「南京大虐殺」は東京裁判の「作り話」。「南京事件」が相当。その主因は国民党軍の退却の失敗(3)

2014年4月12日 (土)

前回、中国が”被害者は30万人以上”という「南京大虐殺」は、実は、ベイツのいう「4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかって兵隊になったことのない人びと」が示す規模であったこと。また、ここでいう「非武装の人間」というのは兵士であり、「かって兵隊になったことのない人々」は、安全区に軍服を脱いで逃げ込み摘出処断された便衣兵や、投降後暴動を起こして処断された兵士その他だった、ということを申しました。

ここで問題になるのは、「安全区に軍服を脱いで逃げ込んだ便衣兵や、投降後暴動を起こした兵士の処断が合法的であったかどうかということで、この議論は1980年代以降日本でも盛んになりました。今日の平和な時代から見れば、彼らは無抵抗の捕虜なのだから殺せば虐殺と同じだ、ということになりますが、肝心なことは、南京が陥落したといっても戦争状態は継続していたということで、事実、安全区では便衣兵による後方攪乱行為が盛んに行われていたのです。

戦争が継続している限り、敵の兵力を削減するするため殲滅が行われるのは当然です。従って、不法戦闘員と見なされた便衣兵が処断されても、また、捕虜が暴動を起こして処断されても、戦争法規上は問題とはならなかった。もちろん、「その他」に含まれる投降兵の不法殺害もあったと思いますが、少なくとも、一般市民を対象とした日本軍による組織的な殺戮が行われた証拠はありません。それらしく見えたのは、あくまでも、こうした便衣兵の処断だったのです。

本稿(1)でも言及しましたが、「南京大虐殺」についてその被害者数を問題にすると、たとえ”被害者30万人以上”ではなく1万人程度であったとしても大虐殺ではないか、ということがいわれます。これは当然で、もし、南京で、一般市民が1万人どころか、その十分の一千人以下であったとしても、日本軍による一般市民の組織的虐殺があれば、当時の状況下で、それが国際問題にならないはずがありません。

ところが、1938年2月2日の国際連盟の「極東問題の紛争についての決議案」には、その事件への言及はありませんし、「権威ある年鑑『チャイナ・イヤーブック』(1938年版)」の1937年12月の主な出来事にも南京虐殺に関する記述はありません。なお、「南京暴虐事件」はありますが、それは1927年3月24日の南京戦の10年前に起こった事件のことで、1937年12月の「南京事件」はないそうです。(『南京「事件」研究の最前線』平成20年版p78)

では、1937年の「南京事件」がどのようにして知られることになったかというと、それは、国民党中央宣伝部顧問だったティンパーリの名前で出版された『戦争とはなにか』が1937年7月に出版されて以降のことです。その本の中で「虐殺」のルーツとなった記述が、冒頭に紹介した、ベイツによる「4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかって兵隊になったことのない人びと」でした。

では、なぜ彼らは、この中華民国政府の「対敵宣伝本」である『戦争とはなにか』の出版に協力したのでしょうか。一つは、国民党宣伝部が「外国人を動かして行う宣伝活動」を行ったこと。もう一つは、南京の宣教師らの目には便衣兵らの処刑は極めて残虐に見えたこと。また、当時は「親日的な外人記者は一人もいない」という状況だった、ということが指摘されます。(『南京「事件」研究の最前線』平成 年版p)

この件に関して、『戦争とはなにか』の末尾には次のようなことが書かれています。

「国の経済生活を支配している大財閥と結託した軍国主義者が日本を支配している」「中国が(日本に)屈服することは許されない。もし屈服することにでもなれば、人類は今後、何世代にもわたって善悪のけじめをつける権利を放棄することになろうし、現在、中国が体験している言語に絶する参加を自ら繰り返す危険をおかすことになろう」(『日中戦争史資料9』p101~102)

