蒋介石の「敵か友か?中日関係の検討」

2009年3月29日 (日)

 前々回に紹介いたしましたが、蒋介石は、1934年12月、満州事変以前そして以後の中国側の犯したあやまりに対する反省を踏まえて、日中関係の抜本的改善を呼びかける「敵か友か?中日関係の検討」という論文を、南京で発行された雑誌「外交評論」に発表しました。「外交評論」は国民党外交部の機関誌といえるもので、党・政府中央の意を広く民衆に伝える雑誌でした。そこに「日中朝野の人びとに先入観抜きで読ませる」ため、あえて第三者に語らせる形をとり、かつ、その内容が国民政府の本意にかなうものであることを明らかにしました。

 これを見ると、当時蒋介石が、満州事変以降危殆に瀕した日中関係を、どのような観点に立って、互助互恵の日中親善関係へと転換させようとしたかがよく分かります。北村稔・林思雲著『日中戦争』によると、満州事変後における中国市民や学生間の主戦論はすさまじく、それに比べれば和平派(その多くは軍事や政治の重要ポストにいる人たちや、社会的影響力の大きな学者たち)の数は少なく、彼らの努力が無かったならば、日中間の全面戦争は、一九三一年頃に早くも勃発していたであろう、というほどだったといいます。

 そうした雰囲気のなかで、蒋介石は何とか満州事変の戦後処理を済ませ、日中親善・互助互恵の経済関係を築きたかった。それが両国のためであるし、ひいてはアジアの平和の確立のためでもあり、さらに世界戦争の危機を免れるためでもあると確信していたのです。そして、そのための唯一の方策として、蒋介石が広田外相に期待したのは、満州国問題をその宗主権を中国に残す形で、「中国の面子」を立てるやり方で解決して欲しい、それ以外に、主戦論に沸き立つ中国国民の怒りを鎮める方法はない、ということだったのです。

 残念ながら、当時の日本はその願いに応えることができなかった。なぜか、日本人は当時の世界をそして中国人の感情を、蒋介石が世界をそして日本人の感情を読んだほどには読めなかった、そういうことだったのではないかと私は推測しています。おそらく、近衛も広田も内心ではそうしたい気持ちはやまやまだったろう、という推測ともあわせて・・・。(以下『蒋介石秘録(下)』より引用・要約p134~138)

 「世上、中日問題を論述した論文は非常に多い。両国の政治家、学者が発表した意見も、専門的なもの、一般的なものを問わず、少なくない。ただ、私はここで、あえて断言する。一時の感情や意地、一時のあやまりにとらわれず、国家の終局的な利害を考えた見解は、きわめて少なく、問題の正面からの認識が、あまりにも不足しているのだ。国際間の多くの悲劇は、すべて一時のわずかな行き違いから生まれながら、永遠にとり返しのつかない禍いとなっているのである。中日両国はさまよい、滅亡への足どりをますます早めている。これを打開し、ひいてはアジア平和の基礎を確立し、世界戦争の危機を免れるためには、なによりもまず、中日問題をまじめに検討しなくてはならない。率直で赤裸々な批判と反省が必要なのである」

 「まず私かいいたいのは、理を知る中国人はすべて、究極的には日本人を敵としてはならないということを知っているし、中国は日本と手を携える必要があることを知っていることである。これは世界の大勢と中日両国の過去、現在、そして将来(もし共倒れにならなければであるが・・・)を徹底的に検討したうえでの結論である。私は日本入のなかにも同様の見解を抱く者は少なくないと思う。だが、今日までのところ、難局を打開し、両国の関係を改善する兆候はないばかりか、前途をみても一点の光明もない。ずるずると、行き当たりばったりに、自然のなりゆきにまかせられているのである」

 蒋介石はこのような日中関係についての基本認識のもとに、当時の日本の置かれた情況について次のような透徹した認識を示しています。

 「日本の中国にたいする関係を論じるには、必ず対ソ、対米(そして対英)という錯綜した関係と関連して論じなければならない。一方において、日本はその大陸政策および太平洋を独覇しようという理想を遂行し、強敵を打倒し、東亜を統一しようと望んでいるため、ソ連と米国の嫉視を引き起こしている。その一方では、日本当局は、満蒙を取らなければ日本の国防安全上の脅威は除去できないなどと言って、国民をあざむいている。換言すれば、対ソ戦、対米戦に備えるため、満蒙を政略経営しなければならない、というのである。

 「われわれはいま純粋に客観的な態度で、日本にかわってこのことを考えてみよう。現在、日本が東に向かって米国とことを構えようとすれば、中国は日本の背面にあたる。もし日本が北へ向かってソ連と開戦しようとすれば、中国は日本の側面となる。このため、日本が対米、対ソの戦争を準備しようというのならば、背側面の心配を取り除かなければ、勝利をつかめないどころか、開戦さえ不可能である。

