「南京大虐殺」論争における現在と未来(3)

2014年5月 4日 (日)

以上で、いわゆる「南京大虐殺」は中国共産党の政治的プロパガンダに過ぎないこと。もちろん30万人虐殺などということはなく、ただ、それらしく見えたものは、捕虜や敗残兵、便衣兵等の処断であって、南京戦史はこれを1万6千としていること。また、これらの処断は「概して攻撃、掃討、捕虜暴動の鎮圧という戦闘行為の一環として処置されたもの」であって、その当不当の判断は簡単にできるものではないこと。

少なくともこの事件は、当時、国際連盟において問題とされず、中国も、顧維鈞以降問題としなかったこと。なぜか、これらの中国兵の大量処断が生まれたのは、南京城防衛軍の退却失敗によるものであり、とりわけ、防衛軍司令官が南京城陥落直前に、部下将兵に敵中突破を命じたまま敵前逃亡したため、兵士がパニック状態に陥り戦争法規を無視した場当たり的行動に走ったことが、その最大原因と見られたこと。

なお、「南京大虐殺」ではなく、殺人、略奪、放火、強姦などの「南京暴虐」事件としては伝えられたことについて。これについては、日本軍も日本政府も相当困惑したようだが、南京でなぜこのような事態が発生したか、ということについては、次のような要因が考えられます。

(国際環境の問題)
・この頃の欧米人には、一般的に中国に対する同情心が強く、対照的に日本軍に対しては 人種差別意識もあり根強い反感があった。 
・南京の安全区国際委員会を組織するメンバーの中には、国民党の戦時プロパガンダに協 力する者がおり、日本軍の残虐宣伝を、日本政府や国際社会に向けて盛んに行った。

(中国兵の問題)
・南京防衛にあたった中国兵の中には、正規兵の他に現地徴兵されたものも多く、戦争法 規を知らず、軍服を脱ぎ捨て安全区に逃げ込んだものが多くいた。そのため、一般住民 との区別がつきにくく、欧米人にはその摘出処断が一般住民の虐殺のように見えた。
・安全区に逃げ込んだ便衣兵の中は、後方攪乱のため計画的に潜入した者がおり、略奪、 放火、強姦など、「ヤラセ」を含めた攪乱行為を組織的に行い、それを日本軍の仕業に 見せかけた。
・難民自身による夜間の略奪行為等も盛んに行われた。

(日本軍の問題)
・上海戦を全く想定しておらず、そこにドイツの支援によって強大な防御陣地が構築され ていたことも知らなかった。また、中国兵の抗日意識が極めて強く、そのため上海戦は 激戦となり、日本軍は予想外の犠牲を強いられた。そのため、日本兵の中国兵に対する 敵愾心が強くなった。
・日本兵の中には予備・後備の召集兵が多く、兵士としての訓練が不十分で、統制を無視 した略奪や強姦をする者が少なからずいた。
・日本軍の当初の出兵目的は上海の居留民保護で、南京攻撃は計画されていなかった。し かし、中国軍が総退却に転じる中で、杭州湾に上陸した第十軍が制令線を無視してそれ を追撃し、それに釣られる形で上海派遣軍が南京攻撃に向かった。そのため、兵用地誌 も不完全で補給が間に合わず、やむなく食料や物資の現地調達を強いられる部隊が多か った。こうした状態が 南京入場直後の略奪まがいの徴発に反映した。
・一般の中国人民を愛護せよという松井軍司令官と、前線で中国兵と死闘を繰り返してい る指揮官との間に意識のずれがあった。
・満州事変以降、日本政府と軍の関係が二重政府状態に陥っており、安全区国際委員会を 通じた中国の日本軍残虐宣伝に適切に対応することができなかった。

このような諸要因が重なる中で、南京における日本軍の暴虐が伝えられることになったわけですが、その実態がどれほどのものだったか、については、冨沢繁信氏の研究で「事件らしい事件」は極めて少ないということは分かるものの、それ以上のことは分かりません。ただ、その後の都市の占領では、こうした問題がほとんど発生していないことを考えると、先に指摘した「日本軍の問題」点は、その後、相当程度改善されたものと思われます。最後の政府と軍の二重政府状態は最後まで解消されませんでしたが・・・。

以上で、「南京事件」の実態は、ほぼつかむことができたと思います。また、中国の「南京大虐殺」宣伝が政治的プロパガンダに過ぎないものであることも了解いただけたと思います。こうした中国の政治的プロパガンダに対しては、管官房長官が時機を失せず日本側の見解を述べ反論していることは、大変良いことで、今後とも、最新の研究成果を生かして、的確な反論をしていただきたいと思います。

