なぜ日本は超大国アメリカと戦争をしたか

2009年1月 5日 (月)

  昨年の暮れに、「山本七平学のすすめ」の談話室で今回のエントリーにあるような質問を受けました。簡単に答えられることではないのですが、これを機に自分が現在理解している範囲で考えをまとめてみました。談話室のコラムには少し長すぎるので、ここに転載しておきます。参考までに!

Q なぜ日本は超大国アメリカと無謀な戦争をしたか

 おそらく一か八かの賭ではあるけれども勝てるチャンスがあると思ったのでしょうね。もちろんそう考えたのは対米戦の主役となった海軍でなければなりません。戦後、「なぜ、多年にわたって米国を研究し、最も米国を知っていたはずの日本海軍が、米国に対して戦争を開始することになったか」と問われたそうです。

 また阿川弘之氏の「米内光政論」以降、海軍善玉、陸軍悪玉論が唱えられるようになりました。しかし、実際はその海軍でも、昭和10年頃までには、米英との協調を重視するいわゆる条約派は大半が予備役編入され、一方、反英米感情を持った親独派であるいわゆる艦隊派が海軍中堅を占めるようになっていました。

 なぜ、「つねに科学的、合理的であることを組織の本質」とした海軍に、こうした合理性から逸脱し、いたずらに危機感にあおられ反米感情を持った政治的軍人が増えたのか。実は、ここにも、陸軍の場合と同じく、海軍兵学校や海軍大学校を卒業したエリート青年将校の被害者意識という問題があったのです。

 それは1922年のワシントン軍縮会議における主力艦対米英7割(6割で妥結)、1930年のロンドン軍縮会議における補助艦の対米比率7割(重巡洋艦6割等で妥結)という要求がが達成できなかったことで爆発し、いわゆる統帥権干犯問題を引き起こします。これは表向きは兵力量の問題とされましたが、後者の場合、全体的にはほぼ7割が達成されていたことから見て、その不満の根底には、陸軍の青年将校の場合と同じく、軍縮に伴うエリート青年将校の軍の社会的威信の低下に対する不満があったのではないかと思われます。

 この時、彼らをとらえた政治思想も陸軍の場合と同じで、昭和維新により軍縮を推進した政党政治の撲滅を図るとともに、英米等アングロサクソンに対する一種の攘夷論を根拠に日米戦争を宿命と見てこれに備えようとしていました。このことは5.15事件の首謀者が海軍の青年将校であったことでもわかります。こうして海軍の中枢を占めるようになった彼らは艦隊派と呼ばれ、ワシントン、ロンドン軍縮条約を破棄し(1936)、米英との無制限建艦競争に突入していきます。(下線部修文)

 昭和11年には日独防共協定が締結され、この年の第三次改定帝国国防方針において初めて米国が主たる仮想敵国とされるに至りました。そして昭和12年7月に日中戦争が始まると、米ルーズベルト大統領が「『国際的無政府状態』を引き起こしている国(日独伊)に対する隔離演説」(12.10.5)を行い日米対立が先鋭化します。そして昭和14年2月、援蒋ルート遮断のために海軍が海南島を占領すると、アメリカはその報復として日米通商航海条約を破棄、その結果、日本は石油の確保を蘭領印度に求めざるを得なくなりました。

 また、彼らは、昭和13年夏ドイツが提案した日独伊防共協定を軍事同盟に格上げする案を陸軍とともに後押しし、昭和14年には、このために200日、70回に及ぶ五省会議が開かれました。しかし、海軍省中枢の米内光政海相、山本五十六次官、井上成美軍務局長が反対しこれを抑えました。しかし、14年夏には米内は海相を辞任、山本はテロを避けるため連合艦隊に、井上も支那方面艦隊に出されます。この間しびれを切らしたドイツは、14年8月日本を裏切ってソ連と不可侵条約を結びます。平沼内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」と辞任、続いてドイツは9月にポーランドに侵入、これに対して英仏両国がドイツに対して宣戦布告し第二次大戦が始まりました。

 翌、昭和15年5月ヒトラーはオランダ、ベルギーに侵入してこれを降伏させ、英仏連合軍をドーバー海峡に追い落とし、6月にはフランスを降伏させます。このようなドイツの快進撃に、日本では”バスに乗り遅れるな”、この機に乗じて東南アジアの仏・蘭・英の植民地資源地帯に進出すべし、とする主張が、軍部、議会、マスコミに風靡し、こうして再び日独伊三国同盟の締結が主張されるようになりました。また、これと独ソ不可侵条約とを結びつけることによって、日独伊ソ協商が結ばれれば、中国を支援している米英に対する日本の立場を強めることになるとの判断も生まれました(近衛首相はこうした考え方を支持しました)。

