南京事件についてのまるきよさんとの対話

2013年10月 1日 (火)

*参考までに、2012年3月22日 (木)「南京事件(3)――東京裁判が捏造した「南京大虐殺」を信じた日本人、信じなかった日本人」のコメント欄で交わしたまるきよさんとの対話を再掲させていただきます。

(ま)ちょっとお聞きしたいのですが、南京安全区には支那人以外の外国人はいたのでしょうか?
投稿: まるきよ | 2012年10月27日 (土) 12時16分

(ま)もうひとつもしご存知なら教えていただきたいのですが、撫順戦犯管理所の元囚人である日本人が南京大虐殺を証言していることは知っているのですが、太原戦犯管理所にとらわれていた日本人達も南京大虐殺の残虐行為を自白したのでしょうか?
投稿: まるきよ | 2012年10月27日 (土) 12時24分

(tikurin)まるきよさんへ

昭和12年12月16日に日本大使館に提出された「南京残留西洋人リスト」によると南京に残留した外国人は22名、その内15名で南京安全区国際委員会が組織されました。太原戦犯収容所組で南京大虐殺を証言したのは、永富 博道・元曹長がいます。(参照)
彼らの証言は洗脳の結果ですから病理学の研究対象ですね。
投稿: tikurin | 2012年10月27日 (土) 22時52分

(ま)ありがとうございます。国際委員会のメンバーは安全区にいたんですよね? では残りの西洋人はどこにいたんでしょうか? 彼らも安全区に避難していたんでしょうか?
投稿: まるきよ | 2012年10月28日 (日) 06時47分

(tikurin)まるきよさんへ
tiku もちろん安全区です。その安全区には外国人や富裕なシナ人の家がある地区が含まれていました。シールズ(英国の中華工業国外貿易協会支配人)は、安全区にそういった地区を含ませたのは自分たちの財産を守るためではないかと疑念を呈していました。

 なお、「南京残留西洋人リスト」は22名で、その内アメリカ人が14名、ドイツ人5名、オーストリア人1名、白系ロシア人2名です。しかし、安全区国際委員会のメンバーの中には、このリストに含まれていない人物が6名も含まれています。従って、実際の南京在留外国人の総数は28名程度だったものと思われます。この数字は昭和13年1月6日に南京に還ったアメリカ大使館員のエスピー報告にも見えます。

 これらの外国人の中で、日本軍の残虐宣伝に従事したのはアメリカ人が中心で、ベイツ(金陵大学教授)、ミルズ、マギー、マッカラム、フィッチ(宣教師)、それに、スマイス(金陵大学教授)、ウイルソン(医師)が関わったようです。彼らが親中派のドイツ人ラーベ(ジーメンス洋行の「武器商人」でヒトラー心酔者)を安全区国際委員会委員長に祭り上げて、その実態を隠そうとした。その他の国際委員会のメンバーは、そうした彼らの謀略的宣伝行動の危険性を察知し、それを止めさせようと働きかけていたことが判っています

 なお、南京陥落後の12月15日にオアフ号で南京を離れた英米人ジャーナリストとしては、ニューヨークタイムスのスティール、ダーディン、ロンドンタイムスのマクドナルド、APのマクダニエル、ロイターのスミスの名が知られていますが、前三者の記者に、ベイツが「日本軍のありとあらゆる暴状」を話しており、これが12月17日以降の欧米の各新聞に掲載されるようになり、日本軍を統制のとれない悪辣な軍隊とする報道が相次ぐようになりました。しかし、後二者は「自分が見ただけ」を記しています。(以上『「南京大虐殺」への大疑問』松村俊夫参照)
投稿: tikurin | 2012年10月28日 (日) 12時28分

(ま)詳しく教えていただきありがとうございます。
ところで、「南京大虐殺」を捏造したのは端的にいえば東京裁判なのか南京軍事法廷なのか、どちらなのでしょうか? 
私としては南京軍事法廷、つまり主犯が中華民国で共犯がアメリカだと理解しているのですが、この認識は間違っていますか?
投稿: まるきよ | 2012年10月29日 (月) 07時07分

