「南京大虐殺」は東京裁判の「作り話」。「南京事件」が相当。その主因は国民党軍の退却の失敗(1)

2014年4月 3日 (木)

菅義偉官房長官は3月30日、フジテレビ「新報道2001」に出演。中国の習近平国家主席が、ドイツ・ベルリンでの講演で、旧日本軍は、中国・南京に侵略し、「30万人以上もの中国人を虐殺した」と語ったことについて、「第三国で、日本の歴史を取り出して、このような発言をすることは極めて遺憾」と述べ、29日に中国側に抗議をしていたことを明かした。(FNNニュース)

さらに、菅官房長官は「戦後69年間の中で、世界は日本を平和国家と認めている」と強調した。菅氏は番組出演後に記者団の取材に応じ、「日本政府は、南京での旧日本軍による殺傷や略奪を否定していないが、人数については様々な意見がある」と述べたという。(MSN産経ニュース)

日本政府がこのように、不当な反日宣伝に対して、間髪入れず抗議するようになったことは大変良いことで、菅長官のこのような反論の仕方に対して、国内には次のような意見があります。

「旧日本軍が南京で中国人を虐殺したことは日本政府も認めている歴史的残虐行為である。その人数が30万人というのが誤りだと言うなら、日本政府は何人の中国人を殺したというのか。その数字を日本政府は特定できないままだ。仮に数万人であっても虐殺に変わりない。どうやって世界の前で習近平主席に反論できるというのか。」(天木直人)

これは、南京事件を論ずる時に必ず出てくる意見で、30万人でなく数万人いや数十人であったとしても「虐殺」に違いはないとなります。問題は、ここでは「虐殺」の定義というかその発生状況が曖昧なことで、数字をこの「虐殺」の発生状況と併せて考えると、30万人と数万人の意味の違いが分かるようになります。そこで、以下、南京事件における「虐殺」数を、その発生状況とも照らし合わせつつ、その信憑性を検討してみたいと思います。

東京裁判の判決文に記された虐殺者数は次のようになっています。
①日本側が占領した最初の二、三日の間に少なくとも1万2千人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。多くの強姦事件があった。・・・幼い少女と老女さえも、全市で多数強姦された。・・・占領後の最初の1ヶ月の間に、約2万の強姦事件が市内に発生した。

②男子の一般人に対する組織だった大量殺戮は、中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に混じり込んでいるという口実で、指揮官らの許可と思われるものによって行われた。中国の一般人は一団にまとめられ、後ろ手に縛られて、城外へ行進させられ、機関銃と銃剣によって、そこで集団毎に殺害された。兵役年齢にあった中国人男子2万人はこうして死んだことが分かっている。

③南京から避難していた一般人のうちで、5万7千人以上が追いつかれて収容された。収容中に、かれらは飢餓と拷問に遇って、遂には多数の者が死亡した。生き残った者のうちの多くは機関銃と銃剣で殺された。

④中国兵の大きな幾団かが城外で武器を捨てて降伏した。かれらが降伏してから72時間のうちに、揚子江の江岸で、機関銃掃射によって、彼らは集団的に殺された。このようにして、右のような捕虜3万人以上が殺された。こうして虐殺されたところの、これらの捕虜について、裁判の真似事さえ行われなかった。

⑤後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であったことが示されている。俺らの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、15万5千に及んだ事実によって証明されている。

⑥この犯罪の修羅の騒ぎは、1937年12月13日に、この都市が占拠された時に始まり、1938年2月のはじめまでやまなかった。この六、七週間において、何千という婦人が強姦され、10万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。

①の数字は、安全区国際委員会メンバーであり金陵大学教授であったベイツが『戦争とはなにか――中国における日本軍の恐怖』(国民党中央宣伝部が南京陥落から7ヶ月後に制作し出版した「対敵宣伝本」)に書いた次の記事によるものと思われます

(ア)「埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかって兵隊になったことのない人びとである」(『日中戦争資料集9』「戦争とは何か」p47)

