なぜ日本は中国と戦争をしたか4

2009年3月 8日 (日)

 前回、昭和の悲劇は「満州問題」を外交的に処理できなかったことによりもたらされた、と申しました。結局それは、陸軍の伝統的な大陸進出(=領有)論と国内政治の国家社会主義的革命(=軍部独裁)論とを結合させた満州事変によって処理されることになりました。その結果、外交上二つの難問が生じることになりました。一つは、満洲に対する中国の主権を否定したこと。(これがその後の「満州問題」の処理をどれだけ困難にしたか)もう一つは、関東軍の独走に対して政府の歯止めが掛からなくなったということです。(これが日本に「二重外交」をもたらし、その国際的信用を地に落とした)

 重ねて申しますが、「満州問題」は確かに存在しました。これは、前回紹介したような国民党の王正廷外交部長がおし進めたいわゆる「革命外交」、その余りに性急な、既成条約を無視した国権回復の主張や、さらに満州における張学良の露骨な排日方針に起因するものであったことは間違いありません。これが幣原外交に対する国民の信頼に決定的な打撃を与える一方、軍部の「満州問題」の武力解決、その伝統的な大陸進出論に弾みを与えました。といっても、当時(満州事変前)の国民は必ずしもこうした軍の強硬策を支持していたわけではありませんでした。

 この事実は、以前、私が「日本近現代史における躓き」で「満州問題」を論じたとき(今もその続きをやっているわけですが・・・)に紹介したような、松岡洋右(昭和5年まで満鉄副総裁をしていた)の次のような言葉でも確認することができます。

 「兎に角、満州事変以前の日本には、思い出してもゾットするような恐るべきディフィーチズム(敗北主義=筆者)があったのである。当時私共が口をすっぱくして満蒙の重大性を説き、我が国の払った犠牲を指摘して呼びかけて見ても、国民は満蒙問題に対して一向に気乗りがしなかった。当時朝野の多くの識者の間に於いては吾々の叫びはむしろ頑迷固陋の徒の如くに蔑まれてさえ居た。これは事実である。国民も亦至極呑気であった、二回迄も明治大帝の下に戦い、血を流し、十万の同胞を之が為に犠牲にした程の深い関係のある満蒙に就てすら、全く無関心と謂って宜しいような有様であった。情けないことには我が国の有識者の間に於いては、満蒙放棄論さえも遠慮会釈なく唱えられたのである。」(『興亜の大業』松岡洋右p78)

 更に興味深いことには、当時、在満邦人の自治拡大と利益擁護をめざした「満州青年連盟」――その第二回議会で「満蒙自治案」が提起された――の有力メンバーであった小沢開作(小澤征爾氏のお父さん)が、その「満蒙独立論」について石原莞爾との会話で次のように自説を展開していることです。(満州事変が起こった少し後の頃の会話)

 石原「ほほう、そうして満蒙を日本の権益下に置こうというのですか、小沢さん」

 小沢「冗談じゃない、私は日本の官僚財閥ではありません。満蒙を取っても三、〇〇〇万民衆の恨みを買ってどうします。いや三、〇〇〇万民衆ばかりではない、中国四億の漢民族は日本を敵とするでしょう。欧米人の圧迫に目醒めたアジアの諸民族は、日本を欧米諸国以上に憎むでしょう。そんなバカらしい権益主義は改革すべきです。」

 石原「すると小沢さんは、大アジア主義者で満蒙を独立国にしようというのですか」

 小沢「満蒙独立国の建設は満州青年連盟の結成綱領です。その実現のために出来たんです。(中略)新国家の建設は、私たち日本人がやるんではなくて、三、〇〇〇万民衆にやらせるんです。そこが帝国主義と民族共和の違いです。」

 石原「廃帝溥儀を、満洲の皇帝に持ってくるという方策をどう思いますか」

 小沢「バカらしい、溥儀のために死ねますか。私ばかりではない、三、〇〇〇万民衆の八〇%は”滅満興漢”の中国革命を信奉している漢民族です。溥儀なんかを皇帝に持ってきたら新国家はできませんよ」(『昭和に死す 森崎湊と小沢開作』松本健一p160)