(tikurin)まるきよさんへ
南京事件については拙稿「南京大虐殺の真相」で論じていますからそちらをご覧下さい。

tiku 主体は「国民党中央宣伝部」で、その宣伝活動を肩代わりしたのは、英マンチェスター・ガーディアン紙の中国特派員で国民党中央宣伝部顧問だったティンパーリと、南京金陵大学教授で中華民国政府顧問であったベイツ、それフィッチ(彼の妻が蒋介石夫人の宋美麗の親友であったとされる)でした。特にベイツはアメリカ人宣教師が中心となって組織した南京安全区国際委員会を主導し、日本軍の南京入城直後からその暴虐を世界に宣伝する工作を行い、その集大成として書かれた本が「戦争とは何か―南京に於ける日本軍の暴行」(ティンパーリ編1938.7)で、これが「南京大虐殺」を証言する基本資料となりました。これが、どれだけ事実に基づくものであったかを検証したのが上に紹介した拙稿です。

 では、なぜ、国民党中央宣伝部はこのようなやり方をしたかというと、「南京に於ける日本軍の暴虐」を国民党の宣伝ではなく、中立的なジャーナリストや大学教授・宣教師による告発であるように見せかけ、それに真実味を持たせるためでした。
しかし、こうした国民党の宣伝活動は、当時、国民党自身によってはほとんど為されて居らず(おそらく国民党軍の撤退作戦のミスが知られていて、その被害を大きく宣伝することは不利と考えられたのではないか)、従って「南京大虐殺」というのは、当時の欧米のマスメディアを騒がした程度に止まったようです。といっても、アメリカにおいては着実に日本軍に対する残虐イメージを高める効果を持ったようですね。それがアメリカを対日参戦させる上で効果的な国民党による謀略宣伝であったとすれば、この宣伝は大成功であったということになります。

 そして、これが戦後の東京裁判でも利用されることになりました。アメリカにとっては日本に対する原爆投下をはじめとする都市の無差別爆撃という残虐行為の罪を、日本軍の「南京大虐殺」を持ち出すことで相対化することができました。また、国民党にとっては戦後の中共とのヘゲモニー争いの中で、「以徳報怨」で日本軍を寛大に扱う一方、暴虐な日本軍との戦いに勝利した自らの功績を国民にアピールする必要がありました。だから、東京裁判で南京大虐殺が持ち出された時日本人は寝耳に水で大ショックを受けたわけですが、いささか誇大宣伝が過ぎたために、その後はあまり話題に上ることはありませんでした。

 ところが、文革後の中国の経済再建の必要から中共が日本との国交回復が必要と考えるようになると、今度は国民党に代わって中共が、日本に対する外交戦略として,日本の中国に対する贖罪意識を甦らせることで、この交渉を有利に進めようとする戦略をとるようになりました。それが、昭和45年の朝日新聞の本多勝一による「中国の旅」の連載報道になるのです。日本はこの心理的「負い目」から、それまでの中華民国政府との外交関係を断ち切り、中華人民共和国を唯一の中国の正統政府として認めることに同意して外交関係を樹立し、その後膨大な経済援助を行い中国の復興と近代化を助けました。

 つまり、このように中国の外交戦略は見事に成功したわけですが、その外交カードとして使われたものが「南京大虐殺」をハイライトとする日本軍の中国における残虐事件だったわけです。ところが、こうした中国の宣伝を真に受けて、それを事実と思い込む「良心的」日本人や「迎合的」日本人、さらには「自虐的」日本人が沢山現れました。この結果、中国はその後も繰り返し、これを歴史認識の問題として外交カードに使うようになりました。また、「自虐派」の学者らはこれらの残虐事件が事実であることをなんとか証明しようとしました。

