戦前と戦後の「日中戦争」のイメージギャップから目をそらしては、日中戦争の真の原因はつかめない。

2014年2月19日 (水)

 日本人は、中国との戦争を、一体何のためにやっているのかわからなかった。これは軍も同じで、だから、どうにかして早く戦争を止めようと、数々の和平工作を行った。しかし、戦争目的がはっきりしなければ、それを止める条件もはっきりしない。そのため、ずるずると戦争を続けることになった。その内、戦争が終わらないのは、イギリスやアメリカが中国を”そそのかしている”からだと思うようになった。

この頃から、こうした英米の動きに対抗するための、日本側の戦争理念が求められるようになった。こうして東亜新秩序という言葉が生まれた。これが、日本軍による天津の英租界封鎖に発展し、これに反発するアメリカの日米通商航海条約棄に始まる経済制裁の発動となった。日本人の英米に対する敵愾心は次第に高まっていった。それと同時に、援蒋ルート遮断や予想される資源不足に対処するため、日本軍の南方進出が唱えられるようになった。

こうした日本軍の動きを後押ししたのが、日本と同じ後発資本主義国である”持たざる国”ドイツのヨーロッパにおける快進撃だった。この間、軍では一時自発的な支那撤兵も決定されたが、独軍の快進撃が続く中で霧消し、南進論が台頭した。これが北部仏印進駐、次いで日独伊三国同盟の締結となった。これに対するアメリカの経済制裁がエスカレートする中、日本はアメリカとの戦争を回避しようと「日米了解案」に基づく妥協を模索した。

一方、中国やイギリスはこれを阻止しようと工作した。松岡外相は日独伊三国同盟にソ連を加えアメリカを牽制する構想を抱いていたため、「日米了解案」には後ろ向きだった。交渉が難航する中、日本は、援蒋鍾ルート遮断、資源獲得を目的とする南部仏印進駐を検討するようになった。その後、独ソ開戦となり松岡構想は破綻、結局、南部仏印進駐を強行した。これに対してアメリカは態度を一層硬化させ、ついに対日石油全面禁輸となった。

さらに、アメリカが、日本軍の中国からの撤退を要求するに至って、ついに、日本は、中国との戦争を終結できないまま、対米英戦争へと突入することになった。この時、日本国民の大多数は、中国との戦争は、戦争目的もはっきりせず、弱いものいじめをしているみたいで忸怩たる思いだったが、強欲な植民地大国であり、世界の強者である英米に、日本が、自らの「自存自衛」を賭して敢然と戦いを挑んだことに対し、熱狂的にこれを支持した。

以上、概括的ですが、よりリアルに、戦前の日本人の日中戦争及び日米戦争についてのイメージを語ってみました。

これに対して、戦後の日中戦争及び日米戦争に対するイメージは、敗戦そして極東軍事裁判の結果、次のような「村山談話」に見るような「侵略戦争」史観となりました。

「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。」

ここでは、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」のは日本、ということになっていますが、これは、先に述べたような、戦前の日本人の日中戦争及び日米戦争についてのイメージとは随分異なっています。

では、どうして、戦前と戦後の日本人の日中戦争や日米戦争についてのイメージに、このようなギャップが生じたのでしょうか。一般的には、”当時の日本人は軍にだまされていた、あるいは、言論統制で自由なものが言えなかった”などの説明がなされています。しかし、はたして、これだけで、このギャップを説明できるでしょうか。私はできないと思います。

まず、この戦争の「計画性」に問題があります。村山談話にいうように、日本が「植民地支配と侵略」をしたのなら、それを計画した人物が日本にいなければならない。しかし、不思議なことに、それに相当する人物が見あたらないのです。満州事変の張本人である石原莞爾は、昭和12年以降、日中戦争の危険を察し、華北分治工作を止めさせるなど事変不拡大に「殉教者的努力」(『日中戦争』秦郁彦)を払いました。

また、日本政府も、蘆溝橋事件発生以降、「船津工作」(満州国を除き1933年以降日本が華北で獲得した既成事実の大部を放棄する和平提案)を中心とする必死の和平工作を行いました。武藤章や東条英機らの「一撃派」にしても、確かに、彼らの中国認識に”おごり”があったことは事実ですが、決して事変拡大を望んだ訳ではなかったのです。

しかし、そうした日本側の努力にもかかわらず、というよりこうした和平努力の時機を失したというべきか、蘆溝橋事件に端を発する日中両軍の衝突は、一旦停戦協定がまとまったものの、廊坊・広安門事件そして通州事件などがあい次いで発生。さらに戦火は上海に飛び火し、大山事件から中国軍による上海陸戦隊に対する攻撃、中国軍航空機による上海の日本軍艦艇に対する奇襲爆撃と続き、ここに至って日本政府はそれまでの不拡大政策を転換、ついに日中両軍は、全面戦争に突入することになったのです。

