「南京事件」(まとめ)――日本人は「南京事件」から何を学ぶべきか

2012年6月28日 (木)

 これまで9回に渡って、「南京事件」について論じてきました。ここで私が採った方法は、まず、この事件を「中国における日本軍の暴虐」として最初に報道した『戦争とはなにか』の記述内容を、『南京戦史』以降明らかとなった事実関係と付き合わせて、その真偽を検証することでした。

 その結果判ったことは、この事件についての最初の告発は、昭和13年1月10日付けのベイツからティンパーリ宛ての手紙にある次の記述だということ。

 「一万人以上の非武装の人間が無残にも殺されました。信頼のできる私の友人の多くは、もっと多くの数を上げることでしょう。これらの者は追いつめられた末に武器を放棄し、あるいは投降した中国兵です。さらに一般市民も、別に兵士であったという理由がなくても、かまわずに銃殺されたり、銃剣で刺殺されましたが、そのうちには少なからず婦女子が含まれています。

 有能なドイツ人の同僚たちは強姦の件数を二万件とみています。私も8,000件以下であるとは思われません。・・・金陵大学構内だけでも、11才の少女から53才にもなる老婆が強姦されています。他の難民グループでは、醜いことにも、72才と76才になる老婆が犯されているのです。神学院では白昼、17名の日本兵が一人の女を輪姦しました。実に強姦事件の三分の一は日中に発生したのです。」

 言うまでもなく、この「一万人以上の非武装の人間」というのは、軍服を脱ぎ便衣に着替え、武器を捨てあるいは隠匿して安全区に逃げ込んだ中国兵のことでした。この中に正式な手続きを経て投降したした兵士はほとんどおらず、その大半は便衣となって安全区に逃げ込みました。中には、将校の指揮下に再蜂起を狙い後方攪乱を行った便衣兵も多数いたのですから、これでは、その全体が不法戦闘員扱いを受けても仕方ありません。

 また、一般市民や婦女子の殺害も、紅卍会の埋葬記録によると、城内外区における三万余の埋葬死体の内、見つかった女子の死体は52体、子供の死体は29体であり、かつ、その死因が特定されていたわけではありません。ということは、日本軍により無差別に殺された一般市民の中に「少なからず婦女子が含まれていた」というようなことは言えないことになります。

 また、後段の「強姦の件数二万件」というのも、ベイツが「南京事件」の事例が全部集まっているという『南京安全地帯の記録』や、その他の一次資料に記録された強姦件数を全て足しても、二ヶ月間で243件にしかならない。これは一日平均4件であり、さらに、これらの事件の中から、文責者不明、被害者名不明、被害場所不明のものを除いた「事件らしい強姦事件」は5件しかないのです。これで、強姦「二万件」という数字がいかにデタラメなものであるかが判ります。

 もちろん、これは、日本軍兵士による非行がなかったことを意味するものではありません。これらについては、「第十軍(柳川兵団)法務部陣中日誌」や「中支那方面軍軍法会議陣中日誌」(『続・現代史資料6軍事警察』所収)にその一部が記録されています。南京城内外における非行については、東京裁判における塚本浩次(事件当時陸軍省法務官)の証言に次のようなものがあります。

 「私は松井軍司令官の命令を帯し、作戦要務令の指示する処に従い、軍紀・風紀を破る者に対しては厳重にこれを処断し余す所はなかったと考えて居ります。各部隊としては上海派遣軍法務部が余り厳罰を科し微細な罪をも究明する態度を非難することもあった程でありました。」

 「罪種は主として略奪・強姦であり、傷害・窃盗は少なく、それに起因する致死は極めて少なかったと記憶して居ります。殺人も二、三件あったと思います。但し放火犯を処断した記憶はありません。又集団的虐殺班を取り扱ったこともありません。」「兎に角、上海派遣軍の法務部が取扱った事件・人名・処罰は全て陸軍省法務局に報告しましたから、それによれば判明するはずであります。・・・私の記憶では・・・少なくとも百二十件位は確実に処断したと思います。」(以上『日中戦争史資料8』P192)

 こうした犯罪の捜査は軍司令部に直属する憲兵が行い、その結果を法務部に送致したわけですが、当時、憲兵准尉であり12月17日に南京入りした的場雪雄は次のように回想しています。

 当時、欧米人外交官や新聞記者で「日本に対して(敵意はあっても)好意を持ったものは一人おらなかった」「当時、日本はどこの国からも好意を持たれたことがないんです。常に日本を憎んで考えていたという人ばかりでした。日本を取り巻く世界はね。」私は虐殺とか略奪や放火事件とか婦女暴行とかが事実あったことは認めます。しかしそれは「極めて小規模なものです。それを大規模に膨らませたのが日本に敵意を有する外人なんです。」

 つまり、「南京大虐殺」といわれる事件の本体は、安全区に逃げ込んだ便衣兵の摘出処断であって、ベイツ等はこれを不法殺害と思わせるために、話を「一万人以上」の一般市民の無差別殺人に創り変えたのです。その後の記述では、「埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかって兵隊になったことのない人だった」としています。 この段階で、一般市民の殺害数が4万人のうちの30%、12.000人になったのです。

 こう記述をしたベイツは、東京裁判でも「いろいろな調査・観察の結果、我々が確かに知って居る範囲内で、城内で一万二千人の男女及び子供が殺されたと言うことを結論と致します。・・・今まで申したことは、中国の兵隊であり或は曾て中国の兵隊であった事のある何万人の男の虐殺を全然含まないものであります。」と証言しています。このベイツの、便衣兵の摘出処断を一般市民の虐殺に創り変えた証言が、いわゆる「南京大虐殺」の「核種」となったのです。

