なぜ日本は中国と戦争をしたか6
前回紹介した岸田国士の言葉「今度の事変で、日本が支那に何を要求しているかというと、ただ「抗日を止めて親日たれ」といふことである。こんな戦争といふものは世界歴史はじまって以来、まったく前例がないのである。」は、日中戦争の本質を端的に表したものといえます。 また、私は前回の末尾で「軍部を含めた日本側も、そしておそらく中国側も望まなかった日中戦争」と書きました。これについては廬溝橋事件発生時における「拡大派」の存在や「中共謀略説」などを根拠に、異論を唱える方も多いと思います。北村稔・林思雲氏の『日中戦争』の副題は「戦争を望んだ中国望まなかった日本」となっています(挿入3/30)。しかし、日中関係をより長いスパンで見た場合、日中親善が望まれていたともいえるわけで(注1)、蒋介石も、また満州事変の張本人である石原莞爾も、先の「拡大派」にしても、決して中国との全面戦争を望んだわけではありませんでした。 注1:中国は日本を近代化のモデルとし、日本は中国をアジア主義または王道文明という観点から一体的に捉えていた、という意味(3/27)。「両者とも日中親善を望んでいたことは明らか」という表現は上記の通り訂正(3/30)。なお、中共の立場はまた別の観点で見るべきで、ここでは日中戦争を日本と国民党間の戦争として考察します。(3/29) 終戦後の1946年にアメリカ戦略爆撃調査団が日本陸軍の華北進出の動機に関する調査を行っていますが、その一説には次のような調査結果が記されています。(『太平洋戦争への道4』「日中戦争(下)」p3) 「一九三七年(昭和一二年)の華北進出は、大戦争になるという予測なしに行われたものであって、これは本調査団が行った多数の日本将校の尋問によって確証されるところである。当時、国策の遂行に責任のあった者たちが固く信じていたところは、中国政府は直ちに日本の要求に屈して、日本の傀儡の地位に自ら調整してゆくであろうということであった。中国全土を占領することは必要とも、望ましいとも考えたことはなかった。・・・交渉で――あるいは威嚇で後は万事、片がつくと考えていた。」 この事実は、満州事変以降の日本の中国に対する究極の要求が何であったかを見てもわかります。もちろんそれは、寛大ないわゆる「大乗的」といわれるものから侵略的という外ないものまで、その振幅はさまざまですが、中国との戦争状態を惹起しないあるいはそれを終熄させようとした時の最低限の日本の要求は何だったかというと、結局それは、満州事変以降日中戦争期そして大東亜戦争期を通じて、満州国の独立を中国に承認させる、という一点に絞られてくるのです。 この間における満州国承認に関する日中間交渉は、昭和10年9月7日、蒋介石が蔣作賓を通じて日本政府に示した日中提携のための関係改善案の提示に始まります。この時の中国側の提案は「満州国については、蒋介石は同国の独立は承認し得ざるも、今日これを不問にする。(右は日本に対し、満州国承認の取り消しを要求せずという意なり)」というものでした。これに対して広田外相は、昭和10年10月7日、張作賓に「広田三原則」を示し、その第二項で「満州国の独立を事実上黙認」することを求めました。 これに対する中国側の答えは、「満洲にたいし政府間交渉はできないが、同地方の現状に対しては、決して平和的以外の方法により、事端を起こすようなことをしない」というものでした。広田外相は、「中国は満洲に対して政府間の交渉はできないというが、それでは現状と変わりがない」として重ねて「事実上の満州国承認」を求めましたが、中国側は応諾しませんでした。おそらくその理由は「中国としては満州国の宗主権を放棄することはできない」ということだったと思います。 また、中国側はこの交渉に先立って中国側三原則を示し、その趣旨に日本側が賛同することを求めました。それは(1)日中両国は相互に、相手国の国際法上における完全な独立を尊重すること。(2)両国は真正の友誼を維持すること。(3)今後、両国間における一切の事件は、平和的外交手段により解決すること、でした。その狙いは、「梅津・何応欽協定」以降の日本軍の武力を背景とした脅迫的な交渉態度や「華北自治工作」という主権侵害行為の停止を、日本側に約束させることにありました。 