「南京大虐殺」は東京裁判の「作り話」。「南京事件」が相当。その主因は国民党軍の退却の失敗(2)

2014年4月 5日 (土)

「2014年4月1日、南京大虐殺記念館の朱成山(ジュー・チョンシャン)館長は、事件の被害者数について菅義偉官房長官が「人数については様々な意見がある」と述べたことについて「すでに歴史的に結論が出ている。否定し、覆そうとするいかなる試みも幼稚なものだ」と非難しました。

合わせて「朱氏は「“南京大虐殺の被害者は30万人以上”という数字は、東京裁判の“南京占領から6週間の間に大量の死体が川に投げ込まれたり焼かれるなどし、虐殺された一般人と捕虜は20万人以上に上る”とする判決書から間接的に出たものだ。“大量”がどのくらいかについては、日本軍第二碇泊場司令部の太田寿男少佐が15万人と供述している。これに東京裁判で確認された20万人以上という殺害数を加えると、東京裁判で30万人以上が虐殺されたという判決が出たことは容易に見出すことができる」と述べました。(2014年4月2日RECORD CHINA)

ここには、太田寿夫の証言15万人が出てきますが、その供述書は撫順戦犯管理所で作成されたもので、これが虚偽であることは「梶谷日記」により証明済みです。(『本当はこうだった「南京事件」』P423)。朱成山(ジュー・チョンシャン)館長はこれを知らないだけでなく、これに東京裁判の”20万以上”を加えて”30万以上”としているわけですが、この東京裁判の”20万以上”が虚偽であることは、前稿で述べた通りです。

さて、前回、東京裁判が「南京大虐殺」の証拠としたものは、主にベイツの証言であり、そのオリジナルテキストは、ベイツが『戦争とはなにか』(1937.7出版)に記載した次の記述であると申しました。
「埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかって兵隊になったことのない人びとである」
しかし、この記述は、その本と同時に出版されたその漢訳本や、国民党の国際問題研究所が主催して制作した『日本軍の戦争行為』や『南京安全地帯の記録』など4冊の英語版からは削除されていたのです(『南京「事件」研究の最前線平成20年版』p39)。

その理由は、前回述べた通り、この記述は紅卍字会の埋葬記録と矛盾しており、また、当時の人々の目には虚偽あることが明白だったので、中国側も、この記述は削除した方がよいと判断したのではないかと思います。といっても、この記述を次のように修正すれば、より、「南京事件」の実相に近いものになります。
「埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの『中国兵』が南京城内または城門の付近で戦闘により或いは不法戦闘員その他により殺され、その内の約30パーセントは『軍服を脱ぎ平服を纏って安全区に逃げ込み、あるいは潜入した便衣兵」であった」

これは、資料的に最も信頼できる『南京戦史』が見積もった数字とほぼ同じです。『南京戦史』は南京防衛軍の総兵力約7万6千人、戦死(戦傷病死を含む)約3万人、生存者(渡江、突破成功、釈放、収容所、逃亡)約3万人、捕虜・敗残兵・便衣兵の撃滅処断約1万6千人としています。問題は処断数1万6千人の当、不当ということですが、『南京戦史』は、その「状況判断、決心の経緯」が分からないのでその考察は避けた、としています。

この、日本軍に処断された1万6千人のうち、安全区から摘出された中国軍の兵士約7千人は「便衣兵」です。この便衣兵の処断について、秦郁彦氏は「便衣兵は捕虜と異なり、陸戦法規の保護を適用されず、状況によっては即時処刑されてもやむをえない存在だが、だからといって一般市民と区別する手続きを経ないで処刑してしまっては言いわけができない」といっています。つまり「捕虜の中に便衣隊、つまり平服のゲリラ」がいたため、それを区別するための裁判が必要だった」といっています。

この点について東中野修道氏は、秦氏のこの見解は「便衣隊」と「便衣兵」を混同している。秦氏のいう裁判は、軍律に基づいて行われるもので、それは占領地の軍司令官が占領地における軍の安全と秩序維持のために発令する「住民取締の命令」(信夫『戦時国際法提要』上巻810項)ものである。つまり、交戦者たる資格を有しない常人(市民)が「凶器を深くこれをポケット内の蔵し、・・・機を狙って主として敵兵を狙撃する」ような場合(これを便意隊という)に適用されるものである。しかし、南京の安全区に軍服を脱いで私服をまとい市民になりすました正規兵(これを便衣兵という)は、「不法戦闘員」であって、そうした裁判の手続きは必要とされない、といっています。

