ジャパンデビュー「通商国家の挫折」、森恪の評価への疑問

2009年6月13日 (土)

  6月7日放送NHKスペシャル「ジャパンデビュー」―通商国家の挫折―を見ました。その中で、三井物産の社員であった森恪のことが二度ほど出てきました。一つは、森が日露戦争下、ロシアのバルチック艦隊のバシー海峡通過後の行動を追跡し、これが東支那海から対馬海峡に向かうことを通報し、連合艦隊の日本海海戦勝利に貢献したということ、

 もう一つは、1911年に辛亥革命が起こり、孫文が中華民国政府の臨時大統領となったとき、三井物産は革命勢力支援のための借款を次々と成立させた。その代表的なものが、武漢の漢冶萍公司を日中合弁とし、その所有する大冶鉄山を抵当として中華民国政府に500万円貸し付けた、この時、現地で孫文との直接交渉に当たったのが森恪だったという話です。

 番組タイトルが「通商国家の挫折」ですから、当然、日本の通商国家としての挫折以前の成長期にも触れることになります。そうなれば、その成長期に活躍した三井物産社員時代の森恪を紹介する事になります。しかし、この森恪は、確かに、日本の通商国家としての成長に一役買ったことは間違いありませんが、一方、その自爆へのトリガーを引いた人物でもあったわけで、このことに触れないと、なぜ日本が通商国家としての国作りに失敗したか、その真因がわからなくなってしまうと思いました。

 この番組のネットでのキャプションは次のようになっています。

 「 太平洋戦争後、GHQが徹底的に解体した企業があった。明治から大正、昭和にかけ国家と一体となり経済の屋台骨を支えた三井物産である。
150年前、貧しい島国として世界にデビューした日本は、貿易によって富国強兵の「富国」を実現する戦略を立てる。明治政府が貿易立国の担い手としたのは元徳川幕府騎兵隊長の益田孝が作った三井物産だった。世界に残された最後で最大の市場、中国に打って出た三井物産は、日清日露戦争の時代は綿製品の加工貿易で、重工業の時代には資源の獲得でイギリスやアメリカと熾烈な戦いを繰り広げた。

 世界恐慌後の1933年、日本の綿製品輸出は世界一を達成し、経済大国へとはずみをつけた。しかしまさにその時、世界の貿易は自由貿易から保護貿易へと枠組みが変わってしまう。石油という戦略物資をめぐり英米の国際資本と激突した結果、富の源であった世界市場から閉め出されるに至る。

 貿易を通し世界経済の激流のなかで日本の興亡をみつめ、未来への生存条件を探る。」

 つまり、通商国家としての日本の宿命――世界恐慌、ブロック経済、大東亜共栄圏、日米戦争――を振り返るとともに、今後の、日本の通商国家としての成長、その「イデオロギーにこだわらない」国益追求のあり様を問うことが、この番組の主題だったと思います。

 しかし、この日本の通商国家としての有り様に、武力を用いた満蒙占領や支那大陸からの米国勢力の駆逐等を主張して、軍を政治に引き込み、それを国家主義的イデオロギーに染め上げたその張本人が、森恪であったことを忘れてはなりません。そうであれば、当然、彼の、中国人のナショナリズムを一顧だにしない一人よがりの冒険主義が、日本の通商国家としての宿命を悲劇へと変えていった、この事実について、一言あって然るべきと思いました。

 森恪が、田中義一内閣で外務次官を務め、東方会議という愚にもつかぬ会議を主宰し、日本の大陸政策に対する世界の猜疑心を植え付け、軍の満蒙強硬策を「対米戦を辞さず」の決意にまで高揚させ、三度にわたる山東出兵、とりわけ第二次山東出兵が済南事件という暴虐を結果し、それが蒋介石の中国統一を妨害したとして、中国官民の反日意識をトラウマ化させた。

 さらに、山東出兵後、張作霖の失脚をねらった関東軍の思惑がはずれて張作霖爆殺事件となり、その真因の軍組織を上げてのもみ消し、それが日本国の国際信用を地に落とし、次いで、ロンドン条約締結時の統帥権干犯事件の作為、そしてついに満州事変の勃発、さらにその締めくくりとしての五・一五事件――この時森恪は、犬養内閣の書記官長でしたが、犬養首相の満州事変収拾策(中国の宗主権を認めた形で処理する)や政党政治の堅持、不穏な動きを見せる青年将校の免官等の方針に反対して、対中交渉電報を握りつぶすなど妨害活動に出ていました。また、犬養首相暗事件当夜、首相官邸に駆けつけた新聞記者(木舎幾三郎)の手を堅く握ってニコッと笑った(会心の笑い)といいます。

 この男、昭和7年12月12日に肺炎で死にますが、昭和2年に田中内閣の外務次官となって以降わずか5年間の間に、上記のような手順で、通商国家日本を国粋主義イデオロギー国家へと変質させ、その破滅へのレールを敷いたのです。この事実こそ、当番組では指摘すべきではなかったか、私はそう思いました。

*以下6/14追加

 今、私の手元には『森恪』(山浦貫一著)があります。昭和16年7月25日発行ですから、ちょうど日本が南部仏印に進駐し、アメリカとの対立が先鋭化した時期にあたります。つまりアメリカ何するものぞ、と意気軒昂な頃に出版された本ですから、以上紹介したような森恪の働きがいかに先駆的なものであったかを宣伝称揚しています。当時の日本の大陸政策および国内政治をめぐる世間一般の空気が、いかなるものであったかがよくわかりますので、次にその一節を紹介します。

 「ロンドン條約を繞る森の活動は、その一面では日本の國家主義運動発展の基礎となった。
日本の國家主義運動、普通には、一概に、右翼運動とよばれるところの運動は、思想的には、欧洲戦争後の自由主義、平和思想からマルキシズムの左翼運動に展開して行った潮流に對する反動として、また、外交政策としては華盛頓條約以来の屈辱に對する反抗として、更に、國内的には政党政治の余弊に対する反感として、大正十二年の大震火災以来、漸く、成長の段階に入っていた。

 それが大陸政策の形で、現実に政治の上に姿を現はし初めたのは、田中内閣における森の積極政策であり、國内の政治運動として勢力を擡(もた)げはじめたのは倫敦條約の問題からである。

 森によって、或ひは森の政治的活動を機縁にして、政治に現実の足取りを取り初めた日本の大陸政策と國家主義的思想の傾向とは、平和主義、自由主義の外交、政治思想と、相剋しながら、年一年と発展して行った。今日、所謂革新外交とか政治の新体制とかいはれるところの政治理念は、森恪に発しているといっても敢へて過言ではあるまい。」(上掲書p673)

 この一〇六五ページに及ぶ浩瀚な『森恪』伝記の序文は、なんと近衛文麿が書いていて、その出版記念会の発起人には鳩山一郎も名を連ねています。

 ジャパンデビュー第二回「天皇と憲法」では、国内政治のファッショ化を招いたものとして、政党政治家(犬養毅など)の責任が指摘されていますが、実は鳩山一郎もその一人であり、そして、その黒幕的存在が森恪であったことはいうまでもありません。

*6/14 文章の校正を行いました。