第二回 昭和史の評価は戦後どのように変遷したか

2013年5月22日 (水)

 「昭和史を再検証し、『日本人とは何か』を考える」第二回学習会を行いましたので、その内容を紹介しておきます。

まず、東京裁判判決について、
東京裁判(東京国際軍事裁判)は、「文明の裁き」という大義名分(日本をナチスと同様に扱った)の下に、日本が「世界支配のための侵略戦争」を行ったとして、
 1、平和に対する罪
 2、通例の戦争犯罪(戦争法規違反)
 3、人道に対する罪
 の三つの罪状で日本の戦争指導者を告発した。これに対して、日本人弁護士は戦勝国が敗戦国を「侵略戦争」を行ったとして、裁くことはできないと主張した。アメリカ人弁護士もこれを支持し、次のように論じた。(ビデオ―略)

 しかし、東京裁判は、昭和の戦争(s3.1.1~s20.9.2)の「犯罪構造」を、次のように認定した。
「日本の犯罪的軍閥が、世界支配のための侵略戦争を、共同謀議し、実行した」
 その結果、
1,東京裁判では、
A級戦犯(侵略戦争計画)
28名訴追、25名有罪、内7名死刑、
2、世界49か所の
軍事法廷では、
BC級(捕虜虐待などの戦争犯罪)
約1,000名が死刑となった。

この判決を当時の日本人はどのように受け止めたか
 東京裁判で明らかにされた「事実」に衝撃を受けた
 GHQのNHKラジオ放送を使った放送番組「真相はこうだ」「真相箱」「質問箱」(と名称を変え ながら20年12月以降3年にわたって日本軍の犯罪を告発)を聞かされた。
 東京裁判におけるアメリカ人弁護士の公正な態度に感銘した。
 マッカーサーの占領統治が巧みで、マッカーサーを神格化する者も現れた。
 アメリカの豊かさや「正義」をテレビドラマなどで知った。
 サンフランシスコ平和条約で、政府は東京裁判の判決を受け入れた。

 また、国民一般には、“負けたんだから、仕方がない”というあきらめもあった。その結果、日本人は、戦前の日本の歴史をマイナスイメージで見るようになった。また、戦争の反省とは、判決に言う「犯罪的軍閥」を糾弾すること、と考えるようになった。
そして、アメリカをモデルに「新しい民主国家」を建設しようとした

 しかし、こうした考え方に異議を唱える者も現れた
その一人が司馬遼太郎。氏は、マイナスイメージで語られるようになった日本の歴史を、幕末や明治時代をたくましく生きた日本人像(『竜馬がゆく』(S37~S41)、『坂の上の雲』(S43~S4 7))を描くことで、その誇りを取り戻そうとした。

しかし、昭和については、
 日露戦争以降、日本人は“調子狂い”してしまった、と言い、 “あんな時代は日本ではない、日本史のいかなる時代とも違う。まさに“異胎の時代”灰皿を叩き付けたい気分になるとまで言った。ノモンハンを書こうとしたがついに書けなかった。精神衛生上悪いと言って・・・

また、江藤淳は、
 昭和44年から53年にかけて、文芸評論家として、雑誌に発表される文芸作品を読む中で、憲法では言論表現の自由が保障されているはずなのに、「言語空間が奇妙に閉ざされ、拘束されているというもどかしさ」を感じていた。
 そこで、その原因を調べるため、占領軍が行った検閲の実態を調べた。そこで発見したのが、その時代に「SCAP」(連合国最高司令官)が行った言論統制だった。
これによって、日本の敗戦からサンフランシスコ平和条約締結までの間、日本の言論空間がい かに「統制され歪められていたか」を知った。アメリカはこの言論統制によって、日本人に、昭和の戦争に ついての罪悪感を植え付け、原爆も日本が犯した罪の報いとすることに成功した、と言う。

 では、こうした“言論統制”による拘束を解いた時に見える、昭和史の“本当の姿”とはどうい うものか?

 実は、東京裁判のインド代表パール判事は、自由な視点から、次のように東京裁判の判決を批判していた。

戦勝国が敗戦国を「侵略戦争」をやったとして裁くことはできない。
「侵略戦争」というが、国際法では「侵略戦争」は定義されておらず、一方「自衛権」は認められている。従って、勝ったほうが負けたほうを一方的に「侵略戦争をした」と決めつけ、裁くことはできない。

また、「日本の犯罪的軍閥が、世界支配のための侵略戦争を、共同謀議し、実行した」というが、ナチスの場合にはその証拠が数多く発見されたが、日本の場合は、それを示す証拠 は絶無である。あるとすれば、アメリカの原爆投下と、日ソ中立条約を一方的に破って参戦し、 シベリア抑留をしたソ連だ。

