なぜ日本は中国と戦争をしたか

2009年1月30日 (金)

 前回の末尾で、橋川文三(1922.1.1生、政治思想史研究者)の日本国民としての日中戦争及び日米戦争についての率直な印象を紹介しました。ここで氏は「極端にいったら日本国民は、あれを戦争と思ってないかもしれない。そのことが致命傷になって、太平洋戦争入るときも、指導者を含めて日本国民の判断を狂わせてしまっているのではなかろうか。」といっています。私はこれは、日中戦争及び日米戦争における日本の「調子狂い」の根本原因を最も鋭く見抜いた言葉ではないかと思います。

 次に、この問題を考えるために、1945年12月20日から11回連載された「近衛文麿手記」に紹介された、日支間の問題解決についての駐日支那公使蒋作賓の提案を見てみます。

 「丁度その頃駐日支那公使の蒋作賓も血圧が高い為長谷の大仏の境内に住んでいた。そんな関係から、ある日―たしか昭和七年の五・一五事件のあとだったと思うが、秘書役の参事官丁紹扨と連れ立って、蒋は私を訪ねて来た。丁紹扨とは私の一高時代に西寮で一緒だったという因縁があったので特に丁を伴って来たものと思う。それ以来蒋と丁は屡々やって来た。鎌倉山の家にもひと月に一回位は必ず顔を見せた。

 蒋作賓は前にドイツ大使をやって居り、蒋介石直系の人物である。彼は丁の通訳で日支問題を論じ、このままで行けば日支の衝突は世界戦争にまで発展する可能性があると私に警告した。

 彼は何よりもまず蒋介石の実力を説いた。蒋介石は支那の中心人物であり、しかも今日では殆ど全支那を把握している形であるから、支那を考えるには蒋の勢力を第一に考えなければならない、蒋を中心勢力と認めさえすれば、日本にとって今くらい対支外交のやりよい時機はないというのである。成程一方には呉佩孚等いう人も居るが、しかし彼等は一部勢力の代表にしか過ぎない。そういう手あいを相手にしていたのでは何時になっても日支の問題は解決しないであろう。

 一体日本の軍部は支那の軍閥を利用して、お互いにお互いを牽制し、反発させて支那の統一をさまたげ分割統治をやろうという政策をとって居るようだが、これがそもそも根本の誤である。日本人は第一にこの点からして認識を改めねばならぬ。日本が如何なる政策をとろうとも今日の支那はまさに国内統一の気運に向っている。そしてこの気運に乗っているものこそ実に蒋介石その人だ。だから支那のことを考えるからには是非とも蒋介石国民党を中心に置いて考慮をめぐらしてほしい、とこういうのである。

 従来日本の軍部は国民党を叩こうとばかりしている。この政策ぐらい間違っているものはない。こういうやり方を続けていると、支那の隠忍にも程度がある。やがては我慢ができなくなり、終には捨てばちになって反抗するようになる。一体武力で支那を征服しようなどという事は、全く支那をしらない者の考えであって、いくら支那が衰えているからといってそんな事ですぐ倒れるものではない。戦が長びけばその内には英・米が蒋に味方をするということが起こり、日支問のもつれは必ずや世界戦争に発展する可能性がある。もし世界戦争にでもなれば、結果は英・米を利し、日本も支那も共倒れになってしまう。

 だから日本は今の内に政策を改めて大局に目をくばり蒋介石と手を携えて、大アジアの問題を処理すべきではないか。これが孫文以来の理想なのだ。そうなればイギリスにしても、アメリカにしても手が出せなくなる。これこそ東亜安定の唯一の策であり東亜興隆の唯一の道だ。今日の日本のやり方というものはこれと全く逆になっている。」(注:驚くべきことにその後の歴史は、この蔣作賓の「読み」どおりに進行しています。)

