NHKジャパンデビュー「天皇と憲法」を検証する(2)――明治憲法第一条の思想的背景

2009年7月10日 (金)

 ジャパンデビュー「天皇と憲法」第1部「大日本帝国憲法の誕生」の冒頭のナレーションは次の通りです。(会話文は、前回同様、ブログ「夕刻の備忘録」を参照させていただきました)

 「大日本帝国憲法です。天皇についての規定が明文化され、第一章に掲げられました。その第一條、「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、日本は天皇が統治する国であると謳われています。この条文が後に、天皇を絶対視する思想に繋がっていきます。

 しかし、この憲法には、天皇が支配者として独断で政治を行わないように、その権限を制限するための条文も定められていました。それは第四條です:
「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」。

 「憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」という規定、つまり天皇は国家の元首であるが、この憲法に従って統治するとされたのです。天皇を絶対視することに繋がる第一條、そして天皇も憲法に従うとする第四條、この二つの条文が憲法に同時に存在することによって、様々な矛盾や曖昧さを産んでいくことになります。」

 これは、この番組のライトモチーフともいうべき見解ですが、これについて、二人の若手憲法学者(慶応大学講師 武田恒泰、国士舘大学 倉山満)が『正論』七月号の対談記事で次のように批判しています。

倉山 あれはおかしかったですね。

竹田 ええ。第一条は「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」。第四条は「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」。つまり、日本は天皇が統治するが、その統治の仕方は憲法の条規に定められている――ということを述べているのであって、日本語の意味を普通に理解すれば、矛盾でも何でもないことは明らかです。
しかし番組では、こう決めつけています。「天皇を絶対視することにつながる第一条。そして、天皇も憲法に従うとする第四条。この二つの条文が同時に存在することによってさまざまな矛盾や曖昧さを生んでいく」と。こういうのを、牽強付会というのでしょうね」

 つまり、二人は、第一条の天皇の統治権の意味は、天皇が独裁者のように何でも決められる権能を持つことを規定したものではなく、第四条にいう「憲法ノ條規ニ依リ」決まったことを、形式的に認可する権限であって、第四条と矛盾するものではない。これは、第三条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」と同じで、「神聖不可侵である天皇に責任が及ばないよう、実際の権力は政府が行使する」との原則を述べていることと同趣旨だ、といっているのです。

 確かに、天皇の統治権の解釈としてはその通りでしょうが、問題は「萬世一系ノ天皇」という概念が一体どこから来たかということです。というより、なぜこの「成文法になじまない」言葉が、天皇の統治権の正統性を証するものとしてここに挿入されたかということです。

 このことについては、番組では次のように説明しています。

 伊藤博文より大日本帝国憲法の草案作りを命じられた井上毅(こわし)が、天皇が日本を統治することの根拠を、明文化しなければならないと考えた。そこで、井上は歴史書を改めて研究し、天皇が、第一代の神武天皇から、後に武士が台頭した時代になっても、絶えることなく、連綿と受け継がれてきたというその連続性を重視した。そして、「明治になって、天皇の歴史的由来を示す言葉として、頻繁に使われるようになっていた表現」である「萬世一系」に着目し、これをそのまま憲法草案に用いた。

 このことについて、京都大学・山室信一教授は次のように解説しています。

 もちろん「萬世一系」という言葉は、江戸時代以前から存在していた訳ではなくて、これは明治期に入って、外交文書に多く使われたことからも分かるように、徳川幕藩体制を壊して成立した明治政府の正当性を諸外国に対して証明するためのものだった。それと同時に今度は、国内において、天皇というものが何故支配するのかについて、旧支配階級などは新政府に非常に不満を持っていたから、それに対して、その正統性を伝えなければならないということで、今度は国内向けに使われ始めた。

 この山室氏の解説では、「萬世一系」という言葉は、明治政府が自らの統治を正当化するために便宜的に用いたものであるかのような印象を受けます。しかし、事実は決してそんな名ばかりのものではありませんでした。それは徳川幕府が導入した朱子学(儒学の一学派)の名分論(=階級的秩序)でもって、記紀に物語られた神代に続く皇統の連続性(=萬世一系)を権威付けることで、天皇による統治を理想化したものでした。また、その統治システムは、親子間の倫理である「孝」を、君臣間の倫理である「忠」に一致(=忠孝一致)させた、天皇を宗主とする家族国家のイメージを伴っていました。

