なぜ日本は中国と戦争をしたか5

2009年3月18日 (水)

 前便で、満州事変の基本的性格について、それは、陸軍の伝統的な大陸進出(=領有)論と国内政治の国家社会主義的革命(=軍部独裁)論とを結合させたものだということを申しました。また、その担い手となった軍人たちの心理的背景として、ワシントン会議以降の軍縮がもたらした軍人軽視の社会風潮、それに対する憤懣があったことを指摘しました。折しも、金融恐慌(s2.3.15)、世界恐慌(s4.10.25)、金解禁(s5.1.11)などが重なり日本経済は深刻な経済不況に陥り、軍部はその原因を自由主義経済の破綻や政党政治の腐敗に求めました。また、これらの問題と合わせて日本の人口問題や資源問題さらにはソ連の脅威に対処するためには「満洲領有」が必要であり、そのためには国内政治の抜本的改革が必要であると訴えたのです。

 こうした「満蒙問題」に関する国民啓発運動は昭和6年6月頃から活発化しました。まず、満州青年連盟が「噴火山上に安閑として舞踊する」政府と国民とを鞭撻し国論を喚起するため内地に遊説隊を派遣しました。関東軍も板垣を帰京させ「機会を自ら作り満州問題の武力解決」を図る石原構想をもって軍中央の一部将校(永田、岡村、建川など)の説得に当たりました。また、陸軍も国防思想普及運動を全国的に展開し「時局講演会」を各地で開催し、満蒙の領有が土地問題の抜本的解決になること、極東ソ連軍の脅威、日本の満洲権益がワシントン条約で放棄(?)させられたこと、張学良政権の排日政策によって日本の正当な満洲での権益が損なわれていること等を国民に訴えました。

 そこに、前回紹介したような中村大尉事件(1931.6.17)や万宝山事件(1931.7)が発生し、国民世論は一気に対支強硬論へと急展開していったのです。特に、中村大尉事件の公表以降は、政友会はいうまでもなく、貴族院各派さらに民政党内にも「中村事件を幣原外交の失敗と見なし」「あえて軍部の強硬意見を非難しない」というような情況が作り出されました。しかしながら、外務省はあくまで「満州問題を堅実に行き詰まらせる方針」を堅持しており、また、南陸相のもとに省、部中堅層を集めて作成された「満州問題解決方策大綱の原案」(s31.6.19)でも、満洲で軍事行動を起こす場合も、閣議を通じ、また外務省と連絡し、約一年間、国民及び列国に対してPRを行い、これを是認せしむるよう努力する」としていました。

 にもかかわらず、9.18満州事変の勃発となったわけですが、そのことについて私は前回次のような問題点を指摘しました。「この結果、外交上二つの難問が生じることになりました。一つは、満洲に対する中国の主権を否定したこと。もう一つは、関東軍の暴走に対して政府の歯止めが利かなくなったということです。」つまり、この時ビルトインされたこの二つの難問を解くことが出来なかったことが、日本を泥沼の日中戦争そして太平洋戦争へと引きずり込んでいく足かせとなったのです。しかし、当時、この問題点に気づいた日本人はごくわずかしかいませんでした。いや、現在においてもこの点が十分認識されているとはいえません。

 というのは、事変直後の9月19日の陸軍中央部(金谷参謀総長、二宮参謀次長、南陸相、杉山次官、荒木貞夫教育総幹部本部長)の方針は全満州の軍事占領ではなく、条約上における既得権益を完全に確保する、というものでした。また10月8日の段階でも「独立案」には進んでおらず「中国中央政府と連携を認める地方政権」ということで陸軍三長官の意見は統一され、政府の方針もその方向で統一されつつありました。

 ところが、関東軍の方では、早くも九月二十二日に軍参謀長三宅少将(13期)以下土肥原賢二大佐(16期)、板垣征四郎大佐(16期)、石原中佐、片倉衷大尉(31期)らが集まり、「軍年来の占領案より譲歩し、中国本土とは切り離した親日政権、宣統帝を頭首とする独立政権を作ること、内政などは新政権が行うが、国防、外交は新政権の委嘱という形で日本が握ること」などの要点で話が決まっていました。

