なぜ日本は中国と戦争をしたか2
前回、昭和7年の5.15事件の後、駐日支那公使の蔣作賓が近衛文麿を訪ねてきて、「蒋介石は支那の中心人物であり、しかも今日では殆ど全支那を把握している形であるから、支那を考えるには蒋の勢力を第一に考えなければならない、蒋を中心勢力と認めさえすれば、日本にとって今くらい対支外交のやりよい時機はない」と力説した、という話を紹介しました。おそらく中国の側でも、近衛文麿が近い将来日本の政治的リーダーとなることを予測して、彼に対する政治的レクチャーを試みたのではないかと思われます。 ここで蔣作賓が言っている「蒋を中心勢力と認めさえすれば」というのは、要するに蒋介石が行っている中国統一を認めよ、ということで、言葉を代えて言えば、「中国の主権を認めよ」ということに他ならないと思います。従って、日本がその蒋介石を否定するということは、「支那の統一をさまたげ分割統治をやろう」とすることと同じになる。「これがそもそも根本の誤である」と蔣作賓はいうのです。同様の指摘は、これも前回紹介した北京燕京大学校長レイトン・スチュアート氏の近衛文麿に対するアドバイスにも見ることができます。 だが、当時の関東軍の蒋介石に対する不信と嫌悪は「いささか常軌を逸し」ており、「(国府は)絶対に帝国と親善不能」だから「支那大陸を・・・分治せしめ其分立せる個々の地域と帝国と直接相結び帝国の国力により・・・平和の維持と民衆の経済的繁栄を図る」(1936年5月板垣が有田次期外相に語った言葉)というほどのものでした。それは「予期に反し全国統一事業を着実に進めていく南京政府と蒋介石への不安と焦慮に発したのかもしれない」と秦郁彦氏は言っています。(『廬溝橋事件の研究』p10) こうした板垣の考え方は満州事変の以前からあり、というより、こうした日本軍の日清戦争以来の中国蔑視の考え方が、満州事変を引き起こしたとも言えるわけです。その満州問題の処理にあたって中国をどのように認識するかということは、当の満州事変の首謀者石原莞爾によって、次のように語られていました。(以下句読点は読みやすくするため筆者が付した。) 「支那全体ヲ観察センカ永ク武力ヲ蔑視セル結果、漢民族ヨリ到底真ノ武カヲ編成シ難キ状況ニ於テ、主権ノ確立ハ全然之ヲ望ム能ハス。彼等ノ止ムルヲ知ラサル連年ノ戦争ハ吾等ノ云フ戦争即チ武カノ徹底セル運用ニ非スシテ、消耗戦争ノ最モ極端ナル寧ロ一種ノ政争ニ過キサルノミ。我等ニ於テ政党ノ争ノ終熄ヲ予期シ得サル限り、支那ノ戦争亦決シテ止ムコトナキモノト云ハサルヘカラス。 斯ノ如キ軍閥学匪政商等一部人種ノ利益ノ為メニ、支那民衆ハ連続セル戦乱ノ為メ塗炭ニ苦シミ、良民亦遂ニ土匪ニ悪化スルニ至ラントス。四面ノ民ヲ此苦境ヨリ救ハソト欲セハ他ノ列強力進テ支那ノ治安ヲ維持スル外絶対ニ策ナシ。即チ国際管理力某一国ノ支那領有ハ遂ニ来ラサルヘカラサル運命ナリ。単ナル利害問題ヲ超越シテ吾等ノ遂ニ蹶起セサルヘカラサル日必スシモ遠トイウヘカラス。」(『現在及び将来における日本の国防』石原莞爾s6.4) つまり、支那は永く武力を蔑視してきたために真の武力が編成できない。そのため自らの主権を確立することは望めず、その結果、一部の人の利益を争う政争のような戦乱が続き良民を苦しめている。こうした支那の苦境を救うためには、他の列強力(=日本)がその利害を超越して治安の維持に当たる必要があるというのです。しかし、残念ながらその動機はそれだけではなく、其の前段には次のような日本自身の利害が赤裸々に語られています。 「我国情ハ殆ント行詰り人口糧食ノ重要諸問題皆解決ノ途ナキカ如シ。唯一ノ途ハ満蒙開発ノ断行ニアルハ輿論ノ認ムル所ナリ。然ルニ満蒙問題ノ解決ニ対シテハ支那軍閥ハ極力其妨害ヲ試ムルノミナラス、列強ノ嫉視ヲ招クヲ覚悟セサルヘカラサルノミナラス、国内ニモ亦之ヲ侵略的帝団主義トシテ反対スル一派アリ。 満蒙ハ漢民族ノ領土ニ非スシテ寧ロ其関係我国ト密接ナルモノアリ。民族自決ヲ口ニセントスルモノハ満蒙ハ満洲及蒙古人ノモノニシテ、満洲蒙古人ハ漢民族ヨリモ寧ロ大和民族ニ近キコトヲ認メサルヘカラス。