ここに至るまでの日中戦争の「計画性」について、大著『日中戦争』の著者小島襄は、その三巻末尾の「あとがき」で次のように語っています。

「『東京裁判』では、「満州事変」「支那事変」が日本の中国大陸支配をめざす計画的侵略戦争である旨の「立証」がこころみられ、「南京虐殺」その他の非違行為も語られた。では、「日中戦争」とは、他には動機も理由もなく、ひたすらに領土を求めて「邪悪なる強者」日本が「聖なる弱者」中国に襲いかかっただけなのか。

赤い夕陽、果てしない大地、黙々と鍬をふるう開拓民・・・というのが、終戦まで私たちが抱いていた満州のイメージである。この人たちも餓狼のような侵略者であったのか。

「日中戦争」で日本は五十余万人の戦死者を数え、戦いの様相は泥沼と形容される。では、連戦連勝と言われていた当時の戦いの実体はどうであったのか。その損害は残虐行為の代償でしかなかったのか。

中華民国総統蒋介石は、「支那事変」がはじまると「日中戦争」が第二次世界大戦に組みこまれて日本が敗北するこことを予見し、長期戦を計画し、指導した、と、日誌に記述している。では、戦争の計画性はむしろ中国側にあったのではないか。

また、中華人民共和国の「抗日戦史」には、終始して「日中戦争」の主役をつとめた蒋介石軍にはほとんど触れられていない。それでは、私たちが拍手したあの留学生たちの青春を捧げた献身(児島襄が一高時代、寮生コンパで、同僚であった中華民国南京政府の中国人留学生たちが、南京政府にではなく、蒋介石政府への献身を誓ったこと)の覚悟は歴史から抹殺されたのか。なぜ?

「日中戦争」が、日本の歩みの歪みの起点であり、歪みそのものであることもいうまでもない。だが、「日中戦争」は以上述べたほかにも中国共産党の役割もふくめて疑問点が多く、世界の戦争史の中でも複雑な特質を持つ。その意味で「日中戦争」は、その背景、誘因、経緯のいずれについても、相互の冷静で細密な実証的検討が必要になる。

それがなければ、日本も中国も、その体質内にひそむ脆弱点を摘出することができず、反省と教訓をくみ取ることもできないはずだからである。」

(以下の文章は「アゴラ」投稿時に書き換えました。h26.2.20 16:40

こうした日中戦争の、おそらくその「計画性」の曖昧さに起因する日本人の戸惑いは、日本が米英に対し宣戦布告した後に「雲散霧消」したことが、竹内好によって、次のように語られています。

「不敏を恥ず、われらは、いわゆる聖戦の意義を没却した。わが日本は、東亜建設の美名に隠れて弱いものいじめをするのではないかと今の今まで疑ってきたのである。(つまり、日中戦争の目的あるいは意義が判らなかったということ。それは東亜建設の美名に隠れた弱いものいじめのように思われてきた、ということ=筆者)

わが日本は、強者を怖れたのではなかった。すべては秋霜の行為の発露(真珠湾攻撃に始まる米英に対する宣戦布告したこと=筆者)がこれを証かしている。国民の一人として、この上の喜びがあろうか。今こそ一切が白日の下にあるのだ。我らの疑惑は霧消した。(中略)この世界史の変革の壮挙の前には、思えば支那事変は一個の犠牲として堪え得られる底のものであった。」

日米英戦争勃発時のこうした感想は、当時の知識人に一般的に見られたものでした。しかし、敗戦後、こうした支那事変以降の日本の戦争の意義付けは、深刻な反省を迫られることになりました。このことについて亀井勝一郎は次のように述べています。

「いまかえりみて、そこに重大な空白のあったことを思い出す。満州事変以来すでに数年経っているにも拘わらず『中国』に対しては殆んど無知無関心で過ごしてきたことである。『中国』だけではない、例えばアジア全体に対する連帯感情といったものは私にはまるでなかった。日清日露戦争から、大正の第一次大戦を通じて養われてきた日本民族の『優越感』は、私の内部にも深く根を下ろしていたらしい。」

「当時の私は、満州事変――日華事変が、日本のいのちとりになるとはどうしても考えられなかった。・・・当時の気持ちに即して言えば、中国に対しては、高をくくっていたと云える。・・・同時に(日本の)『民族主義』の復活を背景として、私の日本古典や古寺の研究はすすんでいたが、それまでの『西洋一辺倒』への反撃とも結びついていた。私たちが受け入れた『ヨーロッパ近代』と称するものへの疑惑と、その超克の意思である。」