 この背側面の心配を除去する方法は本来二通りある。一つは力によって、この隣国(中国)を完全に制圧し、憂いをなくすことであり、もう一つの方法は側背面の隣国と協調関係を結ぶことである。しかし、いま日本人は中国と協調の関係によって提携しようとはしていない。日本は明らかに武力によって中国を制圧しようとしている。だが、日本は中国を制圧する目的を本当に達成できるのだろうか?」

 「日本がもし、何らかの理由によって中国と正式に戦争をするとしよう。中国の武力は日本に及ばず、必ず大きな犠牲を受けることは中国人の認めるところである。だが、日本の困難もまたここにある。中国に力量がないというこの点こそ、実は軽視できない力量のありかなのである。

 戦争が始まった場合、勢力の同等な国家ならば決戦によって戦事が終結する。しかし、兵力が絶対的に違う国家、たとえば日本対中国の戦争では、いわゆる決定的な決戦というものはない。日本は中国の土地をすみからすみまで占領し、徹底的に中国を消滅しつくさない限り、戦事を終結させることはできない。

 また、二つの国の戦争では、ふつう政治的中心の占領が重要となるが、中国との戦争では、武力で首都を占領しても、中国の死命を制することはできない。日本はせいぜい、中国の若干の交通便利な都市と重要な港湾を占領できるにすぎず、四千五百万平方里の中国全土を占領しつくすことはできない。中国の重要都市と港湾がすべて占領されたとき、たしかに中国は苦境におちいり、犠牲を余儀なくされよう。しかし、日本は、それでもなお中国の存在を完全に消滅することはできない」

 このように日本の軍部の中国武力制圧方針の誤りを指摘した後、蒋介石は、それまでの中国側のおかした対日外交のあやまりについて次のように率直な反省をしています。(筆者要約)

一、九・一八事変(満州事変)のさい、撤兵しなければ交渉せずの原則にこだわりすぎ、直接交渉の機会を逃した。

二、革命外交を剛には剛、柔には柔というように弾力的に運用する勇気に欠けていた。

三、日本は軍閥がすべてを掌握し、国際信義を守ろうとしない特殊国家になっていることについて情勢判断をあやまった。

四、敵の欠点を指摘するだけで自ら反省せず、自らの弱点(東北軍の精神と実力が退廃していること)を認めなかった。

五、日本に対する国際連盟の制裁を期待したが、各国は国内問題や経済不況で干渉どころではなかった。つまり第三者(国際連盟の各国)に対する観察をあやまった。

六、外交の秘密が守れず、国民党内でも外交の主張が分裂することがあり、内憂外患は厳重を極めた。

七、感情によってことを決するあやまり。現在の難局を打開するにはするには、日本側から誠意を示し、侵略放棄の表示がなければならない。中国人がこれまでの屈辱と侮辱に激昂するのは当然としても、感情をおさえ、理知を重んじ、国家民族のために永遠の計を立てなくてはならない。

 もちろん、中国のあやまりにくらべれば、日本側のそれは、はるかに多い。日本の根本的なあやまりは、中国に対する認識にある。日本は、その根本的なあやまりに気づかず、あやまりの上に、あやまりを重ねることになってしまった。

 日本側には、次の五つのあやまりがある。

一、革命期にある中国の国情に対する認識の誤り。中国は現在革命期にあり、主義が普及し最高指導者が健在で民衆が一致してこれを支持している。日本はこうした中国の国情に対する認識をあやまっている。

二、歴史と時代に対する認識のあやまり。明治時代、日本の台湾、朝鮮併合に痛痒を感じなかった中国国民も今日民族意識を備えており、東北四省が占領されたことを知っている。日本の武力がいかに強くても、この十分に民族意識に民族意識を備えた国民を、ことごとく取り除くことはできない。

三、国民党に対する認識の誤り。日本は中国国民党を排日の中心勢力とし、これを打倒しなければ駐日問題は解決しないと考えている。しかし日中両国間の唇歯相依の関係を説いているのは国民党である。

四、中国の人物に対する認識のあやまり。日本が武力によって中国に脅威を与え、(蒋介石を)屈服させようとしても、その目的は達せられない。

五、中国国民の心理に対する認識のあやまり。中国には百世不変の仇恨の観念はない。今日本は中国の領土を占領し中国の感情と尊厳を傷つけている。日本がこうした領土侵略の行動を放棄すれば、どうして同州同種の日本と友人になることを願わないだろうか。

 日本はこの五つのあやまりのほか三つの外交上のあやまりがある。

①国際連盟を脱退したこと。

②アジア・モンロー主義を唱えて世界を敵に回したこと。

③自ら作り出した危機意識にとらわれていること。

 以上のような認識を踏まえて、日本がまず認識すべきことは、

第一に、独立の中国があって初めて東亜人の東亜があるということである。日本は徹底的に中国の真の独立を助けて、初めて国家百年の計が立つ。

第二に、知るべきは時代の変遷である。明治当時の政策は今の中国には適用できない。武力を放棄し文化協力に力を入れ、領土侵略を放棄して相互利益のための経済提携をはかり、政治的制覇の企図をすて、道議と感情によって中国と結ぶべきである。

