日本はなぜ大国アメリカと戦争をしたか2

2009年1月11日 (日)

 前回私は、日本が無謀な対米英戦争に突入することになった根本的な原因は、満州事変以降の日本の大陸政策の誤りにあったのではないかと申しました。結局、それが「日満だけでなく日満支ブロックさらには東南アジアの資源地帯を含めた大東亜ブロック(政治)経済圏を日本の武力を背景に作り上げ、それをもってアメリカやイギリスの大陸進出に対抗しよう」ということになり、もし、それが彼らによって妨害されるなら戦争も辞さない」ということになったのです。

 問題は、こうした流れの端緒となった満州事変及びそれに続く満州国の建国です。国際連盟のリットン報告書は、この事件の発端について次のような認識を示しました。

  「まず満州事変の発端となった柳条湖事件について,日本軍の軍事行動を〈合法なる自衛の措置と認むることを得ず〉と認定し,満州国についても,〈現在の政権は純真且自発的なる独立運動に依り出現したるものと思考することを得ず〉と断定して,柳条湖事件以来の日本の主張を否定」しました。

 しかし、その一方で、「〈毒悪なる排外宣伝〉が中国の〈社会生活の有らゆる方面を通じて実行せられた〉こと,日本が中国の〈無法律状態に依り他の何れの国よりも一層多く苦しみた〉ることなどが紛争を誘発したとして中国の側にも一半の責任があると認定」しました。

 その上で、報告書は「〈単なる原状回復が何等解決たり得ざること〉は明らかであるとし,東三省(吉林,黒竜江,奉天の3省)に広範な自治をあたえ,自治政府を設けること,特別憲兵隊が治安維持にあたり,それ以外の日本,中国のすべての武装隊は撤退すること,自治政府に外国人顧問を任命し,〈其の内日本人は充分なる割合を占めること〉」などを提議しました。

 「結局,報告書の構想は東三省を日本を中心とする列強の共同管理下におくことにあり,日本の排他的な覇権を否定する一方,日本の優先的地位を認め,日本が国際連盟と妥協することを期待するもの」でした。

 しかし、すでに満州国を承認していた日本政府は、この報告書が満州事変に伴う日本の武力行使を自衛権の発動と認めず、また満州国の成立を独立運動の結果と認めていないことを理由に、この提案をまったく受けつけませんでした。

 そして、11月21日開会の国際連盟理事会に報告書が付議されると,日本代表松岡洋右はこれを激しく非難し,報告書の提案を問題解決の基礎として受け入れるという中国代表と激論を重ねましたが、1933年2月24日の総会がこの報告案を42対1の票決により採択すると,日本代表は退場,3月27日,日本は国際連盟に脱退を通告したのです。(以上『平凡社世界大百科事典』「リットン報告書」の項参照)

 このリットン報告書に対して「我が朝野の態度は、反駁、非難、罵倒、冷罵など、さまざまの批判」がなされました。当時の雰囲気については、昭和6年12月第二次若槻礼次郎内閣総辞職とともに外務大臣を辞して野にあった幣原喜重郎――彼は当時世間から軟弱外交の代名詞のように蔑視され完全に「忘れ去られた人」となっていた――は彼の友人大平駒槌宛書簡で次のようにいっています。

 「近頃時局の変態に営り、國際開係は理解なき民心に媚びむが為め、新聞に、演説に”ポスター”に偏狭なる排外思想を鼓吹せむとするもの多く、我國も宛然支那と同一の水平線に落ちたるの観あり。聯盟調査委員の報告書所載の事實叉は意見にして現實の認識不充分なるものあらは、我当局の努力足らざりしことを證するに拘はらず、自己の責任を省慮せずして調査委員を悪罵する現状、寔(まこと)に苦々しきことと存候(昭和七年十月十五日附)」

 では、満州問題解決のために幣原がとるべきと考えていた具体的方策とはどのようなものだったのでしょうか。私は、それは、満州事変が起こる一ヶ月くらい前に、当時広東にあった汪兆銘政権の外交部長陳友仁との間にかわされた、日中政府間の満州問題解決のための確認書に明瞭に示されていると思います。

 陳友仁は、幣原に、まず満州の総督制度をやめてノミナルな支那の承認の下に日本が任命するハイコミッショナー組織とすることを提案します。それに対して幣原は次のようにいいます。「支那人は満洲を支那のものと考へているやうだが、私共から観れば、それはロシアのものだった。團匪事件の後に、牛荘の領事を任命するのにロシアの許諾を求めたといふやうな事情であった。支那の學生などは、さうした歴史を知らないから自分の力で満洲を取り返したやうに考へているが、露國を追ひ出したのは日本である。」