広田外相としても、1935年1月12日の議会演説で中国に対する不脅威・不侵略を宣言して以来、なんとか日中関係改善の糸口を見つけようと努力しました。また、国民政府も日本軍による華北自治工作開始後も、対日親善方針を変えなかったため、広田外相は陸海外三省協議の上、「広田三原則」をまとめたのです。しかし、そこでは軍部の圧力のため(3/27挿入)「相互尊重・提携共助の原則による和親協力関係の設定増進」という項目が削除されたり、「日満支三国の提携共助により」が「日本を盟主とする日満支三国」となるなど中国側三原則の趣旨は失われていました。 そのため、この時の日中関係改善交渉は挫折しました。そしてその後も、日本の出先陸軍は華北自治工作を強力に推進し、1935年11月23日には殷汝耕を政務長官とする冀東(冀=河北省)防共自治委員会を設置し、さらに河北の宋哲元らに対する自治工作を強化しました。国民政府はこれに対して1935年12月18日、一定の自治権を有する冀察(チャハル省)政務委員会を設置(1935.12.18)しました。しかし、こうした日本軍のあからさまな華北分治工作に対する中国国民の反発は、燎原の火の如く中国全土を蔽い、各地で対日テロ事件が頻発するようになりました。 一方日本では、1936年2月26日に一部青年将校による二・二六事件が勃発し、岡田内閣が崩壊、続いて3月9日広田内閣が発足しました。対華政策については8月11日「第二次北支処理要項」が決定され、日本の「華北分治政策」が満州国の延長の如く解せられないよう留意しつつ、「日本と華北の経済合作」を進めるべきとしました。また、険悪の度を増す日中関係の根本解決をめざして、南京で川越駐華大使と張群外交部長の間で華北経済合作を中心とする交渉が行われました。その中で中国側は、塘沽・上海停戦協定(満州事変の停戦協定)の取り消しや、冀東政府の解消を要望するようになりました。 さらに日本の綏遠工作(内モンゴル軍を使った中国からの綏遠分離工作)が発覚すると、蒋介石は、「綏遠工作が続く限り南京交渉は困難である」「中国国民の日本に対する不安と猜疑の念は、ますます高められる一方だから、日本も大局的見地からこれを一掃する処置を講じてほしい」と要望しました。さらに1936 年11月24日の百霊廟陥落(綏遠事件の最後の戦闘で中国軍が勝利したもの)以降の中国側の姿勢はさらに高姿勢に転じ、交渉の進展は絶望となりました。さらに12月12日には「西安事件」が発生し、これ以降蒋介石は、第二次国共合作、抗日民族統一戦線の結成へと進むことになりました。 広田内閣は1937年1月23日に総辞職し、組閣の大命は宇垣一成予備陸軍大将に下りましたが、陸軍の反対に遭い組閣を断念し、2月2日林(銑十郎)内閣が成立しました。外相は佐藤尚武となり、対華政策については従来の陸軍の拙速主義に対する反省から、華北分治政策の放棄と冀東政府の解消がはかられました。また、「日満を範囲とする自給自足経済を確立し」て対支政策を一変し「互助互栄を目的とする経済的・文化的工作に主力をそそぎ、その統一運動に対しては公正なる態度を以て臨み、北支(華北)分治は行わず」となりました。これは石原構想に基づくものでした。 しかし、こうした政策変更が実効を見る間もなく、林内閣は5月31日に倒れ、6月1日に近衛文麿内閣が誕生し、外相は再び広田弘毅となりました。この間、華北をめぐる日中関係は悪化の一途をたどり、一触即発の状態となりました。そしてついに、7月7日北平郊外の廬溝橋で演習中の華北駐屯日本軍と冀察政権の第二九軍の間で武力衝突が発生したのです。直接の原因は第二十九軍の兵士の偶発的発砲(秦郁彦)とされますが、この段階では、すでに中国国民や兵士の抗日気運は十分に盛り上がっており、いつ衝突が起こってもおかしくない状況になっていました。 事件直後の7月8日、中共中央は全国に通電を発し、即時全民族抗戦を発動することを主張し、蒋介石に国共合作による共同抵抗の実現を要求しました。しかし、抗日戦準備態勢の不完全を憂慮した蒋介石は、なお抗日戦発動をためらっていましたが、7月17日廬山国防会議において「最後の関頭」演説を行い、万一やむをえず「最後の関頭」にいたるならば」中国としても全民族をあげて抗戦し、最後の勝利を求めるほかないとしました。そしてついに8月8日「全将兵に告ぐ」という次のような演説を行いました。 