 つまり、満州における居留日本人の立場から「満蒙独立論」を唱えた彼らの思想は決して、満蒙権益擁護論でもなければ、ましてや満洲占領論ではなかったのです。それはあくまで、「隣邦の国民自身が自主的に永遠の平和郷を建設せむとする運動に対して、個々の我等が善隣の誠意を鵄(いた)してこれを援助せしむるものである。換言せば、国家的援助に非ずして、国民的援助である。従って外交的問題の起こるはずがない」(上掲書p150)とするものでした。(この小沢の慈善的ロマンティシズムは、まもなく関東軍によって裏切られ、小沢はこの運動から手を引くことになります)

 では、当時、このように一向に国民の「気乗りのしなかった」満蒙問題が、一転して国民の関心を引くようになったのはなぜでしょうか。山本七平は、「中村大尉事件」(満州事変の直前のs6.6.27に、満洲で中村震太郎大尉と井杉延太郎曹長らが殺された事件)が当時の世論に及ぼした決定的影響について次のように述べています。

 「当時の人の思い出によると、満州問題についてそれまで比較的穏健な論説を張っていた朝日新聞が、これを契機に一挙に強硬論に変わったそうである。そうなると世論はますます激昂し、ついに『中村大尉の歌』まで出来た。

 一方政府にしてみれば、何しろ犯人が明らかでないから、動けない。すると・・・『内閣のヘッピリ腰』を難詰する『世論』はますますエスカレートした。・・・昂奮の連鎖反応で国中がわきかえっているとき、やはり(張学良軍によって殺害されたのではという=筆者)『第六感』があたっていた。もう始末におえない。そして柳条溝(湖)鉄道爆破から、満州事変へと突入していく。

 これを後で見ると、非常に巧みな世論操作が行われていたように見える。というのは、この状態でもなお、関東軍の首謀者は『世論』の支持を四分六分で不利と見ていたそうだから、当然中村大尉事件がなければ『世論』の支持は得られず、満州事変は張作霖事件のような形で、責任者の処罰で終わっていたであろう。」(『ある異常体験者の偏見』「マッカーサーの戦争観」p160)

 にわかに信じられないような話ですが、この中村大尉事件が「満州事変」を支持する方向で国内世論を一気に急転回させたその不思議について、戦後、山本七平のいた収容所内では、「中村大尉事件も軍の陰謀で日本軍の密命で中国軍が殺したのだろうと極論する人までいた」といいます。(事実はそうではありませんでしたが・・・)

 では、これは日本人にとって単なる「不幸なアクシデント(偶然の事件)」だったのでしょうか。山本七平は、そのようには見ないと、当時の「金大中事件」(s48.8.8)に対する日本の世論の激昂ぶりや、南京攻略時のパネー号撃沈事件における日本人の反応を例に挙げて、次のように自説を展開しています。

 「こういう事件は、もちろん全く予期せずに起り、予期せずに起るがゆえに「突発事件」なのである。そして、これが他国に起因する場合は、日本人自身がいかに心しても、日本人の意思で、その突発を防ぐことはできないわけである。そこで、昔も今も起ったように今後も当然起るであろう。従って問題は、そういう事件が起るということ自体にあるのでなく、むしろ、起った場合に、その「事件は事件として処理する能力」が、われわれにあるか否かが、今われわれが問われている問題だ」と思う。

 そしてもう一つは、たとえ相手がこういった事件を「事件は事件として」処理したにしても、それが常識なのであって、それを、相手が屈伏したと誤解したり、相手を「弱腰だ」と見くびったりしてはならないこと、そしてこの点においても昔同様の誤りをおかすかおかさないか、ということが最も大きな問題だと私は思う。

 太平洋戦争中、「アメリカなにするものぞ」といった激越な議論の根拠として絶えず引合いに出されたのが「パネー号事件」であり、「自国の軍艦を撃沈されても宣戦布告すら出来ない腰抜けのアメリカに何かできるか」と「バカの一つおぼえ」のように言われ、今でも耳にタコが出来ているからである。

 これは南京攻略のとき、揚子江上にいたアメリカの砲艦パネー号を日本軍が撃沈し、レディバード号を砲撃した事件である。奇妙なことに最近の「南京事件」の記事からは、このパネー号事件は完全に消え去っているが、当時はこれが最大事件で「スワー 日米開戦か?」といった緊張感まであった。」

