昭和の青年将校はなぜ暴走したか
昭和の青年将校はなぜ暴走したか12――北一輝から見た皇道派と統制派の違い
昭和の青年将校はなぜ暴走したか11――日本人の「法意識」について
昭和の青年将校はなぜ暴走したか10――立憲政治を守れなかった戦前の日本人
昭和の青年将校はなぜ暴走したか9――真崎甚三郎と北一輝の違い
昭和の青年将校はなぜ暴走したか8――皇道派青年将校が生まれたワケ

昭和の青年将校はなぜ暴走したか7――皇道派の暴走を利用した統制派
昭和の青年将校はなぜ暴走したか6――満州問題が国家改造に発展した

昭和の青年将校はなぜ暴走したか5――青年将校にとって満州は生命線だった
昭和の青年将校はなぜ暴走したか4――満州問題と十年の臥薪嘗胆
昭和の青年将校はなぜ暴走したか3――軍縮が生んだ青年将校の国家改造運動
昭和の青年将校はなぜ暴走したか2――「済南事件」に行き着いた日本の大陸政策
昭和の青年将校はなぜ暴走したか1――暴走の発端「済南事件」


2011年8月26日 (金)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか12――北一輝から見た皇道派と統制派の違い

 まず、本エントリー№9で紹介した、二・二六事件裁判における検事の聴取書「第五回」を再掲します。

 「・・・終りに私の心境は、私は如何なる国内の改造計画でも国際間を静穏の状態に置く事を基本と考へて居りますので、陸軍の対露方針が昨年の前期のに如くロシヤと結んで北支に殺到する如き事は国策を根本から覆すものと考へ、寧ろ支那と手を握ってロシヤに当るべきものと考へ即ち陸軍の後半期の方針変更には聊か微力を尽した積りであります。

 昨年七日「対支投資に於ける日米財団の提唱」と云ふ建白書は自分としては日支の同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置く事を目的としたもので、一面支那に於いては私の永年来の盟友張群氏の如きが外交部長の地位に就いたので、自分は此の三月には久し振りに支那に渡ろうと準備をして居たのであります。

 実川時次郎、中野正剛君が支那に行きました機会に単なる紹介以上に突き進んだ話合をして来る様取計ひましたのも其為めでありますし、昨年秋重光外務次官と私とも長時間協議致しましたし又広田外相と永井柳太郎君との間にも私の渡支の時機に就いて相談もありました位であります。

 年来年始となり、次いで総選挙となりましたので此の三月と云ふ事を予定して居りました。私は戦敗から起る革命と云ふ様な事はロシヤ、独逸の如き前例を見て居りますので、何よりも前に日米間、日支間を調整して置く事が最急務と考へまして、西田や青年将校等に何等関係なく私独自の行動を執って居った次第であります。

 幸か不幸か二月二十日頃から青年将校が蹶起することを西田から聞きまして、私の内心持って居る先づ国際間の調整より始むべしと云ふ方針と全然相違して居りますし、且つ何人が見ても時機でないことが判りますし、私一人心中で意外の変事に遭遇したと云ふ様な感を持って居ました。

 然し満洲派遣と云ふ特殊の事情から突発するものである以上私の微力は勿論、何人も人力を以てして押え得る勢でないと考へ、西田の報告に対して承認を与へましたのは私の重大な責任と存じて居ります。殊に五・一五事件以前から其の後も何回となく勃発しようとするやうな揚合のとき常に私が中止勧告をして来たのに拘らず、今回に至って人力致し方なしとして承認を与へましたのは愈々責任の重大なる事を感ずる次第であります。従って私は此の事によって改造法案の実現が直に可能のものであると云ふが如き安価な楽観を持って居ません事は勿論でした。

 唯行動する青年将校等の攻撃目標丈けが不成功に終らなければ幸であると云ふ点丈けを考へて居りました。之は理窟ではなく私の人情当然の事であります。即ち二十七日になりまして私が直接青年将校に電話して真崎に一任せよと云ふ事を勧告しましたのも、唯事局の拡大を防止したいと云ふ意味の外に、青年将校の上を心配する事が主たる目的で真崎内閣ならば青年将校をむざむざと犠牲にする様な事もあるまいと考へたからであります。

 此点は山口、亀川、西田等が真崎内閣説を考へたと云ふのと動機も目的も全然違って居ると存じます。私は真崎内閣であろうと柳川内閣であろうと其の内閣に依って国家改造案の根本原則が実現されるであろうと等の夢想をしては居りません。之は其等人々の軍人としての価値は尊敬して居りますが、改造意見に於いて私同様又は夫れに近い経綸を持って居ると云ふ事を聞いた事もありません。

 又一昨年秋の有名な「パンフレット」「(昭和九年陸軍省新聞班発行のもの――広義国防の強化と其の提唱――財閥と妥協せる国家社会主義的色彩濃厚なり)を見ましても、私の改造意見の〔二字不明〕きものであるか如何が一向察知出来ませんので、私としては其様な架空な期待を持つ道理もありません。要するに行動隊の青年将校の一部に改造法案の信奉者がありましたとしても、〔二字不明〕の事件の発生原因は相沢公判及満洲派遣と云ふ特殊な事情がありまして急速に国内改造即ち昭和維新断行と云ふ事になったのであります。

 [三字不明〕日私としては事件の最初が突然の事で〔三字不明〕二月二十八自以後憲兵隊に拘束され〔三字不明〕たので、唯希望として待つ処はこう云〔四字不明〕騒ぎの原因の一部を為して居ふと云【四字不明】家改造案が更に真面目に社会各方面〔四字不明〕され、其の実現の可能性及び容易性が〔四字不明〕ますならば不幸中の至幸であると存ま〔四字不明〕千如何なる建築に心人柱なる事に「四字不明〕帝国の建設を見ることが近き将来に迫〔三字不明〕ではないか等と独り色々考へて居ります。

 以上何回か申上げた事によって私の関係事及び心持は全部申上げたと思ひます。
昭和十一年三月二十一日」

 これを見ると、北一輝という人物は、右翼イデオローグとしての一般的なイメージとは随分違って、その対支、対米関係調整の視点は、当時の省部の幕僚軍人と比べてもはるかに冷静かつ妥当なものであったことが判ります。また、広田外相や重光次官等外交官を始め、中野正剛、永井柳之介等政治家との連絡の他、中国国民党外交部長張群との盟友関係もあるなど、外交的にも幅広い人脈を有していたことになります。

 その彼が、どうして皇道派青年将校と関係したのか。なにしろ、彼の天皇観は、彼等が主張した万世一系の天皇観とはまるで違っていて、それは、彼らが執拗に排撃した「天皇機関説」そのものでした。このことは、北一輝の著作『国体論及び純正社会主義』を見れば明らかで、彼はその中で「万世一系の一語を一切演繹の基礎となす穂積八束の論」を、哀れむべき「白痴の論」といい、彼らのいう「『国体論』中の『天皇』は迷信の捏造による土偶にして天皇に非ず」と痛烈に批判しています。

 その上で、次のような彼流の維新革命論が展開されます。(次は『北一輝著作集第一巻』神島二郎による解説文からの引用です。長大かつ難解な『国体論』の本文をわかりやすくまとめていますので)

 維新革命、この「万機公論の国是を掲げて民主主義に踏みきられたこの法律的革命は、当初、国民の法律的信念と天皇の政治道徳とによって維持され、23年の議会開設に至って完成した。幕末志士の国体論は、古典と儒教という被布をかぶった革命論(天皇への中によって封建貴族への忠を否認!)であり、その裏には、外国との接触によって触発された国家意識と国内に盛り上がってきた平等感の拡充とによる社会民主主義の要求があった。

 彼によれば、社会主義は、主権が国家にある(国体)となすものであり、民主主義は、政権が広義の国民にある(政体)となすものである。これが彼の言う公民国家である。そこでは、国家は国民の特権ある一部分たる天皇と平等な権利を持つ他の部分とから成り、天皇は議会と共に国家の機関として活動し、国民は、天皇の利益のためにではなく、国家目的にのみ奉仕する。その意味で、彼は、国家法人説、天皇機関説を主張し、天皇主権説を否定する。

 彼によれば、君民一家、忠孝一致、天皇主権説は、已に述べた国家体制の進化を逆進的に理解する「復古的革命主義〈反革命思想の意味〉であり、こうした「朝権紊乱」「国体破壊」の思想に対して現国体を断固擁護しようとするのがまさに彼の社会民主主義だと彼は揚言する。」ただし、「維新革命は、法律革命によって政治的に公民国家を実現したが、経済的には貴族階級国家に逆倒してこれを空文化している」ので、「維新革命の理想を実現するため、私有財産制を廃棄して共産制度に変える第二の維新が必要」。

 ただし、以上のような主張をなした『国体論及び純正社会主義』は、北一輝23歳の時に書かれたもので、明治39年(1906)5月に自費出版されたものです。北一輝はこれによって社会主義者と見なされるようになりました。その後彼は、片山潜、幸徳秋水等社会主義者や宮崎滔天、萱野長知等国体論者との接触を通じて中国革命に関心を持つようになり、1911年には中国に渡り、その後十年間、宋教仁等と共に中国の革命運動に挺身することになりました。

 この間、大正4年から5年にかけて中国で書かれたものが『支那革命外史』で、北一輝はこの中で、日本のいわゆるアジア主義者に伝統的な「支那軽侮論」に対して、次のような痛烈な批判を浴びせています。「笑うべき支那崇拝論者よ。(軽侮論者たるべき奴隷心の故に崇拝論者たる者よ)」と。(『北一輝著作集』p87)

 つまり、中国革命の起動因となったものは、日本の国家民族主義的な思想であり、その結果、中国人に国家民族的な覚醒が生じたのであって、そこに日本の中国に対する本質的な援助がある。つまり、そうした中国人の「国家的覚醒による愛国心こそ、まさに親日排日の両面」を持つのであって、中国の排日運動を見て、忘恩民族とそしるのは無理解も甚だしい。

 「日本人の支那革命に対して受くべき栄光は当面の物質的助力又は妓楼に置酒して功を争う者の個人的交友に非ず。実に日本の興隆と思想とが与えたる国家民族主義に存するなり。」「不肖は何が故に日本人が佔らざるの恩を誣ひて忘恩民族呼ばわりをなし、却て四億万民に愛国的覚醒を導けるこの嚇嚇たる教鞭を揮って誇らざるかを怪しまずんばあらず。」(上掲書p42)

 つまり、北一輝にとって革命とは、有機体としての社会において、その部分である個人が、自らの自由の拡大を求めてより高次の統一社会に到達せんとして起こるもので、歴史的には君主国から貴族国を経て民主国へと進化していくものである。つまり、その変革のエネルギーはその社会自身の中にある。それ故に、その社会=国家の利益は即ち権利であり正義である。だから、そのような中国の内在的発展として中国革命を捉えよ、と言うのです。

 北一輝は、中国革命をこのような歴史の進化過程において捉え、それが成功するためには、中国は、まず封建的代官制度を廃して国家統一し、自らの国家的利益を外邦に対して主張出来るようにならなければならない。そして、そのための方策は「対露一戦」であり、これによって「代官階級の一掃も、財政革命も、軍制改革も、郡県的統一も、省部的軍国的精神の樹立」も可能となる。そのためには中国は東洋的共和制下の大統領制を布く必要がある。

 これと共に、「日本の革命的対外策も立案される。日本は露支戦争に乗じて、一方では日英同盟を破棄して英国を「南支那」から駆逐し、他方ではロシアを退けて満州に進出する。「支那は先づ存立せんが為に、日本は小日本より大日本に転ぜんが為に」露支戦争は戦われねばならない。かくしてこれを基にして「日支同盟」が成立するであろう。」これが、北がこの本で提示した「革命的対外策」でした。(『北一輝著作集第二巻』野村浩一解説p419)

 というのも、「満州は日露戦争の当時已に日本が獲得すべかりしもの」であって、これは「支那のためにも絶対的保全の城郭を築くもの」だというのです。おもしろいのは、この時北が主張した対米政策です。それは、米国における排日熱は支那の排日熱のようなものであり、これを解消するためには、支那の鉄道建設への米国資本の導入に日本が協力すればよい。そうすれば、米国の世論を「頼もしき親日論」に一変させることが出来るというのです。

 「由来米国と日本とは何の宿怨あり、何の利害衝突あって今日の如く相警むるや」「何者の計ぞ日米戦争の如き悪魔の声を挙げて日本の朝野を混迷せしめ、支那に事あれば先づ米に備ふるの用意を艦隊司令官に命ずる如き狂的政策を奔らしむるや」・・・米国の対支投資は日本の保障がなければ元利一切不安になるのであって、日本は、米国の投資によって支那が開発されない限り日本の富強は達成されない。」(『支那革命外史』p193)

 こうした提言は、大正5年5月22日稿了とされた本書に記されたものですが、冒頭に紹介した、二・二六事件裁判における検事の聴取書「第五回」に述べられた北の対支・対米政策は、基本的には、このような北の対支・対米認識に支えられたものであったことが判ります。

 その後、北は、大正8年8月、36歳の時、「故国日本を怒り憎みて叫び狂う群衆の大怒濤」を眼前に見る上海の客舎で、『国家改造法案原理大綱』(後に『日本改造法案大綱』)を書きました。ここでは、『国体論及び純正社会主義』の末尾において彼が主張した「維新革命の理想を実現するため、私有財産制を廃棄して共産制度に変える第二の維新(=国家改造)」を、明治憲法下の議会政治によってではなく、天皇大権の発動による3年間の憲法停止、全国に戒厳令を布く中で、一気に行うとするものでした。

 この戒厳令下の国家改造において秩序維持や改造の執行機関となるのは、改造内閣に直属する在郷軍人団とされました。ここで「在郷軍人」というのは、検閲を顧慮して用いたもので、実は、現役軍人をさすのだという説もあります。ではなぜ北が、このように国家改造の主体を軍人に求めたかというと、彼が経験した中国革命の進行過程において、その推進力となったものが、「武漢の新軍に見られるように、腐敗した将官ではなくて、まさに『軍隊の下層階級』」であったためとも言われます。

 実際、北が『日本改造法案大綱』書いた大正9年は、ロシア革命、ウイルソンの民族自決主義に刺激された中国の五四運動、韓国の三一万歳事件等の勃発、日本の米騒動など混迷する時代状況の中にありました。また、北一輝が大川周明等の招きに応じて日本に帰った大正9年末以降の日本では、ワシントン条約に基づく軍縮の実施や国際協調主義の流れの中で、軍人に対する世間の目は冷たく、特に青年将校等に不満が嵩じていました。昭和になると、それに経済不況が重なることになります。

 そんな中で、彼らを国家改造へと目覚めさせたものが、北一輝の『日本改造法案大綱』でした。その国家改造における主体とされたものが軍人であって、これが天皇の号令の基に行われる。その政治目標は、軍閥・吏閥・財閥・党閥など特権機関を排除して、平等社会を実現すること。具体的には、私有財産や私有地に限度を設けること。大資本を国家統一することの他、労働者の権利や国民の生活・教育の権利、国家の権利としては、自己防衛や不義を行う国に対する戦争、大領土を独占する国に対して開戦する権利などが規定されました。

 では、この「改造計画」は皇道派青年将校等にどのような思想的影響を与えたかと言うことですが、昭和11年3月号の「日本評論」には、「青年将校運動とは何か」という対談記事が掲載され、その中で青年将校はその運動において何を望んでいるかと問われ、次のように答えています。

 「簡単にいえば、一君万民、君民一体の境地である。大君と共に喜び大君と共に悲しみ日本国民が本当に天皇の下に一体となり、建国以来の理想実現に向かって前進するということである。」「日本国内の情勢は明瞭に改造を要するものがある。国民の大部分というものが、経済的に疲弊し経済上の権力は、天皇に対して、まさに一部の支配階級が独占している。時として彼等は政治機構と結託して一切の独占を弄している。それらの支配階級が非常に腐敗している状態だから承知できないのだ。」

 これは、北一輝が『国体論・・・』で否定した、君民一家、忠孝一致、天皇主権説に基づく「復古的革命主義」そのものです。しかし、国家改造を必要とする時代状況認識や具体的な改造計画は同じであり、というより「改造計画」の影響を受けたものです。しかし、そこから変革のエネルギーも生まれている訳ですから、それをあえて訂正するようなことはしなかったのだと思います。そこには、隊付き青年将校等が幕僚将校に対して持った不満に対する同情もあったのではないかと思います。

 一方、統制派といわれた幕僚等の国家改造計画は、満州問題の抜本的解決のための対外的膨張政策の推進がその中核にあり、それに反対する政党政治の否認であり、資本主義の是正による国民生活の安定でした。そのために、三月事件や十月事件などの暴力革命による軍事政権の樹立が図られたのです。しかし、満州事変が成功したこともあり、こうした暴力革命主義は次第に統制派による合法的漸進的国家改造へと代わっていきました。

 こうした統制派の漸進的国家改造の進め方を明瞭に示したものが、昭和9年に陸軍が公表した「国防の本義とその強化の提唱」でした。ここでは、国防は国家生々発展の基本的活力の作用であるとし、”国民の必勝信念と国家主義精神との培養のためには、国民生活の安定を図るを要し、就中、勤労民の生活保障、農村漁村の救済は最も重要な政策である、と説かれていました。このように国防と内政は切っても切れない関係にあるとして、軍のこの方面の発言を強化しようとしたのです。

 いずれにしても、その具体的な政策は、自由経済に代えるに、統制経済を狙いとすること、統制経済は資本主義そのものを否定しないが、思想的には個人主義、自由主義より全体主義への移行を示していること。具体的には、議会は停止しないが、但し、ヒトラーの授権法に倣い、広範な権限を政府に授権する仕組みとすること。政党は否定しないが多数党が政権を取るといういわゆる憲政常道は認めない。あくまで哲人政治を主張する、等がその目標とされました。(『昭和憲兵史』大谷敬二郎p225)

 ではこれら統制派の主張と北一輝の思想とはどのように関係していたのでしょうか。いうまでもなく統制派は、軍が組織を動かして軍の一糸乱れぬ統率の下に上記のような国家改造を行おうとしていました。そこで、青年将校等が軍の統制を無視して横断的に結束し政治活動をすることを止めさせようとしていました。従って、それを外部からコントロールしていると見なされた北一輝等が警戒されたのも当然です。ただし、両者の求める国家像には大きな違いはなく、違いは、その対支・対米政策にありました。

 よく、支那事件を拡大に導いたのは統制派で、皇道派はこれに反対したというようなことが言われます。しかし実際は、冒頭に紹介したように、北一輝は皇道派青年将校等の動きとは別に、日支同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置くべく外交工作を展開していました。従って、二・二六事件を引き起こした皇道派青年将校等は、北をそれに巻き込むことでその努力を挫折せしめ、一方、統制派は、軍の無統制の責任を北に転嫁する形で、この事件を処理したのです。

 北の「国体論」は天皇機関説を当然とし、「万世一系」を論拠に「天皇主権」を唱える「国体論」の愚を指摘しました。また、日本人の「支那軽侮論」が「支那崇拝論」の裏返しであることを喝破する一方、日支同盟の必要性を説き、米国の投資を支那に呼び込むことで日米親和が図れるとしました。その達識とリアリズムは、アジア主義者や青年将校等の思想をはるかに凌駕していたわけですが、『日本改造法案大綱』はそれを単なるクーデター扇動文書に矮小化してしまいました。

 この原因は、北の国家論において、国家と社会の区別がついていなかったとか、国家有機体説をとったたため、個人の人権が国家主権に吸収されてしまい、それが彼を超国家主義へと導くことになったとかが指摘されます。おそらくそれは、日本が一民族一国家であることの反映だと思いますが、根本的には、この文書は、彼の10年間に及ぶ中国革命運動の挫折が生み出したものと見るべきではないでしょうか。それは日本においては、一部皇道派青年将校に「一君万民平等思想」と誤読されることでしか機能しなかった。

 思想家がその読者を迷わしたことの責任を問われることはよくあることですが、通常、それは読者の責任とされます。この点、北一輝は二・二六事件を起こした皇道派青年将校等に対して自らの責任をとったわけですが、それは彼等に対する情宜の故であったか、それとも自らの言葉に対する責任の故であったか・・・、おそらく、西田税に『大綱』の版権を譲ったことが彼の失敗の始まりで、北はそのことの責任をとったのではないか、私はそのように推測します。



2011年8月12日 (金)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか11――日本人の「法意識」について

健介さんへ

 おっしゃる通り、問題は日本人の「法意識」にあります。つまり、日本人の「法意識」においては、「法」よりも「実情」を優先する傾向があるのです。そのために、個々人から自制心が失われた場合には、無秩序状態に陥りやすい。戦前の陸軍では、五・一五事件以降、この「実情」主義が軍内に蔓延するようになりました。この流れを作ったのが皇道派で、これに対して、軍の統制がとれなくなると危機感を抱いたのが、いわゆる統制派で、ここに皇道派と統制派の対立が生まれたのです。

 この両者の関係を象徴的に表しているのが、「陸軍パンフレット」(国防の本義と其の強化の提唱)と国体明徴運動の関係です。つまり、 「陸軍パンフレット」は、統制派の国防国家建設の青写真であり、そのために軍の統制力の回復が必要であることを訴えたもので、一面、皇道派に対する批判の書でもあったのです。これに対して、皇道派が統制派に対して猛烈な巻き返しを図るために起こした運動が「国体明徴運動」でした。

 ではなぜ、「国体明徴運動」が、皇道派の統制派に対す対抗措置となり得たか。要するに、統制派のやり方は皇道派から見た場合、自らの権力欲・権勢欲を動機としている。また、彼らが理想と考える天皇親政の「一君万民平等」の統治理念にも反している。彼らのやっていることは江戸時代の「幕府」と同じで、これは、天皇の統治大権を簒奪するものである、とする理屈です。その根拠として、三月事件や十月事件が持ち出されたのです。

 結局、この対立は、二・二六事件の時、統制派が皇道派をカウンタークーデターで押さえ込んだことで解消し、軍内の横断的な青年将校運動もなくなり、軍の統制力も回復しました。しかし、満州事変の後遺症もあり、軍の中央組織と関東軍など出先軍との下克上的関係は依然として残ったままでした。そのため、その後も出先軍が暴走し、これを中央組織が抑えられず、結果的にそれを追認してしまうという、昭和の日本軍の宿痾ともいうべき悪弊がその後の軍を悩ますことになったのです。

 また、統制派は、このように皇道派を弾圧することに成功したのですが、国民の統制強化の方策としては、皇道派による国体明徴運動を利用することになりました。というのは、この運動は「天皇機関説排撃」に連動して提起されたものである事から判るように、これは明治憲法に規定された立憲君主制を否定し、教育勅語的な国体観を全面に押し出そうとするものでしたので、これと統帥権を結びつければ、統制派の考える一国一党の国防国家建設を正当化できると考えたのです。

 こうして、軍主導による一国一党の国防国家体制が完成したのですね。そして、それを支えた国体思想は、明治憲法に定められた立憲君主制を否定するものだったために、まず、政党政治が否定され、次いで政党の自主解党となり、最後は翼賛議会となって実質的に議会は予算審議権を失うに至りました。また、国民思想的には、大正自由主義下で芽吹いた個人主義や自由主義が徹底的に排撃されることになりました。

 ところで、冒頭に述べた日本人の「法意識」は、こうした個人主義や自由主義の考え方を受け入れることは出来ないのでしょうか。実はこの点が最も注意を要するところなのですが、日本人の「法意識」の根底には、仏性→本性→本心と言い替えられてきた、日本独自の自然法意識に支えられた性善説的観念があります。そのため、「法」の運用においては、実情主義が重んじられ、法に訴えるより、当事者間の示談による和解が最良とされます。つまり、「法」の裁きより、相互に自制心を働かせることで和解することが求められるのです。

 ところが、近代資本主義社会は、人間の利己心を当然としていて、利己心をお互いにぶつかけ合うことで、予定調和的に社会正義が実現されると考えます。これがうまくいく場合は、例えば、日本でも明治のように個人の立身出世欲と国家目標とが一致しているような場合には問題は起こらない。しかし、大正時代のように、この予定調和が破綻して社会的混乱が起こり、社会的正義が損なわれたと考えられるようになると問題が生じる。

 つまり、この混乱の原因は、利己心を野放しにする資本主義体制にあるのだと考えられるようになるのです。従って、この混乱から脱却するためには、資本主義的を否定しなければならない。丁度、ロシア革命が成功して社会主義思想に基づく平等主義が日本でも風靡するようになった。しかし、この思想は王政を否定するので日本の天皇制と矛盾する。そこで、これに代わるものとして、日本の伝統思想である尊皇思想の一君万民平等思想及び天皇親政の国体観念が、呼び覚まされることになったのです。