「昭和17年私たちは『近代の超克』という座談会を催した・・・唯ひとつ、今ふりかえって自分でも驚くことは、『中国』がいかなる意味でも問題にされていないということである。」(以上、竹内好「近代の超克」より)

竹内好はこの間の事情について、戦後、次のように総括しています。

「近代の超克」は、いわば日本近代史のアポリア(難関)であった。復古と維新、尊皇と攘夷、鎖国と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋という伝統の基本軸における対抗関係が、総力戦の段階で、永久戦争(昭和になってずっと戦争がつづいたこと=筆者)の理念の解釈をせまられる思想課題を前にして、一挙に問題として爆発したのが「近代の超克」論議であった。だから問題の提出はこの時点では正しかった・・・しかし、これらのアポリアがアポリアとして認識の対象にされなかったために、せっかくのアポリアは雲散霧消して、公の戦争思想の解説に止まった、と。

つまり、大東亜戦争の意義について、確かに「近代の超克」という看板は掲げられ、上記のようなアポリアは提示された。しかし、それは看板を掛けただけで、実際の思想闘争は行われなかった(「近代の超克」という看板を掛けただけで、「公の戦争思想」として動員された尊皇思想についての思想的吟味が行われなかったということ=筆者)。そこから思想の創造作用は起こるはずがない。従って、もし、そうしたアポリアを解き新しい思想を創造しようとするなら、もう一度これらのアポリアを課題として据え直さなければならない、というのです。

そうした思想の創造活動が行われなかったために、戦前の日本の知識人は、大正時代中期以降、次第に安易な東西文明対立史観に捕らわれるようになった。そうした時代状況の中で、石原莞爾の最終戦争論が生まれ、同じ東洋王道文明国である中国との連携とその資源の共有が求められた。しかし、中国は、こうした日本の世界史的使命?を認識せず、日本に協力しないばかりか、満州における日本の正当な権益をも否定し、日本を満州から追い出そうとした。それが満州事変そして満州国の樹立となった。中国はそれも認めず、ついに日中全面戦争となった・・・。

これが、当時の多くの日本人にとっての満州事変及び支那事変についての理解でした。では、こうした考え方はどこが間違っていたのでしょうか。先ず第一に、東洋を王道文明、西洋を覇道文明と決めつけ、前者が後者より優れているとしたこと。第二に、中国と日本を同じ王道文明の国と規定し、中国は日本と共同して西洋の覇権文明に対抗すべきと考えたこと。こうした日本人の考え方は、実は、日本人の尊皇思想に基づく家族主義的国家観(→世界観→八紘一宇)の表明であり、中国とは何の関係もなく、その押しつけは中国の主権侵害に帰結せざるをえなかった、ということ。

つまり、戦前の日本人は、中国人に、このような、日本の尊皇思想に基づく国家観→世界観→文明観を押しつけていることに気づかなかったのです。その結果、中国の主権国家としてのリアルな姿が見えなくなり、またワシントン体制下の世界秩序も見えなくなったのです。それが結果的に、中国に抗日持久戦争を決意させることになった。さらに意外なことに、その中国を「覇権文明国家」であるはずの米英が支援することになった。そこで、それに対抗すべくドイツと同盟したが、これが日本をファシズム陣営へと追いやることになり、英米との全面戦争を余儀なくされた・・・。

では、当時の日本に、こうした思想の空回りに起因する、日中間の相互不信の拡大を阻止する力があったでしょうか。それは、先に見たように、竹内好をはじめとする当時の日本の知識人にもできませんでした。まして、日本のマスコミは、「公の戦争思想」の解説にとどまらず、軍の広報機関よろしく「戦意高揚」のヨタ記事を垂れ流しただけでした。折しも、当時は、恐慌の発生から資本主義の行き詰まりが実感され、その超克を標榜する反近代思想(共産主義も尊皇思想もナチズムもその一種)が風靡していました。当時の日本人は、そうした時代の波に抗することができなかったのです。

では、翻って、今日の日本人はどうでしょうか。こうした戦前の失敗を繰り返さないだけの、それを乗り越えるだけの思想を持ち合わせているでしょうか。実は、このための第一の関門が、冒頭に述べた、戦前と戦後の日本人の「日中戦争」のイメージのギャップから目をそらさない、ということなのですが、いわゆる自虐派は前者から目をそらし、保守派は後者から目をそらしているのです。言葉を換えれば、前者は戦争責任を「一部の軍国主義者」に転嫁することで自分を正義とし、後者は、それに対する反発から、中国との戦争を「戦争」と意識できなかった思想の弱さに目をつむっているのです。