 こうした蒋作賓の説に対して、近衛文麿は「心から同感の意を表し」たといっています。その後、「蒋作賓は十年の夏だったか、一先ず帰国し」当時四川省で赤軍討伐のため重慶にいた蒋介石と協議して日支和平案を練り、これを「丁紹扨に持たせて日本に寄こした。丁は日本に着くと、早速軽井沢に私を訪ねて来た。」その時彼の携えて来た日支和平案というのは、

一、満州問題ハ当分ノ間不問二付スル(現在の空気では支那に於ては取りあげられないから)

二、日支ノ関係ヲ平等ノ基礎ノ上二置ク、ソノ結果トシテ凡ユル不平等条約ヲ撤廃スル、但シ満州二関係ノアル不平等条約ハ、除外シナイ、マタ排日教育ハ防止スル。

三、平等互恵ノ関係ノモトニ、日支経済提携ヲナスコト。

四、経済提携ノ成績ヲ見タウエデ軍事協定ヲ結ブ(軍事協定締結の場合には、蒋介石自身は日本を訪問してもよいというのである)。

 大体右のような内容のものであった。」といいます。

 この提案内容は、昭和10年9月、蔣大使が広田外相に示した和平提案の内容―「日中両国相互の完全な独立の尊重、両国の真の友誼の維持、今後両国間の一切の事件は平和的外交的手段により解決する」のほか「蒋介石の考えとして、満州国の独立は承認し得ないが、今日はこれを不問とし、満州国承認の取り消しは要求しないこと。日支の経済提携の相談に応ずること。更に「共同目的」(防共=筆者)のため軍事上の相談を為すこと」等―と同様のものだったのではないかと思います。

 近衛もこの案に大賛成であり、「充分努力しようと丁に誓」いました。そして、この支那の提案を、「議会で広田外相に会い事情を話し、政府に於いても日支問題の解決につき努力するよう頼んだ。」しかし「広田も外務省も同感であったのだが、軍部から反対の声があがった。それは提案第一条の満州を「不問」に付するという点がいかん、「承認」と改めよというのである。これには広田も困った。」その後、昭和10年10月の「広田三原則」(外陸海三省了解)が出来上がり、これと中国側三原則の調整のための協議が広田と蔣の間で進められましたが、そこで問題になったのがやはり満州国の承認問題でした。

 広田三原則では、「二、支那側をして満州国に対し、窮極において正式承認を与えしむること必要なるも差当り満州国の独立を事実上黙認し、反満政策をやめしむるのみならず少なくともその接満地域たる北支方面においては満州国と間に経済的および文化的の融通提携を行わしむること。」となっていました。日本側は「満州国の独立を事実上黙認」することを求めましたが、中国側は、日本に満州国承認の取り消しを求めることはしないなど「かなりの譲歩の意向がみとめられる」ものの、その主権の放棄を明言することはありませんでした。

 ただ、この「広田三原則」の付属文書には、「我が方が殊更に支那の統一または分立を助成しもしくは阻止する」施策は慎むとの方針が入っていました。これは、同時期関東軍が進めていた華北分離工作を押さえ込もうという政府の思惑があったのですが、関東軍はこれを阻止しようとして、華北分離工作をおし進めました。この時出されたのが「多田声明」で、北支より反満抗日分子の徹底一掃、民衆救済のための北支経済圏の独立、赤化防止、北支五省連合自治体の結成をうたい、「これを阻害する国民党及び蔣政権の北支よりの除外には威力の行使」も辞さないと露骨に威嚇しました。(『廬溝橋事件の研究』秦郁彦p18)

 しかし、こうした関東軍の強硬策も、中国の「幣制改革」の成功に伴う中国経済の統一の進展もあって縮小せざるを得ず、結局、翌昭和11年25日の「冀東防共自治委員会(一ヶ月後「冀東防共自治政府」と改称)」という親日自治政権の樹立、同12月18日の「冀察政務委員会」(=国民政府、宋哲元、日本政府の妥協の産物である日中間の緩衝政権)の設置となりました。(冀東とは河北省東部のことで、冀東政権はその地域を、冀察政権はそれ以外の河北省とチャハル省をその管轄地域としていた)その後川越駐華大使と張群外交部長の間で交渉が継続されましたが、中国は「主権の完整」という大前提のもとでタンク-停戦協定の廃止など具体的要求を持ち出すようになりました。(交渉は関東軍の内蒙工作である綏遠事件により破綻)

