日中戦争及び大東亜戦争において、「世界支配の侵略戦争を共同謀議」した軍人はいなかった

2013年8月 7日 (水)

 東京裁判における検察の「起訴状によれば、A級戦犯28名が1928年(昭和3年)から1945年(昭和20年)まで一貫して世界支配の陰謀のため共同謀議(対中・米・英・蘭・仏侵略戦争及び張鼓峰事件・ノモンハン事件遂行)したとされ、判決を受けた25名中23名が共同謀議で有罪とされました。(重光葵、松井石根は侵略戦争遂行の共同謀議の訴因では無罪=筆者)

 確かに、この間、日本が行った戦争によって生じた犠牲者は、国内外合わせて膨大な数に上りましたから、この戦争を主導した者の責任が問われたのは当然です。日本でも、終戦直後、幣原内閣において、太平洋戦争の原因及びその実相を明らかにし、将来再びこのような大きな過ちを繰り返さない為、内閣に戦争の原因及び実相調査する部局が設置され、政治、軍事、経済、思想、文化等あらゆる部門に亘り、徹底的調査に着手する事が決定されました。

 これは「戦争調査会」と名づけられ、昭和21年2月26日に幣原自身が総裁に任じられ、続いて、3月16日に馬場恒吾氏他19名の学識経験者が委員に、各省次官等18名が臨時委員に任命され、3月27日には第一回の総会が開かれました。しかし、こうした日本人自身による戦争原因の探求は、GHQの占領政策もあって停止されました。しかし、これは民間事業として継続され、調査会の事務局長官であった青木得三氏の手によって『太平洋線戦争前史』全五巻(S24.12)がまとめられました。

 ただし、その内容は、占領下の資料収集だったこともあり、その多くが、東京裁判の過程で明らかにされた政治・外交資料に拠っています。それだけに著者は、東京裁判を高く評価し、「この裁判があったればこそ、種々の外交上の秘密電報、秘密記録、枢密院会議及び審査委員会の記録などが公にせられた、又各被告の宣誓口述書も公にせられた。・・・若し本書が幸いにして人類永遠の平和と戦争発生の防御とに役立つならば、それは又東京裁判の功績である。」と言っています。

 もちろん、東京裁判は、戦勝国が敗戦国を裁いたものであり、証拠採用も一方的なものがありました。にもかかわらず、青木氏等がこのような感想を持ったということは、戦中における日本の情報統制がいかなるものであったかを物語っています。とりわけ、軍部の統帥権の主張によって、軍事情報は内閣に対しても機密扱いされましたので、戦争の原因及び実相調査に必要な多くの資料は、東京裁判がなければ、闇から闇に葬られた可能性が大きいのです。

 だが、東京裁判に提出された関係資料だけで、昭和戦争の原因や実相がつかめるかというと、これらの資料を含め、青木氏が集大成した『太平洋戦争前史』を見ても、とてもそうはいえません。確かに、そこには「倫敦海軍軍縮条約に対する日本軍国主義者の反抗」から日米開戦に至るまでの、軍が主導した数々の事件や政治・外交行為に関する資料が網羅されていますが、ではなぜ、軍がそのように考え行動したのかということについては、ほとんど何も判らない。

 また、東京裁判が、昭和15年戦争の犯罪構造を、「日本における犯罪的軍閥が世界支配のための侵略戦争を共同謀議し実行した」と認定したことで、戦争原因は、この軍閥の犯した犯罪的行為にありその責めは彼らが負うべき。日本国民はその犠牲者とする考え方が一般的となりました。しかし、その軍閥の思想や行動を日本国民が支持したことも事実であって、軍閥が負うべき責めの一端は、国民も共に負うべきものが少なからずあったのです。

 このような観点から、あらためて、昭和史を再点検してみると、犯罪的軍閥と一括りにするけれど、その内実はバラバラであって、彼らが「世界支配のための侵略戦争を共同謀議した」とは到底言えないのです。

 例えば、昭和15年戦争の起点となった満州事変の首謀者である石原莞爾にしても、満州事変の一年後には満州から仙台の歩兵第四連隊長に移されています。軍中央に復帰するのはその3年後です。その日(S10.8.12)は、丁度統制派の中心とされた永田鉄山が皇道派青年将校の相沢三郎中佐に斬殺された日で、石原は裁判で相沢の特別弁護を引き受けたとされます。では石原は皇道派だったかというと、皇道派青年将校が引き起こした二・二六事件では、一転して戒厳司令部参謀として叛乱軍鎮圧の先頭に立ちました。