現在ノ住民ハ漢人種ヲ最大トスルモ、其経済的関係亦支那本部ニ比シ我国ハ遥ニ密接ナリ。 之等歴史的及経済的関係ヲ度外スルモ、日本ノ力ニ依リテ開発セラレタル満蒙ハ、日本ノ勢力ニヨル治安維持ニ依リテノミ其急激ナル発達ヲ続クルヲ得ルナリ。若シ万一我勢力ニシテ減退スルコトアランカ、目下ニ於ケル支那人唯一ノ安住地タル満洲亦支那本部ト撰フナキニ至ルヘシ。而モ米英ノ前ニハ我外交ノ力ナキヲ観破セル支那人ハ、今ヤ事毎こ我国ノ施設ヲ妨害セントシツツアリ。我国正当ナル既得権擁護ノ為、且ツハ支那民衆ノ為遂ニ断乎タル処置ヲ強制セラルルノ日アルコトヲ覚悟スヘク、此決心ハ単ニ支那ノミナラス欧米諸国ヲ共ニ敵トスルモノト思ハサルヘカラス。」 この最後の段は、満蒙における日本の治安維持の義務を語りつつ、同時にそれは、我が国の正当な既得権擁護のためでもあり、かつ支那民衆のためであるといい、しかし、そうした日本の行動は、支那のみならず欧米諸国をも敵とするものであり、日本人はその日が来ることを覚悟すべきであるというのです。そして次のように続きます。 「即チ我国ノ国防計画ハ米露及英ニ対抗スルモノトセサルヘカラス。人往々此ノ如キ戦争ヲ不可能ナリトシ、米マタハ露ヲ単独ニ撃破スベシ等ト称スルモ、之自己ニ有利ナル如キ仮想ノ下ニ立論スルモノニシテ、危険ハナハダシキモトイウヘク絶対ニ排斥セサルヘカラザル議論ナリ。」いささか空想的に過ぎるように思われますが、これは決して冗談やざれごとでありません。というのは、石原莞爾はこうした言葉を、彼自身のオリジナル思想(?)である周知の次のような「最終戦争論」のもとに語っているのです。 「欧州大戦ニヨリ五個ノ超大国ヲ成形セントシツツアル世界ハ、更ニ進テ結局一ノ体系ニ帰スヘク、其統制ノ中心ハ西洋ノ代表タル米国ト、東洋ノ選手タル日本間ノ争覇戦ニ依り決定セラルヘシ。即チ我国ハ速ニ東洋ノ選手タルヘキ資格ヲ獲得スルヲ以テ国策ノ根本義トナササルヘカラズ。」「而シテ此ノ如キ戦争ハ一見我国ノ為極メテ困難ナルカ如キモ、東亜ノ兵要地理的関係ヲ考察スルニ必スシモ然ラス。即チ 1 北満ヨリ撤退シアル露国ハ、我ニシテ同地方ヲ領有スルニ於テハ有力ナル攻勢ヲトルコト頗ル困難ナリ。 2 海軍ヲ以テ我国ヲ屈服セシムルコトハ難事中ノ至難事ナリ。 3 経済上ヨリ戦争ヲ悲観スルモノ多キモ、此戦争ハ戦費ヲ要スルコト少ク、概シテ之ヲ戦場ニ求メ得ルヲ以テ、財政的ニハ何等恐ルルニ足ラサルノミナラス、国民経済ニ於テモ止ムナキ場合ニ於テハ、本国及占領地ヲ範囲トスル計画経済ヲ断行スヘク、経済界ノ一時的大動揺ハ固ヨリ免ルル能ハストスルモ、此苦境ヲ打開シテ日本ハ初メテ先進工業国ノ水準ニ躍進スルヲ得ヘシ。(『満州問題私見』石原莞爾s6.5) つまり、世界は最終的には西洋文明のチャンピオンたる米国と、東洋文明のチャンピオンたる日本の間で最終決戦が争われる。日本はその東洋チャンピオンたる資格を獲得することを国策の根本とすべきである。一見、これは日本には無理と思われかもしれないが、決してそうではない。即ち、ソ連は、北満を日本が領有すれば有効な攻勢に出ることは極めて困難となる。また、アメリカが海軍力をもって日本を屈服させることも至難である。また、戦費は戦地において現地調達すれば、いわゆる「戦争をもって戦争を養う」ことができる。さらに、国民経済において計画経済(=「国家総動員体制」)をすれば、一次的に経済界が動揺しても、それを乗り越えることで先進国の水準に飛躍できる、というのです。 ここに、日中戦争及び日米戦争のアウトラインがはっきりと描かれています。それは、紛れもなく満州事変以前に石原莞爾によって描かれたもので、これによって初めて、日本の満蒙領有についての文明史的意義付けがなされ、その実行主体としての日本の歴史的使命が説かれたのです。だが、こうした途方もない戦争のビジョンが、はたしてどれだけ当時の軍人にリアリティーをもって理解されたか、これは甚だ疑問といわざるを得ません。