 こうした日中交渉の手詰まり状態の中で、華北分離工作に対する中国の抵抗が強いことや、西安事件を契機として中国に「国共内戦停止」や「抗日国内統一」の気運が高まっていることを背景に、従来の「軍閥闘争時代」の中国間観の修正を求めるいわゆる「中国再認識論」が生まれてきました。石原莞爾が、従来の主張(=中国の政治的中心を覆滅し抗日政権を駆逐する)を転換し、「支那の統一運動に対し帝国は飽迄公正なる態度を以て臨む北支分地工作は行わざること」(『石原莞爾資料』p206「陸軍省ニ対シ対支政策ニ関スル意思表示」s12.1.25参謀本部)と主張し始めるのはこの頃です。

 こうした「中国再認識論」の動きは、昭和12年4月16日付けで四相会議が決定した「対支実行策」と「北支指導方策」にも反映されました。そしてこうした動きを促進するため、吉田茂駐英大使は往年の日英同盟の協調関係を復活させようとしました。イギリスのイーデン外相は「日本は中国を扱う正しい方法をが何であるかについての見方を明らかに変えつつある」と評価しました。しかし、6月4日に発足した第一次近衛内閣に外相として再登場した広田は、こうした対支親善策に消極的でした。吉田大使は「日支関係の局面打開は日英協力主義を善用すべし」としましたが、広田は冷淡でした。(『廬溝橋事件の研究』p34)

 日本政府内にこうした「中国再認識論」が出てくる一方で、関東軍参謀部は「北支防共を完成し対ソ必勝の戦備を充実するため内蒙及び北支工作を強行」し「冀東、冀察、山東各政権を一体とし呉佩孚を起用し、茲に北支政権の基礎を確立・・・要すれば商用の兵力を行使し」と唱えていました。また、関東軍板垣参謀長の後任の東條英機中将も昭和12年6月「対蘇作戦準備の見地より・・・まず南京政権に対し一撃を加え我が背後の脅威を除去」せよと中央部に具申していました。こうして陸軍内が対中国避戦派と一撃派に分かれたまま廬溝橋事件を迎えることになったのです。(上掲書p31)

 この間、蒋介石は「安内攘外」を標語として、対日和平の途を模索したのですが、1935年半ば頃から日本の華北分離工作が進み始めると、高まる抗日世論にさらされるようになりました。しかし、この間の中国の国内統一の進展はめざましく、反蔣軍閥との抗争も一段落し、管理通貨制度による幣制改革も成功し、経済建設面でのインフラ整備も顕著で、こうした国内的成功によって蒋介石はカリスマ的指導者として世論の支持を受けるようになりました。1936年からは軍備の近代化と重工業の振興をめざす三カ年計画に着手しました。この間中国は「二、三年の時間をかせぎ出すことだけを考え」てかろうじて日中交渉の決裂を避けようとしていました。

 こうして蒋介石は、その「安内攘外」策の「安内」が整って行くにつれ、次第に「国民の要望に応えて、”攘外”を何とかやらざるを得ないという羽目」(『上海時代下』松本重治p70)に追い込まれていったのです。「すでに『即時抗日』を呼号する声は、中共党や救国運動に結集した進歩は文化人ばかりでなく、綏遠事件の『勝利』で『敗戦コンプレックス』を解消した中央軍の中下級将校まで広がり、『準備抗日』を説く軍幹部の統制もゆらぎはじめ」ていました。(上掲書p40)こうして、昭和12年7月7日の廬溝橋事件を契機に泥沼の日中戦争へと突入することになるのです。