 また、二・二六事件後皇道派は壊滅し、その後、統制派が軍を掌握したことが、日本を泥沼の日中戦争に引き込むことになった、ともいわれます。曰く、皇道派の中心人物である荒木貞夫、真崎甚三郎、小畑敏四郎ら幕僚将校は、石原莞爾等の越軌行動や、永田等が計画したとされるクーデターに反対した。また、軍が満州から長城を越えて華北に進出することにも反対した。その大陸政策は対ソ防衛が中心で、支那とも対ソ共同防衛を果たす。英米とも九カ国条約のもとに機会均等を守り戦争を避けようとしていた、など。

 しかし、本当に、彼らがそのように支那に対しても、また英米に対しても合理的かつ穏当な考え方をしていたのなら、なぜ、彼らの影響下にあった青年将校等の急進的な非合理的破壊活動を容認したのか。天皇機関説排撃や国体明徴運動も彼ら皇道派が主導したものだが、天皇への絶対忠誠を説き、三月事件や十月事件などの軍によるクーデター(未遂)計画をあれだけ強く非難しながら、なぜ、五・一五事件や二・二六事件事件などのテロ・クーデター計画を黙認したのか。

 そうした皇道派青年将校による、軍の統制を無視した隊付き青年将校の横断的結合を阻止しようとしたのが、永田鉄山を中心とする統制派であったわけです。では、この永田こそが、いわゆる陸軍パンフ「国防の本義とその強化の提唱」で説かれた「総力戦」思想のもとに、華北・華中にも戦略資源を求め、そのためには蒋介石を排除し親日政権を樹立しようとし、それが結果的に日中全面戦争を余儀なくさせた、その元凶なのか、というと必ずしもそうは言えない。

 永田鉄山をよく知る鈴木貞一は、永田の満州事変以降の対支外交の考え方について次のように証言しています。

 「満州問題で永田の非常な功績というものは、満州以外には絶対に兵を使わない、という方針を確立し、これを外務省を通じ点火に声明していた」ことである。関東軍が兵を北支那に進出させた時、兵を下げさせるよう参謀本部の真崎の所に鈴木を行かせたのは永田だったと、鈴木貞一は言っています。(このあたり、関東軍の北支那進出を体をはって阻止したのは皇道派の真崎だった、とされていますが・・・)

 「つまり永田は・・・対ソ軍備というものを重視し、叩けるということに専念していた。それは支那なんかに兵隊を使ってはいかんという考えであった。そんなことをやれば満州問題をやった意義がなくなってしまう。満州問題というものはもっぱら主として対ソ戦略体制を整備する考えから起こっているのである。・・・だから満州を整備することが戦争を抑止するということに役立っている。」

 「この考え方は石原も云っているが、私は石原と大激論をしたことがある。私は内閣調査局にいて、石原が参謀本部の作戦課長であった。私は支那本土に絶対手を出しちゃいかん・・・という考えでやっていた。・・・石原も兵を使うのはいかんと考えている。しかし兵は使わないけれども、北支那の資源、鉄鋼と石炭は欲しいという。圧力をかけるために足りない(=兵力が必要―筆者)という。ここに病根がある。」

 「石原が武藤と一緒になって作戦をやっていた時代でした。ところが、石原は事変が起こった時に、反対しながら止めることができなかった。私の経験からいくと、作戦部長であって止められないわけはない。・・・だからもう戦をやってはいかんという方針があれば、北支那の資源も何ももらう必要もなにもない。兵隊を引き揚げちゃっていいんです。」

 「石原は根底薄弱なところはあるが奇道の人です。だからちょっと外から見ると珍しくて、おもしろい人間なんです。そこに比べ永田は合理主義的な人で、人の幅の相違といい、ものを考える深さといい、問題にならない。あの二・二六事件の時の石原の態度でも、非常によく私は判る。私の支那についての考え方は永田の考え方につながっている。支那というものは、大きく支那を包容していかなければいけないという、新しい時代の支那というものを考えてやらなければいけない。昔のような軍閥を相手にしてやってはいかん、というのが永田の考えでした。」(『永田鉄山』永田鉄山刊行会p68)