冒頭に述べた通り、日本は中国と戦争するつもりはなかった。なのに、結果的に、8年間に及ぶ泥沼の日中全面戦争となった。当時の日本人の考えかたは、強欲な植民地大国であり覇権国家である英米に対抗し、日本の生存を確保すると共に、中国と連帯して、その植民地支配からの脱却を図る、というものでした。それが、当時の日本人が軍を支持し、また兵士としてこの戦争を戦った素朴な思いでした。そしてその思いが、実は日本人の「独りよがり」に過ぎなかったことが、日中戦争ひいては日米戦争という悲劇を招くことになったのです。

なお、こうした、日本人の視点からする「日中戦争」の反省とともに、ここで一考すべきは、今日繰り返されている中国の日本に対する「歴史認識」の強要、これが一体何を意味するかということです。いうまでもなく、日中戦争における主たる抗戦主体は中国国民党です。現在中国を支配している中国共産党は、日中戦争で漁夫の利を得べく、華北を中心に日本軍にゲリラ戦を挑みつつ、将来の国共内戦に備えて戦力温存を図りました。その中国共産党が、今日、日中戦争の主体であったかのように振る舞い、日本を攻撃しているのです。

では、一体、中国は日本の何を攻撃目標としているのでしょうか。先に紹介した『日中戦争』の児島襄は、「中華人民共和国の「抗日戦史」には、終始して「日中戦争」の主役をつとめた蒋介石軍にはほとんど触れられていない」と言っています。つまり、中国共産党は、日中戦争の歴史の実相を抹殺し、それを、中国共産党が主体となって残虐な日本軍と戦い、その侵略を阻止し、中国を守った物語に書き換えようとしているのです。そのように歴史を書き換えることで、中国共産党政権の正統性を証明しようとしているのです。

しかし、こうした中国共産党のやり方が、はたして、中国の「体質内にひそむ脆弱点を摘出」し、そこから「反省と教訓をくみ取ること」につながるでしょうか。私は、それが、虚構の「抗日戦史」に立脚している限り、それは無理だと思います。もちろん、それは中国の問題であって日本の問題ではありません。しかし、日本がそれに振り回される必要もないのです。日本としては、上述した日本人の思想的課題に向き合いつつ、中国の政治的プロパガンダの「ウソ」を、歴史実証的に暴いていかなければなりません。

中国の「ウソ」、そのかなりの部分はすでにバレています。先に触れた「抗日戦史」にしても、また「南京大虐殺」についても然り。児島襄が「世界の戦争史の中でも複雑な特質を持つ」という「日中戦争」。「その背景、誘因、経緯のいずれについても、相互の冷静で細密な実証的検討」を行っているのは、私は日本人だと思います。一方、戦前の日本人と同様、日本と中国の区別がつかず、「逆うことなきをもって旨」とする故か、「ウソ」をウソとも言えず、迎合することをもって「日中親善」とする人たちがいます。

最近は、従軍慰安婦、南京大虐殺、東京大空襲、広島・長崎に対する原爆投下などを巡って、本音を言ったり、取り消したり、謝罪したりの珍問答が繰り返されています。なぜこのようなみっともないことになるかというと、以上指摘したような、「日中戦争」を巡る課題の整理が右も左もできていないからです。つまり、日本と中国は歴史・伝統・文化を異にする別の国であって、中国が日本に対して強要する「歴史認識」も、「ウソ」も、中国の事情によるものだということです。

このことをしっかり認識した上で、戦前と戦後の「日中戦争」のイメージギャップがなぜ生じたか。その謎の解明を通して、「日中戦争」の失敗から学ぶべき日本人の思想的課題の把握とその克服に努めるべきです。同時に、その失敗が、中国やアジア諸国に及ぼした厄災についても忘れるべきではありません。その意味で、私は「村山談話」に賛成です。確かに、日中戦争は日本が望んだものではありませんが、その道筋を引いたのは日本であり、さらに意味不明な戦争を8年間も続けたことも、到底免責できません。

今日、日本のマスコミをふくめた言論界は、自虐史観と歴史修正主義の入れ混じった、訳のわからない混沌とした様相を呈しています。中国や韓国は、こうした日本の混乱状況を利用して、「ウソ」にまみれた政治的プロパガンダを繰り返しています。こうした状況は一日も早く脱却しなければならない。そのためには、私は、今こそ、日本人の視点からする「日中戦争」の総括が必要であり、その第一歩として、戦前と戦後の「日中戦争」のイメージギャップがなぜ生じたか、その謎の解明にあたるべきだと思います。右も左も!