東京裁判が下した判決は日本人の昭和15年戦争の反省には役立たない

2013年6月 3日 (月)

 戦前昭和史の「歴史認識」を巡る対立を考える際、その指標となるべきものは、東京裁判における次のような日本断罪の「犯罪構造」、これを認めるか認めないか、認めないとすればどの部分を認めないか、ということになると思います。

 「日本の犯罪的軍閥が、世界支配のための侵略戦争を、共同謀議し、実行した」

 私自身の考えでは、戦前の昭和において日本軍閥が行ったことは、日本人にとっても「犯罪的」といわざるを得ない部分が多いと思います。また、世界史的には、それが東アジアにもたらした被害の大きさと、その地域の植民地解放を早めたこととが天秤にかけられるわけですが、結果から言えば、日本は、植民地解放どころか植民地侵略の汚名を着ることになったわけで、こちらも大失敗だったと思います。

 しかし、先の「犯罪構造」の後段部分、「世界支配のための侵略戦争を、共同謀議し、実行した」については、私は、これは事実に反すると思います。というのは、昭和の初めに日本が直面していた問題は、パール判事の言う通り、「増加の一途をたどる人口を賄うために、国際貿易の総取引高のより多い分け前の獲得に努力すること」、つまり、人口問題、資源問題そして貿易問題だったからです。

 こうした問題を、日本としてどう解決し、近代国家として存続・発展していくかということが、当時の日本の為政者に問われていたことであって、従って、もし、次に紹介するような「満州問題」の理解が共有され、その適正処理が行われていれば、おそらく、日本の軍閥が満州事変を引き起こすようなこともなかったのではないかと思っています。

 「満州に於ける我が権益は頗る多岐多様に亘り、直截簡明なる定義を下すことは難しいが、これら権益の大部分はすべて条約に根拠を有して居るのみならず、何れも多年の意義深き歴史の所産ならざるは無い。

 千八百九十六年、清国は露国との間に特に日本を対象とした秘密同盟条約を締結したが、同条約の有効期間は満十五個年であって、日露戦争は其の期間内に発生せるものである。しかして露国は同条約の締結せらるるや直に満州に於ける侵略政策の実行に着手したが、明治三十七八年戦役の勃発に至る迄の日露交渉の記録は、当時露国が実際上満州を以て自国領土の不可分的一部と目し居りたることを明確に立証するものである。

 かくの如き露国政府の威圧的活動に対し、清国は全く無力にして一言の抗議をも提出したことがなく、此の事態にして自然の推移に放置せられていたならば、満州は疾くに清国領土中より喪失せられたること疑いを容れない。

 清国をして此の広大なる沃地を保持せしめたる所以のものは、実に日本の武力干渉に外ならない。吾人は清国の日露戦争に対する厳正中立の宣言に信頼し、終始同国領土保全の方針に忠実であった訳だが、若し当時露清秘密同盟の条項にして暴露せられていたならは、日本は上述領土保全の方針を一変して、別個の政策を執るに十分な理由あることを認められたことであろう。
 
 日露戦争終結以来、満州は建設的事業の凡有る方面に於いて驚くべき進展を示し、支那の他地方にかって見ない程度の平和と繁栄とを獲得した。かくの如き東北諸省の発展が少なくとも一部分は日本の同地方に於ける企業及び投資の結果なることは、我が国民の確信する所である。

 しかし吾人は未だ嘗て満州に対する中国の領土権を争いたることは無い。吾人は同地方に対する中国の領土権を明白に承認し、且之を領土権たる凡有る意味に於いてこれを尊重せんとするものである。要するに吾人は同地方の領土権を要求するものではないのである。

 然し乍ら吾人は日本国民が内地人たると朝鮮人たるとを問わず、相互的親睦及び協力の基礎の上に満州に居住し商、工、農業に従事し、其の他一般に同地方の経済的開発に参加し得る如き状況を確立せられんことを期待するものであって,これを以て少なくとも道義的に吾人の有する当然の要求であると思惟する。」(『幣原喜重郎』幣原平和財団刊p460)