 まさに、ため息が出るような話ですが、ではどうして日本がこのようなまるで集団自殺を思わせるような局面に落ちこむはめになったのか。この間の事情を最もわかりやすく語っているのが、昭和14年初め、北京の燕京大学大学校長レイトン・スチュアート氏が近衛文麿溝に宛てて書いた和平提案の手紙の邦訳写しです。これは昭和13年12月22日の「第三次近衛声明」が「日本が何等支那の主権と独立を侵害する意志なし」(スチュアート氏の解釈)と表明したことを受けて、スチュアート氏が日中和平を願う同志を代表し、近衛公に両国間の誤解を解くべくアドバイスしたものと思われます。(平成17年秋に近衛家の鏡台の隠し棚の中から発見された『近衛文麿六月終戦のシナリオ』p20)

 「近衛公閣下、未だ拝眉の機を得ざるも貴国に於ける貴下の卓越せる地位と、自由にして聡明なる閣下の政治的風格に対する敬仰の念よりして、吾等に関聯せる現下の問題に対して敢えて一書を拝呈する。私は支那生まれの米国人です。長き間宗教と教育を通じて支那の福祉の為に働き支那人を愛敬するが同時に心から日支両国の親善を希って居るものです。これは独り両国の共通の利益たるのみならず又関係第三国もこれを歓迎することと信じます。たとへそのため少し位自分達の利益を犠牲にされても。

 現在の紛争は、少なくとも或程度相互の無理解より生じて居る。日本は支那の排日感情乃至排日煽動を撲滅せんとして戦って居ると思って居る。然るに一方支那は支那の独立とその存在すら脅かされると思って、如何なる愛国者にも当然なる防衛の為の戦争をしてゐると思って居る。

 昨年末貴下の有名な近衛声明に於いて日本は何等支那の主権と独立を侵害する意志無しと公表された。然るに支那人は大抵日本は占領地に於ける軍事上の占領のみに止まらず、あらゆる生活の形式を支配するものと思い込んで居る。日本は共産党を排撃し、防共上の協力を提議して居るが、支那人はこれは支那内部の問題であって、支那の政府に一任すべきだと思って居る。防共の為に如何なる他国の軍隊と雖も駐在することは、却って平和生活の破壊となり漸く納まりかけた治安を激発するものと思って居る。

 日本は所謂親日政府を建設しこれと協同して居るが、これは支那側からみれば深刻許すべからざる日本の支配の軽蔑すべき一形式であり、凡そ支那人の目からみると彼等の承認せる政府を裏切った漢奸としか映じない。(王兆銘擁立工作のこと=筆者)これ等は前述せる相互の無理解の一班である。その憂慮すべきことは、この無理解の傾向は日支両国がお互いにその動機と手段とに対する猪疑心を益解けがたきものにすることである。真の悲劇はこれが必要なくして、しかも益(ますます)深刻になってゆく点にある。

 私の貧弱な、しかし確たる確信によれば、支那は日本の帝国主義的脅威に対する危惧の念を脱却したらその瞬間排日の行動を終熄し、且つ喜んで日本に必要な原料品と市場を提供するであろう。乃至は又互恵的な経済的合作の道をも講じ、且又共同の外敵に対し共同防衛の方法をも講ずるであろう。

 米国がこの問題に対して関心せざるを得ないのは、支那の自由且独立は太平洋の永久的平和の基礎条件であると信じ、且日本の現在の駐兵は日本の支那支配の表現ではないかといふ危惧に由来する。その懸念が晴たら、日米の間の偕老的なる友誼は直に恢復されるであろう。

 支那の独立向上を希望するといふ閣下の崇高な見地に立って、閣下の権威を以てこれ等の疑問を一掃する様な方法に出られ、今まで日本政府の真意はかくの如きものでありしと疑ふ感情の余地なからしむる様にされんことを勧告する。そのための尤も端的な証明は日本軍隊を長城以外に撤退することだ。これは貴国政府に対する凡ゆる疑問を一掃する。一度もしそれがなされたら日本が支那に求めつつあるものは、戦争において尤も効果的に獲べきそれよりも猶一層よく得ることが出来るであろう。私は微力乍ら喜んで両国並に米国間の理解の促進に力める。私の役割は少さい。然私はこの崇高なる目的の実現に協力せんとする多くの同志を代表するといふ確信の下にこの手紙をかいた。」