もちろん、日本軍は、この便衣兵の摘出に際して、これが市民であるか中国兵であるかを区別するための手続きを、厳密とはいえませんがとっています。また、中国兵には、正規兵の外に、地元で徴兵された軍夫のような補充兵も多くいましたから、市民が間違って摘出するようなことがあったかもしれません。しかし、その中で処刑の対象となった者は、抵抗心の強い正規兵が中心で、抵抗しない者は捕虜として収容され労役に使用されたり、後には維新政府の軍隊に編入された者も多くいました。

この他、南京城内の安全区で摘出された中国兵約7千人を除いた残りの9千人(安全区外および南京城外の周辺で処断された者)については、その処断に至った状況は様々で、幕府山付近での大量投降後の捕虜暴動で射殺された例など、不測の事故というべきものもあります。問題は、南京防衛軍司令官であった唐生智が、城内に取り残されることになった部下将兵に投降を許さず、敵の包囲を突破して所定の地域に集結するよう命令したということです。

しかし、南京城は北と西が揚子江に囲まれ、日本軍は東と南から南京城を包囲するように攻め上りましたので、中国軍は南京城に「袋のネズミ」となりパニック状態に陥りました。そのため、城門から脱出しようとして墜死する者、督戦隊に射殺される者、揚子江を渡ろうとして溺死する者、陸上を攻め上る日本軍の包囲を突破して脱出しようとする者、日本軍と衝突して殲滅される者、あきらめて投降する者等々悲惨な状態に陥りました。日本軍はこうした状況に部隊毎の対応を迫られ、その結果、南京城外近郊における約9千人の中国軍将兵の処断を生むことになったのです。しかし、この場合の当、不当の判定は『南京戦史』がいうように極めて困難です。

しかし、こうした状況は、当時の人々にはよく分かっていて、彼らは「これらの日本軍の処断を批難しませんでした。南京の欧米人も、南京に事情調査に来た東京のアメリカ大使館付き武官も、漢江の国民党宣伝部も、日本軍による「便衣兵処刑」を「戦時捕虜(POW)処刑」とは非難しませんでした。戦争という状況のもとでは、戦争のルール、戦時国際法に則って判断するよりほかなかったからで.そのときの状況を、身をもって肌で感じながら判断していたのが、あの時代の人々」だったのです。(『南京事件研究の最前線』H20年P58)。

では、唐生智は、なぜ、中国軍将兵がこうした状況に陥らないような適切な措置を講じなかったのでしょうか。南京城が防衛上極めて不利な地理的環境にあることは当時の中国軍指導者にはよく分かっていました。従って、南京城放棄も検討されたのです。それに反対して南京城防衛を買って出たのが唐生智で、彼は12月9日の日本軍の降伏勧告を拒否しました。ところが、12月12日になって、三日間の休戦協定(この間に中国軍は撤退し、日本軍に町を明け渡す)を日本軍と結びたいので、国際委員会に仲介して欲しいと申し出ました。しかし、蒋介石の承認は得られなかったらしく、そこで唐は、責任逃れのため「休戦願いは我々国際委員会の一存だと見せかけ」ようとした、と「ラーベの日記」に記されています。

また、例のアイリス・チャンの『レイプ・オブ・ナンキン』には、唐生智が「敵前逃亡」するに至った経緯について、次のように記されています。 

 「しかし、もっと悪いニュースが唐を待っていた。そして、今回の悪いニュースは敵の成功によるものではなく、蔣自身の側から届けられたものだった。12月11日正午、唐の本部に顧祝同将軍からの電話が入った。顧は唐配下の軍団の全面退却を命じ、これは蒋からの直接の指示であると通告した。唐自身は、川の対岸にあり、渡河船と鉄道の終点である浦口に直行すると、待機している別の将軍が彼を安全な場所に移動させるということだった。

 唐の表情に衝撃が走った。自分の軍団を見捨てるという、およそ指導者として不名誉な選択を要請されている事実はおくとして、彼は別の非常に深刻な問題を抱えていた。その時点で、彼の軍は、苛烈な戦闘の最中にいた。彼は顧に、日本軍がすでに前線に突入していて、退却命令の実行は不可能であると説明した。それは実際には潰走に転じることになる。

 顧は言った。「それについて憂慮する余裕はない。とにかく、貴殿は今夜中に退却しなければならない」。

 突然かつ性急な退却がもたらすと思われる結果について唐が再度説明すると、顧は、蒋が個人的に唐に「今夜中に渡河する」よう命令していることを思い出させた。必要ならば部下を残して状況に対処させろ。しかし「貴殿は今夜中に川を渡らなければならない」。顧は繰り返した。