「九・一八以来、われわれが忍耐・退譲すれば彼らはますます横暴となり、寸を得れば尺を望み、止まるところを知らない。われわれは忍れども忍をえず、退けども退くをえない。いまやわれわは全国一致して立ち上がり、侵略日本と生死を賭けて戦わなければならない。」 一方日本側では、事件発生後「不拡大・現地解決」を指示しましたが、陸軍の一部には「この機会を利用して、内地からの兵力を派遣し中国に一撃を加えて、前年からの華北工作の行き詰まりを打開しようという強硬意見」が台頭し、不拡大を主張する石原参謀本部作戦部長らとの間で激論が交わされました。しかし現地では11日相互撤退の原則で停戦協定が成立しました。しかし、東京ではこの調印に先立つ数時間前の閣議で内地三個師団の派兵が決定していました。ただし、動員後派兵の必要がなくなれば取りやめるとの条件付きでした。 この派兵が決定した11日の五省会談及び閣議では、米内海相から反対意見が述べられ、近衛首相、広田外相、賀屋蔵相も乗り気ではなかったといいますが、近衛首相はその日の夕方、華北派兵の理由及び政府の方針に関する政府説明を内外に公表し、同時にこの事件を「北支事変」と呼ぶことにし、同日夜首相官邸に政・財・言論界の代表をまねき、協力を求めました。こうした政府の鼓吹によって「暴支膺懲熱」が国民の間にも高まり、国防献金の殺到、国民大会の開催があいつぎました。(この時の近衛首相の判断には首をかしげざるを得ませんが、それは、中国との外交交渉の主導権を握るためのブラフだったと説明されています。3/27補足) この7月11日の派兵声明以降、陸軍部内にはいわゆる拡大派と不拡大派の対立が生じ、これを反映してその後二週間の間に三回も動員の決定と中止が繰り返されました。一方、現地では支那駐屯軍と冀察政権の交渉は順調に進み、19日には細目協定が橋本参謀長と張自忠の間に停戦協定が調印されました。そして23日、石射外務省東亜局長は、陸・海・外三局長会議で、事変の完全終結を見こして、(1)不拡大、不派兵の堅持、(2)中国軍第三十七師が保定方面に移動を終わる目途がついた時点で、自主的に増派部隊を撤収、(3)次いで国交調整に関する南京交渉を開始する、の各項を提案し了解を得ました。 だが、23日を境に現地情勢は急速な変転を示し始め、第三十七師は北平撤退を中止したばかりでなく、かえって第二十九軍の他の部隊が協定に反して北平侵入するありさまでした。さらに25日には郎防駅(北平・天津の中間)付近で電線修理に派遣された日本軍の一中隊と中国軍が衝突した「郎防事件」。次いで26日には北平入城中の広部大隊に対し、中国側が城壁上から機銃掃射を加えた「公安門事件」が発生しました。かくて、現地香月軍司令官は従来の不拡大方針を放擲し、27日、政府も午後の閣議で内地五個師団二十万人の動員案を決定しました。(南苑にある中国軍主力対する攻撃は28日1日で終わり華北での戦闘は停止しましたが日本軍は南下を続けた。) 一方、石射東亜局長の提案になる解決試案――日中戦争の全期間を通じ、最も真剣で寛大な条件による政治的収拾策――が7月30日から外務省の東亜局と海軍のイニシアティブで取り上げられ、石射がかねてから用意していた全面国交調整案と平行して、これを試みることになりました。その原動力は石原作戦部長だったと推定されていますが、これに天皇も同感の意を表され、その結果、連日の陸・海・外三省首脳協議をへて、8月4日の四相会談で決定されました。 「この停戦協定案は、(1)塘沽停戦協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定の解消、(2)廬溝橋付近の非武装地帯の設定、(3)冀察・冀東両政府の解消と国府の任意行政、(4)増派日本軍の引揚げ、また国交調整案としては、(1)満州国の事実上の承認、(2)日中防共協定の締結、(3)排日の停止、(4)特殊貿易・自由飛行の停止などを、それぞれ骨子とし、別に中国に対する経済援助土地顔法権の撤廃も考慮されていました。この両案は日中戦争中の提案としては、思い切った譲歩で、満州国の承認を除き、一九三三年以後、日本が華北で獲得した既成事実の大部分を放棄しようとする寛大な条件でした。(『太平洋戦争への道(4)』p18~19) この案(船津案)を、南京政府の高宋武・亜洲司長に伝える交渉者として、在華紡績同業者会理事長・船津辰一郎(もと上海総領事)が選ばれ、八日または九日から高宋武と会談を始める予定でした。