だが、これによって、二重政権の創出にも等しい満州の武力占領が実行に移され、その、目的のためには手段を選ばぬ下剋上的無法行為が正当化されるに至ったことは間違いありません。 しかし、こうした石原莞爾の責めに帰すべき満州事変の歴史的評価については、その後の彼の対支認識の意見修正(『対支政策の検討(案)』s11.9.1)」を根拠に、満州事変限りにおいて評価する意見が多いようです。このことについては、日本陸軍の、その尊大、驕慢、加えその浅慮を指摘し、わが国力、軍の実力を無視し、さらには敵の力を下算する大きな過誤を冒し、なお聖慮に背いて皇軍皇国を崩壊に引きずり込んだ昭和陸軍を嘆き、悔み、憤った、元陸軍省参謀加登川幸夫氏も、満州事変は中国側の対日圧迫、日本の合法的権益の侵害に対する自衛措置だったとして容認しています。(『陸軍の反省』「はじめに」) もちろん、私自身は先に「『偽メシア』石原莞爾の戦争責任」で指摘したように、氏の戦争責任を強く指摘し、この事件こそが日本を崩壊に引きずり込んだ元凶と理解しています。しかし、それを繰り返しても言っても仕方ありませんので、ここでは、こうした私たち日本人の立場を離れて、いわゆる親日派といわれる中国人がこの事件をどう見たか、これについての大変興味深い対談記事「段祺瑞の満州事変観」を見つけましたので、それを次に紹介したいと思います。 これは林耕三氏という、戦前の東北地区(満州)で日本の協和会運動に協力した方(中国人)の紹介になるもので、『宣統皇帝遺事』中第三十七章「天津における土肥原大佐」を日本文に翻訳したものです。段祺瑞といえば、いわゆる「西原借款」で有名ですが、その彼と、当時奉天特務機関長をしていた土肥原賢二との対談です。言葉における正直と不正直ということもさることながら、両者の政治的洞察力及び見識の差にはいささか驚かされました。 また、段氏の、何故日本人は日清戦争以来四十数年の長きに亘って「中国を見下げ侮る」のかという言葉、功名のために大戦を起こせばどうなるか、日本人の「幻想」についての指摘、そして「多く不義を行えば、必らず自ら斃れる」という言葉は、当時の日本人が陥った傲慢と、その後の日本の運命、そして土肥原自身の運命(A級戦犯で処刑)をも的確に見通したものであると、私には思われました。(以下『満州建国の夢と現実』P373~380) 段祺瑞略歴(1864~1936) 土肥原 閣下は、生ぐさ物や酒はおやりにならない大徳のお人柄ゆえきっと「即身成仏」なさるでしょう。 段 「成仏」は敢えて望まないが、ただ、人生の大半を軍人で過したので、殺戮すること少なからず、罪業、が深い、希くは、仏法のざん悔をして、将来、天寿を全うしたいものだと願っています。 土肥原 執政閣下のご教訓には全く痛み入ります。私共後輩の軍人として閣下のお話を座右の銘としたいものです。 段 土肥原さん、軍人の一生には「不殺生戒」―殺生をしてはならないという戒め――を犯さないものはないでしょう。しかし、軍人としての職掌柄そうなるのは止むを得ないとしても、己の功名をあげたり、利益のために大戦を引起すということであれば、その罪業は非常に深いと言わなければなりません。 中国にはこういう諺がある。「兵猶太也 不戦自焚」――戦争は火のようなもので、戈を止めなければ自らを焼いで自滅する――武力を乱用した国が永続きしなかったことは歴史の証明する所です。まして殺戮を専門とする上級軍人に至っては、如何に功名があろうと天寿を全うした例が非常に少ない。 土肥原 閣下のご教訓、心に銘じました。このたびの奉天事件(九一八事変)は、本庄司令官以下幕僚一同反省しています。 段 今になってそういうことを言われても、この事件の善後処置については今のところこれという方法もなく仲々困難でしょう。今、貴官が「反省している」などと言われたが、真実のところ、それは十年位先のことでしょうし、その頃になってやっと私の話を思い出すのじゃありませんか。 土肥原 閣下のお話は、全て禅の修業を積まれた結果によるもので、後輩の私などにはとても真意を了解することができません。 