 さらに、この国体観念は、日本を盟主とする八紘一宇の世界観や、忠君愛国、滅私奉公の道徳観念を伴っていました。そのため、大正時代の国際協調主義や、個人主義・自由主義的道徳観念が否定されることになりました。また、その自己絶対性から、物事を相対的・客観的・合理的に見る事ができなくなりました。その結果、何のためか判らない意味不明の日中戦争から抜け出すことができず、その果ては、英米中ソという世界の大国を敵に回した無謀な戦争に突入することになったのです。

 こう見てくると、戦前の昭和における日本の問題点は、この時代に支配的となった日本思想に問題があったことが判ります。確かにこの思想は、理念としては植民地主義や人種差別に反対していました。しかし、それは「陸軍パンフ」に見るように、多分に建前上のものに過ぎず、本音では優勝劣敗を肯定していました。また、皇道派の主張した天皇親政下の「一君万民平等思想」は、八紘一宇という世界家族観念を世界に拡大しようとするもので、日本人の思想の独善性を病膏肓とするものでした。

 では、日本人の思想は、以上述べたような問題点を克服することができるか。これが、戦後の日本人にとって最も重要な問であったはずです。私は先に、日本人の「仏性→本性→本心」と言い替えられてきた日本人の性善説的観念について言及しました。私はこれはこれで大変貴重なものだと思っています。しかし、これを社会組織に適用するときは注意を要する。つまり、この場合は、家族主義的なものではなく、能力主義を基本とした合理的・流動的・契約的なものに転換しなければならないと考えています。

 こうしたことは、今日の企業経営においては当たり前になっていると思いますが、戦前の軍組織においては、能力主義に反する薩長の藩閥支配に対する反発から、過度の学歴主義に基づく陸大卒業者による学閥支配に陥ってしまいました。これが隊付き将校等皇道派青年将校の反発を生んだのです。結果的には、統制派が皇道派を押さえ込んだのですが、彼らが作り上げた軍主導の一国一党制の国防国家体制を思想的に支えたものは、皇道派の主張した国体観念に基づく忠君愛国、滅私奉公、八紘一宇の世界観だったのです。

 こうした世界観の下で、日本がその盟主として主導権を発揮し、大東亜の新秩序を形成し大東亜共栄圏を完成させる。これが、日中戦争及び大東亜戦争を理由づける軍の考え方というか後付けの理屈でした。しかし、それが日本の伝統的な国体思想と結びついたことで、それから脱却することは極めて困難になりました。また、多くの国民もこの国体思想に巻き込まれることになり、軍が実際にやっていることや世界の現実を、相対的かつ客観的に見ることがほとんどできなくなってしまったのです。

 これが、戦前の昭和に悲劇をもたらした思想的現実でした。では、再度の問いになりますが、この思想的現実をどのように克服するか。これが戦後日本人の第一の課題だったはずです。しかし、GHQの巧妙な占領政策もあって、日本人はこれを一部の軍国主義者の責任にしてしまいました。そのため、国民は、これら一部の軍国主義者の引き起こした戦争の犠牲者だとする見方や、さらにそれが嵩じて、日本人を残虐民族と見なす「自虐史観」が蔓延することになったのです。

 しかし、それでは問題は解決しない。確かに、満州事変から華北分離工作までの政治的責任は、私は、当時の軍指導者が負うべきだと思います。しかし問題はその後です。なぜ、日本は、何のためにやっているのか判らない意味不明な日中戦争を止められなかったのか。なぜ、それが大東亜戦争へと発展したか。この疑問を解くためには、当時の軍人及び多くの国民を熱狂させ、戦争へと導いたこの思想の問題点について、それを自らが信じた思想の問題点として、初心に返って総点検する必要があるのです。

 この思想の問題点を一言でいえば、私は、それは日本人の「法意識」の問題ではないかと思います。といっても、日本は明治以降この西洋的法概念を学び、それによって政治制度を運営し多大な成果を上げて来たのです。だから、この知恵を日本文化の発展に生かせぬ筈はない。では、昭和はなぜこれに失敗したか。まず、大正時代の軍縮期における軍の処遇を誤った。次いで森恪がその軍人の不満を政治的に利用し軍を政治に引き込んだ。その結果、張作霖爆殺事件が引き起こされ、日本政府はそれを厳正に処罰できなかった。

 ここから、日本軍の、何よりも厳正であるべき軍法下の「法意識」が根底から毀損されることになったのです。さらに、こうした傾向が、昭和初期の政治的・経済的混乱の中で、国民の政治に対する信頼――つまり立法措置によってこれらの問題の解決を図る政治への信頼の喪失となり、それに代わって、軍部による拡張主義的な国策遂行が支持を集めるようになったのです。次いで、そうした軍の行動が、前述の国体思想によって正当化され、国民もそれを信じ込むようになったのです。

 しかし、戦前の昭和の歴史をトータルに見た場合、その最大の責任は誰にあるかというと、先ほど申し上げた通り、私は、満州事変から華北分離工作までの軍の責任は否定すべくもないと思います。しかし、立憲政治体制下における政治責任は、あくまで政治家が負うべきであって、私は、その戦犯第一号は森恪だと思っています。彼は、第二次南京事件では軍縮に不満を持つ軍人をあおり、これを政治的に利用して政権を獲得し、さらに軍人を政治に引き込むことで自らの大陸政策の実現を図ろうとした。

 これが、日本の政治に軍人を介入させることになり、さらに統帥権干犯問題(この時は犬養毅や鳩山一郎の責任も大きい)を契機に政治は軍を制御できなくなり、出先軍の暴走を生んで満州事変となり、さらに関東軍の華北分離工作となり、ついに蒋介石をして抗日戦を決断させることになったのです。以後、日本国は戦時体制に突入し、さらに総力戦の観点から軍主導の一国一党の国防国家建設となり、政党政治、議会政治が否定され、ついに明治憲法に定められた立憲政治までもがなし崩し的に否定されるに至ったのです。

 こうした流れの道先案内をしたのは、紛れもなく政党政治家でした。従って、昭和の悲劇をもたらしたその第一の責任は、まず、この時代の政治家が負うべきなのです。彼らは、決して軍の被害者ではない。この事実をはっきりと自覚することが、日本に民主政治を確立するための第一の関門であると、私は思っています。



2011年8月 7日 (日)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか10――立憲政治を守れなかった戦前の日本人

「昭和の青年将校はなぜ暴走したか9」の私の健介さんに対するコメントですが、大切な論点を含んでいますので、本文掲載とさせていただきます。

健介さんへ

>(二・二六事件で北から安藤への”○○はあるか”という電話について)偽電話の可能性があるのですか。

tiku 前エントリーで紹介しましたように、中田氏の推理通り偽電話だと思いますね。北がこの事件の進行に関して心配していたことは金のことではなくて、彼らがその程度上部工作をしていたか、だったと思いますから。

 しかし、北は、事件発生後それがほとんどなされていないことを知りました。そこで、27日午前10時頃、彼らに真崎に一任するよう勧め、彼らはそれに従いました。27日午後2時頃、彼らは真崎(山下、小藤、鈴木、山口立ち会い)と会い、事態の収拾を依頼しました。しかし、真崎は奉勅命令が出される見込みであるとして「維新部隊」の原隊復帰を迫りました。

 一方、石原は27日夜、磯部と村中を呼び、”真崎の言うことを聞くな、我々が昭和維新をしてやる”と伝えたといいます。

 28日午前5時、奉勅命令が戒厳司令官に下達されましたが、戒厳司令部の香椎戒厳司令官が叛乱軍支持だったため、この実施は保留されました。皇軍相撃を避けるための説得を継続するという理由で・・・。

 その後、石原は香椎に対して、臨時総理をして維新断行、建国精神の明徴、国防充実、国民生活安定について上奏するよう意見具申しました。しかし、杉山次長はこれを受けた香椎の進言を拒否して武力鎮圧を命令し、その結果、香椎も、決心変更・討伐断行となりました。

 一方、反乱将校らは帰順か抵抗かで迷っていましたが、ついに自刃し罪を天皇に謝し、下士以下は原隊に復帰させることで意見一致しました。そこで、自らの死に名誉を添えるため、侍従武官の御差遣を天皇に奏請しましたが、天皇はこれを拒否しました。

 一方、青年将校等の自刃の話を聞いた北は、村中を通じて、極力自刃を阻止すると共に初志貫徹のためあくまで上部工作を継続するよう伝えた、といいます。

 28日午後5、6時頃、北、憲兵に逮捕される。

 で、お尋ねの北から安藤への電話ですが、これは、28日午後11時50分頃であると、東京陸軍軍法会議の勾坂主席検察官の「電話傍受綴」に記されています。また、その発信元は憲兵司令部となっている(交換手にはそう告げた)ことなどから、これが、安藤隊の兵力を聞き出すための偽電話だった可能性が高い、ということになるわけです。

 しかし、以上のやりとりで問題は、石原が皇道派青年将校の蹶起を利用してカウンタークーデターを実現しようとしていたことは明白だとしても、では、北自身は青年将校等の行動に何を期待していたのか、ということです。その主張する「上部工作」が”真崎止まり”であれば、それは見込み違いだったことになりますが、北のことですから、あるいは石原等に対する工作まで含んでいたのかも知れません。

 そうした構想をぶちこわしたのが天皇の断固たる討伐意思だったわけで、このことは上記の経過説明を見ればよく判ると思います。

 ただ、ここで私が疑問に思うのは、皇道派と統制派の国家改造イメージに果たしてどれだけの違いがあったか、ということです。

 『評伝 真崎甚三郎』の著者である田崎末松氏などは、二:・二六事件で天皇が皇道派を弾圧して統制派を助けるようなことをしなければ、日中戦争も大東亜戦争も起こらなかったなどと、その罪を昭和天皇お一人に帰すようなことを言っていますが、仮に、天皇がこうした意思を示されなかったとしても、事態の収拾は、結局、石原を中心とする統制派が行うことになったと思います。

 その場合、反乱軍将校の処罰は5・15事件と同じようなことになり、将校等は軽い刑で済まされ、北や西田などの民間人には重刑が科されることになったでしょう。だが、「動機さえ純粋であれば重臣や上官を殺すことも許される」という下克上的雰囲気は、軍隊内に一層蔓延することになる。そこで石原は、軍の統制回復のため、青年将校等に名誉の自決を迫ったかもしれませんね。いずれにしろ、その行き着く先は、ナチスをモデルとする一国一党、軍主導の高度国防国家建設だったろうと思います。

 また、皇道派青年将校等が、本当に3月事件や10月事件における統制派の大権私議を怒りそれを告発したかったのなら、なぜ、彼らは「私兵」を動かし重臣らを殺害し軍首脳に国家改造を迫るというようなクーデターまがいの大権私議を犯したのでしょうか。なぜ、満州事変という破天荒な大権私議を犯した石原完爾を攻撃目標としなかったのか、あるいは彼に期待するものがあったのではないか・・・。また、彼らが本当に中国との和平を願っていたのなら、なぜ、関東軍の華北分離工作に反対しなかったのか。なぜ、満州への転属を絶望視して、その前に「昭和維新」と称するクーデター事件を起こしたのか等々。

 これらの疑問を解く鍵はどこにあるか。それは、こうした矛盾に満ちた彼らの行動について、彼ら自身がそれをまるで矛盾と感じなかった、その思想にこそ問題があったのではないか。実際、そうした青年将校の行動に同情と共感を寄せる空気が当時の世間にはあった。その空気が、青年将校をして彼らの矛盾を矛盾と感じさせなかったのではないか。つまり、この事件の真犯人は、その「空気」であり、この空気が生んだ事件を巧みに利用して、自らの国家改造に利用しようとしたのが、統制派だった、ということではないでしょうか。

 これに関して、昭和26年2月『文藝春秋』に掲載された”対決二・二六事件の謎を解く”と言う座談会記事があります。メンバーは二・二六事件で襲撃された生き延びた岡田啓介元首相、首相秘書官であった迫水久常、生き残り青年将校大蔵栄一、皇道派理論家古賀斌、戒厳司令官参謀長安井藤治です。この中での岡田の発言は次の通りです。

 「青年将校の気持ちはよくわかるが、要するに三月事件、十月事件の経験で幕僚達は信用できないというので、今度は自分たちだけで事を起こす、起こしてしまえば軍の上層部が自分たちの信念を理解して、これを生かして何とか始末をつけてくれるという確信の下にやったことだね。そうすると、事件そのものの中心人物は誰だったかと言うことは寧ろ小さい問題で、若い連中に今言ったような確信を持たせたのは誰だと言うことが重要なことになるわけだ。さあ、それは誰かな、君たちに言わせればこれは空気だと言う事になるのだろう。」(『評伝 真崎甚三郎』p251)

 この本の著者田崎氏は、要するに岡田は真崎が教唆扇動したと言いたいのだろう、と言っていますが、私は岡田はそんな”当てつけ”を言ったのではなく、文字通り、この時代の空気が彼らに以上のような確信を持たせたのではないか、ということを言ったのではないかと思います。

 さて、事件後、皇道派青年将校等は、統制派のカウンタークーデターの陰謀に引っかかったと怨嗟の声を上げました。思っていた以上にひどい奴らだったと・・・。この時彼らはどれだけ自らの不明や、無意識の内に石原らに期待を寄せた自分らの甘さを自覚したのでしょうか。磯部などは、その責任を天皇に求め呪詛しました。なぜ貴方は、我々の心情を理解し、我らの味方をし、統制派を懲らしめなかったのかと。

 だが、昭和天皇は自らを立憲君主と自己規定していたのです。従って、天皇にとっては、青年将校等の行動はそれを破壊する以外の何物でもなかった。彼らの行動は、張作霖爆殺事件以来の軍の天皇の統帥権をも無視した独断的行動の延長、というよりその極致に見えたのだと思います。それも、天皇の名(大御心)によってなされたのです。だからこそ、それは「真綿で朕の首を絞める」ような行為に見えたのだと思います。

 つまり、この事件のポイントは、共に立憲政治を否定する、陸軍内部の皇道派と統制派の派閥争いの決着を、立憲政治を守ろうとする天皇に求めたところにあるのです。それも、天皇の統治大権を輔弼あるいは輔翼によって支えている重臣等を、「君側の奸」を除くという理屈で殺害した上で、天皇に、自らの組織の派閥争いの決着を求めたわけですから、天皇にしてみればむちゃくちゃな話で、天皇が激怒したのも無理はないと私は思います。

 では、再び問いますが、陸軍内部で派閥争いをしていた皇道派と統制派の対立点は一体何だったのか。

 皇道派の村中孝次の主張は、「陸海を提携一体とせる軍部を主体とする挙国内閣の現出を願望し、大権発動の下に軍民一致の第国民運動により国家改造の目的を達成せんとする」ものでした。また、「小官等の維新的挙軍一体に対し、彼らは中央部万能主義なり、小官等は、軍部を動かし国民を覚醒せしめ、澎湃たる国民運動の一大潮流たらしめんとするに対し、彼ら(=統制派)は、機械的正確を以て或いは動員日課予定表式進行によって・・・中央部本意の策謀により国家改造を行わんと欲したり」と言っています。

 これに対して統制派は、「軍首脳部が国家革新の熱意を持ち自ら青年将校に代わって・・・軍全体の組織を動員して」これを実行しなければならない。従って、軍内の一部のものが蠢動して横断的結合を図ることはよくない。青年将校の政治活動は軍人勅諭に反しているし、荒木、真崎を担ごうとすることは軍を私物化するものだ。また、北一輝の改造法案は徒らに扇動的であり飛躍、独善的であって害はあって益はない」というものでした。(『軍ファシズム運動史』秦郁彦p93)

 つまり、両者の理想とする国家改造イメージは実はほぼ同じで、違いは、それを軍中央の指揮下に組織的に行うのか、「維新的挙軍一体」つまり、隊付き将校達も含めた一大国民運動として行うのかという、いわば実施主体の比重の置き方の差に過ぎなかったのです。卑近な言い方をすれば、これは隊付き将校等の陸大出の幕僚将校等に対する不満から出たもので、旧軍における旧軍における極端な学歴主義がもたらした弊害の一側面とも言えます。

 つまり、皇道派対統制派の争いは、田崎末松氏がいうような国策上の争いではなく、派閥次元の争いと見るべきです。で、氏は、昭和天皇が皇道派の言い分を聞かず統制派を応援したと言って、それが泥沼の日中戦争や大東亜戦争をもたらしたと批判していますが、両者の派閥争いで統制派が勝つのは組織論からいって当然であり、また、この時昭和天皇が守ろうとしたものは、立憲政体であって、従って、張作霖爆発事件以来軍が繰り返してきた独断行動に対しては、昭和天皇は派閥の如何を問わず反対だったのです。

 その立憲政治を戦前の日本人は思想的に守りきらなかった、この思想的問題点を明らかにすることが、私たちの務めなのではないか、私はそう考えています。
(8/7 21:20最終校正)



2011年8月 1日 (月)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか9――真崎甚三郎と北一輝の違い

健介さんへ

 興味深いコメントありがとうございます。大事な部分について私見を申し述べさせていただきます。
 
>2.26事件はわが国の華だと思っていますが、彼等の思想(?)において世界をどうするということに関しての具体的な知識がまったく無いように思います。

tiku このことは、皇道派といわれる青年将校達がどのようにして生まれたかを考えればおおよその見当がつきます。彼らは隊付きの尉官級将校で、天保銭組といわれた陸大出の将校等が独占する省・部の幕僚となる道が閉ざされていました。中には、あえてそうした出世の道を拒否して隊付きとなった者もいたそうですが、それだけに、その一君万民平等をめざす尊皇思想は純粋主義・精神主義的となり、他からは国体原理主義とも呼ばれるようになったのです。

 その出発点は十月事件で、このクーデター事件を計画した幕僚将校等の指導原理を覇道主義と批判したことから、彼ら幕僚将校と親交のあった大川派と対立していた、北、西田派と一派をなすようになったのです。こうして北の日本国家改造法案が彼らのバイブルとなったのですが、ご存じの通り、北の根本思想は「社会民主主義」で、その天皇論も天皇主権的なものではなく、国民主権的な位置づけ(一種の象徴天皇制)であり、天皇機関説により親和的なものだったのです。

 このあたり、皇道派の青年将校の間でも、彼を教祖として信奉する者がいる一方、それに疑問を呈する者もいました。つまり、北の思想が彼らに正確に理解されていたわけではなかったのですが、おそらく、北の「霊告者」的カリスマ性が、彼らの純粋思想の非現実制を埋め合わる役目を果たしていたのではないかと思われます。彼ら自身の身の処し方としては、いわゆる「捨て石主義」をとることで、覇道との差異を主張していたわけですが・・・。

 しかし、このような考え方をしていたために、クーデター後の政権構想をあらかじめ準備するということができまず、その後は全て「大御心」を信じることとしたのです。もちろん「縦横の奇策」を用いればあるいは成功したかも知れない。

 例えば、「山下奉文が杉山参謀次長野後藤文夫臨時首相代理を説得して『青年将校の動機・目的はこうこうである。これをぜひ、あなたは陛下に奏上して、陛下から彼らの希望する人(真人物)に大命降下するように、ではなく、することに決定したと奏上して下さい』ともっていく」。そうすれば、「公的手続きを踏んだ決定には、天皇個人の私意は絶対におよぼしてはならないという、天皇機関説による天皇の機能を十二分に生かすことになる」(『二・二六事件』高橋正衛p171)

 しかし、これは彼らが否定する天皇機関説の考え方であり、また、彼らの信じる尊皇思想から言っても、大権私議となる。従って、彼らの論理が貫徹されるための究極の希望は、彼らの思いと天皇の「大御心」が一致すること。しかし、立憲制下の政治機構を国是とする天皇にしてみれば、股肱と頼む重臣等が殺されることは、その政治機構を破壊することと同義ですから、こうした青年将校等の行為を認めるわけにはいかない。

 つまり、ここにおける対立構造は、立憲政治を守るか、あるいはそれを打ち倒して天皇親政に復るかという、明治以来の政治思想の二重構造の矛盾に端を発するものだったのです。この対立関係が調整不能となり暴発したのが二:二六事件であったわけですが、皮肉なことに、首相が暗殺(未遂)されたことで、「天皇親政」が一時的に復活した形となって、「断固討伐」を主張する天皇の意思が貫徹されることになったのです。

>北一輝についてですが、彼の予言は色々当たりました。結果として彼が予言したようになりました。

tiku 北の予言と言うことについてですが、このことを論ずるためには、北の思想とそれに基づく日本の将来に関する具体的提言を知らなくてはなりません。そこで、これを二・二六事件裁判における検事の聴取書の中に見てみたいと思います。そこには、注目すべき北の次のような言葉が綴られています。

 私は、第一次世界大戦後ウイルソンの似非自由主義に基づく平和主義が高唱される中で、帝国主義が忘れられていることを指摘し、早晩第二次世界大戦が来ると警告してきた。近年、その機運が次第に醸成されているが、日本はそうした対外戦争を決行する前に、合理的な国内改造を行い金権政治を一掃し支配階級の腐敗堕落を根絶する必要がある。それと共に、農民の疲弊困窮、中産以下の生活困難などの問題に有効に対処することによって内部崩壊を防ぐ必要がある。

 また、対外政策については、陸軍がロシアと結んで北支に殺到するような政策をとろうとしているが、これは日本の国策を根本から覆すものである。従って私は、こうした陸軍の方針を変更させるため、昨年七月「対支投資に於ける日米財団の提唱」と云ふ建白書を提出するなどして微力を尽くしたつもりである。「自分としては日支の同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置く事を目的とした」のである、など。

 以下、その部分を抜粋しておきます。(『現代史資料5』「国家主義運動」p731~)

  第 三 回

 ・・・最近暗殺其他部隊的の不穏な行動が発生しましたが、其時は即ち金権政治に依る支配階級が其の腐敗堕落の一端を暴露し、初めて幾多の大官巨頭等に関する犯罪事件が続出して殆んど両者併行して現れて居る事を御覧下されば御判りになります。一方日本の対外的立場を見ますとき又欧洲等に於ける世界第二大戦の気運が醸成されて居るのを見ますとき、日本は遠からざる内に対外戦争を免かれざるものと覚悟しなければなりません。此時戦争中又は戦争末期に於いて、ロシヤ帝国、独逸帝国の如く国内の内部崩壊を来たす様な事がありましては、三千年光栄ある独立も一空に帰する事となります。此の点は四五年来漸く世の先覚者の方々が紹識して深く憂慮して居る処であります。

 其処で私は最近深く考へまするには、日本の対外戦争を決行する以前に於いて先づ合理的に国内の改造を仕遂げて置き度いと云ふ事であります。国内の改造方針としては金権政治を一掃すること即ち御三家初め三百諸侯の所有して居る富を国家に所有を移して国家経営となし、其の利益を国家に帰属せしむることを第一と致します。右は極めて簡単な事で、之等諸侯財閥の富は地上何人も見得る所に存在して居りますので、単に夫れ等の所有を国家の所有に名儀変更をなすだけで済みます。

 又其の従業員即ち重役から労働者に至るまで直ちに国家の役人として任命することに依りて極めて簡単に片付きます。私は私有財産制度の欠く可がらざる必要を主張して居ります。即ち共産主義とは全然思想の根本を異にして、私有財産に限度を設け、限度内の私有財産は国家の保護助長するところのものとして法律の保護を受くべきものと考へて居ります。

 ・・・私は十八年前(大正八年)日本改造法案を執筆致しました。其時は五ヶ年間の世界大戦が平和になりまして、日本の上下も戦争景気で唯ロシヤ風の革命論等を騒ぎ廻り又ウィルソンが世界の人気男であった為めに、涙の所謂似而非なる自由主義等を伝唱し殆んど帝国の存在を忘れて居る様な状態でありました。従って何人も称へざる世界第二大戦の来る事を私が其の書物の中に力説しても又日本が其の第二大戦に直面したるとき独逸帝国及びロシヤ帝国の如く国内の内部崩壊を来たす憂なきや如何・・・等を力説しても、多く世の注意を引きませんでした。然るに四五年前から漸く世界第二大戦を捲き起すのではないかと云ふ形勢が何人の眼にもはっきりと映って参りましたし、一方国内は支配階級の腐敗堕落と農民の疲弊困窮、中産以下の生活等が又現実の問題として何時内部崩壊の国難を起すかも知れないと云ふ事が又識者の間に憂慮せられ参りました。

 私は私の乏しい著述が此の四五年来社会の注意を引く問題の時に其の一部分を材料とせらるるのを見て、是は時勢の進歩なりと考へ又国内が大転換期に迫りつつあることを感ずるのであります。従って国防の任に直接当って居る青年将校又は上層の或る類者が、外戦と内部崩壊との観点から私の改造意見を重要な参考とするのだとも考へらるるのであります。又私は当然其の実現のために輔弼の重責に当る者が大体に於いて此の意見又は此の意見に近きものを理想として所有して居る人物を希望し、其の人物への大命降下を以って国家改造の第一歩としたいと考へて居たのであります。