 これに対して、それは中国の宣伝だったのではないか、と疑う人たちも出てきて論争が始まり資料発掘も為されたわけですが、その結果、以上述べたような事実関係が次第に明らかになってきたのです。なお、こうした動きの端緒となったのが、本多勝一の南京大虐殺関連記事「百人斬り競争」をフィクションとしたイザヤ・ベンダサンの論考、鈴木明の「南京大虐殺のまぼろし」、山本七平の「私の中の日本軍」などです。これらの人たちと後続の研究者のおかげで、この事件の真相と、その宣伝によって捏造された部分との腑分けができるようになりました。

 で、南京軍事法廷と「南京大虐殺」との関係ですが、南京軍事法廷では、第6師団長谷寿夫、第6師団歩兵第45連隊中隊長田中軍吉、そして「百人斬り」の第16師団歩兵第9連隊-第3大隊-歩兵砲小隊長向井敏明と歩兵第9連隊-第3大隊副官野田毅少尉の4人が処刑されています。後二者については裁判記録(上申書や判決書)が残されており、この事件の真相がこれを取材報道した東京日日新聞(毎日新聞の前身)の従軍記者浅海一男の戦意高揚のための創作記事であったことが明らかとなりました。また、前二者についても虚構の事件を捏造するための「生贄」処刑と言うしかありません。しかし、この裁判についての国内報道はわずかで、その裁判のデタラメさが問題とされることはありませんでした。

 ここで問題となるのが、こうした中国の残虐宣伝に材料を提供することになっていたのが、日本の新聞の誇大戦果報道だったということです。この典型的な例が「百人斬り競争」で、ティンパーリの「戦争とは何か」にも収録されました。この報道の真偽をめぐっては日本では裁判も行われ、これを「据えもの斬り」だったと新たな捏造を行った朝日新聞、当時の淺海記者の取材は正当だった(つまり二少尉の話をそのまま記事にした)と主張した毎日新聞に典型的に見られるように、日本のマスコミの事実検証能力のなさ、「時の勝者」への迎合的体質、責任転嫁体質が明らかになりました。

 そこで、これらをまとめて「南京大虐殺」を捏造したのは誰か、というと、その主体は国民党中央宣伝部、その宣伝活動を肩代わりしたのが、欧米の新聞記者と南京のアメリカ人宣教師や学者、そうした宣伝に格好の材料を提供したのが日本軍の誇大戦果発表と戦意高揚記事を書き続けた日本の新聞、それを東京裁判で利用したのがアメリカと中国国民党、さらに日中国交回復期の外交交渉のカードとして利用したのが中共、それを真に受けて事実と強弁しかえって墓穴を掘ったのがいわゆる日本の「自虐派」知識人・ジャーナリストということになります。

 ここからどういう教訓を得るか、それが今後の日本人に残された課題だといえます。まあ、「世界で最も謀略に弱い国」と日本が言われるのは、日本人が言論による事実究明が十分できず、また、価値論争が徹底せず空気支配に陥りやすいためで、この弱点をいかに克服するかが今後の第一の課題ではないかと思います・・・とは言え、この事件の真相解明に時間はかかりましたがなんとか成功したわけで、大したものだと思いますし、研究者の皆さん方のご努力に対し心から感謝しています。
投稿: tikurin | 2012年10月29日 (月) 14時08分

(ま)tikurinさん、どうもです。南京事件は全体像は見えているのですが、所々で知識が曖昧だったり、国家や機関や人物の相関関係がつかめないところがありました。理解するためのパーツが少し埋まりました。ありがとうございます。
投稿: まるきよ | 2012年10月30日 (火) 07時33分

(ま)再度失礼いたします。南京大虐殺の日本人の証言者は撫順と太原収容所で洗脳された元兵士。それと東史郎。この二つしか知らないのですが、他に何かありますか?
また東史郎はなぜ洗脳されていないのに嘘の証言をしたのでしょうか?
投稿: まるきよ | 2012年10月31日 (水) 10時12分

(tikurin)まるきよさんへ
tiku 南京事件の証言者と言っても、戦闘従事者の日記や書簡、作戦命令書、戦闘詳報、陣中日記から、実際に”やった、見た”と言う兵士の証言、”聞いた”という伝聞証言、さらに架空の作り話までいろいろあります。