 「主権の侵害」というのなら、交戦状態にない他国の軍艦を一方的に撃沈してしまうことは、撃沈された方には実にショッキングな「主権の侵害」であり、艦船をその国の主権内にある領土同様と見るなら一種の侵略であって、これの重大性は到底金大中事件の比ではない。今もし韓国によって日本の自衛艦が砲撃され撃沈されたら、一体どういうことになるか。金大中事件ですらこれだけエスカレートするのだから、おそらく「日韓断交型」の「世論」の前に、他の意見はすべて沈黙を強いられるであろう。それと等しい事件のはずである。

 だが当時アメリカはそういう態度に出ず「事件は事件として処理した」。これを日本の「世論」は「笑いころげずにいられないアメリカ政府のヘッピリ腰」と断定した。これは日本政府がそういう態度に出れば、これを弱腰と批判するその基準で相手を計ったことを意味している。それが対米強硬論の大きな論拠となるのであり、確かに日本の世論が方向を誤る一因となっている。従って今回の事件も、韓国がこの事件を「事件は事件として」処理した場合、日本の「世論」がこれをどう受けとめるかは、私には非常に興味がある。

 個人であれ国家であれ、問題の解決が非常にむずかしいのは、むしろ「相手に非」があった場合であろう。この場合のわれわれの行動は、常に、激高して自動小銃にぶつかるか(反撃するという意味=筆者)、はじめから諦めるか、激高に激高を重ねて興奮に興奮したあげく、自らの興奮に疲れ果てた子供のようにケロッと忘れてしまうかの、いずれかであろう。といっても私は別に他人を批判しているわけではない。いざというとき、自分の行動も似たようなものであったというだけである。」(上掲書)p162~163)

(一パラグラフ削除3/27) 

 実は、こうした日本人の「事件を事件として冷静に処理」することの出来ない弱点が、1927年の北伐途上の国民革命軍が引き起こした第二次南京事件、1928年の済南事件、そして、中村大尉事件、万宝山事件の処理にも典型的に表れているのです。そして、これらの事件を重ねる毎に日本人の対中国感情が悪化し、また、その時の行き過ぎた日本人の反応が新たな悲劇を生み、さらにそれが中国人の対日感情を悪化させるという、悪循環を生むことになったのです。こうして、日本人も中国人も望まなかった日中戦争へと突入して行くことになるのです。

 ところで、こうした悪循環の起点となった第二次南京事件に対する日本の対応が、幣原外交を「軟弱外交」「弱腰外交」と批判する一般的風潮を生むことになりました。こうした批判は、今日ではほとんど通説化していて、名著『太平洋戦争への道(一)』「ワシントン大勢と幣原外交」でも、「彼はあまりに人間性を偏重し、満蒙にたいする日本人一般、ことに軍部の非合理的感情への評価と満蒙問題にからむ内政面への顧慮とを欠いていた。しかも彼自身はその合理主義へと世論を誘導する政治力を持たなかったのである。」と批判されています。

 だが、本稿で紹介したように、満蒙に対する当時の日本人一般の感情が一体どのようなものであったか、それが何故に満州事変を指示する方向で急展開したか、また、軍部の満蒙問題をめぐる非合理的感情というものが、一体どのようなものであったかを見れば、こうした批判は私は当たらないと思います。というのは、ではこの局面において、「満州問題」の解決のために有効な他のどのような方策があり得たか、ということです。その代案の一つが、田中義一内閣の武力を背景とする「積極外交」だったはずですが、それがいかなる惨憺たる結果を招いたか。

 第一次山東出兵、それに続く第二次山東出兵は済南事件(日本軍の謀略・煽動の疑い濃厚)を引き起こし、それが中国人に、あたかも日本が中国の国家統一を妨害しているかのような印象を与え中国の排日運動を激化させました。さらに、張作霖爆殺事件――この無法極まるむき出しの暴力主義を生んだのも田中「積極外交」でした。そして、その真相(すでに周知の事実となっていた)を陸軍は組織をあげて隠蔽した。この人を馬鹿にした不誠実極まる事件処理が、父を爆殺された張学良に、日本に対するどれだけの不信と恨みを植え付けたか・・・。