 勿論世の中の大きな動きでありますから他の当面の重大な問題、例へば統帥権問題の如き又は大官巨頭等の疑獄事件の如き派生して、或は血生臭い事件等が捲き起ったり等して、現実の行程はなかなか人間の知見を以ては予め予測する事は出来ません。従って予測すべがらざる事から吾々が犠牲になったり、対立者側が犠牲になったり、総べて運命の致す所と考へるより外何等具体的に私としては計画を持ってば居りません。

 唯私は日本は結極、改造法案の根本原則を実現するに到るものである事を確信して、如何なる失望落胆の時も此の確信を以て今日迄生き来て居りました。即ち私と同意見の人々が追々増加して参りまして一つの大なる力となり、之を阻害する勢力が相対立しまして改造の道程を塞いで如何とも致し難いときは、改造的新勢力が障害的勢力を打破して目的を遂行することは又当然私の希望し期待する処であります。但し今日迄私自身は無力にしての未だ斯る場面に直面しなかったのであります。私の社会認識及国内改造方針等は以上の通りであります。尚今回の事件に関する私の前後の気持は後で詳しく申述べたいと思ひます。

三月十九日

第五回

・・・終りに私の心境は、私は如何なる国内の改造計画でも国際間を静穏の状態に置く事を基本と考へて居りますので、陸軍の対露方針が昨年の前期のに如くロシヤと結んで北支に殺到する如き事は国策を根本から覆すものと考へ、寧ろ支那と手を握ってロシヤに当るべきものと考へ即ち陸軍の後半期の方針変更には聊か微力を尽した積りであります。

 昨年七日「対支投資に於ける日米財団の提唱」と云ふ建白書は自分としては日支の同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置く事を目的としたもので、一面支那に於いては私の永年来の盟友張群氏の如きが外交部長の地位に就いたので、自分は此の三月には久し振りに支那に渡ろうと準備をして居たのであります。

 実川時次郎、中野正剛君が支那に行きました機会に単なる紹介以上に突き進んだ話合をして来る様取計ひましたのも其為めでありますし、昨年秋重光外務次官と私とも長時間協議致しましたし又広田外相と永井柳太郎君との間にも私の渡支の時機に就いて相談もありました位であります。

 年来年始となり、次いで総選挙となりましたので此の三月と云ふ事を予定して居りました。私は戦敗から起る革命と云ふ様な事はロシヤ、独逸の如き前例を見て居りますので、何よりも前に日米間、日支間を調整して置く事が最急務と考へまして、西田や青年将校等に何等関係なく私独自の行動を執って居った次第であります。

 幸か不幸か二月二十日頃から青年将校が蹶起することを西田から聞きまして、私の内心持って居る先づ国際間の調整より始むべしと云ふ方針と全然相違して居りますし、且つ何人が見ても時機でないことが判りますし、私一人心中で意外の変事に遭遇したと云ふ様な感を持って居ました。

 然し満洲派遣と云ふ特殊の事情から突発するものである以上私の微力は勿論、何人も人力を以てして押え得る勢でないと考へ、西田の報告に対して承認を与へましたのは私の重大な責任と存じて居ります。殊に五・一五事件以前から其の後も何回となく勃発しようとするやうな揚合のとき常に私が中止勧告をして来たのに拘らず、今回に至って人力致し方なしとして承認を与へましたのは愈々責任の重大なる事を感ずる次第であります。従って私は此の事によって改造法案の実現が直に可能のものであると云ふが如き安価な楽観を持って居ません事は勿論でした。

 唯行動する青年将校等の攻撃目標丈けが不成功に終らなければ幸であると云ふ点丈けを考へて居りました。之は理窟ではなく私の人情当然の事であります。即ち二十七日になりまして私が直接青年将校に電話して真崎に一任せよと云ふ事を勧告しましたのも、唯事局の拡大を防止したいと云ふ意味の外に、青年将校の上を心配する事が主たる目的で真崎内閣ならば青年将校をむざむざと犠牲にする様な事もあるまいと考へたからであります。

 此点は山口、亀川、西田等が真崎内閣説を考へたと云ふのと動機も目的も全然違って居ると存じます。私は真崎内閣であろうと柳川内閣であろうと其の内閣に依って国家改造案の根本原則が実現されるであろうと等の夢想をしては居りません。之は其等人々の軍人としての価値は尊敬して居りますが、改造意見に於いて私同様又は夫れに近い経綸を持って居ると云ふ事を聞いた事もありません。

 又一昨年秋の有名な「パンフレット」「(昭和九年陸軍省新聞班発行のもの――広義国防の強化と其の提唱――財閥と妥協せる国家社会主義的色彩濃厚なり)を見ましても、私の改造意見の〔二字不明〕きものであるか如何が一向察知出来ませんので、私としては其様な架空な期待を持つ道理もありません。要するに行動隊の青年将校の一部に改造法案の信奉者がありましたとしても、〔二字不明〕の事件の発生原因は相沢公判及満洲派遣と云ふ特殊な事情がありまして急速に国内改造即ち昭和維新断行と云ふ事になったのであります。

 [三字不明〕日私としては事件の最初が突然の事で〔三字不明〕二月二十八自以後憲兵隊に拘束され〔三字不明〕たので、唯希望として待つ処はこう云〔四字不明〕騒ぎの原因の一部を為して居ふと云【四字不明】家改造案が更に真面目に社会各方面〔四字不明〕され、其の実現の可能性及び容易性が〔四字不明〕ますならば不幸中の至幸であると存ま〔四字不明〕千如何なる建築に心人柱なる事に「四字不明〕帝国の建設を見ることが近き将来に迫〔三字不明〕ではないか等と独り色々考へて居ります。

  以上何回か申上げた事によって私の関係事及び心持は全部申上げたと思ひます。昭和十一年三月二十一日

>確か2.26事件における盗聴において、決起将校の安藤輝三に電話をしていますがそのとき北が<マルはあるか>とたずねています。それに対して安藤はその意味がすぐには分からず、少ししてその意味が分かる、やり取りがあります。北が一番に心配したのは<マル>つまり金で、これは初めてテレビを見た時強く印象に残っています。北一輝は2.26事件が目指したものは心底、思っていたわけではないのではという印象を持ちました。

tiku その<マルはいらんかね>ですが、中田整一の『盗聴 二・二六事件』では次のような指摘がなされています。

 この会話の傍受記録がある録音盤には「2/29北→安藤」というラベル記述があるが、実は、北は28日の午後8時に憲兵隊に逮捕されている。この件について北は東京憲兵隊の福本亀治特高課長の尋問を受けている。

問 其方は、二月二十七日午後、安藤大尉を電話に呼び出して『給与はよいか』『○はあるか』と尋ねたことはあるか。
答 私は、安藤大尉とは、四、五年会いませぬ。又安藤大尉が何処にいるかも知りません。かつ其の電話の内容の如きことは考えても居りませず、もちろん問うことがありません。

 誰かが、北の名を騙って安藤に電話をかけたとも考えられるが、中田は、この裁判を担当した東京陸軍軍法会議の勾坂主席検察官の「電話傍受録」を含む裁判資料の中から、次のような傍受メモを見つけ出した。

28ヒ ゴ11・50分頃 北より→憲兵司令部だと称し 安藤に給与は如何にと問フ 安 順調(細部録音セリ)
北 ソレハ結構 兵力(幸楽ノ)
安 500
北 金ハアルカ マル マル
安 アル
北 ダイジョウブ

 これは、ある男が憲兵司令部からだといって交換手に安藤に取り次ぎを依頼し、安藤が出たら、キタだと名乗って行った会話の記録です。この傍受メモの会話の日時は2月28日午後11時50分であり、「2/29北→安藤」というラベル記述とは大きく矛盾していない。おそらくこの勾坂の記述は、彼が各種情報を総合的に検証した結果の記述で、検察調書の二月二十七日は、北逮捕後に安藤に電話がかけているという矛盾を回避するため改ざんしたのではないか。また、勾坂のメモには安藤大尉に兵力を尋ねている箇所があり、傍受録音では雑音で聞き取れなくなっているが、おそらく、この北を騙った男は、安藤大尉の兵力を聞き出そうとしたのではないか。

 中田氏は、この偽電話を、他の証拠資料とも併せて戒厳司令部通信主任であった濱田萬大尉ではないか、と推論しています。しかし、そのことを確かめに行った1987年には、濱田大尉はすでにその2年前になくなっていました。

 実際のところ、北には右翼団体との仲介を図り財閥から謝礼金を受け取ると言った後ろ暗い一面があり、青年将校との関係で金を渡して背後から扇動していたのではないか、という疑いをもたれても仕方ない部分がありました。しかし、その後、統制派が、北や西田をこの事件の首魁に祭り上げ、処刑したその意図を考えて見ると、この北を駆った会話に出てくる「マルはいらんかね」という会話は、そうした統制派の思惑によって挿入されたものではないかと見ることもできます。

 いずれにしても、先に紹介したような北の陳述によって、北が二・二六事件を引き起こした青年将校等の行動に困惑しつつも、彼らへの情宜を捨てられず同意を与えてしまったこと。そのことの責任をとろうとしていること。事件の収拾策としては、真崎に一任させれば「青年将校をむざむざと犠牲にする様な事」はあるまいと考えたこと。しかし、真崎内閣であろうと柳川内閣であろうと、彼ら軍人の国家改造案は「国家社会主義的色彩濃厚なもの」であって、自分の改造意見とは全く異なっており、それに期待したことはない、と述べていることなど、北独自の卓越した考え方を知ることができます。

 また、北は「対露方針が昨年の前期のに如くロシヤと結んで北支に殺到」しようとする陸軍の方針を変更させるため、「日支の同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置く事を目的」とする具体的活動をしていました。つまり、「支那に於いては私の永年来の盟友張群氏の如きが外交部長の地位に就いたので、自分は此の三月には久し振りに支那に渡ろうと準備をして居た」というのです。このあたり、石原完爾の「最終戦争論」にもとづく「華北分離中止論」などより、はるかに現実的かつ外交戦略としても優れていたのではないかと思います。

 こういった点を真崎と比較してみても、真崎は教育総監更迭問題以来、皇道派の青年将校達との対応を誤まり、その結果、永田鉄山惨殺事件や二・二六事件という青年将校の暴走を許してしまいました。また、北が日支衝突を回避するための具体的行動をとったことにおいても、また、青年将校の行動に同意を与えたことについて、その責任をとろうとしたことにおいても、私は、真崎と北を同断に論ずることはきない、私はそう思います。

 もちろん、そのことを踏まえた上で、なぜ北が三年間憲法停止した上での国家改造を提案するに至ったかを考える必要があります。



2011年7月27日 (水)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか8――皇道派青年将校が生まれたワケ

*長文のため本文掲載とします。

健介さんへ
>皇道派と統制派という用語は興味深いものがあるが、その後の展開は皇道派の予測どおりに進んだ。

tiku 皇道派が軍で主導権を握っていれば日中戦争もひいては大東亜戦争もなかったという意見がありますね。近衛文麿が皇道派を支持し続けたことはよく知られていますし、これに対して昭和天皇は皇道派の領袖と目される真崎を嫌ったとされます。こうした天皇に対する最後の直諫として提出されたものが「近衛上奏文」で、「満州事変から大東亜戦争までを引き起こした張本人は、軍部内の一味の共産主義と両立する革新運動そのもの」であり、それを担ったのが統制派である、とする見方です。

 ジャーナリストでこうした皇道派擁護の論陣を張ったのは、岩淵辰雄で『敗るゝ日まで』(s21)があります。同様の主張をしているのは山口富永(『昭和史の証言―真崎甚三郎人・その思想』s45や、田崎末松(『評伝真崎甚三郎』s52)があります。また、山口氏にはNHK特集「二・二六事件消された真実」(s63)に対する反論となる『二・二六事件の偽史を撃つ』(h2)があります。私が前回用いた『盗聴二・二六事件』の著者中田整一氏は先のNHK特集番組制作のプロデューサーを務めました。

 まず、このNHK特集番組についてですが、私は丁度この番組をNHKオンデマンドより記録していましたので、それを見てみました。この番組ではその「消された真実」とは、戒厳司令官となった香椎中将少将が「陸軍大臣告示」(26日午後3時下達)より以前に「陸軍大臣告示」(午前10時50分)が近衛師団に下達されていたというものです。これにより、香椎や山下奉文少将さらには荒木大将や真崎大将が反乱軍を幇助した、というよりその首謀者であったらしい事が示唆されて番組は終わります。

 ただし、中田整一氏の著書の末尾には、二・二六事件の反乱軍将校安藤輝三の遺書の次のような一節が紹介されています。

 「吾人を犠牲となし、吾人を虐殺して而も吾人の行える結果を利用して軍部独裁のファッショ的改革を試みんとなしあり。一石二鳥の名案なり、逆賊の汚名の下に虐殺され『精神は生きる』とかなんとかごまかされて断じて死する能わず」

 要するに、私が本エントリーで紹介した通り、この事件は統制派に利用されたわけで、彼らはそのための計画を既に持っていたということです。で、この番組の結論としては、この事件の真相が明らかにされることによって、戒厳司令官でもあった香椎中将までがこの事件に関わっていたことが明らかになると、軍の国民に対する信頼や威信が崩壊する恐れがあったからその真相を封印した、というような説明がなされていました。

 しかし、そのために皇道派の領袖達に対する断罪を避けたのか、ということになると、私は必ずしもそうではなくて、実は、この事件の真相究明が進みすぎると、これら皇道派の領袖の罪だけではなく、安藤輝三が指摘したような石原完爾等統制派の隠された計画まで明らかになる、それを怖れたからだと思います。中田氏の本ではこのことへの言及がなされていますが、NHK特集番組ではそうなっていませんでした。

 で、真崎甚三郎についてですが、私は、事件の計画をあらかじめ知っていた、ということではないと思います。しかし、この事件に至るまでにいわゆる皇道派青年将校が引き起こした数々のクーデター事件の責任が真崎になかったかというと、私はそうとも言えないと思います。にもかかわらず、戦後氏が書いた手記などにはこの点についての言及がない。これが、責任転嫁とか言い訳に終始したとかと批判される所以だと思います。教育者としてはともかく、統制を重んずべき軍隊の大将としては、皇道派青年将校の行動を抑制・教導すべきでした。

 この、真崎の教育者としての側面については、田崎末松『評伝真崎甚三郎』(s52)が次のような解説をしています。少々長いですが、皇道派青年将校がどのような時代背景の下に誕生したか、真崎は彼らに何を教えたか、ということが大変わかりやすくまとめられていますので紹介しておきます。

四 昭和維新の原点
 「昭和維新」ということについては、いろいろの解釈があるはずである。わたくしは、天皇信仰を中心とする国体原理への回帰と、それを軸とする体制内の変革運動であると理解している。
 そして、青年将校運動の萌芽と、教育者真崎甚三郎少将の登場をその原点の一つとしてあげるものである。
 この青年将校運動の結晶体ともいうべき二・二六事件こそ、真崎の運命を一挙に逆転せしめた決定的な事実でもあった。

(1)青年将校運動
 昭和のはじめころの青年将校といえば、たんに若い将校一般という意味ではなく、いわゆる隊付の「一部青年将校」または「要注意将校」といわれ、軍の上級幹部や憲兵隊によってある特別な眼をもって注視されていた「政治化した軍人」とくにある種の「自己-社会変革」を志向する一群を指すものということができる。

 彼らのすべては陸軍幼年学校――陸軍士官学校の卒業生である専門軍人であった。
 しかし、そのほとんどが、高級軍事官僚の養成機関である陸軍大学校に入校することを意識的に拒否し、いわゆる立身出世コースからはずれた。そして隊付将校として、一般国民から徴募された下士官・兵とともに国防の第一線、現場にとどまろうとする志向をもっており、その場から自己ならびに日本の変革を考えた。

 こうした青年将校のリーダーたちのいく人かをあげて見よう。
(氏名)      (生年月日)          (陸士卒業期)
西田税    明治三十四(一九〇一)年 三四期
大岸頼好   明治三十五(一九〇二)年 三五期 
村中孝次  明治三十六(一九〇三)年 三七期
大蔵栄一  明治三十六(一九〇三)年 三七期
菅波三郎  明治三十七(一九〇四)年 三七期 
○磯部浅一 明治三十八(一九〇五)年 三八期 
○安藤輝三 明治三十八(一九〇五)年 三八期
 末松太平 明治三十八(一九〇五)年 三九期
○栗原安秀 明治四十一(一九〇八)年 四一期
  (○印は二・二六事件のリーダー)

 このように、青年将校たちは西田から栗原まで、大正十一(一九二二)年から昭和四(一九二九)年にかけてのほぼ一九二〇年代に少尉に任官し、連隊付将校として兵とともに社会に接していたことがわかる。

 この時代の世相はどのような状態であったかといえば、要約すると次のような時期であった。
 このころの日本は明治維新以来順調にたどってきたコースを登りつめ、ある曲り角にさしかかっていた。
 経済的には、第一次大戦後間もなくから慢性的不況のうちにあり、ついで昭和初期の金融恐慌、銀行の取り付けさわぎに出合い、そして二〇年代末から金解禁恐慌と世界大恐慌の大嵐にまきこまれていた。

 対外関係の面では、民族独立、一切の外国利権の奪還を呼号する隣邦中国における「反帝愛国」運動が次第に無視することのできない要因に成長しつつあった。
 植民地隷属からの脱却をのぞむ中国民衆の声は、いまやようやく高く、日本をふくむ外国の既得権益擁護政策と真正面から衝突するようになってきた。

 こうした時期に、青春時代を生きた青年将校たちにとって、内政面でも世間の風は冷たかった。世は滔々として「デモクラシー」の時代である。思想的にはリベラリズム、のちにはマルキシズムが、政治的には政党政治が、一世を風靡していた。軍の存在はとかく煙たがられ、あるいは軽視、あるいは蔑視される傾向にあった。

 大正十一 (一九二二)年二月、ワシントン会議で海軍軍縮条約決定、同七月陸軍軍縮計画(いわゆる山梨軍縮)発表、翌々大正十四(一九二五)年、いわゆる宇垣軍縮が実施された。青年将校の「先輩格」であり、のちに二・二六事件に連座した山口一太郎(明治三十三年静岡県生まれ、三三期、本庄繁大将の女婿)は、この宇垣軍縮について次のようにいっている。

「懐しい奈良の歩兵第五十三連隊は廃止となり、此の御旗の下で死を誓った軍旗は宮中へ奉遷される。最後の軍旗祭が、さみだれそぼ降る奈良練兵場で行われた。時の連隊長は江藤源九郎氏である。市民悉くが泣いた。こんなに国防力を減らしてどうなるか、列強は第一次大戦後の尨大な陸軍を擁しているのに、目本だけ減らすとは何事か。しかも街には戦争成金がうようよして百円札で鼻をかんでいるではないか・・・青年将校たちの気持はこれで一ぱいだった」(「嵐のあとさき、一丁二六事件の起きるまで」『時論』昭和二四年八月号)

 経済過程の混乱、対外関係の困難という重大な客観的危機の存在、これに有効に対処し得ない″進歩主義的″観念をもつ当局者――こういった図式で問題状況をとらえようとする人達が、第一次大戦時、戦後徐々に、しかし確実に発生し増加してきた。彼らの多くは、こういった問題状況に対し、天皇の下に「維新日本」をつくり「復興アジア」と連帯しようという、国内的かつ国際的の「日本らしい維新」(彼らはしばしば「革命」という言葉をきらった)を構想した。

 このような「維新」の思想こそ、いわゆる革新右翼、あるいは日本ファッシズムの典型的思考様式といってもよかろう。それは、巨視的に見れば、世の「欧化主義」的風潮に反発した「国粋主義」的傾向に棹さすものであると同時に、一面それを乗りこえようとするものであった。
 このような「土壌」の上に青年将校運動の華が開花するのである。

(2)教育者・真崎甚三郎少将の登場

 真崎甚三郎が士官学校教育に奉仕した四ヵ年は、教育者真崎のイメージを定着させた。
 しかし、このことは元来、変革思想の信奉者でもない真崎を、昭和維新の原点のひとりとして位置づけることにもなった。

 そして、青年将校からは、維新変革運動の最大の同調者として過大に評価され、一般からは変革運動=二・二六の元凶として烙印されることによって、致命的な打撃をうけることになる。

 戦争中のマンモス化した軍隊のイメージしか想起することのできない人びとにとって、大正デモクラシーの時代の軍隊は極端に軽蔑されていたといっても、おそらく信じられないことであろう。
 しかし、事実はまったくその通りであった。

 英国の首相であったチャーチルの言葉を借りるまでもなく、少くとも近代国家において真に権力を握っているものは、予算の審議権、議決権、執行権をもつものである。

 明治憲法にどのような欠陥――たとえば統帥権の独立――があったにせよ、予算の審議権と議決権は、一貫して帝国議会が握っていた。したがって議会が予算を通して軍をもほぼ完全に統御しえた時代があったし、またあって当然であった。いうまでもなくそれは、大正時代から昭和初期で、大正元年の閣議の二個師団増設案否決による上原陸相の単独辞職、三年の貴族院による建艦費の大削減、同年の衆議院による二個師団増設費否決にはじまり、「尾張」以下七隻の建艦中止、ワシントン条約の締結、四個師団の廃止等から昭和五年のロンドン海軍軍縮条約の無条件批准まで、後の″軍の横暴″と対比するとき、全く信じられないぐらいの軍の凋落ぶりであった。

 「当時の私を回顧すると全く煩悶懊悩時代であった。第一次世界戦争の中頃から世界をあげて軍国主義打破、平和主義の横行、デモクラシー謳歌の最も華やかな時代であって、日本国民は英米が軍国独逸の撃滅に提唱した標語を、直ちに我々日本人に志向した。我々軍人の軍服姿にさえ嫌悪の眼をむけ、甚だしきは露骨に電車や道路上で罵倒した。娘たちはもとより親たちさえ、軍人と結婚しよう。又させようとするものはなくなった。物価は騰貴するも軍人の俸給は昔ながらであって、青年将校の東京生活は、どん底であった。

 書店の新刊書や新聞雑誌は、デモクラシー、平和主義、マルクス主義の横溢であった。鋭敏な神経をもつ青年将校で、煩悶せぬ者はどうかしている。多くの青年将校が軍職をやめて労働中尉や何々中尉となった。

 私もその例に洩れず、盛んに思想、経済、文化等の書を読み耽った。いわゆる何々中尉の一歩手前まで進んだ。が私には母が生きていた。私の軍人になったのは母の希望であった。私は母の悲しみを思って立ち止った。」

 この文章は、永田軍務局長暗殺以後の日本を事実上動かす実力者といわれた武藤章(二五期、軍務局長、A級戦犯として処刑される)が、大正九年十二月、陸軍大学校を卒業した当時を追憶した一節である。(沢地久枝『暗い暦』)

 エリート中のエリート軍人とうたわれた武藤にして、この軍籍離脱すれすれの煩悶の時代があったのである。
 他は推して知るべしである。
 まさに軍全体が士気温喪した時代である。

 この風潮は、必然的に陸軍将校の養成機関である士官学校に伝播しないはずはない。
 この自由主義的風潮は、士官教育の総本山として鉄の規律を誇る陸軍士官学校にもおしよせてきた。
 自由主義の嵐にゆらいだ市ヶ谷台は軍紀風紀の弛緩という、創設以来の危機をむかえていた。
 こうした空気のなかにあった大正十二年八月の初旬、この士官学校に新しい本科長が着任した。
 歩兵第一旅団長から転補された、陸軍のホープ、真崎甚三郎少将である。
 そうして、これから、彼が引きつづき学校幹事から校長へと昭和二年八月二十六日、陸軍中将に昇進して第八師団長として弘前に栄転するまでの四年間、いわゆる独特の皇国観にもとづく徹底した士官教育が実施されたのである。

 昭和維新を志向する青年将校のほとんどはこの真崎時代の生徒であり、国家改造の思想的原点を天皇制絶対の皇国観、国体原理に求めたのである。
 この意味で、真崎の士官学校における教育方針が、昭和維新の原点となったということもできよう。

 しかし、ここで明確にしておかなければならないことは、この真崎の皇国観教育というのは、真崎の創意ではなく、沈滞していた天皇信仰、国体原理信仰の興起振作というところに重点があったということであり、昭和維新、国家改造の革新的行動の原点ではなかったということである。

 昭和維新の思想的原点は天皇信仰にあったけれども、その変革原理は真崎らの想定することのできないほどラジカルな行動原理、北一輝的な国家改造方式に傾斜していたのである。

 この青年将校運動が、二・二六の蜂起となって結晶したとき、ひとびとはその革命的行動原理までもふくめて、真崎の皇道教育にあったと非難した。
 このことは、皇国思想即昭和維新と速断するあやまりからくるものである。」(『評伝 真崎甚三郎』p31~35)

