NHKジャパンデビュー「天皇と憲法」を検証する(4)――統帥権問題で、犬養首相の責任を問うのは筋違いだ

2009年8月 6日 (木)

 当番組では、次のように「政党政治の自殺」について説明していました。(ブログ「夕刻の備忘録」より転載)

(ナレーション)普通選挙実施の翌年、犬養毅は二大政党の一つ、政友会の総裁に担がれました。犬養は、従来から訴えてきた、軍の合理化を、党の公約に掲げました。

「軍制を整理し国防の経済化を図る」

 この時、政権は対立する民政党にありました。首相の浜口雄幸も緊縮財政に取組み、軍縮を推進する姿勢を示していました。1929年、昭和4年、ロンドンで海軍軍縮会議が開かれることになり、会議の前に、財部毅・海軍大臣が政友会総裁の犬養を訪ね、軍縮への了承を求めました。この席で犬養は、異論は無いと述べています。

 「日本のような貧乏所帯でいつまでも軍艦競争をやられては国民が堪らない。こんな問題は政争の具にすべき問題ではない」

(ナレーション)ところが、ロンドンでの会議の後、犬養は大きく態度を変えていきます。ロンドン海軍軍縮会議には、日本をはじめ、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアの五ヶ国が参加。巡洋艦や駆逐艦、潜水艦などの制限が話し合われました。会議は難航、成立した協定案は、海軍軍令部が確保を主張していた、軍艦の目標総トン数を下回っていました。浜口内閣は、海軍軍令部の反対を押し切り妥結、調印しました。

 これに対し、猛然と政府を責め立てたのが、犬養率いる政友会でした。政友会が問題にしたのが「統帥権」でした。政友会は、条約の調印は、天皇の大権である統帥権を侵すものであると政府を攻撃。海軍軍令部の主張を認める方針を打ち出しました。

 政友会が軍との繋がりを深めたのは、犬養の前の総裁だった田中義一の時です。田中は軍人出身であり、軍関係者の組織票を頼りに選挙を戦っていました。犬養は、そうした政友会を党首としてまとめるために、それまでの自説を大きく変えたのです。

(談話)東京大学・御厨貴教授
「犬養には、もう残された時間は無かった。しかも、その総理大臣の椅子というのは、もう、目の前にぶら下がっている、いう時に、彼は、権力の方を獲った訳です。だから、そこで大胆な妥協をする。やっぱり政治家って疼くんですよ、その権力を目の前にした時に、その権力って魔物なんだけど、俺は自由に出来る、俺の力で自由にしてみたい、それはもう歴代の、累代の政治家、みんなそう思うみたいだから、だから、これ、軍拡路線に何故、その、政友会が乗っかっていくかというと、軍拡路線に乗っかることによって、次の選挙に勝てるに違いない、と思うからですよ。あるいは、次の選挙に負けないと思うからであって。で、そうこうしてるうちに、本当に軍に取り込まれちゃう」

★満州事変 1931年(昭和6)の映像

(ナレーション)ロンドンでの条約調印の翌年、満州事変が勃発します。関東軍が、独断で満州を占領。時の民政党、若槻礼次郎内閣は、満州での不拡大方針を巡って、閣内で意見が分かれ、総辞職しました。その年の12月、遂に犬養に天皇から大命が下ります。第一回帝国議会から41年、漸く手にした総理大臣の座でした。

 総理大臣官邸前に集まった500人の人々、犬養の地元、岡山の支持者達です。その真ん中で、カメラに収まる犬養毅。民衆の声を政治に反映させるという夢を、いよいよ実現出来ると、意欲に燃えていました。総理大臣になった犬養は、満州国の承認に反対の意志を示しました。軍部や党内から激しい反発を受けます。

★五・一五事件 1932年(昭和7)の映像

(ナレーション)そして、総理大臣就任から僅か5ヶ月、海軍の青年将校らによって、犬養は射殺されます。この「五・一五事件」以降、政党内閣は成立せず、犬養は政党政治・最後の総理大臣となりました。