 さらに、次のような個別の見解を示した。
日本が昭和の初めに直面していたことは、「増加の一途をたどる人口を賄うために、国際貿易 の総取引高のより多い分け前の獲得に努力することだった」(人口、資源、貿易問題)(私見1)

「満州事変は、ある興奮した一団の者を軽率な行為に追い込み、その後その行為を利用して 国際機関から救済を求めるために企てられた、という説に一致する点が多い」(国民党の革命 外交、張学良の日本排斥運動)(私見2)
それが「日中戦争」へと発展した原因は「国共合作」ではないか?(私見3)
「日本が登場した時には、すでに英米の経済的世界秩序が存在していて、彼らは生易しいことではその分譲に同意しようとしなかった」。日本の南仏進駐を契機に日米交渉が行われた。 日本が提出した最終案は「乙案」、これに対してアメリカは「ハル・ノート」で答えた。(私見4)
この「ハル・ノート」は、それまでの8か月に及ぶ日米交渉の経過を全く無視するもので、こんな 回答を突き付けられれば、「モナコ王国やルクセンブルグ大公国でも、矛をとって立ち上がった だろう」。
日露戦争、シベリア出兵、日独防共協定、張鼓峰事件、ノモンハン事件、関特演などが、日本 のソ連に対する侵略であったとは言えない。(ソ連参戦を正当化するものではないか)

 こうしたパール判事の見解については、今日では、(私見1~4)で述べたような補足あるいは修正が必要になるが、東京裁判の政治性を批判し、法曹としての自由な立場から、客観的かつ公正に事実関係の認定に努めたことは称賛に値すると思う。そこで、これらを踏まえて私たち日本人が克服すべき課題とは、

まず、福沢諭吉が指摘したような、日本人の「ものの考え方」の三つの弱点を克服すること。
次に、国際社会の厳しさを知ること。日本人は“本能的に”「人間性」を信じ、自己主張を抑えることで「和を保とう」とする。しかし、世界の現実はそうではない。自己主張の戦いである。
もちろん、事実に基づかない自己主張はダメ。今日、幾多の研究者のおかげで昭和史の事実 関係は相当に明らかになってきた。ここで、昭和史を改めて検証し、日本人自らの手で、その 失敗の原因を見極めなければならない。
「右」や「左」とレッテルを貼り、言論の自己規制をしてはならない。自由闊達に、事実に基づく 議論を積み重ねなければならない。
人間は“自分は正しい”と思うから意見を言う。だが、それが“絶対正しい”とは言えない。人間 の言論は必ず“間違い”を含む。
その“間違い”を含む言論をもって「事実」に接近する唯一の方法は、「自分が正しいと思う意 見を率直に交換し、間違いを正すこと」である。
このことの大切さを述べたものが、憲法に言う「思想信条の自由」「言論・集会・出版の自由」と いうことである。

*福沢諭吉が「丁丑公論」「痩せ我慢の説」で指摘した日本人の三つの弱点(筆者要約)
1,抵抗の精神の大切さ=時の権力者を絶対視したり、迎合したりしないこと
2,空気に支配されないこと=冷静な「事実認識力」を持つこと
3,痩せ我慢の精神の大切なこと=自分の思想・言動に責任を持つこと

*パール判事の見解について
(私見1)
 まず、東京裁判判決「日本の犯罪的軍閥が、世界支配のための侵略戦争を、共同謀議し、実行した」について。確かに、それに相当する「軍閥」が存在したとは言えるが、それが「世界支配のための侵略戦争を共同謀議した」とは到底言えない。

 「田中上奏文」が偽書であることは証明されている。もし、そうした計画があったとすれば、それに最も近いのは石原莞爾の「最終戦争論」だが、それは一種の文明論であって、直接政府の外交方針を規制したわけではないし、「最終戦争論」が「世界支配のための侵略戦争」を目指したものとも言えない。

 その思想の根幹は、アジアに広大な植民地を有する英米を中心とする西洋文明に対抗し、日本を盟主とする東洋文明(日・中を中心とする)の団結を訴えるもので、まるで根拠のない主張というわけではなかった。これを言い換えたものが、近衛文麿の「持てる国、持たざる国」論である。

 また、石原は、昭和11年頃、支那駐屯軍や関東軍の華北分離工が日中戦争を誘発する危険性があることに気付いて、それを制止しようとしたし、日中戦争勃発後はその収拾のためのトラウトマン和平工作を手掛けている。

 また、盧溝橋事件の勃発に際して、軍は一撃派と不拡大派に分かれたが、一撃破も日中戦争を欲しない点では不拡大派と同じであり、その収拾方法が違っていただけだった。この点、日中戦争を欲したのは中国側で、もちろん国民党より共産党が主導的だったが、いずれにしろ、中国側がイニシアティブを採ったものであることは間違いない。