この内一次資料として扱える主なものは偕行社の『南京戦史資料集』に収録されていますのでご覧下さい。なお、お尋ねは「嘘の証言者」についてでしょうが、これについては南京事件の全体像解明の最大の功労者板倉由明氏の『本当はこうだった南京事件』の「にせ証言の代表者たち」に詳しく書いてあります。webにも紹介されていますので紹介しておきます。「南京事件 偽資料列伝6」http://www.geocities.jp/nankin1937jp/page049.html

ついでですので、これら虚言者の主なものを列挙しておきます。(参照)

東史郎…一番有名な捏造者。原本が存在しない創作をバラまいた。支那じゃ未だに真実扱い
中山重夫…戦車段列から処刑を見たと吹聴していたが場所時間がコロコロ変わったのでうそがばれた
永富博道…当時は学生だったのに自分は南京戦に参加し虐殺したと証言。経歴照会であっさり嘘判明
舟橋照吉…東の懺悔屋成功に載せられて日記捏造。輜重兵の自分が1人で敵陣突撃し勇戦するというカッコつけかました仮想戦記な内容であっさり×
曾根一夫…野砲連隊の二等兵だったのに、歩兵で下士官だと経歴と日記を捏造。やっぱり経歴を調べられて嘘と判明。懺悔屋の代表格で、秦郁彦も騙された
田所耕三…強姦と虐殺を証言していたが、所属部隊が当該日時南京を離れていた事が判明。後に「普通の話だと記者が興味を示さないから…」と捏造を白状
太田壽男…死体大量埋葬を供述書に書く。が、梶谷日記(捏造物の数々と違って原本確認できる)により当時証言場所にいなかった事がバレる。撫順収容所での洗脳後に書いた捏造だった
富沢孝夫…海軍の暗号兵で、「南京発の松井軍司令官の虐殺を戒(いまし)める暗号を傍受・解読した」と証言(だから逆説的に虐殺があったという主張)。だが陸軍の暗号を海軍の知識しかない彼が解読するのは不可能で、おまけに証言日時には松井司令官は蘇州で入院していた
上羽武一郎…「上官の命令で強姦虐殺放火をした」と証言。しかし彼は「(後方で担架運びの)衛生兵」でしかもそんな命令が出たという史料は一切無し

では、なぜこのような偽証言者が輩出するかという問題ですが、その時代の「正義の流行」に迎合して名を売ろうとする人物に事欠かない、ということです。

また、それを事実の検証もせず持ち上げ「英雄」に祭り上げるマスゴミの存在でしょうね。

最近でも上杉某という虚言癖を持つジャーナリストとそれを支持する信者が話題に上っていますが、日本ではそうした虚言癖を持つ人物――従軍慰安婦問題での吉田清治や南京大虐殺の中山重夫など――が「流行の正義の仮面」をかぶった時、それを怪しむのではなく逆に信じ込んでしまう例が極めて多いのです。

こうした傾向は、朝日新聞などの日本の大手メディアにもあり、さらに、それが虚言であった事がばれても、訂正しないで頬被りする、例の「百人斬り競争」について言えば「据えもの斬り」という罪を捏造してまで二少尉を罪に落とそうとするのですからひどいものです。

こうした日本人の「迎合的虚偽自白」の問題点の指摘は、イザヤ・ベンダサンが『日本教について』で行っていますが、いわゆる勧進帳の世界なのですが、日本にも旧約聖書の十戒にあるように「嘘の証言」を罪とする伝統を根付かせる必要がありますね。
投稿: tikurin | 2012年10月31日 (水) 12時01分

(ま)疑問が出てきたので、また質問させていただきます。もしご存知ならお教えください。
1.撫順・太原戦犯管理所以外に洗脳が行われていた捕虜管理所はありますか? その結果、虐殺を証言した日本人はいますか?

2.洗脳されていない人間で見聞ではなく実行者を名乗った人物はいますか? 私は東日記は読んだことがないのですが、彼は「南京大虐殺」を実行したんでしょうか? それともただ見聞しただけなのでしょうか?