 つまり、真崎は大正12年8月に士官学校本科長に就任以来校長となり、昭和2年8月に広前第八師団中となるまでの4年間、士官学校教育に専念し、先に紹介したような「一部青年将校」を育てたのです。といっても、この時真崎が進めた皇国観教育、国体精神教育というのは、大正自由主義が風靡し自我主義が放縦に流れる中で、皇国史観に基づく国民道徳の回復とともに、軍における天皇への忠誠を基本とする兵の統率、部隊の指揮のあり方を説いていたのです。ここから彼の国体明徴論も出ていたのです。

 こうした真崎の、皇国思想と兵士の気持ちを分かってやろうとする教育者的な態度、これに加えて、三月事件や十月事件などのクーデター事件を引き起こして「軍人の政治的中立主義と統帥権の独立」という健軍の本義を破壊せんとする幕僚将校等に対する真崎の批判の眼。それと、先に紹介したような隊付き将校等の当時の政治・社会情況に対する憤激、その正義感に発し、天皇の「大御心」による一君万民平等社会の実現を目指した、いわゆる「君側の奸」排除のクーデター計画。それを逆利用し彼らを弾圧することで、軍の統制回復と共に、軍主導の国家社会主義的体制を実現しようとする幕僚将校たち・・・。

 こういった三つどもえの構図の中で、真崎の責任が問われているのだと思います。まあ、真崎が、「軍人の政治的中立主義と統帥権の独立」という健軍の本義を守ることが本当に大切だと思っていたのなら、一元的な指揮命令系統の絶対の条件とする軍の組織において、青年将校等が横断的結合を強めて政治的要求を行うことなど絶対に許すべきではなかった。まして、その軍の組織において上官の命令なしに「私兵」を動かし、重臣を暗殺しクーデター事件を引き起こすなど、こんな行為に同情を寄せるなどとんでもない話です。

 ところが、これに同情というか理解を示し、逆に、そうした過激な行為に青年将校等を追い込んだ政治が悪いというようなことで、彼らの暴走を弁護しようとする・・・それが自己矛盾を犯していることに気がつかなかった。そこに皇道派の失敗の原因というか甘さがあったのです。この点、統制派はこの皇道派の矛盾から生まれる破壊的行動を断罪することで軍の統制を回復するとともに、彼らの政治批判の論理を逆利用することで、自らの信じる国家改造計画を推し進めたわけで、まあ、皇道派はうまく利用されたわけです。騙された方が負け、恨んでも仕方ないということですね。

 この点、北一輝はこの理屈がよく判っていたのです。

二・二六事件の裁判で、北を裁いた当時の吉田悳裁判長は、法廷における北の態度を次のように語っています。

 「法廷で尋問すると、北は”そうですか、それじゃあそうしておきましょう、とどんな罪でも裁判官のいわれるとおり、私は認めますから”と、そんな態度でしたよ。私は北の死刑直後に刑場に行ったんですが、執行に立ち会った法務官の話では、銃殺の前に、項目隠しをされてですね、刑架に座らされ、縛られた時、”ああ、いい気持ちじゃ”といったというんです。」

 そのリアリストの北が、なぜ、皇道派青年将校に付き合ったか。”若殿に兜取られて負け戦”、ということで、天皇の断固たる討伐意思を読めなかったことと、その後の統制派の戦略――この事件の基本的性格を、「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走したもの」として世に公表し、北等を極刑に処することとしたこと――に兜を脱いだ、ということなのではないでしょうか。そこが純真な青年将校達との違いですね。

 なお、「二・二六事件をきっかけとして、真崎が発言力を失った瞬間から支那事変はおこったのである」という山口富永氏の主張が正しいかどうか、について、私は次のように考えています。私は支那事変のが最大原因は、関東軍が広田と蒋介石の妥協を妨害するために始めた華北分離工作にあると思っています。そこで、真崎や荒木を中心とする皇道派が、そうした関東軍の独断行動を掣肘するための具体的行動をどれだけとったか、ということが問題になります。真崎はその証拠として、熱河討伐作戦で関東軍が長城の線を越えようとしたことを止めたことや、第一次上海事変出の兵力引き揚げに尽くしたことなどを挙げていますが、これは天皇の意向があったからこそできたことです。

 その天皇と心を一つにして、関東軍による華北分離工作に起因する華北への戦争拡大を防ぐためには、まず、軍の統制を回復する必要があった。そのためにも、皇道派青年将校が軍の統帥や統制を無視して横断的に結合し政治的行動に出ることを厳しく諫めるべきだった。事実、彼らは五・一五事件以降いくつものクーデター事件が引き起こしていた。なぜ、彼らを説得し善導しようとしなかったのか。まさか、”真崎は皇道派青年将校の犠牲になった気の毒な将軍”などとはいえないわけで、結局、彼は純真な青年将校を扇動して自らの復権を図った、という風に見られてしまうのです。

 このあたり、近衛の持っていた弱さと同じものを感じますね。それを利用しようとした統制派の思想を凌駕するものを、彼らは持ち得なかったということだと思います。これを日本の宿命といえば確かにその通りですが、立憲政治や政党政治を守ろうとする意見もあったわけですから、やはり、不明というほかないと思います。もちろん、最大の責任が、国民の政治に対する信頼を損ねた当時の政治家にあったことは申すまでもありません。この点、今日の民主党の政治の現状を見れば、戦前の日本国民が軍の言い分の方を信用する気になったのも、無理ないと思いますが。  



2011年7月24日 (日)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか7――皇道派の暴走を利用した統制派

 昭和の歴史を主導した青年将校グループに皇道派と統制派があり、両者が激しい主導権争いを行ったことはよく知られています。その争いの頂点となったのが、皇道派将校相沢三郎による軍務局長永田鉄山斬殺事件でした。この事件は、一青年将校が、軍服軍刀で陸軍省に行き白昼堂々軍務局長を斬殺したもので、軍紀の常識上考えられないことでした。しかし、さらに異常なのは、事件直後、相沢は上司に「これから御前はどうする気か」と尋ねられると、「これから偕行社に寄って買い物をして、直ぐに任地(台湾)に出発します」と答えたことです。

 こんな話を聞くと、多くの人は、この相沢という軍人は精神的に異常だったのではないかと思うでしょう。もしそうであれば、この事件は精神異常者の引き起こした特異な事件として処理されたはずです。ところが実際は違った。陸軍省より「相沢中佐は永田鉄山中将に関する謝れる巷説を盲信したる結果云々」と発表されると、皇道派の軍人は「『誤って巷説を盲信し』とは怪しからぬ、それは真実に基づき信念を持って実行した帝国軍人の行動である」といい、恰も永田が殺されるのは当然である言わんばかりの態度を以て抗議したもの」もいたといいます。

 さらに皇道派は、この相沢の裁判を利用して統制派に打撃を与え、同志相沢の行動をむなしく終わらせないことを誓い合いました。そこで彼らは次々と裁判の証人台に立ち「永田は国軍を毒する蛇であり、その横死は天誅である」と卓をたたいて叫びました。これに対して永田を弁護する統制派も立ち上がり、これに応じて皇道派の御大である真崎甚三郎が証言台に起つことになりました。こうして皇道派は、「公判に世間の視聴を集め、統制派を痛撃する一方に於いて、クーデターを断行する工作を秘密に進め」、真崎大将が出廷した翌日の2月26日、突如二・二六事件を起こしたのです。(『軍閥興亡史Ⅱ』p250)

 この二・二六事件ですが、その基本的な性格は、皇道派対統制派の対立抗争がその頂点に達した段階で起こったクーデター事件である事が示す通り、現体制を掌握している統制派に対して皇道派が権力奪取を図ったものということができます。この時殺された重臣は、内大臣斉藤実、蔵相高橋是清、教育総監渡辺錠太郞、重傷は侍従長海軍大将鈴木貫太郎、未遂は首相岡田啓介、前内大臣牧野伸顕、元老西園寺公望でした。この内文官は高橋是清、牧野伸顕、西園寺公望で、彼らは「君側の奸」と目されたために攻撃を受けました。また、その他は軍人出身あるいは現役軍人(渡辺錠太郞)で統制派と目されたためです。

 この襲撃が終わった約1,400名の将兵は、予定通り、首相官邸、警視庁を占領し、麹町区西地区一帯の交通を遮断し、午前五時、大尉香田清貞、村中孝次、磯部浅一の3名は川島陸相に面会し、決起趣意書を朗読した上次のような要望書を突きつけました。

 それは(一)全権の奉還、(二)統制経済の実施、(三)以上を実行し得る協力内閣の出現を上奏する、の三項目を主文とし、これに加えて十二項の付則細目がありました。
一、現下は対外的に勇断を要する秋なりと認められる
二、皇軍相撃つことは避けなければならない
三、全憲兵を統制し一途の方針に進ませること
四、警備司令官、近衛、第一師団長に過誤なきよう厳命すること
五、南大将、宇垣大将、小磯中将、建川中将を保護検束すること
六、速やかに陛下に奏上しご裁断を仰ぐこと
七、軍の中央部にある軍閥の中心人物(根本大佐(統帥権干犯事件に関連し、新聞宣伝により政治策動をなす)、武藤中佐(大本教に関する新日本国民同盟となれあい、政治策動をなす)、片倉少佐(政治策動を行い、統帥権干犯事件に関与し十一月事件の誣告をなす)を除くこと
八、林大将、橋本中将(近衛師団長)を即時罷免すること
九、荒木大将を関東軍司令官に任命すること
十、同志将校(大岸大尉(歩61)、菅波大尉(歩45)、小川三郎大尉(歩12)、大蔵大尉(歩73)、朝山大尉(砲25)、佐々木二郎大尉(歩73)、末松大尉(歩5)、江藤中尉(歩12)、若松大尉(歩48))を速やかに東京に招致すること
十一、同志部隊に事態が安定するまで現在の姿勢にさせること
十二、報道を統制するため山下少将を招致すること
 次の者を陸相官邸に招致すること
26日午前7時までに招致する者――古庄陸軍次官、斎藤瀏少将、香椎警備司令官、矢野憲兵司令官代理、橋本近衛師団長、堀第一師団長、小藤歩一連隊長、山口歩一中隊長、山下調査部長
午前7時以降に招致する者――本庄、荒木、真崎各大将、今井軍務局長、小畑陸大校長、岡村第二部長、村上軍事課長、西村兵務課長、鈴木貞一大佐、満井中佐(wiki「二・二六事件」参照)

 要するに「彼らは、『昭和維新』の詔勅を賜った後、具体的には陸軍大将・真崎甚三郎か、陸軍中将・柳川平助などを担いで維新内閣を樹立し、志の実現を図ろうという思いを抱いていた」のです。(『盗聴・二・二六事件』p64)

 ただし、真崎も荒木も事前にはこれを知らなかったとされます。しかし、これらは一見して皇道派の天下を画策したものであること歴然たるものがあり、彼ら(真崎、荒木、柳川)は皇道派の領袖として、また軍事参議官として、この要望書に沿った事件の処理に努めました。

 具体的には、26日午後2時には全軍事参議官の外、杉山次長、本庄侍従武官長、香椎東京警備司令官等が出席して軍事参議官会議が開かれ、鎮撫、原隊復帰を第一の収拾策とする立場から、午後3時30分、香椎司令官を経て、次のような陸軍大臣告示が叛乱軍に示されました。

一、決起の趣旨に就いては天聴に達せられあり
二、諸子の行動(原案は「真意」)は国体顕現の至情に基づくものと認む
三、国体の真摯顕現の現況(弊風をも含む)については恐懼に堪えず
四、各軍事参議官も一致して右の趣旨に依り邁進することを申合わせたり
五、之以外は一つに大御心に俟(ま)つ

 さらに、午後7時20分には東京警備司令部より、歩兵第一連隊長(小藤恵)に対し、反乱軍である歩兵第一、第三、野重砲七の部隊を指揮して、叛乱部隊が占拠している地区を、之と対決している武力(警備司令部)とともに一括して警備せよという驚くべき命令が発せられました。つまり、大臣告示とこれによって、決起部隊は賊軍ではなく官軍となったのです。こうして一日だけの食糧を携行して兵営を出た反乱軍は、原隊からの食料によって食事をするようになりました。

 このため、反乱軍将校の大部分は情勢は全く自分たちに有利と判断し、一挙に維新の断行を推進しようとして、歩一連隊長に対し全面的にはその指揮下には入らず、独自の権限を与えよと要求しました。しかし、こうした軍事参議官等の出した大臣告示以下の措置は、全く天皇の意思に背くものであって、その後、天皇の怒りの激しさを知った彼らは、この上は、皇軍相撃を避けるため、反乱軍をおとなしく原隊に帰すべく、叛乱側を説得しようとしました。しかし、叛乱側は大臣告示等の内容を盾に、こうした説得を受け入れようとしませんでした。

 一方、こうした動きの裏で、また別の動きが始まっていました。それは石原作戦部長を軸とする統帥幕僚らの動きで、26日夜、石原、橋本(欣五郎)、満井(佐吉)らが会談し次のような結論を得たとされます。

 「陛下に石原より直接奏上して、叛乱軍将兵の大赦を請願し、その条件のもとに反乱軍を降参せしめ、その上で軍の力で適当な革新政府を樹立して政局を収拾する。」(『二・二六事件』高橋正衛p91)この時石原は、当初「維新大詔渙発」によって、天皇親政を基軸とする皇族内閣を構想していました。しかし後継首班については意見一致せず、山本英輔海軍大将を推すことになりました。

 しかし、天皇の怒りの激しさを知る杉山参謀次長は、石原のこうした進言を拒絶しました。一方、石原は戒厳令の施行を主張していました。戒厳令は、まず閣議決定を必要とし、続いて枢密院の諮詢を経て天皇裁可・布告となります。実は、戒厳令の施行には軍部以外の大臣らは反対で、彼らは、これに乗じて軍部が軍政を布き、政治的野望を図るのではないかとの警戒心を持っていました。しかし、未曾有の大事件であって、軍部以外の手では鎮圧できない弱みがあるので、やむなく賛成したといわれます。(『盗聴二・二六事件』p72)

 この間の石原の行動については、当初は、「大赦の請願」や「維新大詔渙発」を画策するなど叛乱軍を幇助するかのような姿勢を見せていました。しかし、天皇の叛乱軍に対する怒りが激しく、それが無理だと判ると、戒厳令の施行(27日午前3時50分「緊急勅令」公布)に伴い、戒厳参謀として叛乱軍の鎮圧する側に立ちました。一体、この間の石原の真意はどこにあったのか、ということを巡って様々の意見が戦わされています。が、おそらくその真相は、次のようなものだったのではないでしょうか。(下線部訂正8/4)

*石原は戒厳令の施行は当初から主張していたとも言う。

 「・・・二・二六事件の時の戒厳令は、私が中心になって作った対策要綱が原案になって居るんです。」

 これは、二・二六事件発生当時、軍務局軍務課員であった片倉衷が、戦後、NHKの中田整一に語った言葉です。彼は、二・二六事件が勃発したこの日の早朝、陸相官邸に駆けつけ、その玄関前で反乱軍の磯部浅一に頭部を拳銃で撃たれました(一命はとりとめた)。片倉は石原や武藤章等とともに、打倒すべき重要幕僚の一人として、かねてより皇道派の青年将校に狙われていたのです。

 その彼が中心となって、この事件が発生する2年前に作っていたものが、この「対策要綱」、すなわち「政治的非常時塩勃発に処する対策要綱」でした。これは、予測される皇道派による「軍事クーデター勃発に際し、その鎮圧過程を逆手にとり、自分たちの側が依り強力な政治権力を確立するための好機として利用しようという、いわば”カウンター・クーデター”の構想」をまとめたものでした。

 その序文は次のようなものです。

 「帝国内外の情勢に鑑み・・・国内諸般の動向は政治的非常事変勃発の虞(おそれ)少なしとせず。事変勃発せんか、究極軍部は革新の原動力となりて時局収拾の重責を負うに至るべきは必然の帰趨にして、此場合政府並国民を指導鞭撻し禍を転じて福となすは緊契(ママ)の事たるのみならず、革新の結果は克く国力を充実し国策遂行を容易ならしめ来るべき対外危機を克服し得るに至るものとす。即ち爰に軍人関与の政治的非常事変勃発に対する対策要綱を考究し、万一に処するの準備に遺憾なからしむる」(片倉衷『片倉参謀の証言 叛乱と鎮圧』)」

 つまり、この「要綱」は、「国内において軍人による事変が勃発することを予見しつつ、併せて、国力充実のため、国家体制の革新が求められているとの基本認識」に立って、こうした事変勃発を逆に利用して「軍部自らは直接手を汚すことなく、しかも結果的に『革新の原動力』たらんとする意思」を明確に打ち出したものです。「それは、皇道派青年将校らの国家改造案とは異なり、緻密な計画性と戦略をもった、統制派の省部幕僚たちによる反クーデター計画案であった。」(上掲書p77~78)

 この「対策要綱」の実施案は次のようになっていました。

(一)事変勃発するや直ちに左の処置を講ず
イ、後継内閣組閣に必要なる空気の醸成
口、事変と共に革新断行要望の輿論惹起並尽忠の志より資本逃避防止に関する輿論作成
ハ、軍隊の事変に関係なき旨の声明
但社会の腐敗老朽が事変勃発に至らしめたるを明にし一部軍人の関与せるを遺憾とす
(二)戒厳宣告(治安用兵)の場合には軍部は所要の布告を発す
(三)後継内閣組閣せらるるや左の処置を講ず
イ、新聞、ラジオを通じ政府の施政要綱並総理論告等の普及
ロ、企業家労働者の自制を促し恐慌防止、産業の停頓防遏、交通保全等に資する言論等に指導
ハ、必要なる弾圧
(検閲、新聞電報通信取締、流言輩語防止其他保安に関する事項)
(四)内閣直属の情報機関を設定し輿論指導取締りを適切ならしむ

 つまり、「統制派幕僚たちは、いつクーデターが起こっても素早く対応できるよう、既に万全の体制を整えていた」のです。そして、二・二六事件の勃発についても、それは第一師団の満州移駐が決定的な引き金になるだろうと予測し、2月22,23日には、憲兵より事件勃発の警告を得ていました(片倉談)。つまり、先に紹介した石原の奏上案も、また、一転して布くことになった戒厳令も、全て、統制派幕僚である石原や片倉等の構想した、カウンター・クーデターへの道筋に沿うものだったのです。(上掲書p79~80)

 結局、28日午前5時には、蹶起部隊を所属原隊に撤退させよという奉勅命令が戒厳司令官に下達され、反乱部隊の下士官兵は29日午後2時までに原隊に帰りました。残る将校らは午後5時に逮捕され反乱はあっけない終末を迎えました。また、同日、北、西田、渋川といった民間人メンバーも逮捕されました。こうして、2月29日付で反乱軍の20名の将校が免官となり、事件当時に軍事参議官であった陸軍大将のうち、荒木・真崎・阿部・林の4名は3月10日付で予備役に編入されました。

 また、侍従武官長の本庄繁は女婿の山口一太郎大尉が事件に関与しており、事件当時は反乱を起こした青年将校に同情的な姿勢をとって昭和天皇の思いに沿わない奏上をしたことから事件後に辞職し、4月に予備役となりました。陸軍大臣であった川島は3月30日に、戒厳司令官であった香椎浩平中将は7月に、それぞれ不手際の責任を負わされる形で予備役となりました。さらに、皇道派の主要な人物であった陸軍省軍事調査部長の山下奉文少将は、歩兵第40旅団長に転出させられました。

 この事件の裏には、上に見た通り、皇道派の大将クラスの関与が疑われたわけですが、事件の基本的性格としては「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した」という形で世に公表されました。そのため、民間人を対象とする裁判を担当した吉田悳裁判長が「北一輝と西田税は二・二六事件に直接の責任はないので、不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁固刑を言い渡すべき」と主張したにもかかわらず、寺内陸相は、極刑の判決を示唆した、とされます。

 この事件は、武藤章らの主張に基づき厳罰主義で速やかに処断するため、緊急勅令による特設軍法会議で裁かれることになりました。特設軍法会議は常設軍法会議にくらべ、裁判官の忌避はできず、一審制で非公開、かつ弁護人なしという過酷なものでした。また、判決は、陸軍刑法第25条の「反乱罪」が適用され、元歩兵大尉 村中孝次、元一等主計 磯部浅一を含む将校16名が死刑という過酷なものとなりました。

 以上、二・二六事件で極点を迎えた皇道派vs統制派という昭和の青年将校グループの対立を見てきました。だが、この皇道派と統制派という二つの青年将校グループは、一体何を巡って、ここまで対立を深めたのでしょうか。実は、本稿でも指摘している青年将校運動の出発点となった「満州問題の武力解決」という点では違いはなかったのです。そこに対立が生じたのは、満州事件に呼応する形で計画された10月事件の処理を巡って皇道派の青年将校側に次のような不満が生じたためでした。

 ここで皇道派というのは、いわゆる「隊付き」将校を中心とする青年将校グループのことです。一方、統制派というのは、陸大出の――いわゆる天保銭組といわれ、陸軍省や参謀本部など軍の要職を占有した――いわゆる幕僚将校とよばれた青年将校グループのことです。この両者に、満州事変以降対立が生じたのです。なぜか、幕僚将校等のクーデター計画段階での美技を侍らし酒色に耽る態度が、隊付き将校等の眼には私利私欲に見えたこと。また、クーデタ成功後、彼らが自らを大臣とする閣僚名簿を作成したことが、天皇大権を私議するものに見えたのです。

 つまり、皇道派というのは、満州事変以前の幕僚将校主導の青年将校運動に、隊付き将校を中心とする青年将校グループが反発し、独自の国家改造運動を始めたことで生まれたものなのです。これに対して、幕僚将校たちは、満州事変の成功で軍主導の革命拠点を作成したことでもあるし、クーデターという非常手段に訴えなくても、軍の統帥権を盾に政権を合法的に掌握することが可能だと考えるようになった。そして、そのことは同時に、隊付き青年将校等が北一輝等民間の革命家と結んで計画するクーデターを、軍の統制や軍紀を乱すものとして厳しく弾圧するようになった。

 といっても、両者が日本を国家改造することで達成しようとしていた新しい国家体制イメージにどれだけの違いがあったかというと、いずれも、政党政治には反対で、天皇中心の一国一党制、軍部主導の国家社会主義的政治体制を作ろうとしていた点では同じだったのです。あえてその違いをいえば、前者が一君万民・忠孝一致の家族主義的国家イメージ、後者がナチス的国家社会主義的国家イメージだったということ。前者は実際権力から阻害されていた分だけ、非現実的な忠誠無私の大御心信仰となり、後者は先に紹介した石原や片倉のように、こうした皇道派の暴発を、自らの国家改造目的達成のために逆利用するというしたたかさを持っていたのです。

 この統制派のしたたかさを如実に示すものとなったのが、二・二六事件後、組閣することとなった広田弘毅内閣における組閣人事への軍のあからさまな干渉でした。その閣僚名簿に、外交官の吉田茂、朝日新聞社社長下村宏、前司法大臣小原直、中島飛行機の中島知久、平民政党幹事長川崎卓吉らの名前があることについて、時局認識の不足を露呈するものだとして排撃したのです。その理由、吉田は軍人嫌いで、かつ、二・二六事件で襲撃された牧野伸憲の女婿である。下村は自由主義者だ。小原は国体明徴問題で法相として優柔不断だった。中島は新興財閥で財閥否定の時勢に反するというものでした。

 従来は、軍が内閣の人事に干渉することがあっても、それは軍事費を繞る防衛戦闘のためであって、内閣の構造自体に嘴を入れることはなかったのですが、今度は、閣僚を狙い撃ちして、軍の思想及び国策上の要求を貫こうとする攻撃戦闘だったのです。この談判に出かけたのが寺内寿一で、その後4回にわたり組閣本部を訪れ、その間、軍は28センチ砲を発射して、間接射撃の轟音に政界を震撼させたといいます。その結果、川崎が罪一等を減じて伴食ポストに座った外の四人はオミットされました。(『軍閥興亡史Ⅱ』p296)

 さらにその後、二・二六事件で反乱軍将校を幇助したとして予備役に回された皇道派の陸軍上層部が、陸軍大臣となって再び陸軍に影響力を持つようになることを防ぐために、次の広田弘毅内閣の時から軍部大臣現役武官制が復活することになりました。こうして、「原敬が苦闘幾年にして漸く一本打ち樹てた『軍部横暴制止』の官札」は取り払われることになりました。こうなると陸軍の気にくわない内閣には軍は陸相を出さない。故に内閣は潰れる。こうして、内閣の運命は軍部の掌中に帰するという、軍権横行時代を現出することになったのです。(上掲書p303)

 次回は、こうして皇道派や北一輝の思想を打倒することで勝利を手にし、その後の日本の政治を掌中に収めることになった統制派の思想について、その問題点をもう少し詳しく見てみたいと思います。というのも、この思想は、その後の日本を、泥沼の日中戦争へと引きずり込んだだけでなく、常識では考えられない対米英戦争へと突入させることになったからです。勝った思った思想が実は負けていた?いや、負けた思想はそれ以上に脆弱だった?この辺りの思想的な課題について、大正デモクラシーの時代に遡って再点検してみたいと思います。