 「日露戦争の終結以来、満洲は建設的事業の凡有る方面に於いて驚くべて進展を示し、支那の他地方にかって見ない程度の平和と繁栄とを獲得した。斯くの如き東北諸省の発展が少くとも一部分は日本の同地方に於ける企業及び役員の結果なることは、我が國民の確信する所である。

 しかし吾人は未だかって満洲に對する中國の領土権を争いたることは無い。吾人は同地方に對する中國の領土権を明白に承認し、且之を領土権たる凡有る意味に於いてこれを尊重せんとするものである。要するに吾人は同地方の領土権を要求するものではないのである。

 然し乍ら吾人は日本國民が内地人たると朝鮮人たるとを問はず、相互的親睦及び協力の基礎の上に満洲に居住し商、工、農業に従事し、其の他一般に同地方の経済的開発に參加し得る如き状況の確立せられんことを期待するものであって、これを以て少くとも道義的に吾人の有する当然の要求であると思惟する。

 次に満洲の鉄道問題につき吾人は中國側の如何なる鉄道計書も、南満洲鉄道の存立及び運行に對する脅威を企図するものでない限り、これに干渉せんとするが如き意図を持たないし、叉千九百五年に日清両國代表者が調印した北京會議議定書には南満鉄道と並行し、叉は同鉄道に有害なる鉄道を敷設しない旨、中國政府は保障してゐるのである。何れにするも中國が日本の南満鉄道所有及び経管に同意せる以上、苟も該鉄道を無價値ならしめんとするが如き線路の建設を計書することが出来得ないことは、信義の観念上からいっても自明の理と謂ふべきものである。

 吾人は本問題に就いても「共存共栄」の主義に據らんとするもので、我方としては中國が我方累次の抗議を無視し、建設したる既成競争線の撤去を要求せんとするものではないが、しかし日華鉄道系統間に無盆なる競争を予防するに足るべき運賃率及び運輸連絡を取極めるの要あることを主張するものである。吾人は両國鉄道当局が友好的協力の共通の基礎を発見し、以て双方の永続的利盆に資するの可能なるべきを信ずるものである。」

 こうして両者の間に非公式ながら次のような確認書が交わされました。

一、過去四半世紀聞を通じ日華両國間に存在せる不満足なる開係を終了せしむること両國のため利益なり。

二、両國関係は之を眞の親善の基礎の上に置かざるべからず。右は廣東政府が支那の承認せられたる政府となりたる暁、同政府と日本政府との間に締結せらるべき協約又は條約に依り形成せらるる同盟叉は協商の形式を取り得べし。

三、該締約には極東に於ける平和の必要及び其の維持保全を明定すべく、而して一般に挿入せらるる形式的の普通の條款の外不侵略條款及び日支両國間に係争中又は未解決なる総ての問題及び事項、殊に満洲に関するものの解決に関する規定を設くべきものとす。

四、満洲に関し日本は支那の主権を明白に承認し、同地方に對し、全然領土的に侵略の意圖なきことを宣明す。然れども日本は満洲に於いて幾多の権益を有し居り、右権益は大部分條約により賦与せられたるものにして、且何れも多年に亘る歴史の成果なり。南満洲鉄道は其の一例にして、同鉄道の経管及び運行は同鉄道の破滅を企画する如き支那側鉄道の敷設に依り阻害せらるべきものに非ず。

 一方日本は従来其の敷設に對し抗議し来たれる支那側鉄道と雖、若し無益なる破滅的競争を防止すべき運賃及び連絡に開する取極にして成立するに於いては、之を既成事實として容認すべし。更に日本は満洲に於いて自國民が内地人たると朝鮮人たるとを問はず、安穏に居住して商、工、農の平和的職業に従事し得る如き状態の確立せんことを少く共道徳的に要求し得べきものとす。而してこの道徳的要求権は三個の考慮による。

 即ち第一に、満洲は日本國民の血と財との犠牲なかりせば今日露國の領土たるべかりしこと之にして、右は明治三十七八年の日露戦争に至る交渉の経緯に照せば明かなり。当時露國は満洲を露西亜帝國の一部として取扱ひ、日本が満洲に對し、何等の利害関係なきことを宣言すべきことを提議したる場合に於いてすら、在満日本領事に於いて露國の認可状を受くべきものなることを主張せる程なりき。