3.先に名前の上がった元兵士で富永博道と太田壽男は中国共産党に洗脳されたようですが、他の日本人は違うのでしょうか?
投稿: まるきよ | 2012年11月 8日 (木) 17時16分

(tikurin)まるきよさんへ

>1.について
tiku ないと思います。撫順・太原戦犯管理所における洗脳の様子は田辺敏雄氏のサイト「脱洗脳史講座」http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/mokuji.html
に詳しいです。

>2.について
tiku いくらでもいます。その証言で一次資料的価値のあるものは偕行社の「南京戦史資料集Ⅰ、Ⅱ」に収録されています。また、その基になった資料集として畝本正巳史の「証言による南京戦史」があります。

なお、東日記の信憑性については、松尾一郎氏のサイト「南京大虐殺派ウソだ」
で検証されています。もっとも裁判でその虚構性が証明されていますが。

>3.について
tiku 富永ではなく永富です。彼は太原戦犯管理所、太田は撫順戦犯管理所です。その他の先に名前の挙がった人物は洗脳の結果ではなくて、有名になりお金になりさえすればウソをつくことも平気な人たちで、まあ、中国で言えば「漢奸」ということで最悪人ということになりますね。

ところが日本ではこれが罪を率直に認めた勇気ある人物と言うことでマスコミがこれを持ち上げあちこち公演に連れ回すのですから困ったものです。おそらくこれは日本人の「オレが悪かった、イヤオレが悪かった」という一種の相互懺悔告解方式による和解の伝統に基づくもので、日本人はこうした態度が賞賛の対象になるのです。

ところが、中国や韓国ではこれは罪を認めたと言うことで徹底的な糾弾の対象となります。彼らを支援したマスコミはその違いが全く分からず、こうした日本の伝統的な和解の方式に無意識的に従っているのでしょう。従って、彼らは自白者の証言内容を全く検証しようとしません。それは、「オレが悪かった」と率先して自分の落ち度を認める態度こそが大切だと考えるからで、それを検証する必要を認めないのです。

しかし、その「自白」には、”それによって罪が許される、許してもらえる”という甘えがありますし、マスコミには”勇気ある懺悔”として称讃されるのですから、それへの迎合が嵩じて、その証言内容がエスカレートし、虚実入り交じった残虐話になってしまうのです。その結果、そこで得られた証言が、相手によって「動かぬ証拠」とされ糾弾、賠償の対象となるのです。

ここで、こうした日本人の心的態度と共に明らかになってくるのが、”事件の処理において「事実の検証を徹底してやらない」”という問題点です。それからもう一つ、「偽証を罰する伝統がない」ということです。国会議員でも平気で嘘をつきますし、それがマスコミで糾弾されることもほとんどない。

南京大虐殺や慰安婦問題などの誇大宣伝・虚偽宣伝が未だにまかり通っているのは、実はその根底には、以上指摘したような日本人の伝統的な考え方が伏在しているということ、こうした伝統を私たち日本人は自覚的に対象化する必要があると思います。こうして視点をもって、これらの問題を考えることが大切だと考えています。
投稿: tikurin | 2012年11月13日 (火) 13時00分

(ま)おっしゃる通りだと思います。
日本的集団主義の共同体の内の論理、論理的に導かれた結論ではなく調和と無責任なその場の空気が優先される社会が問題を起こす原因になっています。GHQの占領政策に起因する問題でもありますね。
貴重なご意見と有用なサイトのご紹介ありがとうございます。
投稿: まるきよ | 2012年11月14日 (水) 17時28分

(ま)tikurinさん、こんにちは。
先日、北村稔の「南京事件の探求」を読みおえました。本書によると、判決文で南京軍事法廷でベイツとスマイスは日本軍の非人道的行為を目撃したことを証言したそうなのですが、その証言の全文を読んだことがありますか? これは公開されていないのでしょうか? 
投稿: まるきよ | 2013年9月10日 (火) 13時18分