 結局、「この満蒙処理の構想に関する限り、現地関東軍が押し切り、東京の軍中央部も政府当局も、これに引きずられていったわけである。勿論、世論の強硬論が関東軍の案を支持した。満洲で一発撃たれると同時に世論はがらっと変わって、軍を支援する形に動いていった。この時風は完全に変わり、今までの陸軍に対する逆風は追い風になった」のです。(『陸軍の反省』加登川幸太郎p40)

 加登川氏はこれに続けて、自らの元陸軍省軍務局軍事課参謀としての体験を踏まえて、彼自身の反省の弁を次のように述べています。

 「私は満州事変は当然のことを当然のこととしてやったんだといったが、さて、ここの段にいたって、私は日本は「攻勢移転」したとたんに『攻勢の限界点を越えた』と思っている。日本は全く後戻りの出来ない袋小路に首をつきこんでしまったからである。

 これからあとは私の愚痴である。例として引くにはおかしいが、すでに述べたように、一九一一年(明治四十四年の辛亥革命のとき)、外蒙古は清朝衰亡の機に、帝政ロシアの使喉を受けて清国からの独立を宣言し、大蒙古国と称した。

 翌明治四十五年には帝政ロシアは、露蒙条約を結んで蒙古独立を支持し、土地借款などの特権を得た。当時の中国にとっては大問題であった。だがその後、既成事実として「自治」を認め「名」をとる妥協の余地があった。それは一九一三年(民国二年)に至って袁世凱政権のもとで外蒙古に関する露中宣言となって、中国は蒙古の自治を承認し、ロシアは中国の対蒙宗主権を承認するという解決法であった。

 中国は、なくなった『実』は何ともならなかったが、『宗主権』という『名』をとって『面子』を保った。外蒙古はロシア革命後に、永久に中国の手を離れてしまったが、それはまた違った事態である。帝政ロシアの侵略の手を学べというのではないが、巧妙な解決策が残っていた。日本も、武力侵略を決意したにしても中国側に『宗主権』という妥協の余地を残すだけの含み、余裕がとれなかったものであろうかと私は今でも思っている。

 それにしても、溥儀を担ぎ出したことが、まずかった。かつぎ出した以上『執政』としてもひっこめる余地が少ないだろうし、ましてこれを『皇帝』としたのではもうひっこめる手はない。中国政府との間に『面子』に関する解決不能の難題を作ったことになったのである。(この満州国という難題が、ついに日本の敗戦まで続いて日本はニッチモサッチもいかなかったのである)」

  もちろん、満州国が、東京裁判の宣誓供述で石原莞爾が述べたように「東北新政治革命の所産として、東北軍閥崩壊ののちに創建されたもの」なら問題はありませんでした。しかし実際は、石原莞爾自身当初は満洲を武力占領するつもりであり、しかし、軍中央の反対に会ってやむなく「満蒙の支那本部よりの独立」に妥協したのでした。しかし、この間の事実を認めれば、国際連盟規約・九カ国条約・不戦条約違反を問われる恐れがあったので、満洲国の独立は、あくまで、張学良が悪政故に満洲の民衆の支持を失った結果であり、「民族自決」の原理によって国民政府から独立したものである、と説明したのです。

 だが、これが詭弁であることはいうまでもありません。そして日本政府もこの主張の無理を承知していました。また当然のことながら、この事変を企図した者たちもそれを自覚していたので、それが柳条湖の鉄道爆破という謀略で始まったという事実を戦後に至るも隠し続けたのです。その結果、陸軍そしてそれに引きずられて日本政府もそして国民も「満州において日本が軍事行動をとったのは、張学良=支那が条約により日本に認められた権利を尊重しなかった結果であり、日本は自らの権利を守るためやむなく自衛行動に立ち上がったのである」と主張し続けることになったのです。

