられた結果、日本の大陸政策には大きな拘束が加えられることになった。そのため、中国における日本の特殊権益を認めた石井・ランシング協定も破棄された。 そして、これらは満州事変後、次のように総括されるようになりました。 「(ワシントン会議では)日本の特殊権益を認めた石井ランシング協定が・・・支那に対するルート四原則で破棄された。支那に対する九カ国条約、日米英仏の四カ国条約等によって日本は手枷足枷をはめられ、山東は還付する結果になり、日英同盟は破棄された。叉、同会議に於ける海軍軍縮協定では米英の間に五・五・三の屈辱的比率が結ばれる等、ワシントン会議は即ち、日本の失権会議の実質を以て終わったのである。」(『森恪』p451) そして、このワシントン会議における外交交渉で主導的な役割を果たした幣原外交は、マスコミによって、次のような批判を受けることになりました。 「思えば拙劣な外交(幣原外交を指す)であった。口に平和を唱えるいわゆる協調外交が、英米の現状維持を保障する以外のなにものでもなかった。その間かえって、英米の軽蔑を招き、さらに支那、満州の排日を激化したのみではなかったか。世界協調、人類平和と、白痴のように、うわごと三昧にふけっているうちに、英米はその世界平和的攻撃のプランを、ちゃくちゃくと発展させていたのである。さきにワシントン会議においては、日本をして満蒙特権を放棄せしめ、ロンドン条約によって日本の武力を無血にて削減し、不戦条約によって世界現状維持を強制した。他方悪辣なる積極攻勢に出でつつ、支那、満州の欧米化につとめた。(『昭和風雲録』満田巌) だが、果たしてこれらの批判は、客観的事実に基づく批判だったのでしょうか。まず、米・英・日の主力艦の比率を5・5・3と定めた海軍軍縮条約についてですが、この交渉に全権として当たった加藤友三郎は、この交渉の結果について次のように説明しています。 「先般の欧州大戦後、主として政治家方面の国防論は世界を通じて同様なるがごとし。即ち国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人のみにてなし得べきものにあらず。国家総動員してこれにあたらざれば目的を達しがたし・・・故に、一方にては軍備を整うると同時に民間工業力を発達せしめ、貿易を奨励し、真に国力を充実するにあらずんば、いかに軍備の充実あるも活用するあたわず。平たくいえば、金がなければ戦争ができぬということなり。 戦後、ロシアとドイツとがかように成りし結果、日本と戦争のなるProbabilityのあるは米国のみなり。かりに軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦役のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当らず。しかしてその米国が敵であるとすればこの途は塞がるるが故に、日本は自力にて軍資を造り出さざるべからず。この覚悟のなきかぎり戦争はできず。英仏はありといえども当てには成らず。かく論ずれば、結論として日米戦争は不可能と。いうことになる。 この観察は極端なるものなるが故に、実行上多少の融通きくべきも、まず極端に考うればかくのどとし。ここにおいて日本は米国との戦争を避けるを必要とす。重ねていえば、武備は資力を伴うにあらざればいかんともするあたわず。できうるだけ日米戦争は避け、相当の時機を待つより外に仕方なし。かく考うれば、国防は国力に相応する武力を整うると同時に、国力を涵養し、一方、外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。 即ち国防は軍人の専有物にあらずとの結論に到着す。余は米国の提案にたいして主義として賛成せざるべがらずと考えたり。仮に軍備制限問題なく、これまでどおりの製艦競争を継続するときいかん。英国はとうてい大海軍を拡張するの力なかるべきも、相当のことは必ずなすべし。米国の世論は軍備拡張に反対するも、一度その必要を感ずる場合には、なにほどでも遂行する実力あり。 翻ってわが日本を考うるに、わが八八艦隊は大正十六年度に完成す。しかして米国の三年計画は大正十三年に完成す。英国は別問題とすべし。その大正十三年より十六年に至る三年間に、日本は新艦建造を継続するにもかかわらず、米国がなんら新計画をなさずして、日本の新艦建造を傍観するものにあらざるべく、必ずさらに新計画を立つることなるべし。また日本としては米国がこれをなすものと覚悟せざるべからず。 もし然りとせば、日本の八八艦隊計画すらこれが遂行に財政上の大困難を感ずる際にあたり、米国がいかに拡張するもこれをいかんともすることあたわず。大正十六年以降において、八八艦隊の補充計画を実行することすらも困難なるべしと思考す。かくなりては、日米間の海軍間の海軍力の差は、ますます増加するも接近することはなし。日本は非常なる脅迫を受くることとなるべし。米国提案のいわゆる10・10・6は不満足なるも But ifこの軍備制限案完成せざる場合を想像すれば、むしろ10・10・6で我慢するを結果において得策とすべからずや。」