段 私の話には少しも神秘な節はない。もし貴官が、私の今おかれている立場にあるとすれば、私の話が、実際に即した話である。ということを理解できるでしょう。 土肥原 閣下は、高い視野に立って、永い将来のことを見透すことのできる人です。どうか私のために遵守すべき道をご教示願います。 段 私の今日の話は、世間話に過ぎませんからあまり気にしないで下さい。唯一つ貴官にお尋ねしたいことがある。 日本の人口は中国の六分の一にも満たなしし、土地も中国の某一省にも及ばない。然るに何故、日清戦争以来四十数年の長きに亘って「中国を見下げ侮る」のです。(大佐、黙して語らず)私は、貴官が直ちに答えられないことはよく分る。そこで、私か代って答えよう。 中国は一皿の砂のようなもので、団結心乏しく、容易に団結しない。日清戦争で、日本は勝ったと言うが、それは李鴻章一人を打倒しただけのもので、真の中国の力にぶっつかった訳ではない。我が国では、民国以来、群雄が割拠して紛争を続けていたので「君達」に入り込む隙を与えた。君達に、何でも思い通りになり、何をしても利益になる、と思いこませた。然し、今回の「九一八」事変――九月十八日勃発の満洲事変――は、君達が中国人の夢を醒まさせた。四億の人民は一塊りとなって日本に対している。今后、君達が武力で征服しようとしてもそれは難しいでしょう。 私の話は貴官には、誇張しているように聞こえるかも知れないが、それは貴官の自由である。私はもう一つの実例を挙げて話したい。 土肥原 そうです。その通りです。閣下。 段 日本人は、私を友達、味方にしようとしているので、中国人は私を親日派と罵っている。しかし 「九一八事変」以後からは私自身、もう日本人の友達ではなく、むしろ日本人を恨んでいる。今日の貴下は、責任ある人だけに、その一言一句、一挙手一投足は、中日両国人民の前途に対し多大の影響があるものと考える。本日、貴官は、貴国の陸軍の命令で来られたからお会いした訳で、他の日本人が私を訪問したとせば、私は正門から入ることを思い止まってもらった筈です。 土肥原 閣下、癇癪を起さないで下さい。何か要求がおありとすれば、私はその実現に尽力したい。 段 只今のは、言い過ぎだったかな? 全く汗顔の至りです。私は、一九二六年、政界を引退してから六、七年になるが、殆ど癇癪を起したことはなかったが、どういう訳か突然それを起してしまった。まだまだ修養が足りない、恐縮の至りです。 土肥原 閣下は、生仏様ですよ、奉天事件(九一八市変)の刺激が強過ぎたので、怒って睨みつける金剛様に変ったのですね。(一同笑声、緊張やや緩か) 段 貴官が帰って本庄さんに報告する時には段の意見として次のように伝えて貰いたい。「段との会談は全て程々にし、適当な所で止めた。事変の解決は無理をせず自然に従うべきだ。目下、中国側としては、この問題を国際連盟に提訴しているので連盟が処理するものと思う。然し、東洋人の問題には西洋人の手を煩わすべきでなく、東洋人の手で解決すべきだ」と。 土肥原 分りました。然し、当方としても、九一八後、三日目、私は東京から奉天に帰り、東北(満洲のこと、以下東北)当局との交渉の糸口を探しましたが、張学良司令(東北辺防軍司令)は、これに応せず、どうしようも無かったのです。 段 東北問題は張作霖(奉天督弁)時代からのことで、貴官らは専ら東北に一つの独立国を造ろうとしていた。これに対し張督弁が反対したので、遂に爆死さぜたではないですか。張司令も身に危険の及ぶのを感じて北京に逃避したのです。この機に乗じ、君達は、武力をもって進攻し奉天、長春の地を次々に不法占領し掌中に収めた。君達は、張学良と交渉したいというが、こうした情況下で、果して交渉に応ずるでしょうか。又、独立させる、とか、最高の地位を与えるから・・・、という条件を持ち出したりして之に応ずるでしょうか。それは言わなくても明々白々の事でしょう。 君達日本には、沢山の「中国通」がいると言われている。