NHKジャパンデビュー「天皇と憲法」を検証する(1)――明治憲法の運用を誤ったという見解について

2009年7月 6日 (月)

 ブログ「夕刻の備忘録」に、放送済みジャパンデビューの番組フルテキストが掲載されています。転載歓迎となっていて、この番組について私見を申し述べようとするものにとっては誠に有難く感激の至りです。本来ならNHKこそ、こうした番組については、放送直後からネットに公開し、視聴者の批評に委ねるべきだと思います。それが公共放送としての情報公開上の義務であり、また、その方が、議論の正確を期す上でも有効ではないかと思います。NHKの善処を望みたいと思います。

 さて、ジャパンデビュー「天皇と憲法」のメインキャプションは次のようになっています。
「日本が国家の骨格ともいうべき憲法を初めて定めてから120年。大日本帝国憲法は「立憲君主制」を採り、当時の世界からも評価されていた。しかし、19世紀帝国主義から第一次世界大戦を経てうねる時代の流れの中で、日本はその運用を誤り、帝国憲法体制は瓦解する。その要因と過程を国内外に残された資料からつぶさに分析し、新しい日本国憲法誕生までの道程を検証する。」

 つまり、大日本帝国憲法自体が問題だったのではなく、その運用を誤ったことが国家の崩壊を招いたといっているのですが、この指摘は極めて重要だと思います。というのは、統帥権の問題に象徴されるように、明治憲法に不備があったから、昭和の軍閥の暴走を阻止できなかった、とするのが従来の一般的見解で、その運用を誤った云々というのは、従来あまり耳にしなかった見解だからです。私自身はこの意見に賛成ですが、ではいかなる根拠でもってこうした説を唱えたのか、以下当番組の内容を私なりに、数回に分けて検証してみたいと思います。

1 明治憲法と昭和憲法、国家の芯は続いているか(7/8挿入)

 まず、番組冒頭の、立花隆氏による次の解説に注目したいと思います。 
「それで、その今の昭和憲法ってのは、実は大半の人は、あの明治憲法とは全く離れて、全く新しい憲法が出来たと思ってるんですよ、ね。大半の人はそう思ってます。しかし、そうじゃないんですよ、ありゃ続いてんです。だから、昭和憲法ってのは、全く新しい憲法が突然議決されて出来た訳じゃなくて、明治憲法の改正された訳なんです、一部改正しただけなんです。非常に重要な部分が、改正されてますよ、非常に主要な部分が改正されてるから、あたかも別の国家がそこで生まれたみたいな感じだけれども、そうじゃなくて、国家の芯そのものは続いてる訳ですね。」

 これは、単に、昭和憲法が明治憲法第73条(改正条項)に基づき改正されたということを言っているだけではなくて、「国家の芯そのものは続いている」という認識に基づいてます。ではその芯は何かというと、ともに第一章が天皇であり、立憲君主制つまり制限君主制をとっているということ。つまり、明治憲法の場合は、その第4条において「天皇ハ国家ノ元首ニシテ統治権ヲ総覧シコノ憲法ノ条規ニ依リコレヲ行フ」として、「立憲主義」をよると規定していたことを指しています。

 確かに、明治憲法において国家元首は天皇であり、主権は天皇にあるとされました。しかし、立憲主義の要素としての言論の自由・結社の自由などの臣民の権利は、法律の留保のもとに保障され(第二章)、公選制の議会を持ち(議会は法律の提出権や協賛(同意)権、予算の協賛権を持っていた)(第三章)、天皇の行政大権の行使は国務大臣の輔弼(大臣責任制)によるとされ(第四章)、さらに司法権も天皇から裁判所に委任される形で独立を保障されていました(第五章)。

 こうした立憲主義をとる明治憲法が、敗戦後日本国憲法に改正されるとき、その改正案の作成は、当初日本側に任されましたが、GHQは、政府案(松本案)は旧憲法体制を温存しているとして強い不満を示し、その結果、いわゆる「マッカーサー草案」が急遽日本側に示されることになりました。政府は総司令部と交渉して若干の修正を施した後、これを「日本国憲法憲法改正案」として国民に発表し(s21.3.6)、国会審議にかけさらに若干の修正を行った後、昭和21年11月3日、日本国憲法公布、翌昭和22年5月3日新憲法は施行されました。