 では、こうした、いわば「ゴルディアスの結び目」から日本が逃れる方法はあったのでしょうか。実はそれは甚だ簡単なことで、加登川氏も指摘するように、満洲に対する中国の宗主権を暗黙にでも認めればそれで済むことでした。そうすれば、上に述べたような日本の言い分にもスジが通ってきますし、日本国の名誉も守ることができたのです。しかし残念ながら当時の陸軍にはそれができませんでした。そして、この問題をあくまで武力を背景に中国側の犠牲において処理しようとしたのです。つまり、中国が「満州国を承認する」という形で問題解決を図ろうとしたのです。

 ではなぜ、そんな道義にもとることをしたのでしょうか、また、なぜその過ちに最後まで気づかなかったのでしょうか。もし、関東軍がこれを初めから中国を侵略する目的でやったのなら、むしろ堂々と公言した方が少なくとも論理的には(下線部挿入3/27)スッキリしたのに、一方で戦争を継続しながら日支親善を言い中国に対して抗日を改めろと言い反省を求め続ける、この不思議さ。このことについて岸田国士は、昭和14年に出版した彼自身の著書『従軍五十日』で、この間の両者の心理を次のように説明しその解決策を提示しています。

 「平和のための戦争といふ言葉はなるほど耳新しくはないが、それは一方の譲歩に依って解決されることを前提としている。ところが今度の事変で、日本が支那に何を要求しているかというと、ただ「抗日を止めて親日たれ」といふことである。こんな戦争といふものは世界歴史はじまって以来、まったく前例がないのである。云ひかへれば、支那は、本来望むところのことを、武力的に強ひられ、日本も亦、本来、武力をもって強ふべからざることを、他に手段がないために、止むなくこれによったといふ結果になっている。

 かういふ表現は多少誤解を招き易いが、平たく砕いて云へばさうなるのである。支那側に云はせると、日本のいう親善とは、自分の方にばかり都合のいいことを指し、支那にとっては、不利乃至屈辱を意味するのだから、さういふ親善ならごめん蒙りたいし、それよりも、かかる美名のもとに行われる日本の侵略を民族の血をもって防ぎ止めようといふわけなのである。実際、これくらいの喰ひ違ひがなければ戦争などは起らぬ。そこで、事変勃発以来、日本の朝野をあげて、われわれの真意なるものを、相手にも、第三国にも、亦、自国国民にも、無理なく徹底させ、納得させるやうに努めて来、また現に努めつつあるのであるが、問題がやや抽象的すぎるために、国民以外の大多数には、まだ善意的な諒解が十分に得られでゐないやうである。

 これは考へてみると、わからせるといふことが無理なのである。なぜなら、日支の間に如何なる難問題があったにせよ、それが戦争にまで発展するといふことは常識では考へられない。すなはち、民族心理の最も不健康な状態を暴露しているわけで、そのうへ、両国の為政者自らが、それに十分の認識があったかどうかは疑わしいからである。戦争になつたことを今更かれこれ云ふのではない。戦争がさういふ危機を出発点とすることはあり得るし、戦争によって、何等か打開の這が講ぜられる期待はもち得るのであるけれども、この事変の目的とか、性質とかを吟味するに当つて、これを意義ある方向へ導くための国家的理想と、その現実的な要素を分析した科学的結論とを混同することによつて事変そのものの面貌があやふやな認識として自他の頭上に往来することは極めて危険である。

 欧米依存と云ひ、容共政策と云ひ、支那の対日態度をそこへ追ひ込んだ主要な原因について、支那側の云ひ分に耳を藉すことでなく、日本自ら、一度、その立場を変えて真摯な研究を試みるべきではなからうか。私は、ここで今更の如く外交技術の巧拙や経済能力の限度を持ち出さうとは思はぬ。われに如何なる誤算があったにせよ、支那に對するわが正当な要求はこれを貫徹しなければならぬ。が、しかし、戦争の真の原因と、この要求との間に、必然の因果関係があるのかないのか、その点を明かにしてこれを世界に訴へることはできないのであらうか?