 不可能だ。唐は言った。どんなに急いでも、揚子江を渡ることができるのは明日の夜になる。顧は、敵との状況が切迫した事態に発展しているので、可能な限り早く市を離れるよう警告した。

 その日の午後、唐は命令を促す蒋の電報を受け取った。「唐司令長官、戦況を維持できないのならば、将来の反攻に備えて、[軍を]保存し、再編成するために、退却の機会をつかむべきである。十一日」。その日のうちに、窮迫する唐のもとへ、蒋からの二通目の電報が届き、再び退却を迫った。

戦線を維持できず、圧力をかけられ、唐は従うことにした。それは中国の軍事史上最悪の結果のひとつをもたらすことになる決定だった。」(上掲書p92~93)

つまり、唐生智は勝手に「敵前逃亡」したわけではなくて、それは蒋介石の命令によるものだったというのです。これをまとめると次のようになります。

蒋介石は12月11日に唐生智に全面退却を命令した。しかし、時すでに遅く、それは味方将兵の潰走とならざるを得ない。そこで唐は、その「突然かつ性急な退却がもたらす結果」を蒋に説明したが、蒋は唐に退却を命令した。そんな緊迫した状況の中で、唐は、国際委員会を仲介に立て「三日間の休戦協定」を日本側に提案しようとした。しかし、これは蒋介石の承認は得られず、そこで、やむなく唐は、部下将兵に敵の包囲を突破し所定の地域に集結すること。安全区に便衣兵と潜り込ませ攪乱工作を行うことなどを指示」した後、南京城を脱出した・・・。

この結果、必然的に「南京事件」が発生することになったのですが、さて、その功罪はどう判定されるべきでしょうか。もし、唐生智が降伏していたら、もちろん「南京事件」は発生しませんでした。一方、唐が、この段階で「三日間の休戦協定」を結ぼうとしても、それは降伏同然のものにしかならなかったでしょう。だから蒋介石はこれを認めなかった。そのため唐生智は、それが軍事史上最悪の結果になることを承知の上で、南京城陥落前日の夜8時に南京城を脱出したのです。

こうして、約1万6千人の捕虜・敗残兵・便衣兵が日本軍に撃滅処断されました。この場合、もう少し早く退却を決定していれば、中国兵はパニック状態に陥ることなく退却できたでしょう。また、日本軍の包囲を突破するよう命令したり、安全区への便衣兵の潜入など戦争法規違反となるようなことを命じなければ、犠牲者数はもっと少なくて済んだでしょう。というのは、唐(というより蒋介石)がこうした措置をとったために、南京陥落後も戦闘状態が継続することになり、そのため、当初は便衣兵の逮捕監禁だった日本軍の命令が、残敵掃討となり、ついには捕捉殲滅へとエスカレートしたのです。

こうした事情が判っていたためか、こうした日本軍の処置は当時はほとんど問題とされず、従って、「南京事件」とは、『戦争とはなにか』の副題である通り「外国人の見た日本軍の暴行」でした。つまり、日本軍が南京占領後、日本軍兵士によると思われる強姦、略奪、殺人、放火、拉致、傷害、侵入などが相次いだことから、安全区国際委員会の欧米人が、それを日本軍の暴虐の告発宣伝材料としたのです。しかし、その暴行事例の多くは、難民区の中国人によるものや、安全区に潜入した便衣兵のよる攪乱行為であったことが、その後の冨沢繁信氏らの研究で明らかとなりました。

なのになぜ、中国は「南京大虐殺の被害者は30万人以上」という荒唐無稽な主張を、東京裁判判決を根拠に世界に向かって宣伝しようとするのでしょうか。東京裁判判決が主に依拠した資料は、先に見た通り、ベイツの証言です。その真相は「4万人近くの『中国兵』が南京城内または城門の付近で戦闘により或いは不法戦闘員その他により殺され、その内の約30パーセントは『軍服から平服に着替えて安全区に逃げ込み、あるいは潜入した便衣兵だった」です。それをあえて、東京裁判の”20万以上”という虚偽の数字に、、すでに虚偽であることが証明済みの太田寿夫の供述15万を加えて30万としているのです。

しかし、虚偽の宣伝はいつかはバレる。日本としては、辛抱強く事実を解明し、その事実をもって、そうした宣伝の愚かしさを、世界に訴えていく必要があると思います。

*下線部分の表現は最終的に「戦闘により或いは不法戦闘員その他により」としました。「その他」には、交戦法規違反や日本軍による不要な害敵行為も含まれます。
(最終校正2014.4.6 20:21)