 これは、1915年に外務次官となって以来、五代の内閣に渡って紛糾する支那問題の解決にあたった幣原喜重郎の満州問題についての基本認識です。幣原はこうした認識を基に、次のような満州問題の解決策を実行しようとしました。

 「我が国歴代の内閣や各政党は頻りに産業立国を高調して居る。猫額大の領土と年々七八十万の人口増加に苦しんで居る我国としては、産業立国によって国民経済生活の調節をする以外に施策のありよう筈はない。然も産業立国当然の帰結として海外市場の開拓確保を必要とするは論を俟たざる所である。即ち産業立国の政策は経済外交の推進外交の経済化に依って初めて完成する。

 ところで国民生活の前途を国土の膨脹とか拡張とかと云う様な事で打開する事は国際協調を破るおそれがある。日本は専ら国内に工業を興し、外国への輪出通商の振興に依って国家的な利益を上げ、それによって将来の国民生活の安定を期する、こういう事で行くより外に方法はない。

 就中、日本に取って一番大切なのは支那である。支那には四億五千萬の民衆が居る。これは日本の工業でまかなうのに最も手頃なマーケットであり、何とかしてこの四億五千萬の消費者を日本の為に獲得しなければならぬ。日本の強敵としては英国もあれば独逸もあるが、何と云っても日本は支那に一番近く運賃の点で優位であり、労働賃金の上から云っても日本が最も競争力が強い。

 だからこの強味を利用して、支那という大マーケットを日本の為に確保する事が先決問題である。その上に日本の手近かな佛印、蘭領東印度(今のインドネシヤ)或はシャムなどの東南アジア、これも支那に次で日本の為に絶好のマーケットである。そこで先ず一番近い支那から始め段々東南アジアに及ぼし経済立国の基礎とすべきである。」(石射猪太郎日記より、上掲書p331)

 しかし、こうした幣原の「満州問題」解決策に不満を持つ人々が現れました。その最初は、昭和2年3月24日に発生した南京事件(蒋介石による第一次北伐の途上、南京において、国民党内の共産分子が、蒋介石に対する列強の攻撃を誘発するため、計画的に暴行略奪を行い各国領事館を襲撃した事件)の時でした。この時、揚子江上の英米の砲艦は、蒋軍の根拠地に砲撃を加えましたが、日本の砲艦はこれを自制しました。

 これは「尼港事件」の再現を恐れた居留民の要請によるものでしたが、これを幣原の協調外交によるものだとして、先に紹介したような氏の対支政策を「軟弱外交」「無抵抗主義」と批判する勢力が現れたのです。そして、それを指嗾しこれを倒閣に結びつけるため、マスコミを煽動し枢密院工作を行ったのが政友会で、その結果、若槻民政党内閣は退陣、代わって政友会が政権の座に就きました。

 この結果、幣原が恐れたような満州問題を「国土の膨脹とか拡張とかと云う様な事で打開」しようとする政策が採られるようになったのです。これを主導したのが政友会の森恪(外務次官)で、強硬派の軍人や外交官を抱き込み、蒋介石の北伐(中国統一に向けた軍事行動)に際しては、居留民の現地保護を理由に三度にわたる山東出兵を行いました。その間、済南事件を引き起こして中国統一妨害の疑念を招いただけでなく、首相であった田中義一の意に反して、満州に帰る途中の張作霖を列車ごと爆殺するという事件を起こしました。

 こうした日本の武力を用いた満州問題の解決策が、中国人だけでなく満州人の憤激を買ったのは当然で、また、これを共産勢力が利用したのも当然です。その後、張作霖の息子である張学良は、満州を蒋介石の国民党支配下に組み入れる「易幟」を断行しました。その後、田中内閣は、張作霖爆殺事件の処理を誤って昭和天皇の信任を失い、昭和4年7月に辞職しました。代わって民政党の浜口雄幸が組閣し、幣原が再び外務大臣に任命されました。