こうした外交的対応策とは別に、日本人自身がこの事件から何を学ぶか、ということについて、最後に私見を申し述べたいと思います。というのは、この事件がその後の日本の運命に及ぼした影響は、極めて大きなものがあったからです。何よりも、これ以降、日本人に「戦勝意識」が生まれ、それに伴う既得権意識を背景に、中国への要求が、満州国承認から蒋介石政権打倒、親日政権の樹立へと次第にエスカレートしていったということです。

蒋介石自身は、こうした日本軍の行動様式については、昭和9年の「敵か友か」以降織り込み済みで、抗日戦争を決意する頃には、次のような持久戦戦略構想を持っていました。

まず、華北の日本軍が、平漢鉄路に沿って南下し中国の中央を縦断し、東側に残る中国軍主力を圧迫し、それに決戦を挑むことになれば中国軍は決定的に劣勢となる。それを避けるためには「中国軍の一部は華北の日本軍と持久戦に持ち込み、山西省を確保する。機を見て主力を華東に集中、上海の敵に攻勢をかけ、日本軍の作戦線を長江沿いに東からにへ向かうよう転じさせる。」

これによって、中国軍は大後方への補給線の撤退を余儀なくされたが、日本軍の当初の”即決戦略”は崩壊した。これによって「中国軍は補給線を確保できただけでなく東南地区の人力と物力を大後方に移す時間的余裕」ができた。逆に、「日本軍は補給線が長くなり、また海軍力を発揮させることができなくなったため、補給は一段と困難を極めることになった。」(『蒋介石秘録(下)』p218)実際この通りに推移したわけですね。

ところで日本政府は、上海戦が膠着状態に陥った昭和12年の11月初め、駐華独大使トラウトマンを通じて、船津工作をもとにした宥和的な和平提案を蒋介石に対して行いました。しかし、蒋介石はこれに応じず、南京陥落が不可避となった12月初めになって、ようやく和平交渉に応じる姿勢を示しました。しかし、日本はこの間の戦況の変化を理由に和平条件を加重したため、この和平工作は失敗しました。

この時、参謀本部は、この戦争が持久戦争となることを恐れて、なんとかこの和平工作を継続しようとしました。しかし、政府側(陸軍省を含む)は蒋介石にその意志がないとして、この和平交渉を打ち切り、近衛首相は”蒋介石を対手とせず”声明を出しました。つまり、蒋介石政権に代わる親日政権を樹立しようとしたのです。その後、政府は戦面不拡大策をとりましたが、それも長く続かず、軍は、中国軍との決戦を求めて徐州作戦(13.4~5)、漢口作戦(13.5~10)を行い、さらに、援蒋物資の遮断を目的として広東作戦(13.6~9)を行いました。しかし、中国は屈服せず、長期消耗戦への移行が確定的となりました。

しかし、漢口・広東作戦の終了後は、南昌、南寧作戦(14.3~15.1)などの局地戦を除いて大規模な軍事作戦は中止されました。この間、陸軍は、その主力が長期戦の継続によって中国大陸に釘付けされ、一方、張鼓峰・ノモンハン両事件でソ連極東軍の軍事力が質量共に日本軍を優越している事実が認識されて以来、対ソ戦略への転換を要望する声が高まりました。

しかし、「39年初頭、すでに約100万の大軍に膨張し、広大な占領地の上に政治的、経済的、軍事的支配体制を築いていた支那派遣軍は、大本営も容易に統制しがたい巨大な存在に成長し、対ソ戦への転換を困難」にしていました。この頃から、「陸軍省・参謀本部の戦争指導関係者には、戦争の前途に対する憂慮が深まり、汪政権の育成を促進し、重慶政権との間に和平工作を積極化しながら日本の兵力を削減し、占領地を縮小して自主的に事変を終結させようとする構想が生まれ」ていました。

これに対しては、支那派遣軍の強い反対がありましたが、結局、昭和15年5月に「昭和15,6年を目標とする対支処理要項」を確定し、「自主的に体制の収縮を決意し、なるべく早期――遅くとも41年秋まで――に実行する」とされました。しかし、他面では現地軍等の積極策に押されて、6月の宜昌作戦中途で大本営は方針を変更し、その後、占領地区はかえって拡大することになり、さらにその後の情勢変化が加わって、こうした漸減方針は立ち消えとなりました。(『日中戦争史』秦郁彦 参照)