しかし果して、真の中国を識る「中国通」が居るだろうか。皆さんは、自分の幻想に照して、まず原則を定め、そのあとでいくらかの資料を探してそれに当てはめ、こういうやり方で中国問題解決の政策をつくって行くようだが、この結果は、中日両国の将来を誤まらせること必定で、とどの詰りは、第三国に漁夫の利を得させること明らかである。 (土肥原無言、談話は続く) 土肥原 この度、私か当地に参りましたのは、先刻ご承知のように上司の命を奉じ、閣下にご謁見の上、お知恵を拝借し、大乗的見地から中日両民族の永久平和の道を発見したい為でありまして、特に現在の東北における行詰り打開は焦眉の急に追っており一刻の猶予も許されないのです。 段 私は一介の閑人である。私か今迄話したことは、私個人の意見であって、決して中国政府が私に代弁させているのではない。これは本庄さんに伝えてもらいたい。 土肥原 勿論そのように報告します。私の国では、閣下が、もと執政としてのお立場から、たとえ野に在っても超然たる高い視野に立って物事を考えていられるものと考え、それだからこそこうして私などがお教えを賜わるため参上しているのです。 段 私か君達に代って考えてみると、現在の占領地域はこれ以上拡大しなしが宜しい。君達は今の占領を「保証占領」と言い、中国の領土を取得しよう、とは考えていない旨を声明しているが、どうして従来の中国の行政組織をこわそうとするのか、その真意が分らない。東北の臧式毅君は遼寧省の主席で、得難い人物である。決してこういう人物を監禁するようなことがあってはならない。 また元老としては、張輔臣(作相)、張叙五(景恵)の二人がいるが、張輔臣は既に大関(満洲から長城を越えて華北に入った、の意)し再び帰ることはあるまい。残るは張叙五一人だが、彼は東北全般を総攬する能力をもっている。君達はどうして彼を探し出さないのだろう。彼を東北の最高指導者に推挙して中国の主権を回復させるようにすれば、君達の誠意が認められ、事件は解決に向うものと信じる。これは口で言う程容易でなく、問題解決は困難ではあるが可能性が認められる。 (段は更に続けた) 土肥原 この人物については私も同感で、帰還の上は本庄司令官に閣下のお考えをよく伝えます。 段 聞く所によれば、もと清朝の溥儀皇帝が、東北に行ったそうですが、結局どういうことになるのです。 土肥原 この件は、奉天事件とは関係ありません。溥儀氏がこの地(天津)に居られると一部の閑人が何やかやとうるさいので、租界当局も職責上毎日所要の警察官を派遣して、保護申しあげねばならず、お互いに不都合が多いので、溥儀氏としては、こうした雑音を避け、環境の好い東北南端の旅順(現在の旅火市)に移りたいというご希望があったのでお力添えをしたまでのことです。生憎く奉天事件九一八事変に際会したので、貴国朝野の人士から疑われるのも無理はありますまい。 段 土肥原さん、今日の会談はうまくいきましたね。お互いは確かに因縁がありますよ、貴官は、貴国の軍人中、人格識見とも最上級の方だけに高所に立って広い視野で物事を観察される。私はそう信じたい。 中日両国の関係から言えば、私は今、思い出せませんが、中国はどういうところで日本に済まないことをしたのか、ということです。日本としては、どうした訳か中国につきまとって拘束から開放してくれない。中国人としては、何とかして日本の意のあるところを理解し歩みよりたいと念願するのですが、忍耐にも限界があり、現在の状況はもうギリギリの状態に立ち至っている訳で誠に重大と言わなければなりません。 もし、君達が、東北撹乱の特殊組織を作り、中国人の忍耐の限界を超えるとすれば、それこそ大きい禍根を作ることとなり、貴下もこの災難から込れることは出来なくなるでしょう。 土肥原 執政閣下、お安心下さい。土肥原は決して閣下のご厚意に背くようなことは致しません。 (会食と談話はこれで終った。但、土肥原大佐が段邸を訪問する以前、密かに溥儀氏を天津から東北に連れ出す工作は完了していたのだ。段元執政もこれは知っていたが。) |