 幣原は、田中内閣下で壊れた中国との外交関係の立て直しに当たりましたが、政友会の森格等は、倫敦軍縮会議における政府の妥結に対して、軍部を指嗾し統帥権干犯問題を政治問題化して政府を攻撃しました。この間、張学良は、王正廷の革命外交(旅順大連の租借地返還や満州鉄道の利権の回収などを含み、これが一定期間内に片付かない場合は一方的に条約を破棄するというもの)を後ろ盾として、日本の満州における権益に妨害を加え、満州各地で排日運動を繰り広げました。

 この結果、「国際協調」「内政不干渉」を基軸とし、「貿易立国」による満州問題の解決を目指した幣原外交は完全に行き詰まりました。こうした状況は、「日清、日露の両戦以来我が国が国運を賭して血と汗で戦いとった満蒙の権益を保護する任務がある」と自認する関東軍を一層刺激しました。彼らは、日本の外交当局者を無為無策と攻撃し、満州は日本の「生命線」であり、武力に訴えても断固守るべきと世論に訴えました。

 こうして満州事変が起こり、国民は圧倒的にこれを支持することになりました。こう見てくると、満州事変は、「犯罪的軍閥が世界支配のための侵略戦争を共同謀議」した結果起こったようなものではないことが判ります。もちろん、田中内閣下で採られた居留民の「現地保護政策」や、謀略による満州問題の解決策が間違っていたことは言うまでもありません。同様に、中国が幣原外交が復活した後も、過激な「革命外交」を行ったことも間違っていました。

 というのは、こういう情況下にあって軍中央は、やむを得ず武力発動する場合でも、後一年ほどかけて国際世論の支持をとりつける必要があると考えていたからです。つまり、満州事変は、石原莞爾を中心とする数人の関東軍参謀が独断で引き起こしたものであって、それは一種の、満州を前線基地とする本国政府に対するクーデター的性格を持っていたのです。そんな途方もない事件が、結果オーライで政府に承認され、報償までされたのですから、その後の日本の政治が狂ったのも当然です。

 この事件当時、参謀本部の作戦課長として、上述したような満州問題「解決方策の大綱」を立案し、関東軍の暴走を食い止めようとした今村均は、次のように回想しています。

 「――大東亜戦争のもとは支那事変であり、支那事変のもとは満州事変だ。陸軍が何ら国民の意思と関係なしに満州で事を起こしたことが結局において国家をこのような破綻にあわせた基である――との国民の非難には、私のようにこの事変の局部的解決に成功し得なかった身にとっては、一言も弁解の辞がない。

 板垣、石原両氏の行動派、君国百年のためと信じた純真に発したものである。が、中央の統制に従わなかったことは、天下周知のことになっていた。にもかかわらず、新たに中央首脳部になった人々は、満州事変は成功裏に収め得たとし、両官(板垣と石原)を東京に招き、最大の賛辞をあびせ、殊勲の行賞のみでは不足なりとし、破格の欧米視察までさせ、しかも爾後これを中央の要職に栄転させると同時に、関東軍の中央の統制下に把握しようと努めた諸官を一人残らず中央から出してしまった。」(私記・一軍人六十年の哀歌)

 ここに、「板垣、石原両氏の行動派、君国百年のためと信じた純真に発したもの」とありますが、満州事変を主導したのは石原です。では、こうした軍の統制を無視した独断行動を石原にとらせたものは何だったかというと、それは、明治維新以来の伝統的な天皇信仰に、日蓮宗の「王仏冥合」思想を結びつけ武力による「国家諫暁」をも是とした、宗教的信念だったのです。これが勝てば官軍、結果オーライの下剋上的独断専行を軍内に蔓延させることになりました。

 つまり、こうした誤った個人的思想・行動が、満州事変以降の日本軍を迷走させたのであって、「犯罪的軍閥が世界支配のための侵略戦争を共同謀議した」とは到底言えず、むしろ、そうした一貫した思想が日本軍に欠如していたことが、昭和の悲劇の根本原因となったのです。