 この日本国憲法(以下昭和憲法と称す)の柱は、第一章:象徴天皇制の規定と、第二章:戦争放棄の規定にあるとされます。また、明治憲法が天皇主権を前提としていたのに対して、新憲法は国民主権を前提としていること。その他、明治憲法にはなかった内閣及び総理大臣の権限が規定され、行政権は内閣にあるとされ、その行使については国会に対し連帯責任を負うとされました。さらに、国務大臣は文民であること。その任命権は総理大臣にあること(第五章)など、内閣の権能が格段に強化されています。

こうした昭和憲法の特徴をもって、明治憲法との断絶を指摘する意見が、従来は大勢を占めてきました。しかし、先に指摘した通り、明治憲法は、天皇が日本国の統治権を総覧する(主権は天皇にある)としながら、その主権の行使は「憲法ノ条規ニヨリコレヲ行フ」としており、そのため、立法権は議会の協賛、行政権は国務大臣の輔弼によるとされ、司法権は裁判所に委任されていました。つまり、立憲君主制としての基本的性格において、明治憲法も昭和憲法も「その芯においては続いている」と見ることができるのです。

 さらに、昭和憲法の二本の柱とされる象徴天皇制も戦争放棄の規定も、これは必ずしもGHQが押しつけたものとはいえないのです。というのは、前者については、幣原首相の起草にかかる「天皇の人間宣言」(昭和21年1月1日)によって、戦前の神格化された天皇のイメージが、新日本の民主化に向けて「国民の象徴」とされたものであり、これによって、戦後の憲法体制における天皇制護持の方向が確定したのです。また、後者については、幣原が昭和21年1月21日マッカーサーを訪ねた折、「原子爆弾が出来た今日では世界の情勢は全く変わってしまった。だから今後平和日本を再建するためには、戦争を放棄して再び戦争をやらぬ大決心が必要だ」と述べたことが、その端緒になったのです。

 マッカーサーは、極東委員会(その構成員にはソ連、豪州など天皇制維持を絶対拒否する強硬分子が含まれていた)が組織される前に、天皇制の維持を含む新憲法を日本側の手で作成しようとしていました。しかし、政府案(=松本案)には不満足であり、この修正を待っていては間に合わないので、急遽、自ら憲法草案の作成を決意し、2月4日、上記の象徴天皇制や幣原が提起した戦争放棄の根本原理を記したノートを総司令部の新憲法起草メンバーに示して、GHQによる新憲法草案の起草を命じたのです。

 以上の事実関係は、昭和30年に発刊された幣原平和財団の『幣原喜重郎』の記述によっても確認する事ができます。立花隆氏によれば、その後、日本国憲法の成立過程に関する研究が進んで、その二本の柱である象徴天皇制と憲法9条の戦争放棄は、マッカーサーではなく日本人の発案によるものであると認識されるようになったとのことです。私自身は、まだこれらの本を読んでいませんが、いずれにしろ、こうした発想は、(当初政府部内にはかなりの混乱が見られたものの)当時の国民にはごく自然に受け入れられていったように推測されます。

 一パラグラフ削除(「・・・運用を間違った」という見解についての考察は、今後の論述も含めて総合的に行いたいと思います。7/8)

 以上、立花隆氏の「昭和憲法ってのは、全く新しい憲法が突然議決されて出来た訳じゃなくて、明治憲法の改正された訳なんです、一部改正しただけなんです。非常に重要な部分が、改正されてますよ、あたかも別の国家がそこで生まれたみたいな感じだけれども、そうじゃなくて、国家の芯そのものは続いてる訳ですね」という言葉の意味するところを、私なりに解釈してみました。これは、氏が、かって、明治憲法と昭和憲法との根本的な違いを強調していたことを知るものにとっては意外な感じがしますが、そのように氏の認識が変化したということなのでしょう。

 次回は、この明治憲法第四条と矛盾関係において論じられた第一条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇コレヲ統治ス」の意味するところを論じたいと思います。本来なら、この第一条は、教育勅語との関連で論じなければならない。第一条は、通常、明治政府の正統性を担保する条文とされますが、これは、教育勅語によって語られた忠孝一致の家族的国家観を背景に理解する必要があります。つまり、ここから生まれた天皇親政の統治イメージが、明治憲法の立憲君主制の統治イメージと激しく衝突した、昭和の先鋭的な国体観の内実を満たすものとなったのです。

 このことを論ぜず、つまり、この問題の思想史的展開を解明した山本七平の業績を踏まえずして、両者の矛盾関係を解きほぐすことなど到底できない、私はそう思っています。