このように、南京占領以降の日本の対支政策の流れを見てみると、それ以前の宥和的な和平条件(満州国の承認、日中防共協定の締結、排日の停止を骨子とし、華北分離工作以来の華北の既成事実の放棄するなど)が、蒋介石政権打倒、親日政権つまり日本の傀儡政権樹立という、「侵略的」な政策に転化したということが分かります。

もちろん、こうした日本の政策が中国国民に支持されればいいわけですが、「日本が8年間にわたる日中戦争の過程で、中国本土から収奪したものは想像以上に大きかった。駐留軍の自活物資調達(ほぼ全期間を通じ、百万に近い日本軍の必要物資は、大陸で賄われた)や、それに伴う軍票、連銀、儲備券の乱発によるインフレ収奪を除いても、中国人企業の接収→軍管理→日本起業家への経営委任という占領直後の臨時措置が、どさくさにまぎれて事実上の所有権移転にまで至った例は少なくなかったらしい。(「前掲書p318」)というほど、実態的には、略奪戦争的色彩が濃厚に見られたといいます。

つまり、戦勝に伴う軍の既得権意識が制御不能なまでに膨張し、日中戦争の大義名分が失われる中で、政治的にも経済的にも秩序ある占領地統治ができなかったのです。また、中国ナショナリズムの憎悪もあり、日本の傀儡政権に対する中国国民の支持も集まりませんでした。その間、広大な占領地に点在する都市や、伸びきった補給線に対する国民党軍や共産軍のゲリラ攻撃があり、その討伐に出ては空撃に終わる、ということを繰り返しました。その結果、周辺農民の収奪はさらに進み、日本軍への反感が高まるという悪循環に陥りました。

では、もともと日本が中国に求めたものは何だったのでしょうか。それは、大正末期から昭和にかけて深刻となった日本の人口問題、資源問題、貿易問題に対処することでした。そのため、満州における日本の特殊権益を中国に対して主張したことが最初でした。それが、満州事変を経て満州占領→満州国の樹立→中国に対する満州国承認の要求→華北の非武装化→華北の資源獲得→華北の親日政権の樹立へとエスカレートしていったのでした。

こうした流れをドライブした要素は二つあって、その一つが、石原莞爾の最終戦総論に象徴される「東洋王道文明vs西洋覇道文明」という対立図式を前提とする、日中連携・資源共有による日支提携構想。二つ目が、満州事変が成功した?ことによって、日本軍に蔓延した「結果オーライの既成事実主義の横行」、それによる軍の統制力の低下、さらに深刻な問題としては、日本外交が政府と軍とで二重化したこと・・・。

この二つの要素が重なって、日中全面戦争の危機が高まり、ようやく、それに気づいた日本は、慌てて、塘沽停戦協定以降の日本の既得権を全て放棄することで、なんとか中国との和平を確保しようとしました。しかし、中国共産党の思惑もあり、ついに蘆溝橋事件から上海事件と連鎖し、そして南京城攻撃となったのです。そして、これに勝利したことで、先の日中和平の条件が忘れ去られてしまいました。

といっても、仮にこれが忘れられなかったとしても、所詮その条件での和平は不可能だったでしょうね。日本側も、中国のイニシアティブで始まった上海戦以来すでに6万の死傷者を出しているし、政治的にそれを決断することは到底無理な状況でした。また、蒋介石は、早くから持久戦に持ち込むことを考えていましたし、日本外交が二重化している現状を踏まえて、この和平交渉が成立するとは思っていませんでした。

こうなると、日中戦争を経て対米英戦争に至る道は、だれにも止められなかった、ということになります。小林秀雄の言でいえば「僕は政治的には無知な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。…僕は歴史の必然性といふものを、もつと恐ろしいものと考へている。僕は無知だから反省なぞしない。利口な奴はたんと反省してみるがいいぢゃないか」ということになります。

では、こうした悲劇の道筋を止める方法があったでしょうか。あったとすれば、どこでどうすべきだったでしょうか。私見では、それは先に紹介した二つの要素を克服すると言うこと。つまり、一つは東洋文明vs西洋文明という対立図式を克服すること(これは尊皇思想の克服ということと同義)。もう一つは、結果オーライの既得権主義の克服、つまり、法の支配を確立するということです。少なくとも当時の日本には、それだけの思想的な力はなかったということですね。

当たり前のことのようですが、これが日中戦争から学ぶべき、日本人の最大の課題ではないかと、私は考えています。

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