昭和の青年将校はなぜ暴走したか3――軍縮が生んだ青年将校の国家改造運動

2011年6月 8日 (水)

 昭和の悲劇を理解するためのキーパーソンとして、近衛文麿や森恪そして幣原喜重郎を対比的に論じてきました。

 近衛文麿の場合は、その「持てる国、持たざる国」論が、国内及び国際社会の秩序形成における「法治主義」を軽視したため、社会の全体主義化や軍の暴走を生むことになったこと。森恪は、田中積極外交以降、その政治手法として軍を政治に引き込んだため、ついには政治が軍を制御することが全くできなくなったこと。幣原喜重郎は、あくまで、ワシントン体制下の国際協調主義によって中国問題を処理しようとしたが、田中積極外交によって中国との外交的基盤が破壊され、その後、その修復を図ったが、満州事変で止めを刺され退場を余儀なくされたこと、など。

 これらの政治家のうち、「昭和の悲劇」を招いたものとして、私が最も責任が重いと思っている人物は、いうまでもなく森恪です。それは、もし、昭和の初めに、この男さえいなければ、昭和の悲劇は避けられたのではないか、と思うほどです。ところが、今日の論壇においては、このことを指摘するものはほとんどなく、その代わり、幣原外交の無能――日本国民のナショナリズムに対する無理解、国際共産主義運動に対する無警戒、中国に対する内政不干渉主義など――を根拠に、その理想主義外交を批判する論調が大半です。

 また、近衛については、その軍や世論への迎合体質、公家的あるいは長袖者流と評される権力依存体質、最後まで自分の意思を貫徹できず、途中で投げ出す無責任体質の外、日支事変勃発時の支那膺懲声明、トラウトマン和平工作失敗時の”蒋介石を対手とせず”声明、さらに、三国同盟締結、南部仏印進駐などの数々の外交的失敗が指摘されます。確かにそうした批判は免れないわけですが、しかし、彼自身は、軍の政治介入や独断的軍事行動を抑えようとしたことは間違いなく、また、政党政治や議会政治を維持しようとしたことも事実なのです。

 ただ、問題は、先ほど述べた通り、彼の「持てる国、持たざる国」論が、いわゆる「法治主義」を軽視していたために、日本の伝統的倫理観である「情況倫理」に陥ってしまったこと。そのために、満蒙権益の擁護を大義名分とする満州事変を容認することになりました。といっても、こうした満州事変を契機とする意識の変化は、近衛文麿だけに起こったことではなく、日本人全体に起こったことなのです。つまり、こうした日本人の意識の変化をもたらしたものこそ、近衛文麿の「持てる国、持たざる国」論に象徴される日本人の「情況倫理」的意識構造だったのです。

*情況倫理とは、「人間は一定の情況に対して,同じように行動するもので、従って、人の行動の責任を問う場合には、そうした行動を生み出した情況を問題とすべきであり、その責任追及は、その状況を生み出したものに対してなさるべきである」という考え方のこと。

 だが、その裏側で、大正から昭和にかけた時代の流れを注意深く読み、これをコントロールすることで、自分たちの目的を達成しようとしていたグループがありました。それが、後に説明する二葉会や一夕会に終結したエリート青年将校達でした。

 そこで問題は、彼らの目的は一体何だったかということですが、結論から先に言えば、それは、満蒙問題に国民の関心を引き寄せ、それを「彼ら独自の方法」で解決することによって国民の支持を獲得し、政治のイニシアティブを握り、それによって日本の政党政治を打破して、一国一党の国家社会主義体制を実現する、ということでした。満州事変は、このようなプロセスで国家改造を進めるための手段あるいは前線基地としての意味を持っていたのです。

 では、このように軍が政治に関与することになった、その原因はどこにあったかということですが、これについては、昭和7年11月頃、陸軍省軍事課長だった永田鉄山大佐が次のように語っています。

 「その主なるものは、(一)軍縮問題に伴い軍に対する世間の人気の悪くなり兎もすれば軽ぜらるること、(二)ロンドン会議の際に於ける所謂統帥権の問題、(三)減俸問題、(四)陸軍に於ける人事行政の不手際なりとす。」(『木戸日記(上巻)』p147)

