NHKジャパンデビュー「天皇と憲法」を検証する(3)――明治憲法を葬った教育勅語の国体観
本番組では、明治憲法が天皇の統治権について、第四条が「憲法の条規によりこれを行う」としていたのに対して、第一条は「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」としており、これが天皇の統治権を絶対視する昭和への道を開いた、と説明していました。しかし、第一条にこれだけの責任を負わすことは無理で、というのは、この第一条の「萬世一系の天皇」が統治するという国体のイメージは、「教育勅語」によって補完されてはじめてその具体性を持つものだからです。 ところで、前回指摘した通り、井上毅(法制局長官)は、君主による教育理念を提示する「教育勅語」が立憲主義を建て前とする明治憲法と矛盾することを自覚していました。そのため、明治23年6月20日付け山縣有朋総理大臣宛書簡で、次のような「教育勅語渙発に関する七ヵ条の諫言」をしました。(『教育基本法を考える』市川昭午p180) 第一に君主は臣民の良心の自由に干渉しないこと。 結局、井上は立場上教育勅語に起草に参加しますが、勅諭を政事上の命令と区別して君主の著作とすることを主張しました。その結果、教育勅語は「大臣の副署がなく、政治上の勅語・勅令とは区別され、天皇が社会に対して直接諭言した形式をとって発布」されました。そのため法令が強制力を有するのに対して、教育勅語は一般臣民に対して強制力を有しないと解されました。 その教育勅語の本文は次の通りです。 明治二十三年十月三十日 これを見ると、確かに、宗教上あるいは政治上の臭みをできるだけ除いて、当時の国民の常識にそった文面とするよう努めていることが伺われます。「萬世一系の天皇」という言葉もありません。しかし、この「当時の国民の常識」にそった教育思想の表明は、自ずとその時代の日本の伝統思想の表白となりました。その結果、この伝統思想により担保された日本国の宗主としての天皇のイメージが、明治憲法に規定された立憲君主制下の制限君主としての天皇のイメージと齟齬を来すことになりました。 では、この教育勅語によって表白された日本の伝統思想とはどのようなものだったのでしょうか。イザヤ・ベンダサンによると、それを一つの体系として示しそれを民衆教化の書としてまとめたのが、貝原益軒の『大和俗訓』(全八巻1710年)だといいます。その後、この書は江戸期を通じて「日本教の”聖書”のごとく読まれ、表現は変わっても(今日の)日本人がその延長上にいることも、また不思議でない。」といっています。(『日本教徒』イザヤ・ベンダサンp245) 次に、この書に語られたその伝統思想を紹介します。それが、現代の私たちの自然や人間についての思想と、どう異なっているか考えながら読んで下さい。(『日本の名著 貝原益軒』中央公論社より引用) 天地と父母に仕えるは同じ 人は万物の霊 聖人は人の道を教えた 学問の基は謙譲 人の性は本来善 篤く行う 民をつかさどる人 以上は、儒教の五常五倫の教えを軸として、天地(=自然)と人の関係や人と人の関係を日本人の伝統的考え方に合うように整理したものです。しかし、こうした諸関係の基底には、「恩」という日本人独特の基本概念が置かれているいることに注意しなければなりません。巻六の「恩を忘れない」「恩をほどこして」「恩があれば」には、次のようなことが説かれています。 「天地につかえて仁を行い、父母に孝を行い、君に忠を尽くし、師を尊び、故旧にあつくするのは、君子の道でみな恩に報いる道である。」「古い言葉に『恩を施して念うことなかれ、恵みを受けて忘れる事なかれ』とある。人に恩をほどこしたら、これは自分のなすべき当然の道と思って、その施したことを忘れるがよい。思い出してはいけない。・・・また人の恵みを受けたなら、その恩を忘れてはいけない。」 つまり、自然と人の関係や、人と人の関係をつなぐ基礎概念として「恩」があり、その「恩」は、儒教の五倫(君臣・父・夫婦・長幼・朋友)によって形作られた人間関係を下支えしている。そして、その「恩」に基づく人間関係における基本的な倫理規範が、「恩を施して念うことなかれ、恵みを受けて忘れる事なかれ」ということ、つまり「施恩の権利を主張せず、受恩の義務を拒否しない」だというのです。(この恩論に基づく倫理観は「平家門語」に見られるとベンダサンは指摘しています。それくらい伝統的な考え方だということです。『日本教徒』参照) そして、この「恩」論に基づく人間関係が、家族の人間関係から人間と自然(=天地)の関係、さらに君臣の関係にまで拡大されているのです。いうまでもなくこの「恩」論に基づく人間関係は、家族をモデルとしているため、これが社会関係に拡大された場合、その社会組織は擬制的な家族として機能することになります。これが教育勅語の背後にある、皇祖高宗を宗源とする天皇中心の家族国家論につながっているのです。 そして、その国家論における中心概念が、後期水戸学にいう「忠孝一致」です。「臣謹んで案ずるに、人道は五倫より急なるはなく、五倫は君父より重きはなし。然らばすなわち忠孝は明教の根本、臣子の大節にして、忠と孝は、道を異にして帰を同じうす。父に於ける孝といい曰い、君に於ける忠と曰ふ。わが誠を尽くす所以に至っては、すなわち一なり。」(『弘道館記述義巻の下』藤田東湖)こうして親子関係における孝が、君臣関係における忠と一致するという考え方を生み、それが一君万民、天皇親政という国家観に発展していったのです。 こう見てくると、この教育勅語に盛られた道徳規範や教育理念、それをはぐくみ育てた日本の伝統的な教育思想自体は、決して奇矯なものではなく、今日でも通用する常識的なものであることが解ります。だが、これを国家論としてみた場合、大きな問題点を孕んでいることが解ります。それは家族倫理に止まるべきはずの孝が、統治者と国民との政治的関係にも拡大適用されていることです。 確かに、この統治者と国民の関係――「民をつかさどる人は、民の父母であるから、民を哀れむ心を基とすべきである。民の好むことを好んでほどこし、民の嫌うことを嫌ってほどこさない。・・・上にある人が誠をもって民を愛すれば、民も又必ずそれに感じてよろこび、かくれて悪いことをしないで、誠をもって上につかえる――はうるわしい。しかし、現実的には、これが天皇親政に名を借りた軍部の暴走につながったのです。 美濃部達吉の「天皇機関説」を批判した上杉慎吉は次のようにいっています。「我が立憲政体は、天皇親政を基礎とするものである。議会中心の政治というのは、即ち、天皇親政を排斥する政治である。」そしてこうした主張が、「政治腐敗を打破し、貧困から国民を救うには、明治維新と同じく、再び天皇親政による国家改造しかないという議論に発展し、当時公認の学説であった天皇機関説を、「国体の本義を誤るもの」として排除するに至ったのです。 ここで改めて確認すべきこと、明治憲法における立憲君主制下の天皇の統治イメージを扼殺した天皇親政という統治イメージは、明治憲法第一条によって生み出されたものではなく、教育勅語に集約された日本の伝統的思想(=忠孝一致、治教一致)が生み出したものであるということ。そして、このことが解れば、天皇制を今後どのように運用すべきかということも自ずと解ってくる、私はそう思っています。 |