ところが、おりしも華北から帰来した川越・駐華大使が訓令を無視して高との会談を行うよう変更し、九日夜川越・高会談が行われました。しかし、この日上海で大山事件が突発したため、交渉はなんら進展のないまま途絶しました。そして十三日夜、上海で対峙していた日中両軍間で戦闘が開始され、翌十四日、中国空軍は上海在泊中の第三艦隊に先制攻撃を加えました。そして翌十五日、中国は全国総動員令を下し、大本営を設けて蒋介石が陸・海・空三軍の総司令に就任し、ここに日中全面戦争が開始されました。 以上、「広田三原則」以降「日中全面戦争に突入するまでの日中交渉の経過を『太平洋戦争への道』の記述を引用しつつ説明してきました。そこで疑問となるのは、8月4日に日本側にこれだけの譲歩ができたのなら、なぜ、出先陸軍は広田外相の日中親善外交をあれほど露骨に妨害し「華北分離工作」をおし進めたのか、ということです。その時問題となった「満州国の事実上の承認」についても、中国側は日本に対し「満州国承認の取り消しを要求せず」としていましたし、また、第三国の承認もなされていたのですから、この線での妥協も可能だったと思います。 この和平条件は、11月2日に広田外相から依頼を受けたディルクゼン駐日ドイツ大使が、駐華ドイツ大使トラウトマンを通じて蒋介石に示した仲介案(「満州国の事実上の承認=黙認」が「満州国の承認」となっているほか船津案とほぼ同じ)にも引き継がれていました。しかし蒋介石は、ブラッセル会議(蒋介石はこの会議で対日制裁が決議されることを期待していた)を理由にこの申し出を断りました(11月5日)。その後同会議が見るべき成果なく閉会したので、蒋介石はあらためてドイツの仲介案を取り上げることにしました。12月2日、蒋介石は会議に出席していた各将領の意見を聞きましたが、白崇禧は「これだけの条件だと何のために戦争しているのか」と疑問を呈しました。 他の将領もこれだけの条件なら受諾すべしと答えました、しかし蒋介石は「日本に対してはあえて信用できない。日本は条約を平気で違約し、話もあてにならない」と不信を露わにしつつも、「華北の行政主権は、どこまでも維持されねばならぬ。この範囲においてならば、これら条件を談判の基礎とすることができる。」ただし、「日本が戦勝国の態度を以て臨み、この条件を最後通牒としてはならない」としました。しかし「戦争がこのように激しく行われている最中に調停などは成功するはずはないから、ドイツが日本に向かってまず停戦を行うよう慫慂することを希望する」とトラウトマンに要望しました。(『広田弘毅』p302) トラウトマンより連絡を受けたディルクセン駐日独大使は12月7日広田を呼び、「中国側では日本側提示の条件として交渉に応ずる用意がある。ついては先にお示しになった条件のままで話を進めてよいか」と訊ねました。広田は早速近衛総理及び陸海両相と会談しこの件をはかるといずれも意義なく賛成だといいました。ところが翌朝杉山陸相が広田を訪れ「ドイツの仲介を断りたい.近衛総理も同意である」と申し出てきました。そこで和平条件案が12月14日の連絡会議にかけられましたが、原案を支持したのは米内海相と古賀軍令部次長のみで、近衛首相は沈黙を守り、そのため多田、末次、杉山、賀屋らの異論により条件が加重され、戦費賠償まで加えられました。(『廣田弘毅』廣田弘毅伝記刊行会p302~303) 最終的にこれが閣議決定されたのは12月23日ですが、このように日本側の態度が強腰になったのは、上海の激戦や(3/27挿入)南京陥落により国民が刺激され、対華強硬世論が盛り上がってきたことが原因と考えられます。というのは、11月13日から始まった上海戦は、14日の中国空軍による第三艦隊に対する先制攻撃で開始され、また、中国軍は、ドイツ軍事顧問団の指導による陣地構築、訓練、作戦指導を受けており、ドイツ製の優秀な武器を持って日本軍と戦い、日本軍に膨大な犠牲をもたらしたからです。この模様は同盟通信の松本重治によると「上海の戦いは日独戦争である」というほどのものだったといいます。 そのため、上海での戦闘(「上陸作戦」を訂正3/29)に三ヶ月もかかり、この間の日本軍の戦死傷者は四万一千名に及び、日露戦争の旅順攻略に匹敵するほどでした。こうした予想だにしなかった事態を、日本軍はどれだけ事前に把握していたか。