(『太平洋戦争への道』「1満州事変前夜」p28) この条約によって、「日本は太平洋における防備制限と引き替えに対英米6割の海軍力を受諾し、こうして英・米・日三国は、それぞれ、北海からインド洋に至る海面、西半球海面及び極東海面での海軍力の優越を相互に承認しあい、建艦競争に伴う緊張が緩和されたばかりでなく,軍事費の節減も実現した」のです。海軍部内でもこのことが了解され、また、「日本の世論は一般にこの条約を是認し、英米両国でも同様であった」といいます。(前掲書p31) また、「日本がこの条約で劣勢比率を押しつけられたことが、中国の排日侮日態度を強めることになった」という第一の批判については、むしろ、「対華二十一箇条要求に象徴される日本の威圧政策と中国の内部事情に由来するところが多」かったのです。このことは、先のワシントン体制批判の第二の論点にも関わりますが、日本の対華二十一箇条要求は、当時から「痛恨の外交的失策」とされていたのであって、このために生じた日中関係の亀裂を修復したものこそ、幣原の山東問題の処理や二十一箇条要求中の第五号希望条項の放棄だったのです。 次に、第三の批判についてですが、これは、九カ国条約によって、日本は満蒙特権まで放棄させられた。そのため、日本の大陸政策に大きな拘束が加えられることになった、というものです。しかし、日本の満蒙における条約上の権益が失われたわけではありません(中国の主権尊重及び領土保全等を定めたルート四原則は、現に有効な条約及び協定に容喙するものではないこと、原則の適用地域は中国本部にだけ限ることが言明された)。また、「日本の大陸政策に大きな拘束が加えられることになった」といっても、中国の主権を無視した勝手な行動がとれるわけでもありません。 このあたりの日本の言い分を最も直截に語っているのが森恪で、彼は、満州事変勃発後昭和7年6月17日に行った演説の中で次のように言っています。 「欧羅巴戦争を一期として、日本は、世界的に、所謂箍(たが)を嵌(は)められたも同様な状態になっている。・・・華盛頓条約は・・・寧ろ之を破壊しなければならぬ・・・日本に箍を嵌めたあの条約が存在する限り、日本国民は、世界という大きい舞台に立って活動することができない。あの条約が国民を、国内に跼蹐させて居る限り、日本は伸びない。日本の国状は、安定されないのである。・・・ 日本国民の将来生きていく重点はどこにあるか。それは、この、外に内に嵌められている箍を叩き破るということが重点でなければならぬ。これが成功せざる限り、私は、日本の国情は安定せず、国運も向上せず、ひいては、国民個々の生活も安定し得ざるものと確信します。・・・その箍を叩き破る・・・まず不戦条約、九カ国条約、これを精神的に叩き破れ、国際連盟などは日本のために何の利益があるか。」(『森恪』p20~23) これはどういうことを言っているのかというと(この文章の前段に書いてあることですが)、”文明人が国をなして生活していくためには、人間の力を資源に働かせて富や国力に変化させなければならない。問題はこの人間の力だが、日本人は精神的、肉体的、歴史的に養成された文化の潜在力を持っている。しかし、日本は不戦条約や九カ国条約によって箍を嵌められ、一室に閉じ込められたような状態になっている。だからこの箍を叩き破って、東洋において日本人が自由に活動できるようにする。これは日本人の生存条の権利である。”という意味です。(上掲書) この論理は、近衛文麿の「持たざる国」の論理と似ていますね。つまり、ここで彼が言っていることは、日本は資源を持たざる国であるが、資源を富や国力に変化させるだけの活力・文化的潜在力を持っている国である。一方、支那人はこの力を持っていない。そこで日本人が支那(特に満州)の資源を活用できるようになることで、日本人の活気も横溢するし、日本の人口問題も解決する。また、満蒙の治安を日本が守ることで支那の安全も確保されるし、ひいてはアジア全体の生活安定にも寄与することができる、というものです。 ではなぜ、支那や満州において排日運動が高まり、日本人が支那(特に満州)の資源を活用できなくなってしまったのか、というと、森格等は、それは、日本が世界の現状維持(植民地分割の)を狙いとするワシントン体制を押しつけられ、中国や満州における資源の獲得に箍を嵌められたためである(その箍が5・5・3の海軍軍縮条約であり、中国の領土保全・門戸開放・機会均等を定めた九カ国条約だという)。従って、日本がその活力をもって大陸に進出するためには、この箍をたたき壊さなければならない、というのです。 実は、このように九カ国条約に対する敵意が公然と表明されるようになったのは、あくまで満州事変以降のことであって、それまでは一部右翼団体を除いて九カ国条約に反対するものはいなかったのです。実際、日本政府は満州事変以降も九カ国条約を守る旨対応していましたし、これを正面切って否定する旨の声明を出したのは、日中戦争二年目の1938年(昭和13年)11月18日付けの、有田八郎外相(近衛内閣)の対米回答が最初でした。 