2011年7月16日 (土)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか6――満州問題が国家改造に発展した

 これまでの考察で、昭和の青年将校の暴走は「満州問題」の処理をめぐって始まったことが明らかになったと思います。まず森恪によって、その武力解決に向けた政治的道筋が開かれ、それが結果的に張作霖爆殺事件を引き起こすことになった。そして、それが反省されるどころか、一夕会に集う青年将校等によって引き継がれ、周到にその計画が練り直され、理論化され、世論工作がなされて、満州事変となった。この時、満州における日本の権益擁護という問題は、満州を前進基地とする日本国の国家改造の問題へと転化した・・・。これが,その後の日本外交を狂わせた根本的な原因となった、ということです。

 ではなぜ、彼らはそれほどまでして日本の国家改造にこだわったのか、ということですが、その理由は、当時の民政党若槻内閣における幣原外交が、中国の主権尊重を基本とするものだったからで、彼らの主張する満州問題の武力解決を容認しない、と考えられたからです。それは、九カ国条約や不戦条約のもとでは当然のことでしたが、問題は、当時の国民党や張学良政権が、そうした幣原の基本姿勢にも拘わらず、満州における日本の条約上の権益を無視した過激な排日運動を繰り広げたということです。これ は、田中内閣における対支積極(強硬)外交の帰結でもあったわけですが、いささか度が過ぎた。そのため、その責めが総て「幣原外交」に帰され退場を余儀なくされたのです。

 この当たりの事情については、当時、中国に勤務したアメリカの外交官ジョン・マクマリー(中国関係条約州を編集し、ワシントン会議にも参加して、1920年代のアメリカでは、中国問題の最高権威の一人だと考えられていた)が、そのメモランダム(1935年)に次のように記しています。

 「我々は、日本が満州で実行し、そして中国のその他の地域においても継続しようとしているような不快な侵略路線を支持したり、許容するものではない。しかし、日本をそのような行動に駆り立てた動機をよく理解するならば、その大部分は、中国の国民党政府が仕掛けた結果であり、事実上中国が「自ら求めた」災いだと、我々は解釈しなければならない。

 人種意識がよみがえった中国人は、故意に自国の法的義務を軽蔑し、目的実現のためには向こう見ずに暴力に訴え、挑発的なやり方をした。そして力に訴えようとして、力で反撃されそうな見込みがあるとおどおどするが、敵対者が、何か弱みのきざしを見せるとたちまち威張りちらす。そして自分の要求に相手が譲歩すると、それは弱みがあるせいだと冷笑的に解釈する。中国人を公正に処遇しようとしていた人たちですら、中国人から自分の要求をこれ以上かなえてくれない”けち野郎″と罵倒され、彼らの期待に今まで以上に従わざるを得ないという難しい事態になってしまう。だから米国政府がとってきたような、ヒステリックなまでに高揚した中国人の民族的自尊心を和らげようとした融和と和解の政策は、ただ幻滅をもたらしただけだった。

 中国国民と気心が合っていると感じており、また中国が屈従を強いられてきたわずらわしい拘束を除こうとする願いを一番強く支持してきたのは、外国代表団の人々であった。この拘束とは、中国が二、三世代前に、国際関係における平等と責任という道理にかなった規範に従うことを尊大な態度で拒否したがために、屈従を余儀なくされてきたものであった。彼らの祖父たちが犯したと同じ間違いを、しかもその誤りを正す絶好の機会があったのに、再びこれを繰り返すことのないよう、我々外交官は中国の友人に助言したものであった。

 そして中国に好意をもつ外交官達は、中国が、外国に対する敵対と裏切りをつづけるなら、遅かれ早かれ一、二の国が我慢し切れなくなって手痛いしっぺ返しをしてくるだろうと説き聞かせていた。中国に忠告する人は、確かに日本を名指ししたわけではない。しかしそうはいってもみな内心では思っていた。中国のそうしたふるまいによって、少なくとも相対的に最も被害と脅威をうけるのは、日本の利益であり、最も爆発しやすいのが日本人の気性であった。しかしこのような友好的な要請や警告に、中国はほとんど反応を示さなかった。返ってくる反応は、列強の帝国主義的圧迫からの解放をかちとらなければならないという答えだけだった。それは中国人の抱く傲慢なプライドと、現実の事態の理解を妨げている政治的未熟さのあらわれであった。

 このような態度に対する報いは、それを予言してきた人々の想像より、ずっと早く、また劇的な形でやってきた。国民党の中国は、その力をくじかれ、分割されて結局は何らかの形で日本に従属する運命となったように見える。破局をうまく避けたかもしれない、あるいは破局の厳しさをいくらかでも緩和したかもしれない国際協調の政策は、もはや存在していなかった。

 (日本の幣原外交による=筆者)協調政策は親しい友人たちに裏切られた。中国人に軽蔑してはねつけられ、イギリス人と我々アメリカ人に無視された。それは結局、東アジアでの正当な地位を守るには自らの武力に頼るしかないと考えるに至った日本によって、非難と軽蔑の対象となってしまったのである。」(『平和はいかに失われたか』p180~182)

 マクマリーはここで、日本がこのように東アジアにおいて孤立するようになったのは、当時アメリカが「アメリカ以外の国々に頑固に楯突くよう中国人を鼓舞し、彼らにへつらっただけの無意味で偽善的な」行動をとったためである、と言っています。そうした「協力国の利害に与える影響を無視してでも自らの利益を追求」しようとしたアメリカの態度が、武力ではなく外交による国際秩序形成をめざしたワシントン体制を崩壊させ、日本をして、その「正当な地位を守るには自らの武力に頼るしかないと考えるに至」らしめたと言うのです。

 おそらく、これが、第二次若槻内閣のもとでの幣原の対支外交を行き詰まらせ、満州事変を必然ならしめた当時の国際政治要因だったのではないかと思います。また、マクマリーは、張作霖時代における彼と日本との関係や、その後に起こった張作霖爆殺事件、そして張学良について、次のように述べています。

 「張将軍の機略は抽象的もしくは理論的な性格のものではなく、極めて実践的なものであった。彼自身、北京から華北を支配していたころ、自分が馬賊の頭領時代に学んだずる賢しさをむしろ機嫌よく自慢していたものだ。彼の部下たちは外国公使館の友人に、老元帥が日本人を手玉にとる利口さを、むしろあっけらかんと話していた。

 たとえば、鉱区使用料等について条件を定めた上で、日本のある企業に鉱山採掘権が与えられたとする。まもなく、既定の鉱区使用料以上の取引があるとわかると、使用料値上げの要求がなされる。そして日本側がこれを拒否すると、どこからとなく馬賊が近辺に出没して鉱山の運営を妨害し、操業停止に追い込まれる。そうなると日本企業側も情勢を察知し、もっと高価な鉱区使用料を支払うと自発的に申し出る。双方が心底からの誠意を示し合って新しい契約が結ばれる。そのあと馬賊は姿を消すといった具合である。

 中国人自身の証言によると、満州における日本の企業は、事態を安定させておくという満足な保証すら得られず、次々と起こる問題に対応し続けなければならなかった。しかし日本人は、張作霖をよく理解し知恵を競い合った。そして西欧化した民族主義者タイプの指導者、例えば郭松齢のような人より、張将軍の方が日本の好みには合っていた。だから、一九二六年の郭松齢の反乱では、日本が張将軍の方を支援し、郭の反乱は鎮圧されてしまった。

 そこまでは理解可能である。分からないのは、なぜ日本人が、――軍人のグループであったにせよ、あるいは無責任な「支那浪人」の集団であったにせよ―― 一九二八年(昭和三年)に張作霖を爆殺したかということである。

 なぜなら張作霖の当然の後継者は、息子の張学良であったからである。張学良は危険なほどわがままな弱虫で、半ば西洋化しており、あいまいなリベラル思想と、父から学んだ残酷な手法のはざまで混乱してしまって、あぶはち取らずになっていた。現状での頼りにならない不安定要因が彼であった。日本人と張作霖との関係は、全体的にみて満足できるものではなかったが、どうしようもないというわけではなかった。これに反して、張学良との関係を保つのは、日本にとってたぶん耐えられないものであったろう。だから彼が国民党へ忠誠を表明した時、彼が、満州での日本の既得権や支配力を攻撃してくる中国の革新勢力の先鋒になると、日本人が考えたのも十分理解できる。

 上述の状況が、日本の政情の変化の底にあった。そしてワシントン会議以来の日本政府の穏健な政策に対抗して、満州での”積極政策″を唱えていた陸軍閥が優位に立った。それが一九三一年(昭和六年)九月十八日の満州事変の背景であり、これがきっかけとなって、満州および他の中国領への日本の侵略が続いていった。そして、日本国民の間に思想の変化が芽生えはじめる。それは中国ならびに極東全般における日本の好機、使命および運命についての考え方の変化である。この考え方は陸軍の指導者や、特定の狂信的な国家主義者知識層にとっては別段目新しくはないが、勤勉で重税に苦しむ大多数の零細農民達の思考とは全くかけ離れたものであった。」(上掲書p177~180)

 ここで注目すべきは、マクマリーが張作霖爆殺事件について「分からないのは、なぜ日本人が、――軍人のグループであったにせよ、あるいは無責任な「支那浪人」の集団であったにせよ―― 一九二八年(昭和三年)に張作霖を爆殺したかということである。」と疑問を呈していることです。一体、この事件がいかなる事情の元に発生したのか、ということについては前回詳しく述べましたが、ここには明らかに、日本人の思想の変化というより思想的劣化が見て取れると思います。おそらく、こうした彼らの「理解しがたい」行動の根底には、例の「十年の臥薪嘗胆」の思いが伏在していたのではないかと思いますが・・・。

 というのも、この時の首相は、彼ら帝国陸軍軍人の大先輩である元大将田中義一であり、その田中が、ようやく張作霖を説得して満州に帰順させ、新たな日満の共同関係を築こうとしたその矢先、関東軍の一将校が、張作霖を列車ごと爆破し死亡させたからです。それだけでなく、彼の同僚である青年将校等はその犯人を英雄視し、政府に圧力をかけて事件の真相をもみ消し、単なる警備不行き届きの行政処分に止めさせただけでなく、その彼を、その後も軍の諜報組織の中で重用し続けた・・・。

 つまり、彼らは、日本国に国家改造を求める以前の、自らの政権とも言うべき田中内閣下において、これだけの独善的・背信的行動を行っていたのです。これを、政府も軍首脳も厳正に処罰することができなかった。こうして、軍内に、軍紀を無視した下克上的行動を蔓延させることになったのです。こうして、昭和6年には軍首脳をも巻き込んだ三月事件というクーデター事件、次いで満州事変、そして、それに連動した再度のクーデター事件である十月事件が引き起こされることになりました。では、これらの連続するクーデター事件の目標は何であったか、それは「日本国の国家改造」ということだったのです。

 で、この「国家改造」という言葉ですが、これはおそらく、北一輝の『日本改造法案大綱』からとられたものではないかと思います。ということは、こうした考え方は、この時代、軍人だけに通用した言葉ではなく、一般に通用した言葉だったということです。では、こうした北一輝の言葉=思想は、これらの事件にどのような影響を及ぼしていたのでしょうか。また、これらの事件に関わったとされるもう一人の右翼イデオローグ大川周明の思想についてはどうだったのでしょうか。次回はこの問題について考えてみたいと思います。これによって、この国家改造という言葉の意味するところが分かりますし、その妥当性を検証することができるからです。

 結果的には、こうした言葉=思想を生み出した大川や北は、前者は五・一五事件で投獄(15年)、後者は二・二六事件で処刑されてしまいました。つまり、彼らは最初は軍に利用され、そして最後はスケープゴートとされたのです。とはいえ、彼らを単なる右翼イデオローグと決めつけ無視することはできません。特に、北の思想には極めて独創的な見解や、戦後民主主義にも通じる優れたアイデアが数多く含まれています。それを正当に評価した上で、では、なぜそれが「三年間憲法を停止し両院を解散し全国に戒厳令を布く」とか「在郷軍人団を以て改造内閣に直属したる機関」とするなどの、立憲政治や政党政治を否定する「国家改造」法案へとつながったか。

 ここに、昭和の悲劇を理解するための、もう一つの鍵が隠されていると思います。

最終校正7/17 1:30 



昭和の青年将校はなぜ暴走したか5――青年将校にとって満州は生命線だった

 まず、前回提示した疑問についての私の考えを述べておきます。『森恪』の著者山浦貫一は、森恪の対支政策の「本当の狙い」について次のように述べています。

 それは「もともと国共を分離せしめ・・・ソ連と断絶した後の国民革命はこれを認めこれを助けて支那の統一を完成せしめる。そして、多年の懸案である満州問題を解決することだった。しかし、北伐に際し,政友会伝統の積極政策主張の建前から出兵せざるを得ない立場に立ったため、(やむなく)山東出兵したのである」。

  この間の事情について、『軍閥興亡史』の伊藤正徳は次のように記しています。 

 「これより先田中内閣の初期、蒋介石は革命運動に躓いて日本に逃避し、日本の援助を瀬踏みに来たことがある。その時、田中は箱根に於て蒋介石と密会し、蔣が南支を平定することに対し間接に後援するが、満洲の方は日本と北方軍閥(張作霖)の交渉に一任して干渉をしない約束をとり付けていた。だから半年後の蒋介石の北伐に対しても、田中は好意的でこそあれ、之を阻止する考えはなかった。

 にも拘らず、二回に亙って山東方面に出兵したのは、一に政友会内閣の方針が、山東方面の居留民(総数約三万五千名)に対しては一弾をも投じさせてはならぬという強硬主義に動かされたわけである。即ちこの出兵は選挙政策であり、軍部の主張に依ったのでもなく、また田中の発意に基いたのでもない。そうして却って済南事件(邦人十数名殺害)などを起こし、且つ支那国民の対日反感を増大させるような失敗に終ったのは、田中にとっては気の毒という外はなかった。」

 これを見ると、山浦の言う「北伐に際し,政友会伝統の積極政策主張の建前から出兵せざるを得ない立場に立った」というのは、政友会の選挙政策上やむを得ずそうした措置をとったということです。ということは、こうした政友会の政策(南京事件の処理に当たって幣原外交を軟弱外交と非難し居留民の現地保護を主張した)を主導したのは森恪だったのですから、これは田中の言い分とはなっても、森恪の言い分とはならない。これは、森恪による幣原外交攻撃が、政友会の党利党略に過ぎなかったことを物語るだけのものです。

 なお、田中内閣における外務大臣は田中義一首相自身が兼摂し、外務次官には森恪を充てました。このことは、田中内閣における実質的な外務大臣は森恪だったということを意味します。次に述べる東方会議は、この森恪が、陸軍の鈴木貞一や吉田茂(奉天総領事)らと図って、田中内閣の対支積極(=強硬)政策を、政府、政党、在外各関係者及び陸海軍の一致した国策に格上げしようとしたものです。

 しかし、その「東方会議も掛け声だけに終り、その後の張作霖との交渉も順当に進まず、結局は、陸軍方面の要望する武力による解決の外はないか、と田中は段々と転向を余儀なくされて行った。ただ、一点彼の大局観を弁護する材料は、帝国陸軍を表面の主動者とすることを飽くまで回避する方針であったことだ。

 そもそも田中の対支外交の一大原則は「満蒙をして内外人安住の地たらしめる」というにあった。言は壮なるに似たれども、満蒙は支那の主権下にある地域だから、日本がそれを安住の地たらしめる権能も責任もなく、その意味で外交標語としては粗笨(そほん)の非難を免れなかった。単に万難を排しても同地方の既得損益を擁護すると言えば、内外斉しくそれを非難する者はなかった筈だ。(幣原はそれをやろうとした=筆者)ところが「安住の地たらしめる」の一語の中に、何となく支配者の意慾が疑われる点があり、貴族院に於ける質問演説で幣原前外相から酷く油を絞られたようなこともあった。」

 この「満蒙をして内外人安住の地たらしめる」という言葉を対支外交の一大原則とするところに、田中首相の危うさが現れています。まして、蒋介石による中国の全国統一事業(北伐)が行われている最中に、わざわざ山東に出兵することや、そうした対支積極政策を日本の国策とするため、鳴り物入りで「東方会議」を開催するなどということが支那側を刺激しないはずがありません。当然、外交交渉による満蒙問題の解決は困難となる。その結果どういうことになったか。

 次の記述は、引き続き『軍閥興亡史』からのものですが、おそらく、東方会議以降第二次山東出兵に至るまでの軍の内情を記したものではないかと思われます。

 「満州問題の解決は外交交渉では片附かないとなれば、最早や武力の行使しかない。が、陸軍を表面に出してはならない。軍が満洲へ出て行く場合は、既得権を擁護する上に万己むを得なかったということを、内外ともに承認するような形に於て行われるのでなければ不可(まず)い。」

 つまり、当初は、冒頭に紹介したような方法で満蒙問題を解決しようとしていた田中でしたが、そのための外交交渉が進展しないとなれば、従来より武力行使による問題解決を主張してきた青年将校らの意見に耳を貸さざるを得なくなる。その時、そうした武力行使のプラニングをしたのも森恪ではないか、というのです。

 「世上、それは参謀長森恪の画策に依るとも言われているが、要は満洲の某地点に一つの紛擾事件を起こし(民間人の手に依って)、日本軍が出動しなければ平和を回復し得ない状態を造り上げ、そこで出兵して一挙に懸案を解決する方式であった。

 田中は密かに親交のあった大新聞の実権者を招いて内容を打ち明け、その場合には、言論の支持を得られるか否かを質した。それに対し、そのI博士は襟を正して、「表面は誰が事件を起すにしても、世間は陸軍がそれを起したことを信じて疑わないであろう。俗に謂う、頭隠して尻隠さずで、軍の信用が失墜するだけである――」と率直に苦言を呈した。暫く問答した後、田中は沈痛に「そうかノウ、では暫時中止するか」と言って別れたという。

 後で調べると、時余にして田中は陸軍次官畑英太郎を招致し、「あの計画は暫く止めておくから至急手配せよ」と命じている。即ち知る、その計画なるものは、軍が中心となるか、少なくとも某有力パートナーとして画策していたことが明白である。

 既にして政友会院外団の一味や、満洲事業家の乾分達は満洲に入り込んで内乱作製の手筈を進めていたのだ。満蒙の地に内乱が起こっては日本は見物をしている訳には行かない、大至急陸軍を動員して之を平定するという筋書が出来上がっていたのである。軍の若い一部将校達は、そこまで策謀しなければ内部的にも治まらない所まで激昂していたのだ。穏健な大・中佐級の一部を評して、「一身のみを守る不忠の輩」と罵るような乱暴な青年将校が、五人や十人ではきかなかったのだ。上級将官が断乎として之を処罰しない限り、そのままでは軍紀軍律を紊る陸軍の一大不詳事を惹起することは必定であった。

 ところが、大・中将は既に弱かったばかりでなく、彼らの満州擾乱、出兵平定の筋書きには本心賛成なのであるから、それを抑えるよりは寧ろ心で歓迎し、何時しか「軍の内面指導」の下に計画を進め、一方に外務省は森次官が連絡係として奔走し、今は単に時日を待つばかりに熟していたのだった。そこへ、突如田中から暫時中止の命令が下ったのだ。驚きは忽ち憤りと変わった。以来、田中に対する軍部の信頼と支持とは急角度を以て消散して行った。それは実に、張作霖爆殺事件の発生する僅か一ヶ月前のことであった。」(以上引用、上掲書p134~136)

 張作霖爆殺事件は昭和3年6月4日ですから、その一ヶ月前といえば5月4日、丁度済南市街で北伐軍と日本軍第6師団間に軍事衝突が起こっていた頃です。それが拡大して5月8日より日本軍の済南城攻撃・占領となり、北伐軍に多大な死傷者を出すに至りました。このため北伐(国民革命)軍は済南を迂回して北上し北京に向かいました。日本はさらに出兵兵力を増加(第三次山東出兵)し、5月18日には満州治安維持宣言を出し、同時に関東軍を奉天に出動させました。

 このねらいは、もし北伐軍と北京の張作霖軍の間に戦闘が始まれば、関東軍が長城線近くの錦州――山海関まで出動して両軍を武装解除し、この機に張作霖を下野せしめて、満州の軍事的支配権を握ろうというものでした。ところが、ここでも田中は、アメリカ政府が抗議めいた動きを見せたこともあって、10日間迷ったあげく「オラはやめた。張作霖は無事に帰してやれ」と初心に逆戻りしてしまいました。

 おさまらぬのは、刀の鞘を払って振りかぶっていた関東軍である。温厚な斉藤参謀長すら日記に『現首相の如きは寧ろ更迭するを可とすべし』と書いたぐらいで、肚に据えかねた関東軍村岡軍司令官は、密かに部下の竹下義晴少佐を呼んで、北京で刺客を調達し、張作霖を殺せと指示する。それを察知した河本が『張抹殺は私が全責任を負ってやります。』と申し出て、列車ぐるみの爆破プランへ合流させたのであった。(『昭和史の謎を追う(上)』秦郁彦p32~33)

 この間の事情について『森恪』では次のように記述しています。

 「田中男をして、首鼠両端的態度に出でしめたものは、田中男周囲の古い伝統であり、さらにそれを動かした動力は華府会議以来の米国の日本に対する圧力であった。
 我が大陸政策の遂行上千載の好機を逸したというのは、それがやがて満州事変となり支那事変に発展し、東洋における二大国が血みどろになって相剋抗争を続けていることを指す。若し、田中内閣の時代に、森の政策を驀進的に遂行していたなら満州事変も支那事変も、仮に起こらざるを得ない必然的な運命を帯びたものであったにしても、その姿はよほど趣を異にしていたであろう。」(上掲書p643)

 こう見てくると、張作霖爆殺事件のような暴虐無比の事件も、それは決して河本大作の個人的憤激により惹起されたものではなく、田中内閣外務次官森恪が、軍の青年将校等と図って引き起こそうとしていた「第一次満州事変」――満洲の某地点に一つの紛擾事件を起こし(民間人の手に依って)、日本軍が出動しなければ平和を回復し得ない状態を造り上げ、そこで出兵して一挙に懸案を解決しようとした――の一つの暴発的形態だったということが判ります。つまり、満蒙問題とは、この時代の軍の中堅以下壮青年将校達にとっては、こうした謀略的手段に訴えてでも解決すべき死活的な問題だったのです。

 「満蒙を何とかせねばならぬ」というのが田中の国策第一条であった。これより先き「満蒙を制圧せねばならぬ」というのが軍部の念願、特に中堅以下の壮青年将校の燃えるような願望であった。これによってのみ、多年軍縮下に抑えられた不満を晴らすことが出来、戦闘によって軍人は蘇生し、軍旗は原隊に還るであろう。この利己的注釈が全部では無論ない。満州の野は二十万同胞の霊の眠るところ、日本発展の運命の地域。それを領有しないまでも、確実に我が勢力下に安定させることは、民族の発展を願う者、国を愛する者の当然の信条でなければならぬ。人心廃れ、政党腐り、恬としてこれを顧みないならば、吾等こそこの天地に廓清の血の雨を降らしても目的に邁進するであろう――と彼らは自ら注釈した。(軍閥興亡史Ⅱp135)

(以下、論旨を明確にするため書き換えました。7/16)

 そして、こうした彼ら「自らの注釈」に、国家改造へと進む政治的道筋をつけたのが、田中内閣において実質的な外務大臣を務めた森恪でした。これが、結果的に張作霖爆殺事件という暴虐とも愚劣とも言いようのない事件を引き起こすことになったのです。問題は、これが反省されるどころか、一夕会に結集する青年将校等によって継承され、より周到に計画され再び実行に移されたということです。こうして引き起こされた満州事変は、単に満州における日本の権益擁護という意味だけでなく、日本国の国家改造を牽引する前進基地づくりとしての意味を持つようになっていました。

 つまり、満州における既得権益擁護の問題が、日本国の国家改造を求める革命運動へと転化したのです。おそらくこれが既得権擁護の問題に止まっていれば、満州問題はもっと合理的な解決ができたでしょう。しかし、満州事変以降軍によって推し進められた国家改造の動きは、明治・大正を通じてようやく根付きはじめた日本の政党政治、立憲政治を圧殺することになりました。代わって、一国一党の国家社会主義が追求されました。そして、その思想の日本的読み替えが尊皇思想に基づく忠孝一致の天皇親政だったのです。

 この辺りの思想的絡み合いは、アジア主義者や支那通軍人の「アジア諸国連帯論や西洋列強からの解放論」、近衛の「持てる国、持たざる国論」、森恪の「『浮城物語』的冒険主義」、右翼イデオローグの巨頭北一輝や大川周明等によって唱えられた国家社会主義や日本主義、石原完爾の「最終戦争論」などが入り交じって、一体、どこにその中心があるのか容易には分かりません。もちろん、その中心的な担い手が昭和の青年将校等であったことは間違いなく、ではなぜ、彼らがその中心的な担い手となったか。この問いに答えることが、本稿の主題「昭和の青年将校はなぜ暴走したか」に答えることになります。