 要点は次の通りです。
「現在の紛争は、少なくとも或程度相互の無理解より生じて居る」もので、日本が防共のために軍隊を中国に駐在させたり、親日政府を立てたりすることは日支両国の猜疑心をますます解けがたいものにしている。従って、この問題を解決するためには、「支那の独立向上を希望するといふ閣下の崇高な見地に立って、閣下の権威を以てこれ等の疑問を一掃する様な方法に出られ、今までの本政府の真意はかくの如きものでありしと疑ふ感情の余地なからしむる」ことが必要である。そして「そのための尤も端的な証明は日本軍隊を長城以外に撤退すること」であり、「一度もしそれがなされたら日本が支那に求めつつあるものは、戦争において尤も効果的に獲べきそれよりも猶一層よく得ることが出来るであろう」

 しかし、近衛がこの手紙を受け取ったのは、氏がその職を辞した直後であり、これを「近衛第三次声明」後の外交交渉に生かすことはできませんでした。だが、おそらくこれは、昭和16年8月の日米巨頭会談の実現に焦慮する近衛首相が、グルー米大使に対し、「(ハル四原則」(一切の国家の領土保全と主権の尊重、他国の内政への不干渉外)につき「主義上異存なし」と述べたことや、その後の近衛・ルーズベルト会談(実現を見なかったが)において近衛が陸軍に求めた「名を捨てて実を取る日本軍の中国からの撤兵」提案などに反映していたのではないかと推測されます。

 一体、この「中国の主権と独立の尊重」という”あたりまえ”の観念を否定して華北分離工作を強行し、数百万に上る兵を駐兵させて中国に居座ったまま撤兵を拒んで、日本を対米英戦争に引きずり込んだ、この「妖怪」の正体とは何だったのでしょうか。いうまでもなくそれは、満州事変という実行行為を通して日本軍に胚胎したものであり、「中国の主権否認」という形で現実化したものでした。イザヤ・ベンダサンは『日本人と中国人』の中で、先の駐日支那公使蒋作賓の言葉を「中国は他国である。日本は中国を他国と認識してくれればそれでよい」という意味だといっています。おそらく、スチュアート氏の「勧告」も同様の点を指摘しているのではないでしょうか。

 つまり、中国を「他国としてみる目」が欠如していたことが原因であり、日本人の伝統思想である尊皇思想から見た中国のイメージが、現実の中国と余りにも異なり「匪賊国家」に見えたため、自分たちこそ「東亜の盟主」であるとし、中国人はその「内面指導」を受けべきであり、日本のアジア解放・欧米駆逐という大業に協力すべきである、という傲慢を生んだというのです。そしてこのことは、何も軍部だけにいえることではなく、世論となるとこれが決定的で、これが本稿の冒頭に紹介したような「日本人の日中戦争観の狂い」を生じさせたというのです。

 満州事変の発生と、それに対する国民の熱狂的な支持の背景には、中国文化に対する憧憬とそれに対する反発を繰り返しながら、自らの文化を育んできた日本の「中国の辺境文化」として宿命があった。ではそれから脱却するためにはどうしたらいいか。いうまでもなく、それは、こうした自らの行動の規範がどういう伝統思想に由来するかを知ることであり、それを対象化し思想史として客体化できれば、それを脱却して新しい文化を創造することもできるというのです。

 ともあれ、我々が日中戦争から学ぶべきことは、こうした自らの「内なる中国」と、実際の「外なる中国」とを区別すること。つまり、中国(=他国)の主権を尊重する」という”あたりまえ”の観念を、自らの思想として身につける、ことなのかもしれません。たったそれだけのことができなかったために、あれだけの傲慢と惨劇を生むことになったとしたら・・・。