「南京大虐殺」論争における現在と未来(1)

2014年4月23日 (水)

南京大虐殺があったかなかったかを論ずるとき、中国がいうような虐殺数30万がプロパガンダにすぎないことは誰にでも判ります。実際には、便衣兵あるいは投降兵などの処断が約1万人程あったということで、これを今日の価値観で見れば、1万人であっても立派な虐殺ということになります。

もちろん、それが一般市民の殺害であったら間違いなく大虐殺ですし、その場合は、例え100人以下であっても虐殺とされるでしょう。しかし、南京事件の場合、処断されたのは便衣兵や、投降後暴動等を起こした中国軍兵士であって、これらは、当時の国際法に照らしたとき、不法殺害とは見なされなかったのです。

また、このように、便衣兵や投降兵が大量に出たのは、中国軍が防衛不可能な南京城の防衛をあえてやろうとしたこと。にもかかわらず、南京城陥落直前、指揮官らが、降伏をしないまま、部下将兵に日本軍の囲みを破って脱出し、一定の場所に集結することを命じて、自らは南京城を脱出(敵前逃亡?)したためです。

そのため、部下将兵がパニック状態に陥り、南京城から脱出しようとするもの、督戦隊に射殺されるもの、城壁から墜死する者、揚子江で溺死するもの、城外で日本軍と抗戦するもの、軍服を脱いで安全区に逃げ込むもの、後方攪乱を目的に安全区に潜入するもの、大量投降するもの、投降後に暴動を起こすもの等、無秩序な大混乱状態が発生したのです。

さらに言えば、こうした混乱状態が生じることは、事前に、中国軍の指揮官にも当然予測されていたわけで、にもかかわらず、蒋介石は、むしろ、こうした混乱状況を「日本軍の南京占領をできるだけ高価なものにすることを意図」(ダーディン)して、あえてそれを選択したのです。

こうした事実が、当時の人々にはよく分かっていたのですね。だから、中国は、当時この事件を宣伝すればする程、自らの失態をさらすことになりかねないので、戦時中はこの問題に触れなかった。おそらく、戦後、国共内戦が熾烈に立っていく中で、共産軍がこれを国民党批判に利用しようとしたのではないでしょうか。それに対する防衛策として、南京大虐殺が、アメリカの思惑とも重なって、東京裁判で取り上げられたのではないでしょうか。

もちろん、この頃には、先に述べたような、南京事件が発生した当時の事情はほとんど忘れ去られていました。というより南京事件自体が忘れ去られていました。そのため、日本軍が、以上のような状況下で発生した便衣兵や投降兵を処断したことが、あたかも不法殺害であり大虐殺であったかのように見なされるようになったのです。

しかし、東京裁判におけるこうした南京大虐殺の告発は、もともと事実に基づいたものではありませんし、中国国内における覇権争いにおいて、国民党が敗れ共産党が政権を握ったことで一応収束しました。中共はこの事件が蒋介石の責任に帰すものであることをよく知っていましたから。

ところが、この問題が、日中国交回復期を迎えて、中国側の外交カードの一つとして利用されるようになったのですね。中国が文化大革命の混乱を経て経済復興するためには日本の援助を必要としていました。しかし、これを中国側の要請ではなく日本側の贖罪とするためには、日中戦争における日本軍の残虐行為をハイライトする必要があったのです。

当時の日本人には、東京裁判によって植え付けられた贖罪意識や「一部の軍国主義者論」(悪かったのは一部軍人で一般の日本人には罪はないとする考え方)がありましたから、こうした中国の宣伝にまんまと嵌ってしまったのです。さらに、戦後の平和が続く中で国際政治のリアリズムが見失われ、南京事件をその時代の状況の中で理解するのではなく、今日の価値観でしか見れなくなってしまった。

ここには、歴史的事件を今日の価値観で裁くことの間違いがあります。こうした考え方がいかに間違っていたかは、東中野氏や冨沢氏ら多くの南京事件研究者が、当時の国際社がこれを「虐殺事件」として全く取り上げなかったという事実を発見したことによって、ようやく明らかになりました。

ここに、南京事件では”通常の戦争犯罪はあったが、「南京大虐殺」はなかった”とする主張の根拠があります。しかし、今日の平和な時代に生きる人々が、戦争中のリアリズムを理解することは極めて難しい。また、これに加えて、中国や韓国のように、歴史的事件を今日の政権に都合の良いように書き換えることを当然とする国があり、自国に都合の良い歴史認識を日本に強要し、また世界に宣伝しようとするため、この両者が結びついてしまう。

そこで、この両者の論理の克服が求められるわけですが、この点、偕行社の『南京戦史』が、この事件の基本的な事実関係を明らかにしたことは、この問題を解決に導く上で極めて大きな意義があったと思います。さらに、便衣兵や投降兵等の処断について、その「当・不当」の判断を留保したことも誠に賢明な判断でした。

ともあれ、中国(共)の主張はすでにウソであることが証明されましたから、ひと山越えたと思います。また、前者の、”歴史的事件を現代の価値観で裁く傾向の克服”については、日本人自身が、歴史的思考法を身につけていくことで克服するしかないと思います。

その意味で、日本人の「歴史認識」を巡る議論は、こうした日本人の課題を解決していく上で、大変良い演習問題になると思います。中国や韓国の主張がエキセントリックであればある程、かえって、日本人の眠気を覚まさせる上で効果的だと思います。合わせて、領国の人々の目も覚めると一層よろしいのですが・・・。