 この間の事実関係をより正確に表現するなら、
日本の「軍閥」の抱懐した「西洋文明VS東洋文明」という対立図式がいささか単純素朴で、第一次世界大戦を経て、西洋諸国が、帝国主義→国際協調→軍縮→不戦条約の流れにあったことを疑い、それを英米の既得権の擁護と捉えたということ。

 実際、当時の世界経済が、昭和5年の恐慌を機にブロック化を進めたこともあって、日本も東亜の経済ブロック化を進めざるを得なくなり、そこで最初に採った手段が満州問題の武力解決すなわち満州占領だったということ。

 その際の問題点は、それが軍の統制を無視したものであっただけでなく天皇の裁可なしに、一部関東軍参謀の独断で行われたにもかかわらず、結果オーライで、処罰されるどころか褒章されたために、こうした軍の冒険的独断専行をよしとする空気が軍内に生まれたこと。

 とりわけ問題は、本来、経済的にも防共政策上も日中連携を目指すはずであったものが、満州事変を機に日中対立となり、さらに華北分離工作によって「国共合作」となったことは、日本側に「世界支配のための侵略戦争」計画があったというより、むしろ、なかった(いわゆる行きあたりばったりであった)ことの証明と言わざるを得ない。

 つまり、軍閥内に個々の「謀議」があったことは事実だが、そこに一貫した「世界支配のための侵略戦争」のための「共同謀議」はなかったということ。このように一貫した思想に基づく計画がなかったことがむしろ問題で、そのために英米のブロック経済に対抗する日中の経済連携もできず、逆に、世界から中国を侵略する「遅れてきた帝国主義」とのレッテルを貼られることになったのである。

 そうした状況を打開するため、日本政府は、後付のような形で、「東亜新秩序」の形成、あるいはアジアの「植民地解放」を唱えるようになったが、これは必然的に、英米蘭による東南アジア植民地支配に対する挑戦と見なされることになった。

 この「植民地解放」は、大義名分の立つ言葉ではあったが、日本軍の国際的評価は、満州事変以降日中戦争に至るまでの間に地に落ちていた。そのため、日本のやっていることは「植民地解放」ではなく、新たな東洋の植民地支配であり、それを第一次大戦後の国連の「国際協調」路線に反して帝国主義的に行っているとの烙印を捺されることになった。

 東京裁判の判決では、さらにこれが肥大化し、日本は単に東南アジアの植民地化を狙っただけでなく、ナチスと同様に、「世界支配の侵略戦争」を計画し実行した、と認定されたのだから、実に割に合わない話で、そうした判決を今日も甘受せしめられているのだから、誠に間抜けな話と言うほかはない。

 結論から言えば、国際政治における先見性のなさ、思想的一貫性のなさ、自己主張をする力の弱さが、こうした結果を招いたといえる。

(私見2)
 「満州問題」に対する当時の民政党政権の対応は、幣原喜重郎外務大臣のあくまで外交交渉による問題解決だった。しかし、満州の張学良は、張作霖爆殺事件の恨みもあって、また、国民党の外交部長汪正廷の「革命外交」(旅大回収を含む国権回復運動)もあり、満州における日本の権益排除の強硬策を採っていた。これが、「軍閥」の満州占領に口実を与える結果になったことは否めない。

 とはいえ、石原莞爾らのとった柳条湖事件を発端とする満州占領は、先に述べた通り、勅命なしに行われた外国に対する軍事侵攻であって、さらに、本国政府に対する一種のクーデター的性格を持つものであり、本来なら極刑を免れないものだった。石原らは、この事件の発端となった柳条湖事件が自らの謀略であったことをその後も隠し続け、天皇にそのことを質された時も、張学良軍の仕業であるとうそを言った(本条)。不思議なことに、東京裁判では石原莞爾は訴追されなかった。

 この事件の真相が当事者(花谷正)の証言で明らかになったのは昭和31年の事だった。ではなぜ、石原はこの事件が謀略であることを隠し続けたか。それは、彼自身、どんな言い訳もきかない、秦郁彦の言によれば「泥棒にも三分の理」どころか「一部の理」もない不正な行為であることを知っていたからである。

 従って、パール判事がここで言っていることは、当時の日本が置かれていた客観的状況であり、実際、満州における日本の権益は国際法上正当なものだったのだから、それを無視し強引に日本を満州から追い出そうとした国民党や張学良の対応が間違っていたということである。このことについては、後に蒋介石自身失敗だったと深く反省しているが・・・。

 なお、満州事変の直前、中国の広東政権の外交部長陳友仁が幣原を訪ねて来た時、満州を日本に売るという噂があることについて、幣原はお断りすると言い、もし買うなら条件がある、「満州人を全部渤海湾に投げ込む権利が欲しい」と言ったというエピソードが残っている。幣原は、民族問題の難しさがよく分かっていたのである。また、満州問題に対する軍中央の対応策も、軍事行動をとるにしてもあくまで国際社会の支持を取り付ける必要があるというものだった。