(イ)「一万人以上の非武装の人間が無残にも殺されました。信頼のできる私の友人の多くは、もっと多くの数を上げることでしょう。これらの者は追いつめられた末に武器を放棄し、あるいは投降した中国兵です。さらに一般市民も、別に兵士であったという理由がなくても、かまわずに銃殺されたり、銃剣で刺殺されましたが、そのうちには少なからず婦女子が含まれています」(上掲書p48)

*(ア)は事件の全体像についての説明で、紅卍字会の埋葬がほぼ終わった段階(s13.4中旬)で記されたもの。(イ)はその「初期の見積もり」とされるもので、s13.1.10付けでベイツが友人に宛てた手紙の中に記されたもの。つまり、(イ)がベイツが初期に見積もった被害者数とその内容の説明であって、(ア)は、埋葬数が判った段階で、その数字に合わせて被害者数とその内容を誇張して記したものとわかる。(2014.4.13追記)

紅卍字会の記録では、埋葬した遺体は約43,071体となっています。しかし、当時この埋葬作業を自治委員会を通して支援したという南京特務機関員の丸山進氏によると、この数字は水増しされており、総計は29,000体以内とのことです。なお、この水増しを考慮しなければ、城内の死体は2,830体、城外では39,861体、その内女子48体、子供29体で、残りは全部成年男子であり、しかもそのほとんどが軍衣をまとっていたことを、氏は確認したといっています。いずれにしても、4万の埋葬者が非武装で、そのうち30%の12,000人がかって兵隊になったことのない人々(=非戦闘員)で、少なからず婦女子が含まれていた、というベイツの証言は、この埋葬記録によって否定されています。

この部分のベイツの記述は、英語版の『戦争とは何か』に記載されたものですが、それと同時に国民党が出版した漢訳本や、国民党の国際問題研究所が主催して制作した『日本軍の戦争行為』や『南京安全地帯の記録』など4冊の英語版では、なんと「4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかって兵隊になったことのない人びとである」という記述が削除されているそうです(『南京事件研究最前線平成20年版』p39)。これは、埋葬記録とも矛盾しており、中国側も信憑性が疑われると判断したのでしょう。

②の2万人という数字は、1931.1のエスピー報告に「城内の中国兵を「掃討」するため、まず最初に分遣隊が派遣された。市内の通りや建物は隈なく捜索され、兵士であった者および兵士の嫌疑を受けた者はことごとく組織的に銃殺された。正確な数は不明だが、少なくとも二万人がこのようにして殺害されたものと思われる」(『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』P241-P242)とありますので、これを受けたものと思われますが、ベイツの①の記述に含まれるものと見てよいでしょう。(2014.4.14追記)

③の数字は、魯甦という中国人が、砲弾で足を負傷し、幕府山に近い上元門で「将ニ退却セントスル国軍及難民男女老幼、合計57,418人」が、餓死し、凍死し、機銃で掃射し、最後には石油をかけてこれを焼いたのを見た」という証言に基づくものと思われます。これは、幕府山付近で発生した1万4千人に及ぶ支那軍民の大量投降後に発生した、捕虜暴動鎮圧について述べたものと思われます。この事件については、第十三師団山田支隊麾下六十五連隊両角大尉他の証言がありますが、その犠牲者数は、偕行社の『南京戦史』では3,000人となっています。

④の数字は、城外で捕虜となった後、揚子江岸で裁判なしに処刑された兵士の数が3万というものです。これについては、東京裁判におけるベイツの証言(「ラーべの証言」としていましたが間違い)に「中国兵隊の大きな一群は城外のすぐ外で降伏し、武装を解除され72時間後、機銃掃射のよって射殺されたのであります。これは揚子江の畔であります。国際委員会は3万人の兵士の亡骸を葬るため労働者を雇ったのであります。揚子江に葬られた屍体及び他の方法に依って葬られた屍体の数は数えることができませぬ」とありますので、これによったものと思われます。

また、『ラーベの日記』(2月15日)には「紅卍字会が埋葬していない死体があと3万もあるということだ。いままで毎日2百人も埋葬してきたのに。そのほとんどは下関にある。この数は下関に殺到したものの、船がなかったために揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が全滅したということを物語っている」とあります。これによると、ラーベのいう3万というのは、退却し損なって全滅した中国人部隊を含んだ数字であって、判決にいう、裁判なしに処刑された捕虜が3万ということではありません。