 なお、満州問題についての永田の考え方ですが、鈴木が永田に派遣されて蔣介石と話をした時の蔣介石の考え方について、「蔣介石は、当時は日本から援助も何も別にいらないと云う。ただ問題は、北京にいる張作霖の軍隊を満州に引っ込めてもらえればそれでいい。・・・支那本土は国民党の統一した勢力の下に政府を作って統一をする・・・それで満州では、日本人が張作霖を相手にして、どんどん日本の必要とすることをやってもらってもいいと、こういうことが張作霖に対する蔣介石の意向であったわけです。・・・

 というようなことでとにかく永田は私も一緒なんだけれども、その蔣介石を相手にして満州問題を解決しようとしたのであり、あのような(石原莞爾がやったような)奇道を践んだやり方で満州問題を解決しようとは毛頭考えていなかったのである。

 人はよく(永田が)大砲を奉天に持っていったのだから、はじめからやろうという計画であった、と憶測をして云うがそういうことは断じてない。・・・この時に関東軍に対して軍事課から、断じて進んで兵を用いてはいかん、相手が武力を持って日本の権益を侵してくる場合においてのみ関東軍は兵を使ってよろしい、ということは云った。それだから進んであんな謀略をするとはちっとも考えていなかった。」(前掲書p58)

また、この永田と皇道派の荒木との間に対立があったと云われるが、満州事変があのような奇道を踏んで行われた後(鈴木自身がそれを知ったのはリットンが来てからだという)、この問題を解決するには荒木が一番いいと・・・つまり荒木を担いでくることは、小磯、永田、東条とかの前のグループの皆、上から下まで全部が、荒木を大臣にもって来て満州問題を解決しなくちゃいかん・・・ということで・・・みなが力をあわせて荒木を陸軍大臣に推ばんしたわけです。」

 というようなわけで、その後問題となる荒木や真崎を中心とする皇道派と、永田や武藤・東条中心とする統制派との対立というようなことも、一体何がその根本原因であったか判らなくなってくるのです。もし、真崎と永田の大陸政策には、先に紹介した通り、それほど大きな違いはなかったのなら、一体なぜ、中国との戦争を防ぐことができなかったのか。周知のように石原は、昭和11年末には北支分治工作を止めさせるよう方針転換しました。それに対して永田直系であった武藤や東条はそれに反発しました。

 それが、盧溝橋事件勃発後の、石原を中心とする不拡大派と、武藤や東条を中心とする一撃派の対立に発展したわけですが、かといって、武藤や東条が中国との戦争を望んだわけではありません。むしろ、「一撃を加える」つまり武威を示すことが、戦争を抑止する上で効果的だ、と考えられていたのです。とすると、永田の考え方が先に紹介した通り「満州以外に絶対に兵は使わない」であったとすれば、もし永田が生きていたなら、武藤や東条ら「一撃派」の考えは排除されていたかもしれない、ということになります。

 こうなると、”なぜ、日本は中国と戦争をしたのか”という問に対する答えは、結局、武藤や東条等の考えが”甘かった”という簡単な話になります。つまり、彼らは能吏であっても大局的な政治判断ができる人物ではなかったのです。石原は、”東条には思想がない”と言いました。一方、武藤も、その自伝『比島から巣鴨へ』を見る限り、日支事変の原因について、次のようなありきたりの見方や責任転嫁をするばかり・・・

 (日支事変について)「それは満州事変の延長であって、日本は満州事変以来ずるずると引き込まれて、ついに支那奥地まで事態が拡大したのである。そもそも満州事変の発端は口火が支那軍の満鉄爆破であったとしても、真の原因は支那の国権回収、失地回復の民族運動と日本の大陸発展の衝突であって、実は大和民族と支那民族との民族的構想と見るべきものであった。

 日支事変の本質的性格が以上の如きものであるならば、これが解決は偉大なる政治的決断を要し、外交的に妥協の道を講ずるかないしは武力による決定を与えねばらなかった。然るに日本はその両者の何れをも取らず、外国に対する弁解にのみ努めて事態不拡大、現地解決と云うが如き姑息なる対策に依り、ついに収拾すべからざる事態に陥った。・・・私は日本における政治の貧困を痛感したのであった。」

 その武藤も、昭和14年の暮れには、陸軍省軍務局長として「昭和15年中に支那事変が解決せられなかったならば、16年初頭から、既取決に基づいて、逐次支那から撤兵を開始、18年頃までには、上海の三角地帯と北支蒙彊の一角に兵力を縮める」という事変処理の大転換を決定するに至るのです。しかし、この決定も、昭和15年以降のドイツ軍の快進撃に「バスに乗りおくれるな」ということで、方針大転換することになりました。思想薄弱というか機会主義的というか何というか・・・。