(談話)東京大学・御厨貴教授
「政党政治ってのは、それ自体としては非常に脆いものであって、それ以外のもの、つまり政党総裁以外のものは、総理大臣候補になれない状態を、要するに枠組として、その、ずっと維持し続ける、これはもう、それこそ日々努力していなければダメな訳ですよ。これをきちんと確立した上で、その、政党が相互に争うならいいんだけども、そこのところの枠を全部破って、やっぱり反政党的な機関と結ぶことによって、全体としての政党政治の基盤が壊れていったってのが1930年代ですから。だから自殺なんですよ、これ」(ここまで番組の内容紹介)

 つまり、政党が反政党的な機関と結びつくことによって、日本の政党政治は自殺した、といっているのです。そのことをワシントン会議における軍縮条約調印に政友会が統帥権干犯を理由に反対したことを問題にしています。その際、政友会総裁が犬養毅だったことから、その責任を、犬養首相に求めているのです。犬養自身の本音としては、「軍縮条約調印」に異論はなかったのですが、人間は「総理の座」が目前にあると、そうした危うい妥協をしてしまうのだ、というわけです。

 確かにこの点は犬養に弁解の余地はないと思いますが(犬養だけでなく河野一郎も)、しかし、こうした犬養の行動には、革新倶楽部分裂後わずか8名で政友会に合同した犬養の勢力基盤の弱さや、その犬養を政友会総裁に担ぎ出した政友会の党内事情が深く関係していたことを忘れるべきではないと思います。とりわけ政友会幹事長であった森恪が、田中義一内閣の山東出兵以来、東方会議を経て、どのように日本の大陸政策を押し進めようとしていたか、を見逃す訳にはいきません。

 『東亜新体制の先駆 森恪』(s16.7.20)には、森がロンドン条約否決に努力した理由について次のように記しています。(この本は、昭和16年太平洋戦争勃発前に出版されたもので、森恪が押し進めた日本の大陸政策がどのようなものであったか、を知る上で極めて重要な資料といえます。)

 「森がロンドン條約の否決に努力した理由は、単純な倒閣熱からでは勿論なかった。何時でも彼の言行の根幹をなす所の大陸政策の危機を防ぐためであった。即ち彼は、先づ支那大陸から米国の勢力を駆逐するに非ざれば到底日本の指導権を確立することが出来ぬと考へていたし、遠くは日露戦争後、ハリマンが満鉄買収を計画して以来、華盛頓會議の実績に徴しても米國の満蒙に對する野心熾烈なるものあり、これを防ぐには海軍力の確保以外に途はないと信じていたからである。要するに對米七割の海車力を保有することの政治的意義は満蒙生命線を保有することになるのである。海軍の責任当局が、對米七割を以て國防上最少限度の兵力量なりと宣明し、米國は、七割なら到底日本海軍を撃破し得ずと認識している以上、七割は絶對必要の兵力量に相違ない。要は對英的には支那本土、對米的には満蒙生命線の確保にあった。六割に妥協することは、わが民族の生存権に開して、安
全保障が伴わぬことになるのである。しかも華盛頓合議では全面的に日本の對支権益を削られると共に、海軍力に於ては五・五・三の大譲歩をしている。これに相つぐこの譲歩である。海軍と歩調を合せて、森がその成立阻止に渾身の努力を費したことは、世の常の人の如く便乗でもなければ軍に内政上の倒閣運動でもなかったのである。」(上掲書p671)

 では、これに対して、犬養はそのような森の大陸政策に対して、どのような中国政策を持っていたか。

 「昭和四年の孫文移柩式に日本における「友人」として招待された犬養は、沈黙を破って国民党に対する支持を明らかにした。その内容は、①国民政府は永続し国都は南京を動かないこと、②蒋介石氏は現代支那の第一人者でこの政権を維持することは日支双方の利益であること、③国民政府の財源は関税を第一とし関税増徴は同政府の死活問題であるから日本は相当考慮を払わなければならないこと、④日支通商条約改訂に当っては平等互恵の精神を原則として努めて時勢に適応させなければならないこと等であった。このような犬養の発言は、中国のナショナリズムに独自に対抗しようとしたことから国際的に孤立しつつあった政友会の中国政策に対して、慎重な姿勢を求めたものであった。」(『犬養毅』時任英人p226)