廬溝橋事件後のいわゆる一撃派は「一撃で中国軍が簡単に降参する」と見ていました。また、当時の支那通も上海付近の要塞化にさしたる注意を払いませんでした。それは日本軍の伝統的な支那人蔑視観が判断をあやまらせたともいえますが、最大の理由は、まさか支那との全面戦争になるとは思っていなかったからではないかと思います。 こうした上海戦の犠牲の大きさを考慮すると、それ以前に構想された和平条件を、そのまま南京陥落後の和平条件とすることは無理だったのではないかと思います。蒋介石の12月2日の言葉を見れば、こうした事態を当然の如く予測し、調停が成功しないことを見越していたように思われます。それより問題なのは、白崇禧の「これだけの条件だと何のために戦争しているのか」という言葉です。つまり日本側の条件で懸案となるのは「満州国の承認」だけで、そして、これだけなら戦争の必要はなく、満州事変以降の外交交渉で十分解決可能だったということになるからです。 よく、トラウトマン和平工作の打ち切りに際して、参謀本部が強硬に交渉の継続を主張し、これに対して米内海相が「参謀本部は政府を信用しないというのか。それなら参謀本部がやめるか、内閣がやめるかしなければならぬが・・・」という会話が引用され、日中戦争を長期化させた責任は参謀本部ではなく米内や文民たる政府である、との主張がなされます。しかし、かりにこの交渉を継続しても、蒋介石がこの加重された調停案を呑むことはなかったでしょう。参謀本部はこの時あえて昭和天皇に帷幄上奏を試みましたが、天皇はこれを受け入れませんでした。私はこれは当然だと思います。 この時天皇は、閑院宮参謀総長に対して「どういうわけで参謀本部はそう一時も早く日支の間の戦争を中止して、ソビエトの準備に充てたいのか。要するにソビエトが出る危険があるというのか。」と問い、「それなら、まづ最初に支那なんかと事を構えることをしなければなほよかったぢゃないか」といっています。蒋介石は「日本が軍事的優勢をカサに着て、条件の加重をはかろうとしたため、交渉を重ねた末、中途で打ち切られた。」(『蒋介石秘録(下)』p225)と言っていますが、この条件加重を強硬に主張したのは多田参謀次長らであり、そもそも日中関係をさらに悪化させた華北五省分離宣言(「多田声明」)をしたのも彼でした。 いずれにしても、上海事変以降の蒋介石の持久戦を想定した抗戦意志は明確であり、南京陥落後に和平交渉が成立する可能性は全くなかったと思います。仮に、日本が、上海事変が起こる前に中国側に提示したものとほぼ同じ条件で南京陥落後のトラウトマン調停に応じた場合、上海戦が中国軍のイニシアティブによるものであることや、それまでに日本軍の払った人的犠牲の大きさを考慮すると、これに憤激する国内世論は誰にも押さえられなかったでしょう。ではどこで間違ったか。いうまでもなく、それは、1935年当時の蒋・広田間の日中和平交渉の段階であり、せっかく蒋介石より日中関係改善の処理方法が提案されたのに、軍部がこれを妨害し華北五省分離工作を強引に推し進めたからというほかありません。 そこで、「なぜ日本は中国と戦争をしたか」という本稿のテーマに沿って、その根本原因を探るならば、それは、満州事変以降華北分離工作において観察された、関東軍将校をはじめとする軍人らの特異な行動パターンを常習化させたものは何か、を問うことになります。一体、彼らはなぜ、蒋介石による中国の国家統一をあれほど恐れたのか、なぜ、彼らは満州国承認問題で中国の宗主権を認めようとしなかったのか。また、なぜ彼らは、武力を背景とする示威行動において、あれほど自制心を失ったのか。 おそらくその原因は、まず、中国を他者(国)として認識する力が欠如していたということ。次に、満州国成立の正当性に自信を持てなかったということ。最後に、当時の青年将校たちが、大正デモクラシー下の軍縮に由来する軍人蔑視の社会的風潮に深刻な被害者意識を持ち、そこに当時の革新思想である国家社会主義が強烈なアピール力を持って作用したということ。さらに、それが日本の伝統的な一君万民・天皇親政を理想とする尊皇思想(これが明治維新のイデオロギーとなった)によってオーバーラップされた結果、殉教者自己同定さらに自己絶対化へと進んでいった・・・そういうことではなかったかと、私は思っています。(つづく) |