 その田中「積極外交」が遺した支那本国や満州におけるの排日運動激化の責任を、なぜ幣原が負わなければならないのか。第二次若槻内閣における幣原の無策を責めることは簡単ですが、では、当時の、支那の革命外交や張学良の排日政策が進行する中で、幣原や重光が唯一取り得るとした「堅実に行き詰まらせる」方策以外に、はたしてどのような方策があり得たか。この「堅実」策が最終的に何を想定していたかについては、前便で守島伍郎の解釈を紹介しましたが、幣原は既に昭和3年9月17日の段階で次のようにその所信を述べています。

 「私は満洲の権益は、東三省の政治組織如何によって左右されるやうな薄弱なものではないと思う。だから、政治と経済を混同してはならないといふのだ。第一国民政府が満州に進出して、特に我国の権益を脅かすような不謹慎的行動に出るとすれば、その時初めて我政府は否と返答すればよい。真に帝国の存在を無視するが如き態度に出るにしても執るべき手段は幾らでもある。」大切なのはそれに至る手続きだ。「徒に小細工を弄し、列国をして侵略的なる疑問を抱かせるような方策に出ることは、他を傷つけると共に自分を傷つける不明の策であって、外交の妙諦を解せざるものである」(大阪日華経済協会「幣原招待懇談会」における田中外交批判演説要旨、『幣原喜重郎』p366)

 なお、先に述べた幣原外交批判の嚆矢となった第二次南京事件における現地軍の無抵抗主義は、実は、幣原が指示したものではなく、当地の本邦居留民が「尼港事件」の二の舞を恐れて海軍部隊長に隠忍を陳情したことによって執られた措置でした。幣原がこうした局面における軍の統帥事項に容喙するはずもなく、もし本当に政府がこの時無抵抗主義を現地領事館に指示していたとしたら、いち早く居留民の引き揚げを断行していたはずだ、と幣原はいっています。(「外交管見」『幣原喜重郎』所収p322)

 しかし、こうした「穏忍自重」の対応策は、その被害についての誇大報道もあり、国内において激しい批判の対象となりました。そして、それがあたかも幣原の「対華不干渉主義」「対華親善政策」の結果である如く喧伝されました。しかし、日本が排外暴動の対象となったのは実はこの時が初めてで、それまではイギリスがその対象とされたのです。また、この時の暴動は、国民革命軍内部のソビエトに指導された共産主義分子が、共産党排斥の旗幟を鮮明にした蒋介石を打倒するため、意図的に引き起こした領事館襲撃だったといいます。

 こう見てくると、一体、幣原の外交方針のどこに間違いがあったのか。「日英同盟を廃棄してこれを四カ国条約に代えた」ことや、「九カ国条約に謳う門戸開放・機会均等主義が日本の満蒙における特殊権益と政治的に両立しない」ことなどが批判されますが、「日本が九ヵ国条約に敵意を抱いたのは満州事変以降のことであり」、それまでは、それが「中国の排日感情を和らげ、列国の疑惑を解くため必要な実利政策である」(『太平洋戦争への道(一)』p37)として、当時の政府が一致して支持してきたものなのです。四カ国条約についても、集団安全保障体制であり無力だということは戦後判ったことだし、仕方ないのではと思います。(3/28追加)

 また、こうした幣原の外交方針が、その後の世界恐慌による自由市場の閉鎖化や、ソ連共産主義の台頭、国民党の革命外交や張学良の排日政策に有効に対処するものでなかった、などとも批判されますが、では、これらに対応できるどのような外交方針がありえたか。それは結局、ワシントン体制下の世界秩序――軍縮から外交交渉による国際紛争の解決の方向、デモクラシーと自由民主主義の方向に国民を導いていく、ということではなかったか。だとすれば、「満州問題」を巧みに利用することで、満洲領有と軍部独裁を同時に実現しようとした軍部に、どのように対抗し得たか。

 あるいは、そうした幣原とは違う軍部とのつきあい方(3/27挿入)を試みたのが広田弘毅であり近衛文麿ではなかったか。彼らこそ「日本人一般、ことに軍部の非合理的感情への評価と、満蒙問題にからむ内政面への顧慮」に注意を払いつつ、内交的外交を展開した人たちではなかったか。そしてそれは見事に失敗した。そう見ることができるのではないか、私はそう思っています。 (つづく)