第一回 今、私たちに必要な事は、自らの視点で昭和史を検証すること

2013年5月 3日 (金)

第一回学習会報告
4月27日(土)に、「昭和史を再検証し『日本人とは何か』を考える」の第一回学習会「今、私たちに必要な事は、自らの視点で昭和史を検証すること」を実施しました。

会の趣旨  
 「戦前の昭和史は、日本史上未曾有の惨禍をもたらしました。そのため、この時代を率直に語ることは、戦後68年経った今でも決して容易ではありません。しかし、事実関係はかなり明らかになってきました。このあたりで、昭和史を私たち自身の目で再検証し、納得のいく歴史観をもつ必要があると考えました。明治を切り拓いた福沢諭吉の「独立自尊」の精神は、そうした努力なしに決して蘇ることはないと思います。」 

 ここにおけるポイントは、「昭和史を見る日本人自身の視点を確立すること」と、福沢諭吉の「独立自尊」の精神がどう関わっているのか、ということです。そこでまず、福沢の「独立自尊」の精神が、氏の江戸時代についての歴史認識とどう関わっていたのかについて見てみたいと思います。

 福沢は、徳川幕藩体制を支えた儒教に対しては、それが、実学(=実用科学)を重視する洋学に比べて道学的=「虚学的」であるとしてこれを強く批判しました。とりわけ、それが名分論的身分制度と結びついていたことに対して、”親の敵(かたき)”と言うほどの激しい敵意を燃やしていました。

 このため、福沢といえば、儒教の封建的道徳観を否定し、近代的・個人主義的人間観を打ち立てた人物ということになり、それを象徴する言葉が、『学問のすすめ』冒頭の「天は人の上に人を造らず・・・」であり、「独立自尊」の精神ということになったのです。

 ところが、そうした福沢についての理解を疑わせる二つの「事件」が起こりました。その一つが、『丁丑公論』(ていちゅうこうろん)です。ここで福沢は、西南戦争という反政府武力闘争を引き起こした西郷隆盛を弁護しました。この文章は、1877年(明治10年)の西南戦争直後に脱稿したもので、その後未発表のまま秘蔵され、福沢が亡くなる年の1901年に「時事新報」誌上に掲載されたものです。

その主張は、おおよそ次のようなものです。

「凡そ人は自分の思うところを実現したいと思う。いわゆる専制の精神である。人にして然りとすれば政府がそうなるのもやむをえない。しかし、政府の専制はこれを放置すれば際限がなく、これを防ぐ方法は唯一抵抗の精神しかない。

西郷の場合は、その抵抗を武をもってなしたることには自分は賛成できないが、今日のように時流に阿り阿諛追従する人間ばかりの時は、なお抵抗の精神が必要である。つまり、政府の専制に対するにこの抵抗の気脈を保つことこそ、一国の公平を保つ道である。

また、西南の騒動が起こり西郷が官位をはく奪されて以降、手のひらを返したようにマスコミは西郷に罵詈讒謗を加えているが、これは政府に媚を売らんとするものか。およそ具眼の士であれば、西郷が無二の尊王家であり、その一身の品行定まりたることは周知のところである。

 確かに、氏が、氏族に加担し封建世禄を守ろうとして反乱を起こしたのならそれは文明の賊と言われても仕方がない。しかし、氏が参議の時、廃藩置県という難事に力を尽くしたことは世人のあまねく知るところである。これは西郷の一諾なしには到底できないことだった

そもそも、維新後一切の権と禄を失った氏族が不平心を持つのは必然である。ましてや、かっての同志が新政府の高官となり、質朴率直の旨を忘れ、金衣玉食、奢侈を極めるものが多くなっている現状を見れば、悲憤慷慨したくなるのも当然だろう。

 (思うに)おそらく西郷は、私学校生徒らのそうした活発屈強の反発心に理解を示しつつも、彼らを諭して、新しい文明開化の時代に、彼らに真の権利のあるところを指し示し、誘導しようとしたのであろう。しかし政府は、彼らを賊扱いし、法や武をもって弾圧するだけだった

 かかる形勢に至って、彼らの暴発を制御する道は西郷が彼らとともに立つしかない。あるいは政府は、直接に氏族の暴発を防ぐ道が外にないとして、間接に西郷に暴発を促し、それを機に一挙に彼ら不平の士を葬ろうとしたのではないか。故に曰く、西郷憐れむべしと」

 ここで福沢は、西郷の政府専制に対する「抵抗の精神」の重要性を指摘しています。こうした「抵抗の精神」の気脈を保つことこそが、「一国の公平を保つ道」だと言っているのです。