 一見、支那の抗日政策そのものが、われを戦争に引きずり込んだのだといふ論理は立派に成りたつやうでいて、実は、さういふ論理の循環性がこの事変の前途を必要以上に茫漠とさせているのである。つまり、日本の云ふやうな目的が果してこの事変の結果によって得られるかとうかといふ疑問は、少くとも支那側の識者の間には持ち続けられるのではないかと思ふ。まして、第三国の眼からみれば、そこに何等かの秘された目的がありはせぬかと、いはゆる疑心暗鬼の種にもなるわけだ。ここにも私は、日本人の自己を以て他を律する流儀が顔を出しているのに気づく。

 戦争をあまりに道義化しようとして、これを合理化する一面にいくぶん手がはぶかれている傾がありはせぬか。主観的な意戦論は十分に唱へられているが、客観的な日支対立論とその解消策は、わが神聖な武力行使の真の行きつくところでなければならず、寧ろ、これによってはじめて東亜の黎明が告げ知らされるのだと私は信ずるものである。

 そこで、いはゆる客観的な対立論とその解消策の第一項目として、私は、日支民族の感情的対立の原因の研究ということを挙げたいと思ふ。事変そのものを挟んで、両国の運命は等しく重大な転機に臨んでいるけれども、かかる根本問題について、なほよく考慮をめぐらす余裕のあるのは、彼でなくして我である。」(同書p108)

 実は、岸田国士がこの文章を書いた昭和14年の時点では、満州事変の真相は国民の前に明らかにされていませんでした(それが明らかにされたのは昭和34年)。もちろん、この事件を企画し満州を武力占領した当事者たちにはその真相は分かっていました。石原莞爾はそれを「最終戦争論」という偽メシア的預言によって(注1)正当化したのです。その意味で石原莞爾こそ、以上説明したような誠に不思議な自己欺瞞的戦争を日本に余儀なくさせた元凶であるといわなければなりません。

 では、日本人全員が石原莞爾に騙されていたのかというと、必ずしもそうとはいえず、むしろ石原莞爾は、そうした当時の日本人の中国人に対する優越した気分(注2)を代弁していただけ(そういう意味では、私は彼が独創的な思想家であったとは到底思えません。3/27挿入)ということも可能なのです。それが、満州事変を機に、それまであからさまに行われてきた軍部批判が、一気に熱狂的な軍部礼賛へと転化したというもう一つの不思議を説明する、最も説得的な解釈ではないかと思います。

 もちろん、日本人の支那人に対する優越感が、支那人の自尊心を傷つける行動につながっていたのと同様、支那人の側にも同じような問題があり、それが日本人の自尊心を煽った側面もあったと思います。しかし、この問題点に先に気づいたのは中国側指導者たちでした。1934年12月20日付『外交評論』紙上に「敵か友か?中日関係の検討」と題する注目すべき論文が掲載され、そこには「一般に理解力ある中国人は、すべて、次のことを知っている。すなわち、日本人は究極的にはわれわれの敵ではない。そして、われわれ中国にとって、究極的には日本と手をつなぐ必要がある」と記されていました。
(注:それは蒋介石の口述したものをその最も信頼する第一侍従室長の陳布雷に筆記させたものだったといいます。)(『上海時代(上)』松本重治p286)

 ここから、満州事変勃発以来初めての、日中親善に立脚した日中国交回復が、蒋介石と広田外相の間で真摯に模索されることになったのです。しかし、こうした慶賀すべき動きに対して、関東軍は執拗に妨害工作を繰り広げました。こうして、軍部も含めた日本側も、そしておそらく中国側も(注3)望まなかった日中戦争へと、ほとんど運命的に突入していくことになるのです。岸田国士は「かかる根本問題について、なほよく考慮をめぐらす余裕のあるのは、彼でなくして我である。」と言いました。しかし、日中全面戦争に突入する以前において(下線部3/23挿入)その余裕を見せたのは中国人であり、これに応える余裕を持たなかったのは日本人だったのです。(つづく)

注1:「それをもって、そうした手段に訴えることに逡巡する「仲間たち」をミスリード」部分を削除3/27。

注2:「つまり『侵略をも恩恵と見なし、その恩恵を抗日という仇で返す中国を、懲らしめる』といった倒錯した当時の日本人の気分」部分を削除3/27

注3:「誰ひとりとして」を削除3/27