 この四つの原因について皆さんはどう思われますか。これを少し敷衍すると次のようになります。

(一)は、第一次大戦後の世界における軍縮の流れや、大正デモクラシー下の反戦平和思想の流行によって、軍人に対する世間の評価が明治期に比べて著しく低下し、何かにつけて軽んじられる風潮が生じた事に対して、軍人が強烈な不満を抱くようになったということ。

(二)は、統帥権干犯問題を政治問題化することによって、作戦・用兵のみならず、軍の兵備編成権も軍の統帥権に含まれるとし、かつ、軍に対する指揮命令は天皇のみとすることによって、軍に対する内閣の関与を排除することに成功したこと。これによって、逆に、軍が政治を左右する権能――石原莞爾に言わせれば「霊妙なる統帥権」――を持つに至ったこと。

(三)は、第一次大戦後の戦後不況や、大正12年の関東大震災復興費用を捻出するための緊縮財政なもとで、軍人の給与引き下げが行われたこと。これは、今回の東日本大震災に伴い国家公務員の給与を10%減額するという措置がとられたことと同様の措置ですが、当時は、大正後半期に顕著となったインフレも重なって、将校の給与水準は著しく低下したといいます。

(四)は、日清戦争後から大正初年まで(陸士・陸幼合わせて)平均すれば毎年800人もの将校生徒が採用され続けたため、大正末から昭和にかけて、若い陸士出の将校を大量に軍内に抱え込むことになったこと。しかし、軍隊の昇進ポストは上に行くほど数が極端に少なくなるため、昇進ルートの閉塞や昇進の停滞が生じたということ。

 以上永田鉄山の指摘した、軍が政治に関与するに至った四つの原因のうち(一)(三)(四)は、あくまで、国内における軍人の社会的地位や処遇のあり方に関する問題であって、満州問題などの外交問題に直接結びつくものではなかったことが分かります。しかし、軍は、これらの問題は政党政治によってもたらされたものと考え、その結果、軍は、政党政治に対する敵対意識、さらには英米の自由主義・資本主義に対する反発を強めることになったのです。

 その最初の表れが、ワシントン会議に対する軍の反発でした。直接的には、そこで合意された軍縮条約に基づいて、いわゆる山梨軍縮や宇垣軍縮が行われ、大量の兵員等の削減が行われたことによります。では、なぜ、ワシントン会議において軍縮が話し合われたかというと、第一次世界大戦による人的・物的被害が余りに膨大だったからで、そのため、海軍力の軍縮が主要国間で協議され、また、陸軍でも、ロシア革命の影響もあって、極東における軍事的脅威が薄らいだと認識されたのです。

(山梨軍縮)
「1922年7月「大正十一年軍備整備要領」が施行され約60,000人の将兵、13,000頭の軍馬(約5個師団相当)の整理とその代償として新規予算約9000万円を要求して取得した。山梨陸相の企図は緊縮財政の基づく軍事費の削減をもって平時兵力の削減と新兵器を取得し近代化を図ろうとするものであった。

 さらに、1923年3月、山梨陸相は更に「大正十二年軍備整備要領」を制定し2度目の整理を実施した。これら、いわゆる山梨軍縮は大量の人員を削減したにも拘らず近代化と経費節約は不徹底であった。これに追い討ちをかけるように1923年9月に関東大震災が発生し新式装備の導入は困難となった。」

(宇垣軍縮)
さらに、上記二度にわたる山梨軍縮ではまだ不足であるとして、1923年(大正12年)9月に発生した関東大震災の復興費用捻出のため1925年(大正14年)5月に宇垣一成陸軍大臣の主導の下、第三次軍備整理が行なわれることとなった。」

 「具体的には21個師団のうち、第13師団(高田)、第15師団(豊橋)、第17師団(岡山)、第18師団(久留米)、連隊区司令部16ヶ所、陸軍病院5ヶ所、陸軍幼年学校2校を廃止した。この結果として約34,000人の将兵と、軍馬6000頭が削減された。」