2011年6月16日 (木)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか4――満州問題と十年の臥薪嘗胆

 前回の末尾に私は次のように書きました。

 「それにしても、問題は、なぜそこまで、陸軍が「満州問題の抜本解決」にこだわり、政党政治に敵意を抱き「国家改造」しようとしたかということです。一般的には、満蒙は日本の国防の第一線であるとか、生命線であるとかが、その理由としてあげられます。――私も、それは必ずしも間違いではないと思いますが――しかし、その胸中を支配していた真の動機は、あるいは、先に紹介したような、彼らの「十年の臥薪嘗胆」ではなかったか、私はそう思っています。」

 なぜ、私がそのように考えるか。これを説明するためには、まず、「ワシントン体制」というものについて理解してもらわなければなりません。というのは、上記のような陸軍の、異常なまでの「満州問題の抜本解決」へのこだわりや、政党政治に対する敵意、クーデターを起こしてまで「国家改造」しようとしたその理由は、このワシントン体制――ワシントン会議で成立した諸条約(海軍の主力艦を制限する五カ国条約、中国に関する九カ国条約、太平洋問題に関する四カ国条約、日英同盟廃棄)によってもたらされたもの――に対する次のような不満に根ざしていたからです。

一、米・英・日の主力艦の比率を5・5・3と定めた海軍軍縮条約は、米英の圧力により屈辱的に調印されたものである。日本がこの条約で劣勢比率を押しつけられたことが中国の排日侮日態度を強めることになった。

二、二十一箇条要求以来の日華両国間の懸案であった山東問題について、日本が大戦中に獲得した山東のドイツ権益はほとんど大部分が中国に返還された。また、南満州・東部内蒙古における借款引き受けの優先権と二十一箇条要求中の第五号希望条項も放棄された。

三、九カ国条約によって、アメリカから中国の領土保全・門戸開放、機会均等を押しつけられた結果、日本の大陸政策には大きな拘束が加えられることになった。そのため、中国における日本の特殊権益を認めた石井・ランシング協定も破棄された。

 そして、これらは満州事変後、次のように総括されるようになりました。

 「(ワシントン会議では)日本の特殊権益を認めた石井ランシング協定が・・・支那に対するルート四原則で破棄された。支那に対する九カ国条約、日米英仏の四カ国条約等によって日本は手枷足枷をはめられ、山東は還付する結果になり、日英同盟は破棄された。叉、同会議に於ける海軍軍縮協定では米英の間に五・五・三の屈辱的比率が結ばれる等、ワシントン会議は即ち、日本の失権会議の実質を以て終わったのである。」(『森恪』p451)

 そして、このワシントン会議における外交交渉で主導的な役割を果たした幣原外交は、マスコミによって、次のような批判を受けることになりました。

 「思えば拙劣な外交(幣原外交を指す)であった。口に平和を唱えるいわゆる協調外交が、英米の現状維持を保障する以外のなにものでもなかった。その間かえって、英米の軽蔑を招き、さらに支那、満州の排日を激化したのみではなかったか。世界協調、人類平和と、白痴のように、うわごと三昧にふけっているうちに、英米はその世界平和的攻撃のプランを、ちゃくちゃくと発展させていたのである。さきにワシントン会議においては、日本をして満蒙特権を放棄せしめ、ロンドン条約によって日本の武力を無血にて削減し、不戦条約によって世界現状維持を強制した。他方悪辣なる積極攻勢に出でつつ、支那、満州の欧米化につとめた。(『昭和風雲録』満田巌)

 だが、果たしてこれらの批判は、客観的事実に基づく批判だったのでしょうか。まず、米・英・日の主力艦の比率を5・5・3と定めた海軍軍縮条約についてですが、この交渉に全権として当たった加藤友三郎は、この交渉の結果について次のように説明しています。

 「先般の欧州大戦後、主として政治家方面の国防論は世界を通じて同様なるがごとし。即ち国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人のみにてなし得べきものにあらず。国家総動員してこれにあたらざれば目的を達しがたし・・・故に、一方にては軍備を整うると同時に民間工業力を発達せしめ、貿易を奨励し、真に国力を充実するにあらずんば、いかに軍備の充実あるも活用するあたわず。平たくいえば、金がなければ戦争ができぬということなり。

 戦後、ロシアとドイツとがかように成りし結果、日本と戦争のなるProbabilityのあるは米国のみなり。かりに軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦役のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当らず。しかしてその米国が敵であるとすればこの途は塞がるるが故に、日本は自力にて軍資を造り出さざるべからず。この覚悟のなきかぎり戦争はできず。英仏はありといえども当てには成らず。かく論ずれば、結論として日米戦争は不可能と。いうことになる。

 この観察は極端なるものなるが故に、実行上多少の融通きくべきも、まず極端に考うればかくのどとし。ここにおいて日本は米国との戦争を避けるを必要とす。重ねていえば、武備は資力を伴うにあらざればいかんともするあたわず。できうるだけ日米戦争は避け、相当の時機を待つより外に仕方なし。かく考うれば、国防は国力に相応する武力を整うると同時に、国力を涵養し、一方、外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。

 即ち国防は軍人の専有物にあらずとの結論に到着す。余は米国の提案にたいして主義として賛成せざるべがらずと考えたり。仮に軍備制限問題なく、これまでどおりの製艦競争を継続するときいかん。英国はとうてい大海軍を拡張するの力なかるべきも、相当のことは必ずなすべし。米国の世論は軍備拡張に反対するも、一度その必要を感ずる場合には、なにほどでも遂行する実力あり。

 翻ってわが日本を考うるに、わが八八艦隊は大正十六年度に完成す。しかして米国の三年計画は大正十三年に完成す。英国は別問題とすべし。その大正十三年より十六年に至る三年間に、日本は新艦建造を継続するにもかかわらず、米国がなんら新計画をなさずして、日本の新艦建造を傍観するものにあらざるべく、必ずさらに新計画を立つることなるべし。また日本としては米国がこれをなすものと覚悟せざるべからず。

 もし然りとせば、日本の八八艦隊計画すらこれが遂行に財政上の大困難を感ずる際にあたり、米国がいかに拡張するもこれをいかんともすることあたわず。大正十六年以降において、八八艦隊の補充計画を実行することすらも困難なるべしと思考す。かくなりては、日米間の海軍間の海軍力の差は、ますます増加するも接近することはなし。日本は非常なる脅迫を受くることとなるべし。米国提案のいわゆる10・10・6は不満足なるも But ifこの軍備制限案完成せざる場合を想像すれば、むしろ10・10・6で我慢するを結果において得策とすべからずや。」(『太平洋戦争への道』「1満州事変前夜」p28)

 この条約によって、「日本は太平洋における防備制限と引き替えに対英米6割の海軍力を受諾し、こうして英・米・日三国は、それぞれ、北海からインド洋に至る海面、西半球海面及び極東海面での海軍力の優越を相互に承認しあい、建艦競争に伴う緊張が緩和されたばかりでなく,軍事費の節減も実現した」のです。海軍部内でもこのことが了解され、また、「日本の世論は一般にこの条約を是認し、英米両国でも同様であった」といいます。(前掲書p31)

 また、「日本がこの条約で劣勢比率を押しつけられたことが、中国の排日侮日態度を強めることになった」という第一の批判については、むしろ、「対華二十一箇条要求に象徴される日本の威圧政策と中国の内部事情に由来するところが多」かったのです。このことは、先のワシントン体制批判の第二の論点にも関わりますが、日本の対華二十一箇条要求は、当時から「痛恨の外交的失策」とされていたのであって、このために生じた日中関係の亀裂を修復したものこそ、幣原の山東問題の処理や二十一箇条要求中の第五号希望条項の放棄だったのです。

 次に、第三の批判についてですが、これは、九カ国条約によって、日本は満蒙特権まで放棄させられた。そのため、日本の大陸政策に大きな拘束が加えられることになった、というものです。しかし、日本の満蒙における条約上の権益が失われたわけではありません(中国の主権尊重及び領土保全等を定めたルート四原則は、現に有効な条約及び協定に容喙するものではないこと、原則の適用地域は中国本部にだけ限ることが言明された)。また、「日本の大陸政策に大きな拘束が加えられることになった」といっても、中国の主権を無視した勝手な行動がとれるわけでもありません。

 このあたりの日本の言い分を最も直截に語っているのが森恪で、彼は、満州事変勃発後昭和7年6月17日に行った演説の中で次のように言っています。

 「欧羅巴戦争を一期として、日本は、世界的に、所謂箍(たが)を嵌(は)められたも同様な状態になっている。・・・華盛頓条約は・・・寧ろ之を破壊しなければならぬ・・・日本に箍を嵌めたあの条約が存在する限り、日本国民は、世界という大きい舞台に立って活動することができない。あの条約が国民を、国内に跼蹐させて居る限り、日本は伸びない。日本の国状は、安定されないのである。・・・

 日本国民の将来生きていく重点はどこにあるか。それは、この、外に内に嵌められている箍を叩き破るということが重点でなければならぬ。これが成功せざる限り、私は、日本の国情は安定せず、国運も向上せず、ひいては、国民個々の生活も安定し得ざるものと確信します。・・・その箍を叩き破る・・・まず不戦条約、九カ国条約、これを精神的に叩き破れ、国際連盟などは日本のために何の利益があるか。」(『森恪』p20~23)

 これはどういうことを言っているのかというと(この文章の前段に書いてあることですが)、”文明人が国をなして生活していくためには、人間の力を資源に働かせて富や国力に変化させなければならない。問題はこの人間の力だが、日本人は精神的、肉体的、歴史的に養成された文化の潜在力を持っている。しかし、日本は不戦条約や九カ国条約によって箍を嵌められ、一室に閉じ込められたような状態になっている。だからこの箍を叩き破って、東洋において日本人が自由に活動できるようにする。これは日本人の生存条の権利である。”という意味です。(上掲書)

 この論理は、近衛文麿の「持たざる国」の論理と似ていますね。つまり、ここで彼が言っていることは、日本は資源を持たざる国であるが、資源を富や国力に変化させるだけの活力・文化的潜在力を持っている国である。一方、支那人はこの力を持っていない。そこで日本人が支那(特に満州)の資源を活用できるようになることで、日本人の活気も横溢するし、日本の人口問題も解決する。また、満蒙の治安を日本が守ることで支那の安全も確保されるし、ひいてはアジア全体の生活安定にも寄与することができる、というものです。

 ではなぜ、支那や満州において排日運動が高まり、日本人が支那(特に満州)の資源を活用できなくなってしまったのか、というと、森格等は、それは、日本が世界の現状維持(植民地分割の)を狙いとするワシントン体制を押しつけられ、中国や満州における資源の獲得に箍を嵌められたためである(その箍が5・5・3の海軍軍縮条約であり、中国の領土保全・門戸開放・機会均等を定めた九カ国条約だという)。従って、日本がその活力をもって大陸に進出するためには、この箍をたたき壊さなければならない、というのです。

 実は、このように九カ国条約に対する敵意が公然と表明されるようになったのは、あくまで満州事変以降のことであって、それまでは一部右翼団体を除いて九カ国条約に反対するものはいなかったのです。実際、日本政府は満州事変以降も九カ国条約を守る旨対応していましたし、これを正面切って否定する旨の声明を出したのは、日中戦争二年目の1938年(昭和13年)11月18日付けの、有田八郎外相(近衛内閣)の対米回答が最初でした。

 こう見てくると、もともと、この森恪の論理には無理があったわけで、従って、この論理が通らなくなったその原因を、海軍軍縮条約の締結、不戦条約、九カ国条約などに求めるのは筋違いという事になります。つまり、支那や満州において排日運動が高まり、日本人が支那(特に満州)の資源を活用できなくなった、その主たる原因は、ワシントン体制にあったのではなく、その後の日本の大陸政策の失敗にあったのです。

 いうまでもなく、それは、田中内閣時代に森恪主導で推し進められた対支積極政策(三度に渡る山東出兵、その間の東方会議、そして済南事件、さらに張作霖爆殺事件及びその隠蔽工作)の失敗がもたらしたものなのです。これが、その後の日中間の外交的基盤を崩壊させたのです。こんな情況の中で、日中間の外交関係の修復を引き受けたのが、第二次若槻内閣、浜口内閣において外務大臣を引き受けた幣原喜重郎でした。

 この幣原の外交的努力を、軍を政治に巻き込むことで徹底的に妨害したのが、これまた森恪で、統帥権干犯問題がそうでした。また、幣原がこの問題に忙殺される間、中国との関係修復交渉を担当したのが佐分利公使でしたが、彼は、箱根の富士屋ホテルで不審死を遂げました。警察発表では自殺とされましたが、私は、満蒙問題が日中間の外交交渉によって解決されることを嫌った者の犯行ではないかと思っています。今、その関係資料をあたっているところですが・・・。

 ところで、以上のような「支那や満州において排日運動が高まった」その本当の原因について、『森恪』伝を書いた山浦貫一自身は内心自覚していたようで、この伝記には次のような興味深い記述が見えます。

 「ここに、運命的な歴史の不思議を感ずるのは、この第二次出兵によって起こったのが済南事件であり、済南事件は田中内閣の外交を決定的に失敗に導いたところの重大なモメントをなすものであることだ。それは・・・森の対支政策はもともと国共を分離せしめるにある。ソ連と断絶した後の国民革命はこれを認めこれを助けて支那の統一を完成せしめる。そして、多年の懸案である満州問題を解決するという計画であった。

 森は前年、その方針で蒋介石とも交歓したのであるが,その森が、蒋介石の再北伐に際し,政友会伝統の積極政策主張の建前から出兵せざるを得ない立場に立ち、従来、国民革命を認めない立場をとり北支は北京を中心として独立した政府を樹立して、その支配におくべしとした人々が,事なかれ主義の一時的方便から出兵に反対し、革命を武力によって膺懲しようとしたものが却って森の出兵論を支持するに至った逆現象である。

 而して第二次出兵は,田中外交の功罪を決すると共に、済南事件以後の日支関係の複雑錯綜即ち、満州事変となり支那事変となり、共に東亜の開放のために協力せねばならぬ筈の日本と支那とが血みどろの戦いをしなければならなくなった歴史的運命の岐れ路にもなったのである。」(『森恪』p618~619)

 この記述によると、森恪の対支政策の本当の狙いは、

 「もともと国共を分離せしめ・・・ソ連と断絶した後の国民革命はこれを認めこれを助けて支那の統一を完成せしめる。そして、多年の懸案である満州問題を解決する」ことだった。しかし、「蒋介石の再北伐に際し,政友会伝統の積極政策主張の建前から出兵せざるを得ない立場に立」ったため、(やむなく)山東出兵したのである。(この真偽については次回考察します=筆者)

 ところが、この時「革命を武力によって膺懲しようとしたものが却って森の出兵論を支持するに至った逆現象」が生じたために、(その膺懲論者達によって)済南事件が引き起こされてしまった。その結果、その後の「日支関係の複雑錯綜即ち、満州事変となり支那事変となり、共に東亜の開放のために協力せねばならぬ筈の日本と支那とが血みどろの戦いをしなければならなくなった」と言うのです。

 語るに落ちる、とはこのことですが、森恪を誰よりもよく知る山浦自身は、日支関係がこうした破滅的状態に陥ったその最大の責任は、ワシントン体制にあったのではなく、第二次山東出兵に伴って発生した済南事件、つまり、それを引き起こした軍の膺懲論者にあったと見ていたのです。もしそれが本当なら、森恪は、自らの失敗を巧妙に隠し、それをワシントン体制及びそれを担った幣原に責任転嫁した、ことになります。

 この森恪の巧妙な隠蔽工作と責任転嫁が許され、済南事件以降、破局に瀕した日中の外交関係の修復をあえて引き受け、森の悪辣な妨害を受けつつも、何とかして局面打開を図ろうと努めた幣原喜重郎が、満州事変を起こした元凶と見なされる・・・そんな評価が、今日でも、あたかも通説の如く通用しているのですから驚くほかありません。

 「(幣原外相は)あまりにも内政に無関心で、また性格上あまりにも形式的論理にとらわれ過ぎていた。満州に対する幣原外交の挫折は、要するに内交における失敗の結果で、当時世上には,春秋の筆法をもってせば、幣原が柳条湖事件を惹起したのだと酷評したものすらあった。」(『陰謀・暗殺・軍刀』森島守人)

7/17 2:30最終校正



2011年6月 8日 (水)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか3――軍縮が生んだ青年将校の国家改造運動

 昭和の悲劇を理解するためのキーパーソンとして、近衛文麿や森恪そして幣原喜重郎を対比的に論じてきました。

 近衛文麿の場合は、その「持てる国、持たざる国」論が、国内及び国際社会の秩序形成における「法治主義」を軽視したため、社会の全体主義化や軍の暴走を生むことになったこと。森恪は、田中積極外交以降、その政治手法として軍を政治に引き込んだため、ついには政治が軍を制御することが全くできなくなったこと。幣原喜重郎は、あくまで、ワシントン体制下の国際協調主義によって中国問題を処理しようとしたが、田中積極外交によって中国との外交的基盤が破壊され、その後、その修復を図ったが、満州事変で止めを刺され退場を余儀なくされたこと、など。

 これらの政治家のうち、「昭和の悲劇」を招いたものとして、私が最も責任が重いと思っている人物は、いうまでもなく森恪です。それは、もし、昭和の初めに、この男さえいなければ、昭和の悲劇は避けられたのではないか、と思うほどです。ところが、今日の論壇においては、このことを指摘するものはほとんどなく、その代わり、幣原外交の無能――日本国民のナショナリズムに対する無理解、国際共産主義運動に対する無警戒、中国に対する内政不干渉主義など――を根拠に、その理想主義外交を批判する論調が大半です。

 また、近衛については、その軍や世論への迎合体質、公家的あるいは長袖者流と評される権力依存体質、最後まで自分の意思を貫徹できず、途中で投げ出す無責任体質の外、日支事変勃発時の支那膺懲声明、トラウトマン和平工作失敗時の”蒋介石を対手とせず”声明、さらに、三国同盟締結、南部仏印進駐などの数々の外交的失敗が指摘されます。確かにそうした批判は免れないわけですが、しかし、彼自身は、軍の政治介入や独断的軍事行動を抑えようとしたことは間違いなく、また、政党政治や議会政治を維持しようとしたことも事実なのです。

 ただ、問題は、先ほど述べた通り、彼の「持てる国、持たざる国」論が、いわゆる「法治主義」を軽視していたために、日本の伝統的倫理観である「情況倫理」に陥ってしまったこと。そのために、満蒙権益の擁護を大義名分とする満州事変を容認することになりました。といっても、こうした満州事変を契機とする意識の変化は、近衛文麿だけに起こったことではなく、日本人全体に起こったことなのです。つまり、こうした日本人の意識の変化をもたらしたものこそ、近衛文麿の「持てる国、持たざる国」論に象徴される日本人の「情況倫理」的意識構造だったのです。

*情況倫理とは、「人間は一定の情況に対して,同じように行動するもので、従って、人の行動の責任を問う場合には、そうした行動を生み出した情況を問題とすべきであり、その責任追及は、その状況を生み出したものに対してなさるべきである」という考え方のこと。

 だが、その裏側で、大正から昭和にかけた時代の流れを注意深く読み、これをコントロールすることで、自分たちの目的を達成しようとしていたグループがありました。それが、後に説明する二葉会や一夕会に終結したエリート青年将校達でした。

 そこで問題は、彼らの目的は一体何だったかということですが、結論から先に言えば、それは、満蒙問題に国民の関心を引き寄せ、それを「彼ら独自の方法」で解決することによって国民の支持を獲得し、政治のイニシアティブを握り、それによって日本の政党政治を打破して、一国一党の国家社会主義体制を実現する、ということでした。満州事変は、このようなプロセスで国家改造を進めるための手段あるいは前線基地としての意味を持っていたのです。

 では、このように軍が政治に関与することになった、その原因はどこにあったかということですが、これについては、昭和7年11月頃、陸軍省軍事課長だった永田鉄山大佐が次のように語っています。

 「その主なるものは、(一)軍縮問題に伴い軍に対する世間の人気の悪くなり兎もすれば軽ぜらるること、(二)ロンドン会議の際に於ける所謂統帥権の問題、(三)減俸問題、(四)陸軍に於ける人事行政の不手際なりとす。」(『木戸日記(上巻)』p147)

 この四つの原因について皆さんはどう思われますか。これを少し敷衍すると次のようになります。

(一)は、第一次大戦後の世界における軍縮の流れや、大正デモクラシー下の反戦平和思想の流行によって、軍人に対する世間の評価が明治期に比べて著しく低下し、何かにつけて軽んじられる風潮が生じた事に対して、軍人が強烈な不満を抱くようになったということ。

(二)は、統帥権干犯問題を政治問題化することによって、作戦・用兵のみならず、軍の兵備編成権も軍の統帥権に含まれるとし、かつ、軍に対する指揮命令は天皇のみとすることによって、軍に対する内閣の関与を排除することに成功したこと。これによって、逆に、軍が政治を左右する権能――石原莞爾に言わせれば「霊妙なる統帥権」――を持つに至ったこと。

(三)は、第一次大戦後の戦後不況や、大正12年の関東大震災復興費用を捻出するための緊縮財政なもとで、軍人の給与引き下げが行われたこと。これは、今回の東日本大震災に伴い国家公務員の給与を10%減額するという措置がとられたことと同様の措置ですが、当時は、大正後半期に顕著となったインフレも重なって、将校の給与水準は著しく低下したといいます。

(四)は、日清戦争後から大正初年まで(陸士・陸幼合わせて)平均すれば毎年800人もの将校生徒が採用され続けたため、大正末から昭和にかけて、若い陸士出の将校を大量に軍内に抱え込むことになったこと。しかし、軍隊の昇進ポストは上に行くほど数が極端に少なくなるため、昇進ルートの閉塞や昇進の停滞が生じたということ。

 以上永田鉄山の指摘した、軍が政治に関与するに至った四つの原因のうち(一)(三)(四)は、あくまで、国内における軍人の社会的地位や処遇のあり方に関する問題であって、満州問題などの外交問題に直接結びつくものではなかったことが分かります。しかし、軍は、これらの問題は政党政治によってもたらされたものと考え、その結果、軍は、政党政治に対する敵対意識、さらには英米の自由主義・資本主義に対する反発を強めることになったのです。

 その最初の表れが、ワシントン会議に対する軍の反発でした。直接的には、そこで合意された軍縮条約に基づいて、いわゆる山梨軍縮や宇垣軍縮が行われ、大量の兵員等の削減が行われたことによります。では、なぜ、ワシントン会議において軍縮が話し合われたかというと、第一次世界大戦による人的・物的被害が余りに膨大だったからで、そのため、海軍力の軍縮が主要国間で協議され、また、陸軍でも、ロシア革命の影響もあって、極東における軍事的脅威が薄らいだと認識されたのです。

(山梨軍縮)
 「1922年7月「大正十一年軍備整備要領」が施行され約60,000人の将兵、13,000頭の軍馬(約5個師団相当)の整理とその代償として新規予算約9000万円を要求して取得した。山梨陸相の企図は緊縮財政の基づく軍事費の削減をもって平時兵力の削減と新兵器を取得し近代化を図ろうとするものであった。

 さらに、1923年3月、山梨陸相は更に「大正十二年軍備整備要領」を制定し2度目の整理を実施した。これら、いわゆる山梨軍縮は大量の人員を削減したにも拘らず近代化と経費節約は不徹底であった。これに追い討ちをかけるように1923年9月に関東大震災が発生し新式装備の導入は困難となった。」

(宇垣軍縮)
 さらに、上記二度にわたる山梨軍縮ではまだ不足であるとして、1923年(大正12年)9月に発生した関東大震災の復興費用捻出のため1925年(大正14年)5月に宇垣一成陸軍大臣の主導の下、第三次軍備整理が行なわれることとなった。」

 「具体的には21個師団のうち、第13師団(高田)、第15師団(豊橋)、第17師団(岡山)、第18師団(久留米)、連隊区司令部16ヶ所、陸軍病院5ヶ所、陸軍幼年学校2校を廃止した。この結果として約34,000人の将兵と、軍馬6000頭が削減された。」

 特に、宇垣軍縮による四師団の廃止は、「地域にとって少なからず衝撃を与え国民に軍部蔑視の風潮を生み出し、陸軍内での士気の低下が蔓延した。だが、これにより浮いた金額を欧米に比べると旧式の装備であった陸軍の近代化に回したというのが実情である。主な近代化の内容として戦車連隊、各種軍学校などの新設、それらに必要なそれぞれの銃砲、戦車等の兵器資材の製造、整備に着手した。また、学校教練制度も創設された(軍人の失業対策としての意味合いもあった=筆者)。」(以上WIKI参照)