 そして、こうした家族国家あるいは宗主国家のイメージを背景に、家族関係のあり方や君臣関係つまり天皇と臣民との関係のあり方を説いたのが、いうまでもなく「教育勅語」だったのです。従ってその構成は、まず、わが国の道徳教育の淵源が神代より続く皇統の連続性の中にあることが述べられ、その次に、そのおかげでわが国の臣民が忠孝心を一つにしてきたこと。続いて、儒教の五倫五常の教え、博愛、学業を通じて知識や道徳を身につけ、仕事を通じて社会に役立ち、憲法や法律を遵守し、一旦国難に逢えば勇敢に戦うこと期待されました。

 そして最後に、こうした生き方(=道)は、神代の昔から今に纏綿と続く天皇家の伝統的な教えであり、わが臣民として子孫の後々までも守るべきものであり、また、これは古今を通じ、また国内だけでなく世界に広めても決して道理に背くことにはならないものである。従って、私(朕)はあなたたち(臣民)と共にこれらの教えをよく守り、共に、これらの道徳規準を身につけて行きたいものだと思う、と締めくくられています。

 一見、あたりまえの道徳的規範を述べているように思われますが、注意すべきことは、ここに提示された道徳規範は儒教に基づくものであり、儒教は中国思想だということです。従って、それが皇祖高宗の教えによるというのは、あくまで儒教と国学思想が習合した結果であって、史実としては誤りです。また、忠孝一致という考え方は、儒教にはなくて、これは後期水戸学が生んだ日本独特の考え方なのです。従って、その帰結としての家族国家観も日本独自のものだということ。さらに問題は、こうした生き方=道は日本だけでなく世界に通用する普遍的な教えだ、としていることです。(これが大東亜戦争期の八紘一宇という考え方につながります)

 つまり、明治憲法第一条の「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という規定は、井上や伊藤の思いを超えて、この教育勅語がその背景に持っていた家族主義的な国家の統治イメージと密教的につながっていったのです。いうまでもなくこうした国家観、その家族主義的な国家の統治イメージが、明治憲法の立憲君主制下の制限君主としての天皇の統治イメージと、根本的に対立するものであることはいうまでもありません。

 番組では、1888年6月、出来上がった憲法の草案について、天皇の諮問機関・枢密院で、「第四條 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」の審議の模様が次のように紹介されています。(天皇陛下の臨席の下、議長は伊藤博文だった)

(山田顕義・司法大臣から意見)
「この憲法の條規以下の文字を削除することを望みます。この文字を置くと天皇の統治権は、元々在った権限ではなく、憲法を設置したことで、新しく始まったかのような感覚を持ってしまいます」

 これに対し、議長の伊藤博文は、次のように答えました。
「本條は、この憲法の骨子です。憲法政治といえば、即ち、君主権を制限することなのです。この條項が無ければ憲法は、その核となるものを失うことになります。憲法の條規により、という言葉が無くては、憲法政治ではなく、無限専制の政体となってしまうのです」

 こうして、第四條は、多数の賛成を以て可決されました。そして、1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布され、天皇、議会、司法、国民の権利、義務などを明記、近代国家の骨組が出来上がりました。しかし、その翌年の10月30日には、この憲法下の立憲君主としての天皇の統治イメージとは全く異なる統治イメージをもった「教育ニ関スル勅語」が天皇より発布され、国民道徳の基本理念を定めた「国体の精華をなす」教育基準として位置づけられることになるのです。

 そして、この「教育ニ関スル勅語」の起草に当たったのも、当時法制局長官だった井上毅でした(当時の山縣有朋総理の命による)。彼自身は「立憲主義の建て前と君主による教育理念の提示が原理的に矛盾することを自覚していた」らしく、教育勅語渙発の構想には本来賛成でなかったといいます(『教育基本法を考える』市川昭午p180)。しかし、それにしても、後の時代(昭和)になって、自ら起草した教育勅語に胚胎した一君万民・天皇親政の統治イメージが、同じく自ら起草した明治憲法の立憲君主としての天皇の統治イメージ(天皇機関説)を食い殺すことになろうとは・・・、井上も夢想だにしなかったのではないでしょうか。(つづく)