 犬養が政友会総裁に担ぎ出されたのは昭和4年9月29日ですが、政党政治に対する考え方は、「森が軍部との提携によって政友会による『一国一党制』を実現』」しようとしていたのに対し、あくまでそれを堅持せんとするものでした。その後、昭和5年4月2日ロンドン会議海軍軍軍縮条約承認に伴う統帥権問題が発生、政友会が森を中心に統帥権干犯を楯に政府を攻撃するも9月26日枢密院本会議ロンドン海軍条約可決、10月27日同条約は批准されました。にもかかわらず、森は昭和6年2月3日、幣原首相代理の「失言問題」に食い下がり、倒閣を策して議会の乱闘騒ぎをおこしました。しかし、犬養は「議会の神聖を冒すような乱闘沙汰の続演は苦々しく思っており」幣原の発言を取り消すことにしてことを収めました。

 その後、3月には陸軍の革新将校らが引き起こしたクーデター未遂事件である「三月事件」、9月18日には「満州事変」、そして10月には3月事件と同様の「十月事件」が起こります。特に後の二者は、国際協調路線をとる第二次若槻礼次郎内閣に対する挑戦でした。こうした混乱した状況の中で若槻内閣の内相安達謙蔵による民政党・政友会の「協力内閣」構想が生まれ、これが挫折した結果、はからずも犬養が77才にして内閣を組織することになったのです。

 こうして発足した犬養内閣が直面した問題は二つありました。一つは不況打開で、これは高橋是清蔵相の独創的対応によって次第に成果を見ることになりました。もう一つが満州事変の収拾でした。犬養は特にこの後者の問題の解決策について、次のような考えをもっていました。

 「満州を武力でもって征服することはいけない、そうせずとも俺には之をうまく大局の上で権益を保護する方法がある。・・・武力で征服しても後の憂いに堪へん。国民が其財源に苦しむことも考えねばならぬ。」其の具体的方法とは、「満洲の宗主権(所有権)は中華民国に返し、その代り、満州地方の経済開発を日本と中国と平等の立場に於いて行い、あらゆる種類の排日行為は中国政府の責任で取締らせ、そして北満国境の固めは日本の実力でソ連の南下を防ぐ」というものでした。

 犬養はこうした構想を実現させるために、長年のパトロン的存在であった萱野長知を、森幹事長にも知らせず(森が軍部と通じていたため)上海に送り(s6.12.17)中国側との交渉に当たらせました。萱野はその交渉経過を次のような第一電を打ちました。(12.23)

一、満洲の政権確立のため、居正を主任とする委員会を組織し、一切の懸案は現地交渉とし、居正に権限を与ふること。
二、張学良を適当に処置すべきこと。
三、居正任命と同時に、日華双方軍事行動即時中止すること。

 そして第二電(12.25)
「日華懸案解決に在り、一さいの権利義務を居正に一任することとなった。日本の不法侵略に対し、無条件和平の調印をなす全権は、これ国賊なりとする一般中国人の傾向を知りつつも居正は、吾甘んじて国賊の汚名を被る、アジア大局のためには何かあらむと、進んでその難局を引き受けたる由。」

 だが、この電報は東京で森書記官長の手に握られ、森はこれを握りつぶしました。さらに外務省の重光公使から「外務省公式機関を経て正式の軌道に乗せうべし」との要請があり、ついに、翌昭和7年1月5日犬養からの萱野に帰朝電報が届きました。こうして萱野工作は失敗し、そしてこの事件のため軍部との関係は悪化するようになりました。軍部と結ぶ森恪も犬養に見切りを付け、「政友・民政・軍部を再結集して挙国一致の政治力を発揮し」平沼内閣を作るよう画策するようになりました。

 次いで昭和7年1月28日軍の謀略のよる上海事変が勃発しました。この前後、犬養と高橋蔵相は激しく軍の派兵を抑えようとしました。閣議において荒木が「一躍大軍を派遣してシナを膺懲」する事を強調すると、高橋は荒木が若年であるため物事がよく見通せないとたしなめました。そして、中国問題は「犬養首相の縄張り」であると述べ、ついには「一体上海に何人の日本人がいるのか、みな引き揚げてくればいいではないか」とまで述べました。4日には高橋説得に来た森恪に対して「野蛮人」とまで罵ったほどだったといいます。 