⑤の数字は、紅卍字会と崇善堂による埋葬記録15万5千に、③や④の数字を加え20万以上としたものと思われますが、今日、崇善堂は埋葬作業を行う団体ではなかったことが明らかになっています。従って、その埋葬数11万はねつ造された数字ということになります。

⑥の数字は、南京陥落の日から6,7週間に中国人10万以上が殺害されたというものですが、⑤の20万以上という数字との矛盾はどうなっているのでしょうか。

こうした東京裁判の判決に表れた数字とは別に、中国側が東京裁判に提出した数字は次のようになっています。

被殺害確数34万人、焼却または破壊された家屋4,000余戸、被姦及拒姦の後殺害されたる者20人~30人、被逮捕生死不明者184人、被屠殺者たる我同胞279,588名、新河鎮地区、2,873名、兵工廠及南門外花神廟一帯7,000余名、草鞋峡57,418名、漢中門2,000名、霊谷寺3,000名、その他崇善堂及紅卍字会の手により埋葬セル屍体合計155,300余、合計227,591名となります。被屠殺者たる我同胞279,586名及び被殺害確数34万人との関係は不明です。

では、これらの数字は何を根拠としているかということですが、特に注目すべきは「被姦及拒姦の後殺害されたる者20人~30人」となっていることで、この数字は、東京裁判の判決「約2万の強姦事件が市内で発生」の1000分の1です。なお、新河鎮地区の犠牲者は、逃げ遅れこの地域を敗走中の敗残兵が、南京城西側を北上中の第六師団第四十五連隊と衝突したもの。花神廟一帯の犠牲者は南京陥落前の雨花台付近の激戦によるもの。草鞋峡の犠牲者は、上述した幕府山付近で捕らえた捕虜の暴動鎮圧によるもの。漢中門の犠牲者は、その付近に敗残兵が隠れる地下室があったらしく、陥落後3日目に約1,000名が発見され、都城23連隊が処刑したとされるもの(「折田護日記」)。霊谷寺というのは、紫金山における掃討戦での犠牲者でしょうか?『南京戦史』にはその記録はありません。

こうした各戦闘地域における捕虜や敗残兵の処断数を積み上げたものが『南京戦史』にありますが、それは、南京防衛軍の総兵力約7万6千人、戦死(戦傷病死を含む)約3万人、生存者(渡江、突破成功、釈放、収容所、逃亡)約3万人、撃滅処断約1万6千人となっています。

この1万6千という数字については、『南京戦史』は、「捕虜や敗残兵、便衣兵を撃滅もしくは処断した実数を推定したもの」で、「これら撃滅、処断は、概して攻撃、掃討、捕虜暴動の鎮圧という戦闘行為の一環として処置されたもの」であり、「戦時国際法に照らした不法殺害の実数を推定したものではない」としています。従って、その当、不当を判断するためには、「これらを発令した指揮官の状況判断、決心の経緯」を知る必要があるが、「これらは戦闘詳報、日記等にも記述がないので、その「考察は避けた」としています。

以上、東京裁判や中国側が単純に虐殺数としてあげた数字がどのようなものかを、『南京戦史』や、その後の日本側の研究で明らかとなった事実と照らし合わせてみました。これから分かることは、実は、上記の東京裁判の判決①②④はベイツの証言によるもの。③は魯甦という中国人の証言によるもので、幕府山付近で投降した捕虜暴動鎮圧が事実のコア。⑤は紅卍字会の埋葬記録のことであって、これはベイツのいう「埋葬による証拠の示すところ」にほかならず、⑥は多分、①の1万2千人②2万人③5万7千人(中の3万8千)④の3万人を加えた程度の数字ではないかと思われます。

こう見てくると、この東京裁判の判決は、主としてベイツの証言に依拠したものであることが分かります。しかし、このベイツの証言の核心部分のオリジナルテキストは、昭和13年7月に出版された英語版の『戦争とはなにか』に記載された「4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかって兵隊になったことのない人びとである」です。しかし、この記述は、先に紹介した通り、その漢訳版を出版した国民党自身の手によって削除されていたのですから、この東京裁判の判決は全くの空中楼閣であったことになります。