 それにしてもなぜ、こうした石原の行動が、軍や一般民衆に支持されることになったのでしょうか。この背景には、思想的には、大正デモクラシー下、明治を支えた儒教武士道的生活規範(「事あるときは切腹ができなければいかぬと教えられた年少の生活の仕方」や、そうした修養によって身につけられた生活の型)が失われ、それに代わって、反近代思想(共産主義や国家社会主義もその一種)が風靡する一方、エログロナンセンスと言われた退廃的かつ無責任な思想傾向が生じたことがあります。

 こうした状況の中で、一世風靡の共産主義思想に対抗し、軍の威信復活にも役立つ思想が求められたわけで、それが、伝統的な尊皇思想に日蓮宗の「王仏冥合」思想を結びつけることだったのです。この時期に日蓮宗が大きな影響力をもった背景にはこのような事情がありました。とはいえ、これは一部のイデオローグに止まり、青年将校を始め一般国民に膾炙した思想は、尊皇思想の持つ素朴な一君万民平等の家族主義的国家観でした。

 また、国際政治的には、第一次大戦後、日本が五大国の仲間入りした結果、列強の日本に対する警戒心が生まれました。それが、ワシントン会議におけるアメリカの日英同盟破棄の要求や、中国の門戸開放や領土保全を謳った九カ国条約の制定となったのです。また、アメリカ国内における排日移民法の制定もあり、これらが、ワシントン会議の軍縮に不満を持つ軍人らには、アメリカによる日本の封じ込め政策のように映ったのです。

 また、経済的には、第一次大戦後の日本産業資本主義の発展、それに伴うブルジョアジーの発生、成金の続出、物価の暴騰、貧富の差の拡大、それに伴うストライキの激発、米騒動の発生等・・・。昭和になると、国内の金融恐慌からアメリカに端を発する世界恐慌。それに有効に対処し得ないまま強行された金解禁の失敗、不況の深刻化、失業の増大、関東大震災や東北地方の冷害等の自然災害の影響、さらに英米等植民地国のブロック経済への転換など・・・。

 これらの日本を取り巻く政治的・経済的・社会的困難にどう対処するかが、当時の日本のリーダーに問われたのです。ところが、上述したように、南京事件や統帥権干犯事件における政治家の対応に見られるように、彼らは党利党略のため軍縮に不満を持つ軍人を政治的に利用しようとさえしました。そのあげく、まるで”庇を貸して母屋を取られる”ような格好で、日本外交の二重化さらには軍による政治支配を招いたのです。

 以上のような歴史から、私は次の四つ問題点を指摘したいと思います。まず第一に、南京事件で見られた、虚偽の宣伝によるナショナリズムの政治利用という問題。第二に、張作霖事件の処理に見られた、歴史的事実の隠蔽という問題。第三に、石原莞爾の思想に見られるような、宗教的信念を直接政治行動に結びつける思想上の問題、第四に、軍の統制を無視した独断専行の軍事行動でも、動機純粋主義や結果オーライで認めるという問題です。

 さて、では、これらの問題点は、戦後の日本が平和と繁栄を謳歌する中で克服されたのでしょうか。第一は、マスコミによる虚偽宣伝は相変わらず横行している。第二は、歴史的事件の処理において、事実関係を明確にするよりその時の政治的判断を優先する態度は少しも変わっていない。第三は、今なお石原莞爾の思想を理想化しようとする論説が後を絶たない。第四は、動機純粋主義に基づく空気支配は今も健在だと思います。

 こう見てくれば、東京裁判が下した日本の昭和戦争の犯罪構造「日本の犯罪的軍閥が、世界支配のための侵略戦争を、共同謀議し、実行した」という判定は、戦勝国には都合がよくても、日本人には、昭和の戦争の真因を見極める上で役立っていない。むしろ、その真因を隠蔽することになっていると思います。そうした東京裁判の判決を、戦勝国の名の下に今なお維持しようとする隣国がいることについて、慄然たる思いを持つのは私だけでしょうか。