 特に、宇垣軍縮による四師団の廃止は、「地域にとって少なからず衝撃を与え国民に軍部蔑視の風潮を生み出し、陸軍内での士気の低下が蔓延した。だが、これにより浮いた金額を欧米に比べると旧式の装備であった陸軍の近代化に回したというのが実情である。主な近代化の内容として戦車連隊、各種軍学校などの新設、それらに必要なそれぞれの銃砲、戦車等の兵器資材の製造、整備に着手した。また、学校教練制度も創設された(軍人の失業対策としての意味合いもあった=筆者)。」(以上WIKI参照)

 以上述べたような軍縮の影響や、大正12年に発生した関東大震災の財政支出に加えて、第一次世界大戦後のインフレの影響もあり、さらに(四)に紹介したような「陸軍に於ける人事行政の不手際」もあって、軍人の処遇問題は一層深刻さを増していきました。

 こうした問題を解決するために、軍は、ポストの新設や官職充当階級の上昇等の措置を図りました。しかし、そうした措置は、財政上の観点から冗員・冗費を節減すべきとの批判を浴びるようになり、その結果、(一)の軍縮を求める政治の圧力も加わって、師団の削減や冗員の整理や馘首が強行されることになったのです。

 また、一般に陸軍将校は、文官や一般の俸給生活者に比べて、退職年齢が早く、そのため陸軍将校の経済生活には不安定さがつきまとっていました。しかも、文官の場合は天下りや再就職の道が開けていたのに対し、将校は再就職が難しく,昇進競争から取り残されたら、四十代半ばで退職し、恩給生活へいることを覚悟しなければなりませんでした。

 また、退職した在郷将校は恩給に頼っていたために、第一次大戦後の物価上昇の直撃を受けることになりました。軍人は終身官とはいいながら「その実、力士に次ぎて最も寿命の短い職業」で、「陸海軍で採用した将校生徒中『少なくもその七八割は四十歳より五十歳までの間に於て、老朽若くは無能の故を以て予備役に押し込まるゝのである。中には三十代でお暇の出るのもあ』って、彼らは『働き盛り稼ぎ盛り』の年齢で世間に放り出されるわけである」と慨嘆されました。

(現役を退いたある歩兵大尉の述懐)
「私共は、軍国主義王政時代の教育を受けたものでありますから、永年社会とは没交渉にて、胸中に植え付けられたものは、軍人精神と『右向け右』『前へ』の軍隊的挙動のみで、世間のことは、何にも知らぬ。社交は下手である。位階勲等の恩典に対し、車夫、馬丁となることも出来ぬ。世の落伍者であります。軍人の古手が世に用いられず、体操先生にて終わるも、亦已むなき哉で、過去軍隊教育の因果応報、これも前世の約束かなと、禅味を気取っているの外ありませぬ。」(『陸軍将校の教育社会史』p330)

 このような情況の中で、軍人に対する世間の目は次第に冷たくなり、「電車の中で見知らぬ乗客から、なんのかんのと文句を言われ」るようになりました。世間では、こうした軍人を揶揄して、「貧乏少尉のやりくり中尉、やっとこ大尉で百十四円、嫁ももらえん、ああかわいそ」というざれ歌までできる始末。こうした軍人軽視の風潮の中で、いわゆる青年将校と呼ばれた軍人たちの間に、”十年の臥薪嘗胆”という合言葉が生まれました。

 「世間の風潮、流れというものは、おおむね、十年を区切りに変化し、更替する。いまはがまんのときである。しかし必ず自分たちの時代が来ると歯を食いしばって、軍縮に象徴される、自分たちのおかれた地位、身分の回復、さらに進んで、一国の支配を誓うにいたるのである。」(『昭和の軍閥』高橋正衛P98)

 ところで、こうした「昭和の軍閥」を構成したのは、陸士十六期以降の軍人たちで、それ以前の軍人達が日露戦争の実戦に参加したという意味で戦中派であるとすれば、彼らは戦後派でした。その戦後派の一期に当たる陸士第十六期の代表者が、ドイツのバーデンバーデン会合(大正10年)で有名な、永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次でした。彼らはここで、「派閥の解消、人事刷新、軍制改革、総動員態勢」につき密約したとされます。