 石原らの行動は、こうした軍中央の意向をも無視するもので、まさに弁解の余地のないものだった。にもかかわらず、満州占領後満州国が建国され、それを満州人の独立運動の結果と強弁するようになると、石原らの軍の統制を無視した独断行動の違法性は問われなくなり、それどころか一大勲功として表彰されたのだから、このあたりの日本人の既成事実の積み上げ、結果オーライ主義も大いに問題としなければならない。

(私見3)
 また、満州事変がなぜ日中戦争につながったか、ということについては、実は、蒋介石は日本との戦争を望んでおらず、その第一の攻撃目標は中国国内の共産党勢力であり、この点においては、日本との「防共協定」の可能性さえあったのである。「日独防共協定」の狙いはもともとそこに置かれていた。

 それがなぜ出来なかったかというと、何といっても関東軍が推し進めた華北分離工作がその主因である。では、なぜ関東軍はこれをやったか。満州事変そのものは塘沽停戦協定で一応の収束ができていたのに・・・。それは、おそらく、石原の「最終戦争論」の影響を受け、対米戦略上華北の戦略資源を欲したためであろう。つまり、日中連携して英米の主導する西洋覇道文明に対抗しようというわけで、蒋介石はこれに同意しないので、そこでそれに代わる、日本の言うことを聞く親日政権を華北に打ち立てようとしたのである。

 こうした「軍閥」の行動は、日本国政府の外交方針を全く無視した独断的政治行動であり、ここに満州の関東軍のクーデター政権的性格が表れており、このため日本外交が二重化し、国際社会の信用を地に落とすことになった。その後、欧米マスコミや知識人はこぞって日本を非難するようになった。

 こうした関東軍の行動が、蒋介石に「華北の満州化」を恐れさせることになり、抗日戦争を決意させることになった。さらに、中国人の抗日ナショナリズムを湧き立たせることになった。もちろん、こうした状況を、蒋介石に追い詰められ崩壊寸前の中国共産党が利用しないはずがなく、これが「国共合作」を可能にした。

 この点、パール判事の言う通り、確かに「国共合作」が日中戦争を誘発したと言えるが、そうした結果をもたらしたのは関東軍の上記のような行動であり、従って、日中戦争を招いたのは、より根源的には関東軍であると言わざるを得ない。


(私見4)
 この日本側の乙案は実は、幣原喜重郎の進言によるものだと言われている。幣原喜重郎は満州事変のあと政界を追われ、それ以降、世間から全く忘れ去られたようになっていたのだが、日米交渉の行き詰まりを打開するため、外務省の担当者がひそかに氏の知恵を借り作成したものらしい。

 一方、なぜアメリカがこれに対してハル・ノートで答えたか、ということについてはWIKIでもその理由は未だ解明されていない、としている。このノートを書いたのがハリー・ホワイトで彼はコミンテルンのスパイだった、などの説があるが…。(私自身は、アメリカはすでに日本政府は日本軍閥を制御できない状態に落ち込んでいると見て、いずれ戦争になると覚悟していたと思う)

 また、日本の連合艦隊はハル・ノートが届く12月27日の前日26日、ヒトカップ湾をハワイに向けて出港している。もちろん、真珠湾攻撃までの間に外交交渉がまとまれば帰投することになっていたが、ハル・ノート以前に、日本が日米開戦を決意していたことは否めない。

 問題は、この真珠湾奇襲攻撃という手法が正しかったかどうか、ということだが、結果からみれば、これが日米戦争をデスマッチにしたといえる。もともと日本海軍の伝統的対米戦略は邀撃作戦で、アメリカ海軍をアジアに引き寄せ、艦隊決戦でその勢力を漸減させるというものだった。それを、真珠湾奇襲攻撃という奇策に転換させたのは山本五十六で、この点の山本の責任は免れない。

 また、たとえハル・ノートが届いても、それは無視すればよかった、もともとアメリカの東南アジア権益はわずかで、日本と戦争するほどのものではなかった。従って、ハル・ノートを、アメリカの横暴を宣伝する逆材料につかえばよかった、という意見が戦後出されたが、日本人の、正直すぎてすぐカッとなり、一か八かの行動に出る気質からすれば、そんな余裕は持てなかったと思う。

 とはいえ、ハル・ノートは外交交渉と言えるものではなく、これは日本の暴発を想定したものであり、というより、本当はドイツとの戦争がねらいで、日本を暴発させることで日本と同盟関係にあるドイツとの戦争を国民に納得させようとしたのではないかとの説もある。そのために日本を挑発したのだが、それが真珠湾になるとは思っていなかった。パール判事はこのことを指摘したのだと思う。