日中戦争は誰が始めたか(1)
少し古くなりますが、2009年4月号の『文藝春秋』に、「教科書が教えない昭和史――あの戦争は侵略だったか」という特集記事が組まれていました。半藤一利、福田和也、秦郁夫、別宮暖朗、北村稔、林思雲というおもしろいメンバーで、別宮氏、北林氏、林氏が参加していることで分かるように、彼らの日中戦争についての新たな解釈――「戦争を望んだ中国、望まなかった日本」――を、秦氏や半藤氏など現代史のオーソドクシーにぶつけることが、本特集のねらいでした。 議論は次のように展開しました。 「林 日中間で大規模な戦争が開始された本当の発端は、1937年8月13日に発生した第二次上海事変です。蒋介石は、五千人あまりの日本海軍特別陸戦隊への総攻撃を命じました。中国側が仕掛けた戦争であったのは事実です」 「北村 事変当時のニューヨークタイムスには、『日本は敵の挑発の下で最大限の忍耐を示した』、『日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐためにできる限りのことをした。だが中国軍によって文字通り衝突へと無理やり、追い込まれてしまったのである』との、上海に駐在していた各国の政府職員のコメントが掲載されています」 「北村 しかし、北京を占領した後に、日本は和平への動きを始めていますね。8月の初めに在華紡績同業界総務理事の船津辰一郎に和平工作を委任します。いわゆる船津工作です。日本側としてはむしろこれ以上戦線を拡大したくない、という気持ちが強かった」 「秦 もし、日本に本当に戦意がないことを示したかったら、北京を占領した後で撤兵すればいい。もし北京から撤退していたら、蒋介石は上海を攻めていなかったでしょう。しかし、実際には北京占領後も日本は動員と南下を続けます。和平交渉は本気ではなく、中国側を油断させるための謀計だと思われても仕方がない」 「林 日中戦争より以前から、蒋介石は全面戦争を戦うための作戦計画を構想していました。北部にはあまり軍を送らず、上海など揚子江のラインに主力を結集させる。もし日本が攻めてきたら、奥地深くに本拠地を築き、日本軍をおびき寄せて消耗戦を行う――というものです。そして、実際にその通りに戦争を進めています」 「秦 その通りです。結果的に日本は中国の思う壺にはまってしまった。しかし、それも「もし日本が攻めてきたら」という防衛的なものですよ」 そうしたやりとりの後、ドイツが中国に軍事顧問団を派遣し、中国軍の軍事訓練をしたり、上海周辺に防御陣地を構築したり、武器を供与したりしていたこと。その一方で、ドイツがトラウトマン和平工作に乗り出したことについて、それをどう解釈するかの議論がなされています。別宮氏は前者を重視し、ドイツの将校団が蒋介石に日中戦争を進言し、蒋介石はそれを受け入れたことを、日中戦争の計画が中国側にあった証拠としています。秦氏は、後者について「ドイツは本気で「日中和平をまとめる気があったんですかね。私はどうも本気じゃなかったような気がしてなりません」などといっています。 しかし、日中が戦うことは、日本のソ連に対する牽制力を弱めることになるわけで、ドイツにとっては決して歓迎すべきことではなかったはずです。ただ、ドイツは、第一次大戦で敗者となったために、戦後軍事力を厳しく制限されていた。その抜け穴として、中国からの軍事物資の輸入し、その見返りとして、軍事顧問団の派遣や武器や軍事技術の供与を行っていました。つまり、ドイツはこの両立を必要としていたのです。 秦氏がいうように、ドイツがトラウトマン和平工作にどれだけ本気だったかが疑われますが、南京陥落後の日中の軍事力は日本が圧倒していましたから、あるいはドイツは日本の対ソ牽制力をそれほど心配していなかったのかも知れません。とはいえ、日中戦争が持久戦になるとそれも危ぶまれますから、最終的には、ヒトラーは中国に対する軍事援助を停止しました。 まあ、当時のドイツの対日感情という点では、第一次世界大戦では日本は連合国に属しドイツ敵だったわけですから、そうした敵対感情が中国に対する軍事援助の心理的動機になっていたのかもしれません。これに対して、ヒトラーの場合は、そうした心理的動機はありませんから、あくまで軍事的な観点から中国に対する軍事援助を停止した、つまり、ドイツが「日中戦争を望んだ」というようなことはないと思います。 では、だれがこの戦争を「最も強く望んだか」ということですが、林氏は、中国にも和平派と主戦派があり、和平派は領土の一部を与えてでも日本との戦争を避け全力で近代化を果たすべきだという立場で、そうした立場を支持する人は、少数派ではあるが国の中枢にある人やインテリが多かった、といっています。 