 第二に、日露戦争中、日本は支那を中立國とし叉満洲を概して中立地帯として認め、且其の取扱を為したる次第にして、戦争終結に当り満洲は依然支那領土たるを喪はざりき。然れども若し常時、日本にして支那が露國の秘密同盟國たりし事實を知悉し居りたらんには、恐らくは満洲に對し別意の解決方法を講ぜられ居りしなるべく、右事情は日露開戦の場合支那は露國の同盟國たるべしとの秘密同盟條約の要領を暴露せる華府會議に於ける顧維鈞氏の陳述に依り明にせられたる次第なり。

 第三に、満洲は支那に於いて恐らく最も繁栄せる土地と認めらるる處、日本としては右は同地に於ける日本の企業及び投資に因るの大なることを主張し得るものなり。

五、日支雨國間の締約が有効なる為には支那側に於ける一種の國民的承認を経ざるべからず。此の点に関し、陳友仁氏は右は國民党なる機関を通じ實現し得べき旨を述べたり。叉同氏は支那側に於いては斯る締約は全國大會に於いて國民党に附議し、其の承認を得たる後に於いてのみ批准せらるべきものなることを表明せり。(『幣原喜重郎』幣原平和財団)

 満洲事変が起ったのは、この会談が行はれて後、約五十日ほど後のことでした。その後十月には、上海で南京、広東の平和統一会議があり、十二月には国民党四全大会があって、南京と広東に分地開会し、予ての諒解により蒋介石の下野宣言、広東南京蒋汪合作政府成るといった筋書きが績きました。汪精衛氏としては、恐らくは南京に乗り込み、国務を分担するについては対日政策を決定し、日本との諒解を遂げておいて、政策具現の資に供しようとしたのではないか、と幣原は推測しています。

 その後、陳友仁は須磨總領事を通じて幣原に書簡を送って来て、「満洲事態は實に残念だが、ただ一ついいことがある。いつかお話ししたハイ・コミッショナー制度が現実出来ることだ。張學良を追ひ出せば満洲は奇麗になるから、これを實現するにいい機会ではないか。日本はどうするつもりかお伺いしたい」と書いてあったといいます。(昭和18年10月幣原稿)

 ここにおけるポイントは、まず、日本は満州に対する支那の主権を明白に承認し、同地方について領土的侵略の意図がないことを明らかにする、ということです。その上で

一、日中親善の基礎の上に両国間に同盟または協商条約を結ぶこと。
二、極東における平和の維持のため両国間に不可侵条約を結ぶこと。
三、両国間の係争中又は未解決の解決のための条約を結ぶこと。
などが提言されました。

 また、幣原はこの確認書の中で、重ねて次のような点を指摘しています。
歴史的にいえば、満州は日本が日露戦争の犠牲を払って取り戻し支那に返還しないかぎり、ロシアの領土となっていたこと。また、日本が満州を中国に返還したのは中国が中立の立場にあったからであって、もし、日露戦争の当時、中国がロシアと秘密同盟を結んでいたことを日本に知ることができていたならば、自ずと別の解決方法をとっていたかもしれないこと。また、今日の満州の繁栄は相当に日本の企業努力や投資に負っていること。

 こうした幣原の考え方は、満州事変勃発後、日本政府が10月26日に発表した満州事変に関する声明書にも次のように明示されています。
一、相互的侵略政策及び行動の否認
二、中国領土保全の尊重
三、相互に通商の自由を妨害し、国際的憎悪の念を煽動する組織的運動の徹底的取締
四、満州の各地に於ける帝国臣民の一切の平和的義務に対する有効な保護
五、満州に於ける帝国の条約上の権益尊重

 ところが、こうした幣原の将来の日中関係及び国際関係を考慮した問題解決努力にもかかわらず、関東軍は全く中央の命令に服さず、事変を全満州に拡大し、しかも内閣にも陸相もこれを抑えることができない。そのため、どれだけ立派な国策が立案されても、その施策や所信は全く行われない。こうして日本外交の国際的信用は地に墜ちてしまいました。幣原は、何とかして時局を平和裏に切り抜けたいと念願し、「実に気の毒なほど苦慮し暗躍しましたが、殆ど手のつけようがない」状態に追い込まれ、ついに第二次若槻内閣の瓦解と共に辞任のやむなきに至りました。(上掲書)

 ところで、このような幣原の満州問題の平和的解決策は、その後の国際連盟のリットン報告書の提言ともかなり共通する部分を持っています。リットン報告書の概要は先に紹介しましたが、次にその具体的提言を紹介します。