 以上述べたような軍縮の影響や、大正12年に発生した関東大震災の財政支出に加えて、第一次世界大戦後のインフレの影響もあり、さらに(四)に紹介したような「陸軍に於ける人事行政の不手際」もあって、軍人の処遇問題は一層深刻さを増していきました。

 こうした問題を解決するために、軍は、ポストの新設や官職充当階級の上昇等の措置を図りました。しかし、そうした措置は、財政上の観点から冗員・冗費を節減すべきとの批判を浴びるようになり、その結果、(一)の軍縮を求める政治の圧力も加わって、師団の削減や冗員の整理や馘首が強行されることになったのです。

 また、一般に陸軍将校は、文官や一般の俸給生活者に比べて、退職年齢が早く、そのため陸軍将校の経済生活には不安定さがつきまとっていました。しかも、文官の場合は天下りや再就職の道が開けていたのに対し、将校は再就職が難しく,昇進競争から取り残されたら、四十代半ばで退職し、恩給生活へいることを覚悟しなければなりませんでした。

 また、退職した在郷将校は恩給に頼っていたために、第一次大戦後の物価上昇の直撃を受けることになりました。軍人は終身官とはいいながら「その実、力士に次ぎて最も寿命の短い職業」で、「陸海軍で採用した将校生徒中『少なくもその七八割は四十歳より五十歳までの間に於て、老朽若くは無能の故を以て予備役に押し込まるゝのである。中には三十代でお暇の出るのもあ』って、彼らは『働き盛り稼ぎ盛り』の年齢で世間に放り出されるわけである」と慨嘆されました。

(現役を退いたある歩兵大尉の述懐)
 「私共は、軍国主義王政時代の教育を受けたものでありますから、永年社会とは没交渉にて、胸中に植え付けられたものは、軍人精神と『右向け右』『前へ』の軍隊的挙動のみで、世間のことは、何にも知らぬ。社交は下手である。位階勲等の恩典に対し、車夫、馬丁となることも出来ぬ。世の落伍者であります。軍人の古手が世に用いられず、体操先生にて終わるも、亦已むなき哉で、過去軍隊教育の因果応報、これも前世の約束かなと、禅味を気取っているの外ありませぬ。」(『陸軍将校の教育社会史』p330)

 このような情況の中で、軍人に対する世間の目は次第に冷たくなり、「電車の中で見知らぬ乗客から、なんのかんのと文句を言われ」るようになりました。世間では、こうした軍人を揶揄して、「貧乏少尉のやりくり中尉、やっとこ大尉で百十四円、嫁ももらえん、ああかわいそ」というざれ歌までできる始末。こうした軍人軽視の風潮の中で、いわゆる青年将校と呼ばれた軍人たちの間に、”十年の臥薪嘗胆”という合言葉が生まれました。

 「世間の風潮、流れというものは、おおむね、十年を区切りに変化し、更替する。いまはがまんのときである。しかし必ず自分たちの時代が来ると歯を食いしばって、軍縮に象徴される、自分たちのおかれた地位、身分の回復、さらに進んで、一国の支配を誓うにいたるのである。」(『昭和の軍閥』高橋正衛P98)

 ところで、こうした「昭和の軍閥」を構成したのは、陸士十六期以降の軍人たちで、それ以前の軍人達が日露戦争の実戦に参加したという意味で戦中派であるとすれば、彼らは戦後派でした。その戦後派の一期に当たる陸士第十六期の代表者が、ドイツのバーデンバーデン会合(大正10年)で有名な、永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次でした。彼らはここで、「派閥の解消、人事刷新、軍制改革、総動員態勢」につき密約したとされます。

 この密約には、陸軍の派閥(=藩閥)人事に対する不満とともに、第一次世界大戦後の総力戦態勢に備えるための軍政・内政面の改革への決意が込められていました。その背景としては、彼ら以前の陸軍首脳は、そのほとんどが日露戦争において殊勲者となり、軍人の最高栄誉とされた個人感状や金鵄勲章をうけるなど出世・栄達を重ねていたのに対し、彼らはそうした機会を奪われていた。それだけに、総力戦時代に賭ける彼らの復活の思いが強かった、というわけです。

 こうして、これ以降、主に十六期以降の青年将校(河本、板垣、永田、小畑、岡村、東条等)がしばしば会合して横断的に結合するようになりました。昭和2年には二葉会(十五期から十八期までの佐官級約18名で構成)が生まれ、昭和3年になると、軍事課課員鈴木貞一の呼びかけで、二十期から二十五期までの第二集団(石原、村上、鈴木、根本、土橋、武藤等、後「一夕会」と称される)が生まれました。その後、この二つの組織は結合して昭和軍閥の中枢をなすようになります。  

 ところで、この一夕会の第一回会合(昭和3年11月3日)では、(1)陸軍の人事を刷新して、諸政策を強く進めること。(2)満蒙問題の解決に重点をおく。(3)荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍を護り立てながら、正しい陸軍を立て直す、という三つの事項が決議されました。この決議は、二葉会にも相通ずるものとされますが、決して、非合法の手段に訴えようとするものではなく、況んやクーデターの如き極端な過激行動は強く排斥する、との敷衍もなされていました。(『昭和の軍閥』p100)

 ところが、昭和5年秋に結成された「桜会」(橋本欣五郎、樋口季一郎、根本博、土橋勇逸、長勇、等)の綱領には、目的として、本会は国家改造を以て終極の目的とし之がために要すれば武力を行使するも辞せず。会員は、現役陸軍将校中にて階級は中佐以下、国家改造に関心を有し私心なき者に限る。そしてその準備行動として、(1)一切の手段を尽くして国軍将校に国家改造に必要な意義を注入(2)会員の拡大強化(3)国家改造のための具体案の作為、等と記されていました。(上掲書p108)

 この桜会によって、昭和6年に三月事件、十月事件をというクーデター事件が引き起こされるのです。この三月事件は、省部・統帥部の首脳(小磯軍務局長、永田軍務課長、岡村補任課長、重藤支那課長、金谷参謀長、建川参謀次長、第一部長畑俊六等)の外に、大川周明の動員する右翼等も加わるという大規模なものでした。しかし、計画自体が極めて杜撰であり、首相に担ぐ予定だった宇垣陸軍大臣が、途中で変身した?ために未遂に終わりました。

 十月事件は、9月18日の満州事変に呼応して、建川参謀本部第一部長と橋本欣五郎を中心とする桜会一派が、在京の将校学生や民間右翼と連携して起こそうとしたクーデター事件です。橋本手記には「満州に事変を惹起したるのち、政府において追随せざるにおいては軍をもって『クーデター』を決行すれば満州問題の遂行易々たるを論ず」と記されていました。しかし、これも関係将校14名が、直前に憲兵隊に検挙され未遂に終わりました。

 こう見てくると、三月事件も十月事件も、先に紹介した二葉会、一夕会に属する青年将校たちだけでなく、省部、統帥部の首脳部も関与したクーデター事件であったことが分かります。そのことは、その後、これらの事件が隠蔽されただけでなく、関係者の処分も極めて軽微だったことで明らかです。しかし、クーデター計画と言うにはあまりに杜撰で、途中で反対に転じたものも多く、当時の青年将校や軍首脳の「満州問題の抜本解決」や「国家改造」にかける思いの強さを示すだけのもの、と見ることもできます。

 それにしても、問題は、なぜそこまで、陸軍が「満州問題の抜本解決」にこだわり、政党政治に敵意を抱き「国家改造」しようとしたかということです。一般的には、満蒙は日本の国防の第一線であるとか、生命線であるとかが、その理由としてあげられます。――私も、それは必ずしも間違いではないと思いますが――しかし、その胸中を支配していた真の動機は、あるいは、先に紹介したような、彼らの「十年の臥薪嘗胆」ではなかったか、私はそう思っています。

(なぜ、そのように考えるかについての、以下の記述は説明が不十分でしたので削除し、次回そのことについて詳述したいと思います。6/10 4:00)



2009年6月10日 (水)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか2――「済南事件」に行き着いた日本の大陸政策

 前回は、日本の大陸政策が日清戦争以降山東出兵までどのように変遷したかについて一通り見てみました。今回は、もう少し掘り下げて問題点を整理しておきたいと思います。(重複する部分もありますが、ご容赦下さい。)

 日清戦争までに、朝鮮が日本の安全保障上死活的な位置にあることが認識されるようになり、日清戦争後朝鮮は中国の宗主権を離れて独立することになりました。いうまでもなく日本の勢力下におかれたわけですが、日本が三国干渉に屈したことにより、朝鮮では国王高宗の妃である閔妃一族の勢力が復活し、ロシアの支援を受けるようになりました。これが公使三浦梧郎(陸軍中将)による、大院君のクーデターに見せかけた閔妃殺害事件(1895.10)を引き起こし、朝鮮全土に抗日義兵運動が起こるようになりました。高宗はロシア公使館に移され親ロ内閣を作りました。(1896.2)

 他方、そのわずか3年前、日本に対して「遼東半島を日本が所有することは、常に清国の都を危うくするのみならず、朝鮮国の独立を有名無実のものとなす」として、遼東半島を中国に返還するよう迫ったロシアとドイツは、中国の弱みにつけ込み、前者は遼東半島の旅順・大連の25年間租借権と南満州鉄道の敷設権を、後者は、膠州湾の99年間の租借権と膠済鉄道敷設権、鉱産物採取権を獲得しました。これに対して日本は両国に正式抗議一つできずに見守るほかありませんでした。

 1898年には中国に義和団事件が発生し、清国政府はこれを利用する政策をとり6月21日列強に対して宣戦を布告し、北京の外国公使館区域を封鎖しました。列強8カ国は連合軍(七万)を組織して北京を制圧しました。この時の日本軍(二万二千)の規律ある行動は列国の賞賛を博しました。1901年には講和が成立し、北京には各国軍隊が駐留権を持つ特別区が設定されました。一方ロシアは、建設中の東清鉄道保護を名目に八万の大軍を満州に送ってこれを占領し、第一次撤兵後もそのまま居座りました。

 日本国内では、このようにロシアが満洲に居座り、日本の朝鮮支配は一向に進展せず絶望視される中で、ロシアとの戦争が議論されるようになりました。こうした世論を背景に日本政府は日露交渉を開始し、1903年8月「満韓交換論」をロシアに提案しました。しかしロシアはこれを無視し、韓国領土の軍事的利用の禁止、北緯三九度以北の中立地帯化を日本に要求しました。日本は、財政的・軍事的限界からロシアとの短期局地戦を決意する一方、イギリス、アメリカの調停による早期講和を画策しました。

 この段階での日本の大陸政策の狙いは、朝鮮を日本の植民地化することと引換に満洲を列国に解放するというものでした。幸い日本は奉天会戦と日本海海戦(1905.5)に勝利し、ロシアが第一次ロシア革命の渦中にあるこの機を捉えて、ルーズベルト大統領に講和の斡旋を依頼しました。この時、日本による韓国の保護国化の承認と引きかえに、アメリカに対してはフィリピン統治を(「桂・タフト協定」1905.7)、イギリスに対してはインド国境地方における特殊権益を承認しました。

 日露交渉は、ロシアの強気もあって難航しましたが、1905年9月5日講和条約が調印されました。日本は、韓国における日本の優位、ロシア軍の満洲からの撤退、長春から旅順に至る鉄道と大連・旅順の租借権の譲渡、サハリン南部の割譲、沿海州沿岸の漁業権を得ました。日本国内ではこうした講和条件を不満とする暴動が発生しましたが、日本は政治と軍事、外交と統帥が一体となってこれを抑えました。当時の陸海軍人は、明治人が持つ一種の合理主義と武士的規範意識を持っていたのです。

 一方、韓国人にとって日本の日露戦争における勝利は、その植民地化を意味していました。「第一次日韓協約」(1904.8)によって韓国の財政権・外交権は実質的に日本の掌握するところとなり、「第二次日韓協約」(1905.11)で韓国の外交権は日本に接収されました。また、ソウルには日本政府を代表する統監府が置かれ、統監は天皇に直属し、韓国において日本官憲が行う政務の監督、韓国守備軍司令官への兵力使用の命令など、強大な権限を有することとなりました。初代統監には伊藤博文が就任しました。

 これに対して韓国国内では、こうした日本による韓国の植民地化は、韓国の独立を約した先行条約や宣言に対する裏切りであると受けとられ、救国と独立をめざす武装義兵闘争が繰り広げられました。1908年には最高潮に達し、この年の交戦回数は1451回に上り、7万人近くがこれに参加し、1万1千余名が死亡したとされます。また、高宗は「日韓協定」を容認せず、1907年6月オランダハーグで開かれた第二回平和会議に密使を送りましたが訴えは斥けられました。

 こうした高宗の密使事件に激怒した伊藤統監は、高宗を譲位させ大韓帝国最後の皇帝となる純宗を即位させ、「第三次日韓条約」(1907.8.27)により韓国の内政権も掌握しました。しかし、伊藤博文は、韓国統治の実権を掌握しながらも、韓国官僚に日本人を送り込むことはせず、その傀儡化を進めつつ合邦論は避けていました。それは、韓国を富強ならしめ、「独立自衛」の道をたて「日韓提携」するのが得策であり、「合邦はかえって厄介を増すばかり」と判断していたからです。

 しかし、韓国の義兵闘争は収まらず、日本人の間からも伊藤の保護国経営を批判する声が上がるようになり、こうして、伊藤は1909年6月「合邦」に同意するとともに統監を辞任しました。伊藤は辞任後まもなく朝鮮人安重根にハルピンで射殺されました。(10.26)新たに統監となった寺内正毅は、李完用韓国首相に日韓併合条約の受諾を求め、1910年8月22日条約発効、ここに李朝五〇〇年の歴史が閉じられることになりました。併合直後の日本の新聞雑誌は一致してこの韓国併合を支持しました。

 こうして、日本の朝鮮支配は「韓国併合」という形で完成を見た訳ですが、日露戦争の結果、ロシアより譲渡された旅順・大連の租借及び南満州鉄道の租借期間は二五年であり、1923年にはその期限が切れることが問題となっていました。そんな折、1914年8月欧州において「第一次世界大戦」が勃発しました。日本はこれを天佑とし、日英同盟に基づく要請を受ける形で、1914年8月23日ドイツに宣戦を布告、青島ばかりでなく済南や膠州鉄道も占領しました。11月7日ドイツは降伏しました。

 中国政府(袁世凱)は1915年1月7日、日本に交戦区域の廃止と日本軍の撤退を要求しました。しかし、日本はこれを拒否した上袁世凱大統領に対して「二十一ヵ条要求」(1915.1.18)を突きつけました。この要求は五項からなり、第五号は単なる「希望条項」であり、その主眼は、第二号の、旅順・大連の租借期限及び南満州鉄道の租借期限の延長(さらに九十九年)、日本国民に南満州・東部内蒙古での賃借権・所有権・自由に居住往来し業務に従事する権利、鉱山採掘権の承認させることにありました。

 しかし、中国は、第五号の要求項目が「希望条項」とはいえ中国を属国視するものであるとして強く反発し、中国国民は憤激し、日本を「仇敵」視するようになりました。しかし、日本政府は第五号を保留した上で最後通牒を発し、1915年5月9日中国にこれを受諾させました。こうした日本のやり方に不信感をつのらせたアメリカは、中国の「領土保全・門戸開放等」を求める通告を発しました。しかし、1917年11月には、「石井・ランシング協定」により、日本に「領土相近接する国家間の特殊関係」を認めました。

 1918年11月11日、ドイツは敗れて休戦条約を締結し、第一次世界大戦は終わりました。1919年1月18日からパリのベルサイユ宮殿で講和会議が開催され、ドイツに極めて過酷な内容の平和条約が調印され、また、国際紛争の調停機関として国際連盟が設立されました。一方、日本が「二十一ヵ条」で要求した山東省のドイツ利権は、アメリカの妥協によって日本に譲渡されました。この頃日本は、大戦景気もあって経済を飛躍的に躍進させ、軍事大国としての地位を確立するようになっていました。

 しかし、この間1917年3月にロシア第二次革命が起こり、11月ソビエト政権が成立したことにより、1907年から1916年7月まで四回にわたって、満州における日露の勢力範囲(日本は南満州)や中国における利益範囲を約していた日露協定が廃棄されました。また、ロシア革命の影響や、パリ講和会議においてウイルソン大統領によって提唱された民族自決主義の考え方が広まるにつれ、朝鮮においては民族独立運動、中国においては反帝国主義・反封建主義運動が組織されるようになりました。

 ベルサイユ講和会議から二年後の1921年11月、アメリカの主導でワシントン会議が開かれました。その結果、海軍軍縮条約が成立し、主力艦の米英日比率(トン数)を5:5:3としました。また、日本はこの条約に基づいて、廃艦、空母への改造、建艦中止をするとともに、将兵7,500名、職工14,000名を整理しました。また、陸軍においても1922年の山梨軍縮で兵員約6万人と馬匹約13,000を削減、続いて、1925年の宇垣軍縮で四個師団を削減し装備の近代化を図りました。

 また、安全保障面では日英同盟を解消し、その代わり四カ国(日本、アメリカ、イギリス、フランス)条約を締結し、太平洋地域に領有する島嶼に関する四カ国の相互の権利尊重、紛争発生の場合の協議について規定しました。また、九カ国条約(上記五カ国に中国、ベルギー、オランダ、ポルトガルを加える)によって、中国に進出する列国間の原則(中国の独立・領土保全、門戸開放・機会均等等)を確立しました。これにともなって、日本の大陸における特殊利益を認めた石井=ランシング協定は廃棄されました。

*以上『あの戦争は一体何であったのか』竹内久夫を参照しました。

 懸案の二十一ヵ条問題については、支那はこの会議を利用して同条約を廃棄しようとしました。しかし、幣原は、日本は南満州において独占権(借款や、政治・財政・軍事・警察等への顧問傭聘に関する優先権)を振り回す意志のないことを表明した上で、二十一ヵ条要求の中で保留となっていた第五号を撤回しました。こうして、旅順・大連の租借期限及び南満州鉄道の租借期限の延長、日本国民に南満州・東部内蒙古での賃借権・所有権・自由に居住往来し業務に従事する権利や鉱山採掘権が正式に認められました。

 さらに、日本は中国との直接交渉によって、膠州湾租借地を中国に還付し、膠州鉄道も中国が十五年年賦で国債で引き取ることを認め、鉱山は日中合弁としました。こうして日本軍は青島から撤退しましたが、商業上の利権はそのまま確保され、山東は満洲に次ぐ日本の勢力範囲となりました。しかし、これによって日本の日清・日露戦争以来の大陸政策、軍事力増強政策に歯止めがかかり、「ワシントン体制」のもとにおける国際協調、中国の内政不干渉政策が選択されることになりました。

 しかし、その一方で、こうした政府の軍縮政策や国際協調路線に強い不満を抱くグループが軍内に形成されつつありました。1921年(大正10年)秋、ドイツのバーデン・バーデンで永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の三陸軍中佐が会合し、長州閥の打破と国家総動員体制の確立のため結束することを約しました。1927年には陸士十五期から十八期までの佐官級将校の横断的組織として、二葉会が結成され、ここに陸軍青年将校による国家改革運動がスタートすることになりました。

 昭和3年になると陸軍省軍事課の職員を中心に、第二の集団が結成されるようになりました。彼らは二十期から二十五期までの陸軍の佐官級実力者たちで、無名会あるいは木曜会と称していましたが、昭和4年4月頃、先の二葉会と合流する形で一夕会が形成されました。こうして十五期から二十五期までの陸軍佐官級実力者の結合が成立し、藩閥解消・人事刷新、軍政改革・総動員体制の確立による、満蒙問題の根本解決が図られるようになりました。

 ところで、彼らには”軍縮を挟んで十年の臥薪嘗胆”という言葉がありました。先に述べた軍縮の時代、大正末期から昭和の満州事変までは、軍人に対する世間の目は冷たく、当時の軍人は税金泥棒扱いされていました。しかし、彼らは、こうした「世間の風潮、流れというものは、おおむね、十年を区切りに変化し、更替する。今はがまんの時である。しかしかならず自分たちの時代がくると歯を食いしばって、軍縮に象徴される、自分たちのおかれた地位、身分の回復、さらに進んで一国の支配を誓」っていました。(『昭和の軍閥』p98)

 この軍縮に象徴される大正末期から昭和初期の時代は、第一次大戦後の慢性的不況に関東大震災やシベリア出兵による費用が重なり、不況のどん底にありました。こうした中で、陸海軍の青年将校たちは、大正デモクラシー下の軍縮政策や、政党政治にともなう利権体質及びその腐敗構造に対して、強烈な反感と憎悪を抱いていました。また、ロシア革命の影響を受けて国内の左右の反体制運動も激化しつつあり、一方、中国においては、反日運動が反帝・反植民地主義運動に結びつく兆候を見せていました。

 こうした困難な状況の中で、日本外交の舵を取ったのが幣原喜重郎でした。彼はワシントン会議の時は駐米大使でしたが、日本外交団の全権を務めており、四カ国条約や九カ国条約の締結、さらに二十一ヵ条要求問題とその後始末である山東問題の処理を、上述したような形で行いました。〈軍縮問題は加藤(友)全権が担当〉その後1925年6月加藤高明護憲三派内閣の外務大臣になり、国際連盟規約やワシントン条約に盛られたの精神(民族自決、国際協調)の遵守を基調とするいわゆる「幣原外交」を押し進めました。

 幣原が外相に就任したことは米国において特に好評で、ニューヨークタイムスは「その主義というのは、現代のような列国間の相互信頼の時代には協調と親善とが、傲慢と暴力よりも永遠の平和を増進するという確信から発したものである」と激賞しました。また、従来北支における排日派の宣伝機関紙として有名だった「北京益世報」も、従来の排日的筆鋒を収めて日華新提携論を高唱し、旅大の返還要求などは別に協定を締結し相当期間延長すべきである、とする具体的提案をするほどでした。(『幣原喜重郎』幣原平和財団発行p261)

 こうして幣原は、加藤内閣(1924.6~1926.1)第一次若槻内閣(1926.1~1927.4)において外務大臣を務める間、対支不干渉政策を基調として、中国関税自主権の確認、支那治外法権撤廃の努力、支那の通商条約改定要求の応諾等中国との関係改善に努めました。しかし、支那における軍閥間の闘争は止むことなく、一方、支那の革命運動は急進して、蒋介石の北伐は広東より開始せられ、段祺瑞政府は倒れ、北京は無政府状態となりました。この頃から、幣原外交を批判する声が上がるようになりました。

 特に問題となったのが、1927年3月24日、北伐途上の革命軍が引き起こした南京事件への対応です。この時、日本領事館も革命軍兵士による掠奪・暴行を受けましたが、領事館に派遣された陸戦隊員は、尼港事件の記憶が生々しい時期でもあり、居留民の懇願を容れて無抵抗を貫きました。この時、揚子江上にいた日本軍艦も、南京に居住する多数の日本人の虐殺を招く恐れがあるとして砲撃を控えました(幸い死者は出なかった)。また、幣原は事件後イギリスの求めた共同出兵にも応じませんでした。

 しかし、この事件が国内においてセンセーショナルに報道され、その後(3.29)、領事館に派遣されていた陸戦隊員が、任務を全うできなかったとして自決(未遂)する事件が起きました。ここにおいて世論は激昂し、日本人の蒙る屈辱はいずれも幣原外交の結果であるとして政府を激しく攻撃し、反対党(政友会)は、政府の無抵抗政策を「弱腰外交」「軟弱外交」と排撃し、居留民は現地において保護すべし、必要ならば出兵も断行すべし、居留民の引き揚げはわが威信の喪失であると主張するようになりました。

 かくして、民政党内閣は倒れ、政友会内閣が出現したことで、従来の国際協調を基調とする幣原外交は、田中内閣の積極的外交に取って代わられることになりました。この時、田中首相は外相を兼任し外務政務次官には森恪を任命しました。(1927.4)当時、森恪は政友会の闘士として活躍しており、対支政策については奔放な積極意見の持ち主で、軍の極端分子と連携して満洲に対する強硬論を煽動していました。彼は、そうした対支強硬策を政府公認の政策に高めようとして「東方会議」(1927.6.27~7.7)を開催しました。

 しかし、こうした森の対支強攻策と田中首相の満州問題解決策にはかなりのズレがありました。田中首相は、張作霖が日本の援助によって、東三省だけで事実上独立する事を希望し、張作霖が支那中央部を離れて、日本との間に特殊関係を設定することで、日本の希望する満州問題の解決を図ろうとしていました。そのため北伐中の蒋介石とも連絡し、張作霖を東三省に帰還させるよう働きかける事を約束するとともに、蒋介石の支那統一のための北伐にも了解を与えていました。

 そこで、蒋介石の北伐となりましたが、第一回目は、国民党内の内部対立から北伐は中止(1927.7)されました。この時日本は、森恪の強硬な主張で第一次山東出兵(1927.6)をしていましたが、9月に撤兵しました。続いて蒋介石は1928年4月北伐を再開しました。この時も、田中首相は不測の事態が起こることを恐れて出兵を躊躇しましたが、森恪の働きかけや、済南駐在武官酒井隆少佐の執拗な出兵要請もあり、天津より支那駐屯軍歩兵三個中隊、内地より第六師団司令部(約5,000)が、済南に直接派遣(4.26先遣部隊到着)されました。