これに対して、主戦派は三つのグループに分かれ、第一は過激な学生や市民、第二に共産党、第三が地方軍閥だった。その中で蒋介石は和平派に属していて初めは「安内攘外」戦略をとっていたが、西安事件でこの路線は挫折、盧溝橋事件以降、わき上がる抗日の声に抗しきれなくなった。その背後には、「強硬な反日抗日を売り物にして、隙あらば政敵を「日本に対して弱腰だ」と攻撃する共産党、地方軍閥といったライバル」がいて彼らと戦う必要があった、といっています。 私見では、蒋介石は日本の政治が軍支配に陥っていることから、戦争を覚悟していたと思います。ただ、その時期は中国軍の訓練や装備の充実、上海周辺の防衛陣地の構築が完成するまで、あと2年は必要だと考えていた。あるいは、そのように中国の軍事力が強化されれば、上海戦で日本を打ち負かすこともできるし、あるいは、そうした軍事力を日本に示すことで戦争を避けることもできると考えていたかも知れません。しかし、これで困るのが中国共産党であったことはいうまでもありません。 一方、日本側にも、いわゆる不拡大派と一撃派がいました。では、この一撃派が中国との戦争を望んでいたかというと、必ずしもそうではなく、日本の軍事力を誇示することで、中国に日本に対する親日政策(満州国承認、共同防共、経済提携、排日停止等)をとらせようとしたのでした。従って、それが満たされれば、あえて中国と戦争をする必要はなかったわけで、また、仮に戦争になったとしても、短期決戦で片がつくと思っていて、長期持久戦になるとは夢にも思っていなかったのです。 林氏は次のようにいっています。 さらに、上海事変が始まっても、不拡大方針は堅持され、日本の派兵の目的はあくまで現地居留民保護であったこと。多田参謀次長は、日本軍の前進統制線とか攻撃限界戦などを設定して、それ以上の戦争拡大を防ごうとしたことが指摘されています。もちろん、日本が中国との戦争を望んでいなかったことの決定的証拠は、トラウトマン和平工作で提示された和平条件が、上海事変勃発以前に中国側に提示された「船津工作」の和平条件と同じものだったということでしょう。 秦氏は、これは「和平交渉は本気ではなく、中国側を油断させるための謀計だと思われても仕方がない」などといっています。しかし、船津工作の和平条件は、日本の華北分離工作の間違いを全面的に認め、それによって得られた権益のほとんどを放棄するものでしたから、もし、蒋介石が、トラウトマン和平工作を、これが提示された段階ですぐ受け入れていれば、南京攻略もなく、停戦次いで和平交渉へと移行したに違いありません。 これがこうならなかったのは、日本の政治が軍に支配されその外交が軍事力による既成事実主義に陥っていることに対する不信感が極めて強かったためです。また、そうした日本軍の行動を掣肘する上での国際連盟の力を過信したためです。といっても、基本的には、日中戦争は蒋介石が始めたものですから、戦争が始まり双方が膨大な数の戦死傷者が出ている以上、この戦争は短期では終わらず長期持久戦になることを蒋介石は覚悟していたと思います。 つまり、この戦争は中国が望んだものであって、必然的に長期持久戦にならざるを得なかった、というより、それは初めから予測されていたことだった、ということです。よくトラウトマン和平工作で、参謀本部がその交渉継続を訴えたにもかかわらず、近衛首相が「蒋介石を対手とせず」声明を出したために、和平交渉が頓挫してしまった、それが日中戦争を長期化し泥沼化した根本原因だということがいわれます。しかしそれは、この戦争は「中国が望んだ」という事実を無視しています。 また、参謀本部が和平交渉継続を望んだといっても、陸軍省は政府に同調した、つまり、軍内の意見は割れていたのです。なにしろ上海事変以降南京陥落までに、日本側は6万の死傷者、中国側は約30万の死傷者を出しているわけで、その戦争の和平条件が、戦争前に提示された和平条件で同じということでは、到底世論が納得しなかったでしょう。従って、条件が加重されたわけですが、蒋介石は加重以前の条件でさえ呑まなかったのですから、荷重条件での和平交渉が成功したとは思われません。 こうした議論の締めくくりとして、林氏が次のような指摘を行っています。 私も、この通りだと思いますね。しかし、蒋介石がこの計画性を初めから持っていたかというとそうではなく、蒋介石自身は、もし日本が中国の主権を尊重し、外交交渉による関係調整を図るようになるなら、日本側の要求「満州国の承認」にも実質的に対応することができると考えていたのです。一方、それで困るのは中国共産党であって、日本と蒋介石を戦わせ共倒れさせるためには、なんとしても、満州問題を満州問題に終わらせず、それを日中戦争に発展させる必要があると考えていた・・・。 |