つまり、日本軍の「人類に及ぼす危険性」を国際社会に知らしめるために、その最も効果的な宣伝方法として、日本軍の残虐性・暴虐性を告発することが有効と考えられた。そしてこれを国際社会に宣伝するためにこの本が書かれた。しかし、さすがに、先のベイツの記述は、繰り返しになりますが、当時の南京戦の実態を知るものにはウソであることが明白だった。そこで、この本の信用性を維持するために、その漢訳本からはその記述が削除された。

さらに、国民党「国際宣伝処が1937年12月1日から1938年10月24日まで、南京戦を挟む約1年間の間に300回の記者会見を外国人記者を集めて開いた」そうですが、その中で「ただの一度も南京で『日本軍が市民虐殺をした』だとか『捕虜の不法殺害をした』だとかを言っていない」そうです。「またそうした質問が記者から出されたという記録もない」ということです。(『南京「事件」研究の最前線』平成20年版p79~80)

といっても、確かに、このベイツの記述のうち「非武装の人間」や、「兵隊になったことのない人びと」というのは虚偽ですが、4万人近くの中国軍兵士が「南京城内または城門の付近」で殺されたことは、ほぼ事実だと思います。また、その内約30%1万2千人は、軍服を脱ぎ捨て平服をまとって安全区に逃げ込んだ後摘出処断された便衣兵や、投降後暴動を起こして処断された中国軍兵士その他のことだと思います。

このことは、偕行社の『南京戦史』による中国軍兵士の戦死者数や撃滅処断数ともほぼ一致していることで確認できます。もちろん、これらの撃滅処断された兵士の中に、不法殺害された者もいたと思いますが、先ほど述べた通り、少なくとも、一般市民の組織的・集団的虐殺が殺害がなされたという証拠はありません。

このことは、「南京事件」の事例が全部集まっているとベイツの言う『南京安全地帯の記録』からも知ることができます。この記録に記載された事件のの中から、文責のない事件を除き、さらにその中から被害者名不明の人的事件、及び、被害場所不明のその他の事件を除いて「事件らしい事件」を抽出した結果、次のようなことが冨沢繁信氏の研究で明らかになりました。

それは、この記録に記載された犯罪事例517件のうち、上記のスクリーニング作業によって抽出された「事件らしい事件」といえるものは、合計95件であり、その内殺人2件、強姦5件、拉致7件、略奪51件、放火1件、傷害2件、侵入13件その他14件に過ぎないということ。つまり、その他の事件は「伝聞」の域を出ないものだということです。

これらのことを総合的することで「南京事件」の実相はほぼつかめます。これまでの議論をまとめていえば、この事件による中国軍兵士の犠牲者数はベイツのあげた数字がその実態を反映しているということ。さらに、その数が約4万人に達したのは、南京城防衛司令官であった唐生智が、南京城陥落直前の12月12日午後8時、部下将兵に敵中突破を命じ、あるいは安全区に潜り込んで後方攪乱するよう命じ、自らは船で南京城を脱出したためであること。

もちろん、日本軍にこうした事態に備えるための準備があらかじめできており、また、南京城凱旋入場式が12月17日に強行されるようなことがなければ、便衣兵や大量投降兵の扱いも、もっと落ち着いた方法でやれたと思います。しかし、日本軍の南京城攻撃事態が、現地軍、特に第十軍に引きずられる形で、補給も無視した状態で強引に行われたために、そうした余裕がありませんでした。

この点が、従来、厳しい批判にさらされてきたわけですが、しかし、これは”「南京事件」の実相を問う議論とは別個に議論すべき問題です。とはいえ、この点を押さえないと、”するつもりも、する必要もなかった日中戦争”がなぜ起こったかという疑問に答えることができません。そこで、以下、この点について私見を申し述べたいと思います。

そもそも、なぜ、日本軍は中国と戦争を始めたか。その目的は何だったのか、ということですが、それまでの日本と中国の外交交渉の経過から見れば、その目的は、中国に「満州国を承認させる」こと。当時の欧米人の目にはそのように見えたそうです。従って、その目的が達せられたなら、この戦争は終わるはずだと。(『日本人と中国人』イザヤ・ベンダサン)