 さらに犬養は、陸軍の長老上原勇作元帥に次のような書簡を送りました。
「・・・実は拝晤を得度き主意は陸軍近来の情勢に関し憂慮に堪えざる事は上官の意下僚に徹底せず、一例を挙ぐれば満州に於ける行動の如き佐官級の聯合勢力が上官をして自然に黙従せしめたるか如き有様にて世間も亦斯く視て切に憂慮を懐き居候。甚しき風説に至りては直接に隊に属し居らぬ将校を称して無腰(無刀の謂)と為し隊を率いたるものに非れば無力として之を軽んずる傾向あり。何事も直接に軍隊を率いる者が聯結して事を起しさへすれば上官は終に事後承諾を与ふるものと信じて一意進行するが如き風習を成し軍の統制の上に一大変化を生ずる虞あり。全体より視れば今猶ほ一部に過ぎず。言はば萌芽を発したる際なるが故に未だ拡大敷衍せざる今日に於て軍の元老に於て救治の方法を講ぜられんことを冀ふ一事に外ならず。右の根底より発したる事。前内閣時代の所謂クーデター事件も其一現象に過ぎず。」

 しかし上原元帥はこの要請に応えようとしませんでした。これに失望した犬養は「処士横議」をやる「三十人ぐらいの青年将校」を「上奏」までして免官することも考えました。しかし、荒木陸相がこれに応えるはずもなく、また森恪を通じてこうした犬養の動きが軍に伝えられたため、軍は「犬養は怪しからん、満州事変をやめさせようとしている」と憤激するようになりました。さらに犬養は5月1日のラジオ放送で、「極端の右傾と極端の左傾」の現象に触れ、これは「議会否認論」であるとして批判し、8月の政友会関東大会では「我々は飽迄議会政治の妙用を信じ、十分改善の可能なるを信ずる」と述べました。
(以上『犬養毅』時任英人参照)

 こうした中で犬養を含めた支配層の要人を暗殺する計画が着々と進められ、ついに5月15日、海軍青年将校による白昼堂々の犬養首相暗殺事件となったのです。その時犬養は逃げず、それどころか侵入者を見ても動ぜず、”まあ待て。まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか”といい客間に侵入者を連れて行きました。”問答いらぬ。撃て。撃て。”弾は犬養の腹部そしてこめかみに一カ所、左鼻口に一カ所命中しました。犯人等が引き揚げた後、犬養は「今の若い者をもう一度呼んで来い。よく話して聞かせる」といったといいます。(『話せばわかる』下p358)

 まさに言論の府議会人犬養毅の面目躍如たるものがあります。このとき森は、木舎幾三郎の『政界五十年の舞台裏』によると、「森恪氏が廊下の片隅で荒木陸相と頻りに何か用談しているのに出会った。そのまま行き過ぎようとすると、森氏が『オイ、オイ』とぼくを呼ぶので、その方に足を運んでいくと、イキナリぼくの方に手を差出し、難く手を握ってニコッと笑っただけであった。」氏は、「なぜ笑ったかはいま考えても解し得ぬものの一つであるが恐らく犬養首相と不和と伝えられていた彼として、会心の笑ではなかったろうか。」といっています。

  この後森は、平沼騏一郎の擁立を画策するようになりますが、その政党観はどういうものだったかということが、先に紹介した森恪の伝記に次のように書かれています。
「森の政党観は現在の既成政党による対立状態では国策の遂行に寄与し得ないが、さりとて政党を否認する独裁政治家というに然らず、しっかりした人物によってしっかり強い政党を築き上げ、その総裁が党を基礎にして強力な政治をする。云わばドイツのヒットラー、イタリーのムッソリーニの流れを汲もうというものの如くであった。」(上掲書p821)

 そして、五・一五事件の裁判がはじまると、これら卑怯の極ともいうべき青年将校等に対して、その減刑嘆願を求める手紙が、全国から100万通も寄せられたといいます。この時代のこうした異常な”空気”を支配したものは一体何か。以上、紹介した犬養首相の政党政治家としての思想と行動、その先見性と剛胆さを見るにつけ、こうした良識ある判断がなぜ当時の国民に受け入れられなかったか、その結果、日本の政党政治は崩壊した。その責任を犬養首相に求めるのは、私は”いささか筋違い”ではないかと思います。