一、東三省に特別行政組織を構成する。
シナ中央政府(国民政府)は一般的な条約や外交関係の管理、税関、郵便局、塩税等の事務管理(これらの純収入は両政府間で公平に配分する)、東三省自治政府の執政の第一次任命権(ノミナルな)等を持つ。この執政は適当数の外国人顧問を任命するが、そのうち日本人が十分な割合を占める。その他の権力はすべて東三省自治政府が有する。東三省の武装隊として特別憲兵隊を置く。

二、日本の利益に関する日支条約を結ぶ。
東三省における日本人の特定の経済的利益と鉄道問題を取り扱う。その目的は、「満州国」の経済的開発に対する日本の自由な参加、熱河省において日本が享受しつつある権利の存続、居住権及び商租権を全満州地域に拡大する。また、これにともなって治外法権の原則を多少修正する。鉄道運行に関する協定を結ぶ。

三、調停、仲裁裁判、不侵略及び相互援助に関する日支条約を結ぶ。
これらによって日支両国政府間における紛争の調停を行う。また、不侵略相互援助に関する規定にもとづいて、当事国は満州が次第に非武装地帯となることに同意する。

四、日支通商条約を結ぶ。
通商条約は当然、他国の現存条約上の権利を保障しつつ、できるかぎり日支両国間における公益を増進すべき条件の設定を目的とする。(『リットン報告書』渡部昇一)

 つまり、満州国をシナの統一国家の枠組みに置きつつも東三省を自治政府として認める。その自治政府と日本の特定の経済関係や鉄道問題を処理については日支条約により、できるかぎり日支両国間の公益を増進するような条件を設定する。満州を非武装地帯とする。これらによって、この新体制を、連盟規約や不戦条約、九カ国条約の精神に合致するものにすると同時にシナの主権とも両立する、としたのです。

 だが、先に述べたように、この時すでに満州国を承認していた日本政府(斉藤実内閣)は、この報告書が満州事変に伴う日本の武力行使を自衛権の発動と認めず、また満州国の成立を独立運動の結果と認めていないことを理由に、この報告書の受け入れを拒否し、さらに、この報告書に基づく勧告が国際連盟総会で四十二対一で可決されたことから、国際連盟からの脱退を宣言しました。

 問題の焦点は、満州国の成立をもって中国の主権からの分離独立とすることを認めるか否かということにありました。そして中国は、日中戦争期さらに大東亜戦争期を通じて、こうした「満州国の独立」を公式に承認することを拒否しつづけました。本当は日本が満州の独立の承認を中国に求めるというのは、満州国を独立国と宣明する以上おかしなことであり、それをあえてするということは、満州は日本の傀儡国家だといっているに等しいのですが、いずれにしても、この問題が最後まで日中戦争を和平に導く最大の障碍となったのです。

 実は、満州国を正式承認した斉藤実首相の前の犬養毅首相も、満州国の承認を迫る軍部の要求を拒否し、中国国民党との間の独自のパイプを使って外交交渉で解決しようとしていました。犬養の解決案は、満州国の形式的領有権は中国にあることを認めつつ、実質的には満州国を日本の経済的支配下に置くというものでした。しかし、対中国強硬派の森恪が内閣書記官長の職に居たためにじゃまされ、成功の可能性のあった交渉は挫折してしまいました。(『犬養毅』時任英人」)

 犬養はまた、軍の青年将校の振舞いに深い憂慮を抱き、陸軍の長老・上原勇作元帥に手紙を書き、この風潮を改められないか訴えました。また天皇に上奏して、問題の青年将校ら30人程度を免官させようとしました。当時、前蔵相井上準之介の暗殺(2.9)や財界の大立者團琢磨の暗殺(3.5)などに対するテロが相次ぎ(血盟団事件)、軍閥や右翼の勢力が伸張しつつありました。こうした中で5月15日に、犬養首相は、現役の海軍将校によって永田町首相官邸で射殺されてしまいました。

 幣原は、この五.一五事件の公判についても次のような感想を漏らしています。

 「昨今五・一五事件の公判過程を見るに、軍法會議に於ては荐(しき)りに各被告をして其犯罪の動機に付大言壮語せしむるの機會を輿ふるに努むるものの如く、被告の誤解または軽挙を指摘せむとするの意向毫も見受けられざるは甚だ面白からず。斯かる公判の経過発表は、今後も無思慮の青年を駆って同一歩行を再演せしむるに至らざるか私かに憂慮に堪へず候。」(八月三日附)