もちろん、中国が満州国を承認することは、日本の満州支配を中国が認めることになるから、これは、当時、国家統一期にあってナショナリズムの沸騰する中国には政治的にできない。しかし、日本軍は、それを華北分離(その非武装化から親日政権の樹立まで)で達成しようとした。これが華北の満州化を恐れる中国人の反発を招き、蘆溝橋事件の勃発を見ることになった。

では、日本人はこの事態にどう対応したか。事変の勃発に驚いて、華北分離工作後の日本の権益を全て放棄することにより事変の拡大を防ごうとした(「船津工作」)。しかし、時すでに遅く、事変は上海に拡大し日中全面戦争となった。戦況が膠着状態を迎えた11月はじめ、日本は「トラウトマン和平工作」による事態の収拾を図った。その条件は「船津工作」と同様のものだった。

この日本の提案に、当時中国軍の幕僚長代理であった白崇禧は「こんな条件ならなぜ戦争するのか」と述べたという。というのは、その提案は、満州国の正式承認ではなく実質的承認を求めていたから。しかし、蒋介石は日本軍不信から回答を引き延ばした。しかし、上海の戦線が崩壊し日本軍による南京城攻撃が間近となる中で、蒋介石はこの提案に基づく和平交渉に同意した。

しかし、日本は蒋介石の回答が約1ヶ月遅延し、この間、戦況が変化したことを理由に、先に示した和平条件を加重した。そのため、この「トラウトマン和平工作」は暗礁に乗り上げた。この間、日本軍による南京城総攻撃が行われた。日本軍はその直前に南京城を防衛する中国軍に対して投降勧告をしたが、南京防衛軍総司令官の唐生智はこれを無視した。

こうして「南京事件」が発生することになったわけですが、この時、欧米人の感じた疑問は、この戦争は「中国による満州国承認」を巡って争われたはず。日本はこの戦争終結の条件として、ドイツのトラウトマン大使を介し、その正式承認でなく実質承認を求めたはず。そして蒋介石はその提案を受諾したはずだ。なのに、なぜ日本は南京城を攻撃した?

これが、「南京事件」を巡って、日本の味方をする欧米人が一人もいなくなった理由だとベンダサンはいうのです。つまり、この戦争は「中国の満州国承認」を巡って起きたのだから、蒋介石がそれを認めた段階で終わりになるはずだ。なのに、日本は戦争を止めないで南京城を攻撃占領し、暴虐の限りを尽くした。日本人は好戦民族・残虐民族なのかと。

これは、イザヤ・ベンダサンの見方で、こうした見方に異論を唱える人も多いわけですが、上海事変に始まる日中戦争が中国のイニシアティブで始まったにもかかわらず、なぜ、「南京事件」に関して日本の見方をする欧米人が一人もいないような状態になったか、という疑問を解く上では、肯首せざるを得ない見方ではないかと思います。

つまり、問題は、日本は「目的不明の戦争をだらだら続けた」ということ。その結果、南京戦に限っても、日本軍の戦死者約1万を含め、合計約5万の人命が失われたということ。日本が日中戦争において、その戦争目的「中国による満州国の承認」を自覚していさえすれば、蒋介石がそれを認めた段階で、戦争は終結させ得たはずだ、ということです。

考えてみれば、このように、既成事実の積み上げをしているうちに、もともとの「目的」が分からなくなってしまう傾向、これが昭和史において顕著になったのは、謀略による満州事変を結果オーライで日本政府が認めて以降のことです。こうした傾向が、本稿の主題である「南京事件」に止まらず、泥沼の日中戦争ひいては日米戦争を招いたのではないか。

そして、このことの理解は、虚構の「南京大虐殺」に振り回されて、日本人の残虐性を告発する態度からは決して生まれない。それは、果てしない自己正当化を生むだけで、日本人が抱える以上指摘したような思考上の弱点を克服することには繋がらない。「南京事件」の真相の解明はそのためにこそなされなければならない。私はそう考えます。