 こうした中で9月に日本が北部仏印に進駐、その直後に日独伊三国同盟が締結されました。これに対してアメリカはすかさず屑鉄・鉄鋼の対日輸出を全面禁止。これに対して日本は、翌16年4月に日ソ中立条約を結んで北方の安全を確保して南進を進めようとしました。

 一方、これと平行して、日本とアメリカの間で日米衝突を避けるための交渉が「日米諒解案」をもとに始まりました。アメリカは「ハル四原則」(すべての国の領土主権の尊重、内政不干渉、すべての国の平等の原則の尊重、太平洋の現状維持)を示します。日本は、①日独伊三国同盟は防衛的なもの②日中間協定によって日本軍が中国から撤兵する③中国に賠償を求めない④蒋介石、王兆名両政権の合流を助ける⑤中国は満州国を認める、アメリカが中国国民政府との平和を斡旋する、日米間の友好通商条約を正常に戻す、という案でアメリカと妥協を図ろうとしますが、松岡洋右がこれに反対し交渉は頓挫します。

 こうするうち、6月にはまたまたドイツが日本を裏切りソ連に対して宣戦布告。日本は度重なるドイツの不信行為を理由に日独伊三国同盟を破棄することもできたのに、南部仏印、蘭印に対するドイツの影響力を慮ったのか、7月に関特演を実施し70万の兵力を満州に集めてソ連を牽制する一方南部仏印に進駐。これに対してアメリカは日本の在米資産を凍結するとともに石油輸出を全面禁止する措置に出ました。(下線部挿入1/6)

 こうして日本は9月6日の御前会議で「自存自衛を全うし」「大東亜の新秩序を建設する」ことを名目として米英との開戦を決断するに至ります。この後も、近衛首相とルーズベルトの直接会談が検討されますが、陸軍との調整がうまくいかず近衛は辞任、代わって10月東条英機が首相となります。

 この時も、天皇の希望によって外交交渉の継続がはかられ、11月7日には最終譲歩案(甲案)、20日には最終暫定協定案(乙案)が出されますが、これに対し米国務長官ハルは、11月26日両案を拒否し、中国とインドシナからの日本軍の撤兵、重慶政府以外の政府・政権及び三国同盟の否認という、それまでの交渉経過を無視したいわゆるハル・ノートを提示します。日本はこれをアメリカの最後通牒と受け取り、こうして、12月1日の御前会議で米英との開戦が最終決定されることになりました。(下線部挿入1/6)

 ところで、こうした対米英戦にそなえるための海軍の伝統的戦術とは、一体どのようなものだったのでしょうか。それは、漸減邀(よう)撃戦という長期持久戦で、その間、南方資源地帯を確保し輸送路を作って米主力の来航を待ってそれを迎え撃ち、その戦力を漸減させ最終的には主力艦の艦隊決戦で勝負を決する、というものでした。しかし山本五十六は、日米の国力差から到底米英と戦争することは無理であり、それ故に日米英衝突は避けるべきで、日本は穏忍自戒、臥薪嘗胆すべしと考えていました。

 しかし、もし避戦ができないなら、海軍の伝統的な邀撃長期持久戦では勝ち目はないので、前方短期決戦で敵機動部隊を撃滅し、アメリカの戦意を喪失させつつ早期に講和に持ち込む作戦を採るべきと主張したのです。最終的には、軍令部は、山本の案をあくまで南方作戦の支援のための一作戦と位置づけることでこれを認めました。このため敵機動部隊撃滅のための連続決戦という山本の作戦が中途半端なものとなりミッドウェーの大敗につながったとされます。

 だが山本も、この作戦(真珠湾攻撃)について「桶狭間とひよどり越えと川中島と合わせ行うの已むをえざる羽目に追い込まれる次第」と述べているように、もしこれで失敗したら、対米戦争はいさぎよく断念すべきと考えていたのです。この作戦の重点はむしろここにあったのではないかと半藤氏は見ています。(以上『太平洋戦争への道』『昭和史探究』5 半藤一利 参照)