(以下の文章のうち推敲が不十分な部分を修正しました。1/16)

 日本はこうして破滅の道を歩むことになりました。よく対米英戦争に至ったポイント・オブ・ノーリターンはどこか、ということが議論されます。それは日独伊三国同盟であったり、南部仏印進駐であったり、あるいはハルノートであったりするわけです。しかし私はそれは、以上述べたような満州事変以降の日本の大陸政策――満州を中国の主権から切り離して日本の傀儡国家とし、そこを前線基地として日満支ブロック(政治)経済体制を確立し、もって米英に対抗しようとした――が、満州事変を経て国民的合意を形成した時点に置くべきではないかと思います。

 つまり、この満州事変の奇跡的成功が、満州独立を前提とする日本の大陸政策の国民的合意を形成し、それが、その後幾度となく繰り返された日中和平工作を失敗に終わらせ、さらには日米交渉をも破綻させることになったのです。昭和16年8月、「日米巨頭会談の実現に焦慮する近衛首相が、グルー大使に対し、「ハル四原則」につき「主義上異存なし」としたことが後日問題化し、また東条内閣の対米交渉甲案において、「ハル四原則」を日米間の正式妥協事項に含ましめることを極力回避することとしたのも、それが大陸政策の否定に連なる」(『大東亜戦争の実相』瀬島龍三p278)と判断されたためでした。

 また、五.一五事件を経て日本政府がこの満州国を承認したによって、それまでの関東軍の行動――政府や軍中央の命令どころか天皇の奉勅命令さえも無視した独断専行の侵略行為――が是認されることになりました。そのため、結果さえよければそうした行為も報償の対象となり栄達が約束されるという、まさに恐るべき下剋上的風潮を軍内に蔓延させることになりました。それどころじゃありません。時の首相や政府高官を白昼堂々、軍服を着たまま首相官邸等に乗り込んで射殺するという卑劣極まる行為さえ、動機が純粋であれば許されるというモラルハザードを招来するに至りました。

 こうした下剋上的風潮の中で、当時の世界恐慌に端を発する経済不安があおられ、一方ロシア革命に端を発する共産主義思想が流行し、それに対する反動として国家社会主義が唱えられ、それが、日本の伝統的な尊皇思想における天皇親政という、伝統的なるが故に強力な政治イメージと結びつくことになったのです。こうして、明治憲法下の統帥権や「軍部大臣現役武官制」(首相の閣僚任免権の不在という明治憲法の制度的欠陥をついたもの)をテコとして、軍部による政治支配が貫徹されることになりました。

 また、軍部内においても、政党政治や議会政治のくびきを脱することによって一切のチェック機能が働かなくなり、派閥抗争の巷と化し、はてに2.26事件を生むに至りました。さらに、こうした政治テロへの恐怖が、政党政治や議会政治を窒息させ、政党を解体し大政翼賛会という軍部の大陸政策を追認するだけの御用組織を誕生させることになりました。こうして軍部の専横は殆どコントロール不能となり、ヒトラーとの同盟さらには南部仏印進駐となって米英との対立を決定的にし、ついには対米英戦争へと突入することになったのです。

 つまり、こうした流れを必然ならしめたその発端となった事件こそ満州事変というべきであって、これが、その後の日本の大陸政策を決定し、冒頭紹介したような、リットン報告書を一顧だにせずにはねつけるという、かたくなな国民世論を形成したのです。この満州事変さえなければ、幣原喜重郎と陳友仁の確認書に見られるような張学良を排除した上での満州自治も可能でした。また、当時の軍中央でさえもそうした満州における実力行使を含む新政策の展開について、国際社会の理解と支持を得るべくなお1年間の宣伝工作の必要を認めていたのです。

 それが、政府及び軍中央の命令を無視して満州の武力占領をめざした関東軍の独断的軍事行動によって、中国主権の否認を前提とした満州国独立が既成事実となり、それを日本政府が追認したことによって後戻りができなくなったのです。そして、このような軍部の行動を支えた(正当化を訂正1/19)たものが、尊皇思想にいう天皇親政という政治イメージだったのです。そしてそれが、明治憲法に規定された立憲君主制と衝突し、天皇機関説排撃事件となり、立憲君主制を機能不全に陥れてしまったのです。

 そうした日本の尊皇思想という日本の伝統思想の思想的系譜及びそのメカニズムを、江戸時代草創期における日本への朱子学の導入に遡って解明し、その思想的克服を提言したのが山本七平でした。(松岡正剛『千夜千冊』「山本七平」参照)