 済南にいた北軍の残留部隊は4月30日全員撤退し、代わって5月1日より南軍の第九軍及び第四十軍が入城をはじめました。5月2日には蒋介石も済南に入りました。日本軍は商埠地内に警備地域を定め警戒に当たりましたが、5月3日午前9時半商埠地内で両軍の衝突事件が発生しました。(双方の言い分は食い違っており真因は不明、酒井武官の謀略という説もある)ただちに不拡大の交渉が開始されましたが、商埠地内においては市街戦や掠奪・暴行が断続的に発生し、4日朝の段階に至って事態はようやく沈静化しました。

 この間の日本軍の死者10名、負傷41人、一方南軍の死者は150人とも約500人ともいわれます。また、武装解除された中国兵は1,230人に達しました。また、日本居留民の受けた被害は、掠奪された戸数136、被害人員約400人、中国兵の襲撃による死者2人、負傷者30人、暴行を受けた女性2人と記録されています。また、この外に5月5日に邦人12名の惨殺死体が発見されましたが、これは、避難勧告を無視した麻薬密売人等で、惨殺は土民の手により行われたものが多かった、と佐々木到一の『ある軍人の自伝』にあります。

*中国側死者の中には、北伐にともなう外国居留民との折衝に当たっていた蔡公時はじめ済南交渉公署職員8名他16名がいます。

 ところが、この間に酒井武官より陸相宛に発した電報があまりにも誇張されたものであったため、陸軍省は邦人の惨殺三百と発表して出兵気運を煽り、報道各社もそれに追随しました。そのため、国内では反中国感情がみなぎり「積極的膺懲論」がしきりに唱えられるようになりました。参謀本部内ではこうした世論を背景にして「国威を保ち将来を保障せしむる為には、事実上の威力を示すにあらざれば到底長く禍根を断つ能わず」との意見をまとめて参謀総長に具申しました。総長は動員一個師団の出兵(第三次5月9日)の必要を認めました。

 一方、蒋介石は5日参謀副長熊式輝を福田中将のもとに派遣して、国民革命軍は北進する。蒋介石自身も「本日出発」する、ゆえに日本軍も戦闘を中止して欲しい、と要請しました。しかし福田中将はこれに答えず、自らの「膺懲方針」を東京に打電しました。蒋介石は6日午前8時済南を離脱しました。国民革命軍主力が北進した後の済南城には、約3,000人の将兵が、日本軍の攻撃に対して「持久する」事を目的に残留しました。日本側は7日になってようやくこの事態の変化に気づきました。

 しかし、福田中将は5月7日午後4時、蒋介石が到底飲めないことを承知の上で、あえて「暴虐行為」に責任ある高級武官の「峻厳なる処刑」、同部隊の武装解除他五ヵ条の要求を手交し、十二時間以内に回答するよう迫りました。中国側には、これはあまりに過酷な条件であり、明らかに「北伐妨害」である、一戦も辞さない覚悟ではねつけるべきだという意見もありましたが、結局、「北伐に支障なき限り忍耐策」をとることとして、回答期限の延長を提案しました。しかし、福田中将はこれを無視し、5月8日午前4時済南城攻撃を開始しました。

 この頃、東京では陸軍側の軍事参議官会議が開かれていました。会議に提出された「済南事件軍事的解決案」には次のようなことが書かれていました。

 「我退嬰咬合の対支観念は、無知なる支那民衆を駆りて、日本為すなしの観念を深刻ならしめ、その結果昨年の如き南京事件、漢口事件を惹起し、その弊飛んで東三省の排日となり、勢いの窮するところついに今次の如く皇軍に対し挑戦するも敢えてせしむるに至る」
 「之を以てか、支那全土を震駭せしむるが如く我武威を示し彼等の対日軽侮観念を根絶するは、是皇軍の威信を中外に顕揚し、兼ねて全支に亘る国運発展の基礎を為すものとす。即ち済南事件をまず武力を以て解決せんとする所以なり」

 こうして8日早暁以後11日に至るまで、済南城攻撃戦が展開されることになったわけですが、その経過については、資料間に甚だしい食い違いがあり、その実態は必ずしも明らかではありません。臼井勝美氏の「泥沼戦争への道標」(『昭和史の瞬間(上)』所収)では、「9日と10日の両日は昼夜をわかたず済南城内に集中砲火をあびせました。夜は火炎が天を焦がし、済南城内は逃げ惑う住民達の阿鼻叫喚の巷となった」と書かれていますが、児島襄氏の『日中戦争』では、両軍の一進一退の攻防戦が克明に描かれています。

 その概要を、両軍の死傷者数で見てみると、上掲『日中戦争』では、中国側の遺棄死体160で、「第四十一軍副長蘇宗轍によると、第一師第一団の死者行方不明約600、第九十一師第二団は同300であった」と記述されています。また、済南惨案後援会会長が6月7日南京で報告したところによれば、「死亡3,600、負傷1,400、財産損失約2,600万元」に上ったとされています。

 しかし、日本側にはこうした報告を裏付ける記録も回想も見あたらない、と児島襄氏はいっています。また、済南城攻撃を指揮した第六師団長福田中将の、戦闘報告書には、「済南城陥落にともない支那側は無数の死体と山のごとき兵器弾薬を遺棄して全く二十支里外に逃走し、日本陸軍の武威は十分これを宣揚したり」と書かれていると紹介されています。(『昭和史の瞬間』(臼井勝美)p49)

 一方、日本側の5月3日以来の死傷者数は、『日中戦争』では、戦死11(?)、負傷230人となっています(居留民の死者は14名)。また、臼井氏の先の論文では、第六師団の済南城攻撃による死者25、負傷157となっています。(日本側居留民の死者は15名、負傷者30名)なお、前回紹介した中山隆氏の『関東軍』では、日本側居留民死者15名負傷者15名、軍人の戦死者60名負傷者百数十名となっています。

 これらの数字のうち、日本側の死傷者数については、それほど大きな食い違いはなく、ほぼこのあたりの数字であろうと思われますが、中国側(済南惨案後援会)の数字はいささか過大であり(といっても日本側の犠牲をはるかに上回ることは明白)、また臼井氏の語る済南城砲撃の様子も、私にはにわかに信じられません。というのは、児島襄氏の『日中戦争』では、済南城攻撃の戦闘模様が克明に記述されており(戦闘詳報によったものか)、砲撃は城壁破壊が中心で、城内住民の避難措置もとられており、城内に「持久」した中国兵も11日まで良く戦い、そして速やかに撤退しているからです。

 だが、以上のような点を考慮したとしても、日本軍の済南城攻撃は居留民保護という当初の目的をはるかに逸脱したものであり、中国軍に「日本軍の武威」を示すため、あえて過酷な最後通牒を突きつけて攻撃を開始したものであり暴虐のそしりは免れません。というのも、蒋介石は、5日の段階で主力部隊を北進あるいは迂回させることを福田第六師団長に告げ、戦闘中止を依頼しているからです。つまり、南軍には北伐を中止して日本軍と戦う意志は全くなく、両軍の衝突も4日午前中には沈静化していたのです。

 ところで、こうした軍中央の常軌を逸した行動は、はたして、酒井駐在武官のもたらした誇張した情報に基づく誤判断だった、というだけで説明できるでしょうか。本当はそうではなく、その背後には、山東出兵によって北伐軍との間に武力衝突が発生することを、むしろ日本軍の「武威を示す」好機と捉え、かつ、この混乱に乗じて満州問題を一気に武力解決しようとする関東軍の思惑があったのではないでしょうか。関東軍は、第二次山東出兵と同時に、錦州、山海関方面への出動を軍中央に具申しており、5月20日には奉天に出動し、守備地外への出動命令を千秋の思いで待っていました。

 こうした関東軍の、満州問題の武力解決に賭ける思いがどれだけ重篤なものであったかということは、これが田中首相の「不決断」で水泡に帰したと判った時の関東軍の憤激の様子を見れば判ります。張作霖爆殺事件は、こうした行動への願望が、とりわけ河本大作に代表される青年将校たちにいかに強烈だったかを遺憾なく示しています。

 そういえば、済南から誇大情報を送り続けた酒井隆武官(この人、例の梅津・可応欽協定の張本人でもあります)もその一人であり、張作霖爆殺事件の主犯である河本大作もそうです。また、この河本大作を英雄視し、田中内閣を倒壊させてでも彼を守り抜こうとしたのも、一夕会に結集するこれら青年将校たちでした。



2009年5月28日 (木)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか1――暴走の発端「済南事件」

 前回の末尾に、「北支工作を連鎖として、満州事変が日支事変となり、日支全面戦争に拡大されてしまった。その原因を尋ねると、日本の政治機構が破壊されたためであり、結局、日本国民の政治力の不足に帰すべきである」という重光葵の言葉を紹介しました。この「日本国民の政治力の不足」ということは、ひいては当時の日本国民の政治意識を支えた「思想」に帰着します。つまり、この「思想」が、この時代の日本に「自滅」への道を選択させてしまったのです。

 私は先に「トラウトマン和平工作はなぜ失敗したか」について、その根本原因を「日本の伝統的大陸政策」に求めました。特に、昭和期の日本の大陸政策が、独善的・排他的な東亜共和思想に陥ったことが大きな問題でした。確かに、当時の国際環境の中で資源の少ない日本は中国にそれを求めるざるを得ませんでした。しかし、この問題を、あくまでも中国の主権を尊重する形で解決すべきでした。また、第一次世界大戦後の国際協調路線を堅持する中で解決すべきでした。

 ここで、明治以降の日本の大陸政策の変遷を概略見ておきます。

 それは、中国との朝鮮の支配権をめぐって戦われた日清戦争(1894.7~1895.4)に始まります。日清戦争に勝利した日本は、朝鮮の独立の承認、遼東半島、台湾、澎糊諸島を獲得しましたが、三国(ロシア、ドイツ、フランス)干渉(1895.4)を受け遼東半島を中国に返還しました(その代償として邦貨約4500万円を取得)。しかし、その後ロシアは旅順港の租借、東支鉄道の敷設をはじめ満洲に支配権を広げ、さらに朝鮮にも進出しようとして日本と対立するようになりました。

 こうして日露戦争(1904.2~1905.9)が勃発し、日本は日英同盟もあって勝利し、ロシアに南満州を中国に返還させた上で、遼東半島(関東州)と東支鉄道の一部(旅順―長春間、南満州鉄道)の支配権(ロシアの25年の租借権を継承)を獲得しました。この内、遼東半島については、日本は二度の戦争の犠牲を払ってようやく獲得したものであり、それだけ思い入れの深いものとなりました。また、南満州鉄道の租借権については、ロシアが採掘していた撫順及び煙台炭坑の開発・経営権や、鉄道付属地(鉄道両側併せて約62メートル及び駅付近の市街地)の行政権も含んでいました。さらに関東州の守備隊として日本の軍隊が配置され、1919年には関東軍司令部が設置され、南満州鉄道の線路防衛にもあたることになりました(1931年の満州事変に至るまで約一万人)。

 この間、日本は1910年に朝鮮を併合しました。満洲及び蒙古については、四次(1910~1016)にわたる日露協約によって、ロシアとの勢力範囲(日本は南満州および東部蒙古)を確定し、相互援助・単独不講和を約しました。しかし、1917年のロシア革命によりこの協約は破棄されました。また、この間の1911年には辛亥革命が発生し、1912年1月には中華民国が発足し孫文が臨時大統領となりました。2月には宣統帝が退位して清朝は滅亡し袁世凱が大統領になりました。

 このように中国の政情が激変する中、一部日本人(川島浪速他)による満蒙の分離独立工作が企てられました。しかし、日本側の工作は統一されておらず、革命派を支持する活動もあり、また、イギリスが袁世凱による統一共和政府を支持して、日本に分離独立運動を援助しないよう申し入れたことなどから、この運動は挫折しました。一方ロシアは、1912年11月、露蒙協約を結んで外蒙(モンゴル)を保護国化し、1913年には中露協定を結んで、中国に宗主権を残す形でモンゴルの自治を認めさせました。

 1914年7月には第一次世界大戦が勃発しました。日本は日英同盟の要請もあり、東洋からドイツの根拠地を一掃するとともに、この機会を利用して中国における日本の権益確保・拡大をねらって対独参戦しました。日本軍は11月までに膠州湾、青島、山東鉄道を占領、その後加藤外相が袁世凱に出した要求が、いわゆる「対華二十一ヵ条要求」でした。特にその第五号は、希望条項でしたが、支那中央政府に日本人の政治、財政、軍事顧問をおくなどの要求を含んでいたため、列国の反発を招き、中国はこれに激しく抵抗しました。

 結局、日本政府は第五号の希望条項を留保(撤回を訂正5/3)した上で、1915年5月7日に最後通牒を発し、5月9日中国はやむなくこれを受諾しました。続けて、二十一ヵ条要求を具体化する「山東省に関する条約」及び「南満州及び東部内蒙古に関する条約」等が締結されました。前者による権益は、その後、ワシントン会議(1922)における中国との直接交渉で全て返還されましたが、日本は後者の条約によって、新たに、日本人が南満州において商工業上の建物を建設するための土地や、農業を経営するための土地を商租する権利を得ました。また、この時満鉄平行線を敷設しないとの取り決めもなされました。

 この間、中国では袁世凱の独裁化が進行し、1915年12月に袁は皇帝となり、共和制が廃止され帝政となりました。しかし内外の強い反発を受けて、袁はあわてて帝政を取り消しましたが、各地で反袁武装蜂起が相次ぎました。こうした中国の政情不安の中で満洲では張作霖が台頭し、日本政府(大隈内閣)は張を支援して満蒙独立運動(第二次)を推し進めようとしました。しかし、1916年6月に袁が急死し、副総裁の黎元洪が大総統代理となると日本政府は黎の新政府を日本に依らしめることとし、第二次満蒙独立運動は中止されました。

 1917年10月、大隈内閣に代わって寺内正毅内閣が成立しました。同内閣は混迷した対中国政策を立て直すため、「中国の独立と領土保全を尊重擁護し、両国の親善増進をはかり、内政に干渉せず、列国とも協調することで、満蒙の特殊利益の増進と利権の確保」をしようとしました。そのため黎に代わって政権を掌握した段祺瑞に対する借款(西原借款)がなされました。また、1917年11月にはアメリカとの間で「領土相近接する国家の間には特殊の関係が生ずることを承認する」いわゆる「石井・ランシング協定」が結ばれました。

 1918年11月には、膨大な犠牲をもたらした第一次世界大戦が終わり、1919年1月からパリで講和会議が開かれました。この会議では英仏そしてアメリカも、日本がドイツ利権を引き継ぐことに同意しました。これに対して中国民衆の憤懣が爆発し、全国的な民族解放運動が巻き起こりました。(五・四運動)それまでの排外運動は、イギリスやロシアを対象としていましたが、今や中国民衆の主要な敵は日本に絞られるようになり、日本政府は大陸政策の抜本的修正を迫られるようになりました。

 その後、1920年7月、段祺瑞の安徽派と、これに反発する馮国璋の直隷派と張作霖の奉天派との間で「安直戦争」が行われました。その結果、段祺瑞が敗れて日本の中国における親日基盤は壊滅しました。日本政府は、五四運動が高まりを見せる中で大陸政策を見直す余裕もないままに、「安直戦争」後の新情勢への対応を迫られました。原内閣は大陸政策に関係する諸機関の代表者を集めて満蒙政策の再検討(1921.5)を行い、「満蒙経営には張作霖との親善を保つ」ということで意志統一をはかりました。

 1921年7月には、アメリカが提唱したワシントン会議が始まりました。これは、第一次世界大戦後の軍縮要求を受け、列強間の建艦競争を休止させることを目的としていました。またこれを機会に、アジア太平洋地域における国家間の協調体制も作ろうとしました。日本では会議の結果を憂慮す声もありましたが、「日露協約は既になく、日英同盟の存続も危うく、直隷派の勝利した中国との間も多難であり、アメリカとの親善保持は不可欠」ということで、原首相はこれを了承しました。

 周知のようにこの会議では、日英同盟条約を終了させ、「太平洋方面における島嶼たる領地の相互尊重を約する英米仏日による四カ国条約」が調印されました。その他中国に関する九カ国条約、海軍軍縮条約等が調印されました。この九カ国条約の成立を機に、23年4月石井・ランシング協定は廃棄されました。こう見てくると、これまで日本に有利と見られた条件がことごとく消失したかに見えますが、アメリカ全権ルートが提出した「ルート四原則」は日本の満蒙特殊権益に理解を示していました。

 この九カ国条約の締結に際して、中国は列国の特権や利権の公表と審査、不平等条約の撤廃等を要求しました。しかし、中国がすでに各国に附与した既得権益には影響を及ぼさないことが確認されました。日本は先述したように、中国との直接交渉で膠州湾租借地の還付他山東省の利権を手放しましたが、満蒙に関する権益は保持しました。しかし、その後中国では直隷派の実力者呉佩孚と張作霖の間に第一次奉直戦争(1922.4)が起こり張作霖が敗れると、二十一ヵ条条約の無効を訴える「旅大回収運動」が提起され日本政府を悩ませまるようになりました。

 この間日本政府は、中国政府のこうした要求を拒否する一方、中国の内争に対しては不干渉主義をとりました。また国際関係のおいては列国との協調路線をとりました。こうした外交方針について、この頃は、中央と現地、外務省と陸軍の間に大きな意見の齟齬は見られませんでした。また、原内閣以降も、こうした日本の不干渉政策は維持され、加藤高明護憲三派内閣(1924)の外相幣原喜重郎による「中国に対する内政不干渉・国際協調政策」へと受け継がれました。(幣原外交により中国の対日世論は好転した。6/3追記)

 その後、1924年9月張作霖の奉天軍と呉佩孚の直隷軍との間で第二次奉直戦争が始まりました。しかし、この戦争は馮玉祥のクーデターにより呉佩孚が追われ、張作霖と馮玉祥の推挙により段祺瑞が北京政府の臨時執政になりました。こうして張は奉天から上海に至る地域を支配下に収めました。一方、馮は北京地域と、綏遠、察哈爾を中心とする北西部を支配し、コミンテルンと通じ軍備を強化しました。これに対して広東に国民政府を組織していた孫文は和平統一の国民会議を開くことを提唱して北京に入りましたが、目的を達しないまま1925年3月病没しました。

 北京の段政府はワシントン会議で調印された中国の関税に関する条約に基づき1025年10月北京で関税特別会議を開催しました。しかしこれに反対して直隷派の浙江督弁孫伝芳と漢口の呉佩孚が奉天軍に対して兵を起こしました。さらに、奉天軍第三軍副長の郭松齢が突然反旗を翻し、張・郭両軍は遼河をはさんで対峙することになりました。これに対して日本は満州に戦乱が及び日本の権益が犯されることを防ぐため有形無形に張作霖を援助することになりました。その結果郭松齢は敗れました。その後、張作霖は呉佩孚と結び馮玉祥軍を攻め1926年4月天津、北京を占領しました。

 このような経過の中で、日本の不干渉政策は、引き続く中国の政情不安の中で安定せず、結局、満鉄沿線の日本国民の生命財産保護を目的としつつ、実質的には張作霖を軍事的に支援することになりました。また、その一方で、加藤高明内閣は満鉄支線の建設促進を図りました。これに対して張作霖は、北京政界に進出するようになると、日本の抗議を無視して満鉄東西平行線の建設を押し進めるようになりました。こうした張作霖の強硬姿勢は、従来在満権益擁護のために張作霖を支持してきた日本側に深刻な危機感を抱かせるようになりました。

 一方中国では、蒋介石が孫文の後継者として国民党の実権を握り、北伐(1926.7)を開始し10月には武漢三鎮を攻略しました。これに対して、張作霖は軍閥各派を糾合し国民革命に対決する姿勢を示しました。1927年1月、国民政府が広東から武漢に遷都した時、意識高揚した民衆によるイギリス租界の占拠・回収事件が発生しました。イギリスは日米両国に共同出兵を要請しましたが、幣原外相はこれを拒否しました。さらに3月には国民革命軍が南京に侵入したとき、兵士による各国領事館の掠奪暴行事件が発生し、日本領事館も掠奪暴行を受けました。

 この時、南京の江岸には日・英・米の砲艦がいて、英・米の砲艦は蒋介石軍の根拠地を砲撃しました。しかし、日本の砲艦はこの砲撃に加わりませんでした。これは、南京の居留民が尼港事件(1920.3シベリア出兵中ニコラエフスクで起きた日本人居留民・将兵の虐殺事件)を憶えていて、艦長に砲撃しないよう嘆願したためにとられた措置でしたが、これを機に、幣原外交を「軟弱外交」「腰抜け外交」と非難する声が、軍、政界、マスコミの間に澎湃として起こるようになりました。

 こうした批判の中で、幣原外交は若槻内閣総辞職(1927.4.27)と共に終わり、これに代わって、田中義一内閣による「積極的大陸政策」がとられるようになりました。一方、反共クーデターに成功した蒋介石は、首都を南京に定め北伐を再開しました。田中内閣は青島の在留邦人の安全をはかるための自衛措置として、5月28日満洲より一旅団を青島に派兵しました(第一次山東出兵)。しかし、この時は、蒋介石の南京政府と共産党中心の武漢政府の間に対立が生じ、北伐は中止されました。

 ところで、第一次山東出兵が行われる中、6月27日から7月7日のまでの間、政府や軍の幹部を集めた東方会議が田中首相の主宰で開かれ「対支政策綱領」が決定されました。ここでは「満蒙特に東三省地方は国防上、国民生存の関係上重大な利益を有するので、万一動乱が満洲に波及し、治安乱れて同地方におけるわが特殊の地位権益に対する侵害が起きる恐れがあれば、これを防護し且つ内外人安住発展の地として保持できるよう、機を失せず適当の措置に出る覚悟を要する」とされました。

 こうした考え方は、6月1日付けで関東軍が陸軍省と参謀本部に提出した「対満蒙政策に関する意見」とも似ていました。つまり、関東軍の満蒙政策が東方会議によって裏付けされることになったのです。こうした日本の動きは、それが山東出兵中になされたこともあって内外の関心を呼びました。その後1928(1927を訂正6/3)年4月、国民革命軍の北伐が再開され済南をめざして北上しました。これに対して田中内閣は第二次山東出兵(支那駐屯軍4.20済南着、第六師団は4.25青島上陸、4.26より済南商埠地警備にあたる)を行い、5月1日には北伐軍が済南に入城し、両軍が対峙する事態となりました。(下線部6/5挿入)

 そしてついに、5月3日、小部隊の衝突から日中両軍の戦闘に発展し、日本軍は中国軍の済南からの撤退及び軍団長の処刑を要求するなど期限付きの最後通牒を発しました(5月7日午後4時、福田第6師団長名で12時間後)。しかし、回答が期限までに届かなかったとして(拒否を訂正6/3)、現地軍第6師団は5月8日4時済南城の攻撃を開始し、田中内閣は5月9日第三次山東出兵を決定、5月11日これを占領しました。この戦闘で中国側の死者は三千名を超えたともいわれ、これに対して、日本側の居留民死者は15名負傷者15名のほか、軍人の戦死者は60名負傷者百数十名とされています。(この数字は『関東軍』中山隆志p67による)(下線部6/5挿入)

 この最初の衝突における日本人居留民死者(12or13名)の多くは、領事館の避難勧告を無視したアヘン密輸入などの従事していた人びとだったともいいます。(『ある軍人の自伝』佐々木到一)これを酒井隆武官は極めて誇大に軍中央に報告し、陸軍省は300人以上の邦人が虐殺されたという新聞発表を行い世論を煽りました。こうして5月8日、済南で全面的な武力衝突がはじまり、上記のような、日本側の犠牲を遙かに上回る犠牲を中国側にもたらすことになったのです。註:ただし、中国側の死傷者数については諸説あり、はっきりしない(6/3追記)

 この事件以降、それまで華中方面でイギリスを主敵としてきた中国の排外運動は日本を標的とするようになり、蒋介石始め国民政府要人の対日観も決定的に悪化しました。第一次山東出兵には理解を示した英米も、イギリスはこれ以降国民党との接触を開始し、元来国民党に好意的であったアメリカの対日世論にも悪影響を与えました。蒋をはじめとする中国側は、これを日本側が計画的に北伐を妨害しようとしたものと解釈し、その結果、この済南事件は、彼らにぬぐいがたい恨みを残すこととなりました。(以上、主に中山隆志著『関東軍』参照)

 実は、この済南事件こそ、本稿の主題である「昭和の青年将校の暴走」がもたらした最初の事件であり、この事件を機に日本の大陸政策は独善的・排他的・誇大妄想的な方向へと変質していったのです。