 第三に、中国問題の解決に必要なものは、ただ日本の考え方の転換だけであるということである。

 以上、誠にお見事というほかありません。

(以下3/29追記)

 ところで、この内支那側の反省を見ると、満州問題の処理をあやまったということが中心をなしていますが、それはいうまでもなく支那側の拙速な革命外交によって幣原外交の日本における存立基盤を破壊してしまったことに対する、蒋介石の痛切な反省がベースになってように私には思われます。実は、こうした中国外交のあやまりをつとに指摘していたのが幣原自身で、幣原平和財団が発行した『幣原喜重郎』には、政治評論家馬場恒吾による「幣原外交の本質」と題する次のような一文が掲載されています。

 「昭和七年十一月支那に開係ある日本人が幣原を訪ねて云ふには、自分はこれから支那に行って支那の要人に會ふ積りだ。満洲事変の起った当時の外務大臣として、幣原は支那人に云ふべきことがあるかと云った。

  幣原は答へて、大にある。支那の要人に會ったら、幣原は彼の阿房さ加減に呆れていると云って呉れ、其の理由は前年九月十八日に満洲事変が突発した。そのころ財政部長宋子文からの非公式の話しとして、支那は満洲事変に関して日本に直接交渉を開き度いと云ふ意向がある、と云ふ報道が来た。幣原は外務大臣としてそれに応じてもよいと返事した。 所が其後何の音沙汰もない。

  越えて十月八日幣原は東京駐在の支那公使に向って、日本は直接交渉を開く用意があると云ふ公式通牒を発したのである。かうした通牒を出すに『幣原は命がけの決心をしていた。直接交渉に依って、日本は正常の権益を収める。しかし、同時にこれ以上満洲事変の拡大することを抑へるといふことは当時の情勢では幣原は一身を賭してなさなければならぬことであった。若しあのとき、支那の要人が幣原の誘ひに乗って満洲問題の満足な解決を与えたならば、支那は共後の汎べての戦禍を免れたであらう。それをしなかった支那要人の阿房さに呆れるといふのであった。

 幣原を訪ねた人はそれは過去の事だが、今後の支那に對する忠告はないかと問ふた。幣原は答へて、今日支那は満州国の独立を認めぬとか云って、國際聯盟あたりで運動しているが、それが又愚の骨頂だ。満州国の独立は現実の存在になっている。その独立を取り消さうなどということは理論の遊戯として面白いかも知れぬが、国際政治の領域のものでない。実際政治家の要は、この現実此の事実に立脚して如何に善処するかを講究するにある。支那の出方一つで、満洲國の独立は支那の利益になる。独立しても血が繋がっているのだから、本家と分家の関係位に見て居ればよい。

 例へば加奈陀は英國から実際的には殆んど独立している。各回へ公使を出したり、國際聯盟へも代表者を出している。併し重大問題になると、其國の不利益になるやうな事はしない。満洲が独立国になった所で、支那の出様さへよければ、本家分家程度の人情があって支那の害にはならず、却って支那の利益になる。それを悟らずして成功の見込みもないのに、独立取消などに騒ぐ支那の政治家の気が知れないと。」(上掲書p503~504)

* なお、この記述は、幣原のなした会話の伝聞記録なので、幣原が言いたかったことをどの程度正確に反映しているのか判りません。ただ、氏のそれまでの主張との整合性を考えると、おそらく、これは必ずしも満州国の独立を承認せよといっているわけではなくて、そのポイントは「此の事実に立脚して如何に善処するかを講究」すべき、という点に置かれているような気がします。そう考えれば、この時の蒋介石の提案はその善処策の一つと見ることができます。(3/30追記)

 おそらくこの後段の幣原の提案に対する蒋介石の回答が、「敵か友か?中日関係の検討」以降の広田外相との日中親善をめざす外交交渉になったのではないかと私は思っています。(以下追記3/30)この時の駐華日本大使は有吉明で、国民政府の対日態度が一大転換をしたことについて、これは日本にとって千載一遇の好機であるが、これに対して外務省は何をもって応えようとしているのか、と問うています。南京政府が「邦交敦睦令」や「排日禁止令」で誠意を示しているのに、外務省のは華北問題につき軍部の若手強硬派を説得する勇気も矜持も持っていないのか、と怒りを露わにしています。

 しかし、この頃の日本の政治体制は、あたかも一国二政府のごとき変態を呈していて、日本の支那駐屯軍は、政府の日中親善を目指す外交交渉を妨害するため、あえて、梅津・何応欽協定を嚆矢とする華北分治工作を推し進めました。しかも、それに対する政府の干渉を統帥権を盾に排除する姿勢を示しましたので、その説得は極めて困難でした。私は前稿で、満州事変のもたらした二つの難問の一つとして、「関東軍の暴走に対して政府の歯止めが利かなくなった」ことを指摘しましたが、この時の支那駐屯軍による華北分治工作こそ、日本に中国との全面戦争を運命づけるポイント・オブ・ノーリターンとなったのです。