 この密約には、陸軍の派閥(=藩閥)人事に対する不満とともに、第一次世界大戦後の総力戦態勢に備えるための軍政・内政面の改革への決意が込められていました。その背景としては、彼ら以前の陸軍首脳は、そのほとんどが日露戦争において殊勲者となり、軍人の最高栄誉とされた個人感状や金鵄勲章をうけるなど出世・栄達を重ねていたのに対し、彼らはそうした機会を奪われていた。それだけに、総力戦時代に賭ける彼らの復活の思いが強かった、というわけです。

 こうして、これ以降、主に十六期以降の青年将校(河本、板垣、永田、小畑、岡村、東条等)がしばしば会合して横断的に結合するようになりました。昭和2年には二葉会(十五期から十八期までの佐官級約18名で構成)が生まれ、昭和3年になると、軍事課課員鈴木貞一の呼びかけで、二十期から二十五期までの第二集団(石原、村上、鈴木、根本、土橋、武藤等、後「一夕会」と称される)が生まれました。その後、この二つの組織は結合して昭和軍閥の中枢をなすようになります。  

 ところで、この一夕会の第一回会合(昭和3年11月3日)では、(1)陸軍の人事を刷新して、諸政策を強く進めること。(2)満蒙問題の解決に重点をおく。(3)荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍を護り立てながら、正しい陸軍を立て直す、という三つの事項が決議されました。この決議は、二葉会にも相通ずるものとされますが、決して、非合法の手段に訴えようとするものではなく、況んやクーデターの如き極端な過激行動は強く排斥する、との敷衍もなされていました。(『昭和の軍閥』p100)

 ところが、昭和5年秋に結成された「桜会」(橋本欣五郎、樋口季一郎、根本博、土橋勇逸、長勇、等)の綱領には、目的として、本会は国家改造を以て終極の目的とし之がために要すれば武力を行使するも辞せず。会員は、現役陸軍将校中にて階級は中佐以下、国家改造に関心を有し私心なき者に限る。そしてその準備行動として、(1)一切の手段を尽くして国軍将校に国家改造に必要な意義を注入(2)会員の拡大強化(3)国家改造のための具体案の作為、等と記されていました。(上掲書p108)

 この桜会によって、昭和6年に三月事件、十月事件をというクーデター事件が引き起こされるのです。この三月事件は、省部・統帥部の首脳(小磯軍務局長、永田軍務課長、岡村補任課長、重藤支那課長、金谷参謀長、建川参謀次長、第一部長畑俊六等)の外に、大川周明の動員する右翼等も加わるという大規模なものでした。しかし、計画自体が極めて杜撰であり、首相に担ぐ予定だった宇垣陸軍大臣が、途中で変身した?ために未遂に終わりました。

 十月事件は、9月18日の満州事変に呼応して、建川参謀本部第一部長と橋本欣五郎を中心とする桜会一派が、在京の将校学生や民間右翼と連携して起こそうとしたクーデター事件です。橋本手記には「満州に事変を惹起したるのち、政府において追随せざるにおいては軍をもって『クーデター』を決行すれば満州問題の遂行易々たるを論ず」と記されていました。しかし、これも関係将校14名が、直前に憲兵隊に検挙され未遂に終わりました。

 こう見てくると、三月事件も十月事件も、先に紹介した二葉会、一夕会に属する青年将校たちだけでなく、省部、統帥部の首脳部も関与したクーデター事件であったことが分かります。そのことは、その後、これらの事件が隠蔽されただけでなく、関係者の処分も極めて軽微だったことで明らかです。しかし、クーデター計画と言うにはあまりに杜撰で、途中で反対に転じたものも多く、当時の青年将校や軍首脳の「満州問題の抜本解決」や「国家改造」にかける思いの強さを示すだけのもの、と見ることもできます。

 それにしても、問題は、なぜそこまで、陸軍が「満州問題の抜本解決」にこだわり、政党政治に敵意を抱き「国家改造」しようとしたかということです。一般的には、満蒙は日本の国防の第一線であるとか、生命線であるとかが、その理由としてあげられます。――私も、それは必ずしも間違いではないと思いますが――しかし、その胸中を支配していた真の動機は、あるいは、先に紹介したような、彼らの「十年の臥薪嘗胆」ではなかったか、私はそう思っています。

(なぜ、そのように考えるかについての、以下の記述は説明が不十分でしたので削除し、次回そのことについて詳述したいと思います。6/10 4:00)