 次いで、この事件当時の、マスコミの権力迎合体質を厳しく批判しています。実は、福沢は明治維新の「尊皇攘夷」運動に対しては極めて批判的で、つまり、氏の「尊皇論」は、その後の氏の著作『帝室論』に見ればわかりますが、一種の「象徴天皇制論」で、維新の志士等の夢想した「天皇親政」とは無関係でした。また、「攘夷論」に対しても、氏は1870年には咸臨丸でアメリカに4ヶ月間、1872年にはヨーロッパに1年間、1867年大政奉還の年には同じくヨーロッパに半年間、幕府の命で欧米諸国を訪問していたことからも判るように、極めて批判的でした。言い替えれば、氏は尊皇攘夷論者ではなく、「象徴天皇制・開国論者」だったのです。

 その氏が、「征韓論」が容れられないとして参議を辞し、不平氏族に担がれて西南戦争を引き起こした西郷を弁護するとは一体どういうことか。まあ、この『丁丑公論』をよく読めば、氏が、その結語において「西郷哀れむべし」といった意味も分かりますが、おそらく、そこには、島津久光という主君に仕えながらも「廃藩置県」に賛成した西郷の「先見性と勇気」と、勝海舟が「高士」と評したその孤高な人格を惜しむ気持ちがあったのでしょう。また、このような西郷に対して、西南戦争後、まるで手のひらを返したようにその人格に対する罵詈讒謗を加え始めたマスコミの、その「権力迎合体質」に対して嫌悪の情を押さえきれなかったということでしょう。

 もう一つが、いわゆる「痩せ我慢の説」で、これは、福沢が1891年に脱稿し、1901年2月に勝海舟と榎本武揚に送った書簡に現れた考え方で、いわば福沢の本音の思想というべきものです。その結論部分では次のような主張がなされています。(この書簡も、その後世間に公表されることなく福沢の手元に置かれていたが、はからずも、上述の『丁丑公論』と同時に発表され、世間に知るところとなった)

 「勝海舟氏が穏やかにかつての幕府を解散し、そのことによって人が死んだり財産が失われる災いを回避し、そのために尽力したことの功績は稀有で偉大である。

しかし、違う観点から観察するならば、敵と味方と対立しているのにかつて戦うこともせず、早い段階で勝つ見込みがないと気付いて自ら謹慎するようなことは、表面的には官軍に対しては云々という口実があったとしても、その内実は徳川幕府がその家来であった二、三の強い藩に敵対する勇気がなく、勝負を試みることもなく降参したということだ。

これは、三河武士の精神に背くだけでなく、日本の国民に本来備わっている瘠我慢の偉大な精神や気概を破壊し、そのことによって国を成り立たせる根本である気概をたるませてしまった罪は逃れることはできない。

 だから、勝海舟新のために考えるならば、たとえ今日の文明の流儀に従って明治維新の後に幸運にも無事に生きることができるようになったとしても、自分で反省して国家を成り立たせるためには、最も重要で大切な社会の指導的な人物達の精神や気風を損ねたという罪を引き受け

「明治維新の前後の自分の立ち居振る舞いは一時的な臨時措置だった。臨時措置によって講和を結び円滑に事態を収拾したことは、ただその時点での戦乱を恐れて人々を塗炭の苦しみから救いたかっただけだ。
しかし、本来は国家を成り立たせる重要なものとして瘠我慢の精神ということがある。ましてや、これからは外国からの脅威による思ってもいない事態がありうるので、瘠我慢の精神が大切なことは言うまでもない。

(この観点からすれば)世の中で言う「武士の風上にもおけない」というのは私のことである。」(誠に申し訳なかった)

という心を示して、断固として政府の厚遇を辞退し、官職や爵位を捨てて給与を捨て、単身世の中を去って身を隠すようであったならば、世の中の人もはじめて誠心があったことを知ってその清らかな節操に心服し、かつての幕府の解散の処置も、本当に勝海舟氏の功績とするだろう。と同時に、別の観点から言っても、その振る舞いは、世の中の道徳や気風を万分の一でも維持していくことになるだろう。

これが、私が勝海舟氏に希望することです。」

 近代社会における個人主義的思想に立脚し「独立自尊」の精神の重要性を説いた福沢が、徳川家康を想起させる「三河武士の痩せ我慢」を、勝海舟の去就について説くということは、一体どういうことか、こうした疑問を当代の識者の多くが持ったのも、けだし当然でしょう。

 私は、この間の事情を次のように理解しています。実は、福沢は江戸時代の儒教を厳しく批判したけれども、それは、家族倫理・個人倫理としての儒教の教えを否定したのではない。その批判の主眼は、先に指摘した通り、その学問が道学中心で実学(=実用科学)を欠いていたということ。とりわけ、それが家族倫理を社会関係にまで拡大し、政治組織を家族主義的な「忠孝一致」論で統合しようとすること対して向けられていたのではないか、ということです。