 以上、ロンドン軍縮条約から日本が対米英戦争を突入するまでの海軍の動きを見てきました。では、一体、この間の歴史のどこに誤りがあったのでしょうか。

 私は基本的には、日本の満州事変以降の大陸政策の誤りが原因だと思います。つまり、日満だけでなく日満支ブロックさらには東南アジアの資源地帯を含めた大東亜フロック(政治)経済圏を日本の武力を背景に作り上げ、アメリカやイギリスのブロックに対抗しようとしたところに根本的な誤りがあったのではないかと思います。

 つまり、日露戦争後世界の一等国になったと錯覚し、アジアの盟主として満州を武力占領し(結果的には満州傀儡国家となった)、さらに華北を国民党政権から分離して親日政権を樹立し、さらに国民党政権を否認して汪兆銘という親日傀儡政権を樹立し、中国を武力でもって親日(?)国家にしようとした、そうした一連の流れを導いた、その基本的考え方に問題があったと思うのです。(下線部挿入1/6)

 確かに、それは当初から意図されたものではなく、満州事変が予想外にうまくいったものだから、ついそうした妄想に駆られて欲を出し華北にまで手を出した、そのために中国人の反撃に遭い泥沼の日中戦争となった、というのが本当のところだろうとは思いますが、それは、こうした無原則な成り行き任せの「切り取り勝手次第」の国策の遂行が必然的にもたらした結果であるといわざるを得ません。(下線部挿入1/7)

 また、こうした一連の日本の行動が、当時の国際連盟規約及び不戦条約による侵略戦争の禁止や、九カ国条約による中国の領土保全、主権尊重、門戸開放・機会均等、内政不干渉等の原則に違反しているという意識、それが、軍部だけでなく、当時の政治家、マスコミ、そして国民にも全く見失われていたことも見逃せない事実です。

 これらの国際法規は、第一次世界大戦による甚大な被害に驚いた西欧諸国が、その後の国際社会における平和維持のルールを確立しようとしてできたもので、軍縮条約もその一環でした。しかし、日本人はこれはアングロサクソンがアジアにおける利権の拡大を図ろうとするもので、先に述べたような日本の大陸政策を掣肘するものだと被害者意識で受け止めたのです。(下線部修文1/7)

 一方、満州事変以降の日本軍の行動に見られる特徴は、日本人の無原則性を如実に示すもので、法的規範を無視しても既成事実を積み上げ、その結果さえよければすべてよし、例えそれが軍中央の命令を無視した独断的行動であっても、罰されるどころか逆に栄達を重ねるといったような事があからさまに行われ、これが、その後の軍の行動に下剋上的風潮を蔓延させる元凶となりました。

 そうした武力優先の考え方が、むき出しの侵略行為に狂奔する独裁者ヒトラーに対する崇拝を生み、さらにそのヒトラーにそそのかされて南進政策を選択し、東亜の資源地帯を押さえることで米英に対抗し、ついには大東亜共栄圏という新秩序(はたしてどのような?)を打ち立てるという妄想を実行に移させることになるのです。(下線部修正1/7)

 この間、政党政治や議会政治は相次ぐテロや長引く戦争によって全く機能しなくなり、軍の方針を翼賛するだけの御用組織となり、国民の言論の自由も報道の自由も全く失われてしまいます。

 先の日米交渉の当事者であった岩畔(くろ)豪雄(ひでお)は、交渉が頓挫し帰国した8月ころの日本人の様子を次のように伝えています。

 「『大和魂を過大に評価する』あまり、『精神だけ鍛錬すれば、技術や兵器は論ずるに足らず』というような弊風が、一部日本人の心をむしばむようになった事実も、見逃すことは出来ない。その結果『物量のアメリカ恐るるに足らず、我には大和魂がある』といったような悪風が生まれ、この悪風が日本を勝利の見込みのない戦争に追い込む一員になったことは、かえすがえすも遺憾であった。そして、同時に『天佑神助の迷信』が大手を振ってまかり通っていたのである。」(『昭和史探索5』p238)

 当時のアメリカと日本の国力は、GNP比で12.7倍、艦艇生産能力4.5倍、飛行機生産能力6倍、鋼鉄10倍、鉄20倍、石油20倍、石炭10倍、電力6倍という圧倒的な差がありました。その国と長期持久戦争ができると考えたということは、要するに日本が一撃を加えればアメリカは恐れをなして引っ込むはずだ、という相手を小馬鹿にした手前勝手な思い込みが軍人にあったからに違いありません。それは現に中国人にも通用しないものであったにも関わらず・・・。(前掲書p330)

*以下、山本七平『日本はなぜ敗れるのか』の小松真一「敗因21箇条」についての記述は別途論ずる事として、ここでは削除させていただきます。(1/7)