(tikurin)まるきよさんへ
その証言のオリジナルテキストが『戦争とは何か』なのですよ。さらに、この編集過程を明らかにしたのが『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』南京事件調査研究会編訳です。
投稿: tikurin | 2013年9月11日 (水) 14時48分

(ま)スマイスはどうでしょうか? スマイスが南京市内と郊外での中国人死傷者の調査結果を記した本(南京戦禍写真)を南京裁判に提出したことは分かっています。その本とは別に南京裁判でのスマイスの意見書または口頭での証言の記録は残っているのでしょうか?
投稿: まるきよ | 2013年9月14日 (土) 09時45分

(tikurin)まるきよさんへ
tikurin東京裁判ではスマイスは宣誓口述書を提出しただけで証人台には立っていません。弁護側が反対尋問を受けない証言は認められないと強く抗議しましたが、検察側は氏を承認として立てる意志はないと突っぱねています。おそらく、他の証人の証言内容と余りにかけ離れているのでマズイと思ったのでしょう。

その口述書は裁判で朗読されています。その記録は『日中戦争史資料8南京事件Ⅰ』P113に掲載されています。内容はラーベ(レーブと表記)と一緒に一般支那住民や武装を解除された兵士に対する虐待行為に関して、ほとんど毎日それを二通の抗議書にまとめて日本大使館に持参したこと(「南京安全区檔案」『日中戦争資料9南京事件Ⅱ』所収)。1938年の春に「南京地区の戦禍及び都市村落の調査」を作成したことが記されているだけです。
調査書の全文は『日中戦争資料9南京事件Ⅱ』に掲載されています。(参照「L.S.Cスマイスの戦争被害調査」)

なお、その調査書の分析は多くの方が行っていますが、『全貌』平成4年10月号に掲載された「『スマイス調査』が内含する真実を探る」が参考になります。
投稿: tikurin | 2013年9月15日 (日) 00時04分

(ま)私が申し上げているのは南京軍事法廷のことなのです。
北村稔の『南京事件のまぼろし』の71pにはこう書いてあります。
「そして以上の「南京罪行調査報告書」を補完する証拠資料としてティンパーリーやスマイスの著作が援用されるのである。」
「このほか外国人記者ティンパーリーの著した『日軍暴行記実』や、スマイスの著した『南京戦禍写真』、さらに南京攻防戦に参加した我が軍の営長の郭岐が著した『陥都血涙録』があり、これらの書物の各部分はことごとく一致する。
また当時の南京にとどまったアメリカ人教授のベイツやスマイスは目撃した実情に基づき本法廷で宣誓署名して事実であることを証言した」

また168pにはこう書いています。
「このあとスマイスは第二次世界大戦後の南京での戦犯裁判に際しても書面による宣誓を付して自らの報告を法廷に提出する「南京事件関係資料編 308ページ)」

スマイスは南京軍事法廷で証言台に立って証言したわけではないのでしょうか? 書面による証言だけなのでしょうか? おそらく口述書は東京裁判で朗読されたものと同じだと思いますが、証言台に立って何か具体的な日本軍の戦争犯罪を証言したのかどうか、もししたのなら、それはどのような内容なのかが知りたかったのです。
投稿: まるきよ | 2013年9月29日 (日) 12時48分

(tikurin)まるきよさんへ
P168に、書面による宣誓署名と書いてあるじゃないですか。その証言内容は、南京事件関係資料 中国関係資料編308にある通り、「戦争とは何か」(「中国における日本人の暴虐」)に付録として掲載された抗議書と、スマイスの作成した調査報告書のみであって、それと判決文とが全く食い違っていることは、「南京事件の探求」p168にも「スマイス報告の内容が「30万人大虐殺説」と矛盾することに気がつかなかったのであろうか。いずれにせよ判決書としてはずさんの極みである」と書いてあるじゃないですか。
要するに彼らはこれらの本に書いた以上のことは証言していないのですよ。そこが中国人とは違うところですね。
投稿: tikurin | 2013年9月30日 (月) 02時11分

(ま)tikurinさん、どうもありがとうございます。これですっきりしました。
投稿: まるきよ | 2013年9月30日 (月) 11時30分