こう見てくると、もともと、この森恪の論理には無理があったわけで、従って、この論理が通らなくなったその原因を、海軍軍縮条約の締結、不戦条約、九カ国条約などに求めるのは筋違いという事になります。つまり、支那や満州において排日運動が高まり、日本人が支那(特に満州)の資源を活用できなくなった、その主たる原因は、ワシントン体制にあったのではなく、その後の日本の大陸政策の失敗にあったのです。 いうまでもなく、それは、田中内閣時代に森恪主導で推し進められた対支積極政策(三度に渡る山東出兵、その間の東方会議、そして済南事件、さらに張作霖爆殺事件及びその隠蔽工作)の失敗がもたらしたものなのです。これが、その後の日中間の外交的基盤を崩壊させたのです。こんな情況の中で、日中間の外交関係の修復を引き受けたのが、第二次若槻内閣、浜口内閣において外務大臣を引き受けた幣原喜重郎でした。 この幣原の外交的努力を、軍を政治に巻き込むことで徹底的に妨害したのが、これまた森恪で、統帥権干犯問題がそうでした。また、幣原がこの問題に忙殺される間、中国との関係修復交渉を担当したのが佐分利公使でしたが、彼は、箱根の富士屋ホテルで不審死を遂げました。警察発表では自殺とされましたが、私は、満蒙問題が日中間の外交交渉によって解決されることを嫌った者の犯行ではないかと思っています。今、その関係資料をあたっているところですが・・・。 ところで、以上のような「支那や満州において排日運動が高まった」その本当の原因について、『森恪』伝を書いた山浦貫一自身は内心自覚していたようで、この伝記には次のような興味深い記述が見えます。 「ここに、運命的な歴史の不思議を感ずるのは、この第二次出兵によって起こったのが済南事件であり、済南事件は田中内閣の外交を決定的に失敗に導いたところの重大なモメントをなすものであることだ。それは・・・森の対支政策はもともと国共を分離せしめるにある。ソ連と断絶した後の国民革命はこれを認めこれを助けて支那の統一を完成せしめる。そして、多年の懸案である満州問題を解決するという計画であった。 森は前年、その方針で蒋介石とも交歓したのであるが,その森が、蒋介石の再北伐に際し,政友会伝統の積極政策主張の建前から出兵せざるを得ない立場に立ち、従来、国民革命を認めない立場をとり北支は北京を中心として独立した政府を樹立して、その支配におくべしとした人々が,事なかれ主義の一時的方便から出兵に反対し、革命を武力によって膺懲しようとしたものが却って森の出兵論を支持するに至った逆現象である。 而して第二次出兵は,田中外交の功罪を決すると共に、済南事件以後の日支関係の複雑錯綜即ち、満州事変となり支那事変となり、共に東亜の開放のために協力せねばならぬ筈の日本と支那とが血みどろの戦いをしなければならなくなった歴史的運命の岐れ路にもなったのである。」(『森恪』p618~619) この記述によると、森恪の対支政策の本当の狙いは、 「もともと国共を分離せしめ・・・ソ連と断絶した後の国民革命はこれを認めこれを助けて支那の統一を完成せしめる。そして、多年の懸案である満州問題を解決する」ことだった。しかし、「蒋介石の再北伐に際し,政友会伝統の積極政策主張の建前から出兵せざるを得ない立場に立」ったため、(やむなく)山東出兵したのである。(この真偽については次回考察します=筆者) ところが、この時「革命を武力によって膺懲しようとしたものが却って森の出兵論を支持するに至った逆現象」が生じたために、(その膺懲論者達によって)済南事件が引き起こされてしまった。その結果、その後の「日支関係の複雑錯綜即ち、満州事変となり支那事変となり、共に東亜の開放のために協力せねばならぬ筈の日本と支那とが血みどろの戦いをしなければならなくなった」と言うのです。 語るに落ちる、とはこのことですが、森恪を誰よりもよく知る山浦自身は、日支関係がこうした破滅的状態に陥ったその最大の責任は、ワシントン体制にあったのではなく、第二次山東出兵に伴って発生した済南事件、つまり、それを引き起こした軍の膺懲論者にあったと見ていたのです。もしそれが本当なら、森恪は、自らの失敗を巧妙に隠し、それをワシントン体制及びそれを担った幣原に責任転嫁した、ことになります。 この森恪の巧妙な隠蔽工作と責任転嫁が許され、済南事件以降、破局に瀕した日中の外交関係の修復をあえて引き受け、森の悪辣な妨害を受けつつも、何とかして局面打開を図ろうと努めた幣原喜重郎が、満州事変を起こした元凶と見なされる・・・そんな評価が、今日でも、あたかも通説の如く通用しているのですから驚くほかありません。 「(幣原外相は)あまりにも内政に無関心で、また性格上あまりにも形式的論理にとらわれ過ぎていた。満州に対する幣原外交の挫折は、要するに内交における失敗の結果で、当時世上には,春秋の筆法をもってせば、幣原が柳条湖事件を惹起したのだと酷評したものすらあった。」(『陰謀・暗殺・軍刀』森島守人) 7/17 2:30最終校正 |