 ところで、福沢が、その両親から受けた道徳教育はどういうものであったかということは、氏の『福翁自伝』を見れば判ります。

 幼少の頃「誠心誠意屋漏に恥じず」(=人が見ていないところでも恥ずかしいことをするな)といった儒教精神をたたき込まれたこと。母子むつまじく兄弟喧嘩などただの一度もしなかったこと。俗な芝居など見に行かなかったこと。父が封建的身分制度に対して批判的で、なんとかして出世させようとして諭吉を坊主にしようとしたこと。門閥制は親の敵(かたき)としたこと。十四、五から漢書を読み、学者の前座を勤めるほどになったこと。衣服住居に頓着せず、母は乞食などにも親切で、諭吉は”シラミ狩り”の手伝いをさせられたこと。占い、まじないは信じない、お稲荷さんの神体を暴いて中に石を入れたこと。「喜怒色に顕さず」を金言としたこと。朋輩同士で決して喧嘩をしなかったこと。大阪遊学を母が「ウムよろしい」と認めたこと。人間の空威張りほど見苦しいものはないと思っていたこと。功名心もなく、拝領の紋服をその日に売って辞書を買ったこと等々・・・。

 どうも、こうした福沢の生き方の背後には、「君子」たることを目標とする儒教の個人修養の教えがあっただけでなく、母親の持っていた仏教的慈悲の精神や、おそらく日本の武家社会が育てた「器量絶対」の実力主義の精神があったように思われます。福沢は、それを「三河武士の痩せ我慢の精神」と言ったわけですが、これが、福沢の「独立自尊」の精神を支えていたわけで、こうした氏の精神が、日本の歴史的文化的伝統の延長上に育まれたものであることを、私たちはここでしっかり認識する必要があると思います。

 さて、こうした倫理観(=痩せ我慢)に立って福沢は、徳川幕藩体制の欠陥を鋭く突きました。それが先述した「家族倫理を社会関係にまで拡大し、政治組織を家族主義的な「忠孝一致」で統合しようとする考え方に対する批判でした。つまり、福沢は、個人倫理としての儒教の教えを否定したわけではなく、あくまで、儒教の「治教一致」――政治倫理と道徳教育を連続したものとして捉える考え方――を否定し、それを、社会契約論的な考え方に転換しようとしたのです。

 その上で、福沢は、立憲主義的政体の下における「批判精神」の大切なこと、マスコミが権力迎合にも、空気支配にも陥らず、冷静かつ客観的な報道をすべきことを、『丁丑公論』で説いたのです。さらに、「痩せ我慢の説」では、『丁丑公論』で指摘したような権力迎合に陥らないためには、個人倫理(=痩せ我慢の精神)の確立が必須であること。それなしに、一国の独立は得られない、ということを説いたのです。

 こうした福沢の批判に対する勝の返信が、また、絶妙ですね。

「從古當路者、古今一世之人物にあらざれば、衆賢之批評に當る者あらず。不計も拙老先年之行爲に於て、御議論數百言御指摘、實に慙愧に不堪ず、御深志忝存候。行藏は我に存す、毀譽は他人の主張、我に與からず我に關せずと存候」

 砕いて言えば、「社会的に重要な仕事をして、それが世間の批評にさらされるということは、それはその人物が一流であるということで、大変名誉なことで有り難い。ただし、自分の生き方は自分が決める。世間のそれに対する毀誉褒貶はあくまでも他人の主張であって自分とは関係がない、どうぞご自由に」ということです。

 福沢が、この手紙を死ぬ直前まで公表しなかったのは、おそらく、この返事の意味するところを了解したからではないでしょうか。そこには、決して空気に支配されない「独立自尊」の精神が見事に表白されていましたから。

 勝は、福沢のこうした批判を学者流のものとし、自分の生き方を政治家流としました。ここに、日本人のものの「考え方」の長所と短所が現れていて、勝の場合は、日本人のものの考え方の長所、すなわちベンダサンの言う「てんびんの論理」の「政治天才」的部分。福沢の指摘した部分は、その短所、すなわち「てんびんの論理」の「思想的一貫性の欠如」の部分、と見る事ができます。

 この二つの事例を踏まえて、日本人がその長所を生かし短所を克服するためには、第一に、その短所である「事実認識力(=言葉)」を高めること。第二に、将来についての「構想力(言葉)」を高めること。そしてこの両者を、実現可能な方法論(=言葉)で繋ぐという、論理的な「言語操作能力」を身につける必要があることを図式を用いて説明しました。さらに、「事実認識力」を高めるための要点は、「事実論」と「価値論」を区別すること。「事実論」から「価値論」へと向かう政策論を論じる際には、その「是非論」と「可能・不可能論」を区別する必要があることを説明しました。といってもこれらは簡単に判ることではありませんから、今後、折にふれて説明を加えていきたいと思っています。