 つまり、便衣兵の摘出処断だけでは、日本軍の「残虐性」の証明にはならなかったということです。もちろん、この便衣兵の中には南京城内外で徴兵された「雑兵」も多数含まれていましたから、一般市民と区別がつきにくかったという事情はあったと思います。しかし、約一万の兵士が安全区に逃げ込んだということは事実で、その責任は、それを許した国際委員会、あるいはそういう不法行為を為した中国軍により重く問われるべきです。

 ただ、未だ南京城内外が不穏な情勢にある中で、なぜ、12月17日という早い段階で、入京式を強行する必要があったのか。この点、松井司令官の責任が問われるべきだと思います。というのは、これら便衣兵の多くは、摘出後直ちに処断されたわけではなく、一度は収監されていること。また、兵士たちは南京陥落で戦争は終わると思っていたわけで、入場式さえ急がなければ、これらの兵を慌てて処断する必要はなかったからです。

 このことは、12月14日、幕府山に近い上元門付近において第13師団歩兵六十五連隊(会津若松)山田支隊約2,200人に、約15,000人の投降兵があり、この内、釈放や逃亡等で残った約4,000人について、16日と17日に機関銃による捕虜殺害があった件についても言えます。これは揚子江の中州である草鞋州(ソウアイス)への釈放を意図するものであったと思いますが、17日の入場式や18日の慰霊祭における治安確保を急いだための事故であったといいます。

 以上、本稿の「まとめ」ですが、ここでは、私は東京裁判以降提出された中国側の資料は全く使いませんでした。これらは一次資料とは言えないから。その後、朝日新聞の「中国の旅」を契機に、日本でも「南京大虐殺」の真偽が問われるようになりました。幸い、平成元年には旧軍人の親睦団体である偕行社から『南京戦史』が出版されました。これは、南京戦における日中双方の一次資料をもとに「何があったか」を数量的に検証したもので、これによって、この事件の被害者数の上限が明らかになりました。

 その結果、今日では、南京事件について「30万人大虐殺」を唱える者はほとんどいなくなり、大方の理解は「中間派」と呼ばれるグループの主張する「一万~二万」程度に落ち着いてきたのではないかと思います。ただし、これらも、便衣兵の処断を「法的手続きを欠く」として不法殺害に区分した上での数字です。実際は、便衣兵の処断は必ずしも不法とは言えないのですから、その実情をより厳密に検証すべきだ、とする意見も出るのも当然です。

 いずれにしても、この事件の核心は、「便衣兵の摘出処断の適法性」如何と言うことであって、非戦闘員である南京の一般市民の無差別殺害などではなかったということです。つまり、「南京大虐殺」というのは戦争プロパガンダであって事実ではないということ。この事件は、中国軍の南京城防衛戦における撤退作戦の失敗がその主たる原因であって、そのために発生した大量の便衣兵や投降兵の出現に、日本軍各部隊が個々に緊急対応を迫られた結果起こった事件だということです。

 この時、日本軍は、こうした大量の便衣兵や投降兵の発生を予想していなかったし、最後の決戦に向けて敵を包囲殲滅することを考えていた。ただし、抵抗しないものは寛大に扱うとしていました。ところが結果は先述した通りで、敵の対応もバラバラで、当然日本軍の対応もバラバラとなりました。とはいえ、繰り返しになりますが、南京陥落後四日目に入場式を強行するようなことをしなければ、戦争は南京陥落で終わると信じられていたのですから、拙速な便衣兵処断や投降兵の無理な処理はせずにすんだのではないかと私は思います。

 この点は、松井大将の失策であり、責任を負わなければならないことではなかったかと思います。また、松井が当初から上海にとどまらず南京を攻める考えを持っていたことについての責任も問われます。松井は熱心なアジア主義者で、蒋介石が抗日持久戦を決心した以上、国民政府は見限り、それに代わる親日政権を中支に打ち立てるべきことを政府に強く進言していました。また、そのために必要な作戦行動を積極的に展開するよう主張していました。

 おそらく、純軍事的にはそれが正しかったのかも知れません。何しろ上海事変以降の日中戦争は蒋介石の意志で始められたものでしたから。その作戦計画は、(1)華北退却戦、(2)華中への誘因作戦、(3)奥地引きこみ作戦と段階的に構想されていて、日本側が希望したように「一撃」で決着がつくはずもなく、もちろん南京陥落でも片付かず、必然的に持久戦に移行せざるを得ない性質のものでした。つまり、昭和天皇が言った通り「華北なんかに手を出さなければ」こうしたことは起こらなかったのです。

 では、なぜ陸軍は華北に手を出したか、ということですが、次は、鈴木貞一の証言による石原完爾のこの点についての考え方です。

 「支那に対する考えであるが、日本の軍備は対ソ作戦に向けて中国は絶対やってはいけない。この考え方は石原も云っているが、私は石原と大激論をしたことがある。私は内閣調査局にいて、石原が参謀本部の作戦課長であった。私は支那本土に絶対に手を出しちゃいかん、とこれは前からそういう考えでやっていた。それを私が考えている時に、石原も兵を使うのはいかんと考えている。しかし兵は使わないけれども、北支那の資源、鉄鋼と石炭は欲しいという。ここに病根がある。それで大激論をした。

 つまり参謀本部が、天津駐屯軍の兵隊が少ないからそこを増強しなくちゃいかん、とこういう。それで私はそれはもっての外だと思う。元来、北支那における日本の駐屯軍というものは、よそに率先して引き揚げちまう方がいい、よく満州経営をやれば北支那に兵隊なんかいらない、と考えていたから私は、「反対だ」と云った。すると石原は、「いやあ、あれでは北支那の資源を確保する上の圧力をかけるために足りない」と云う。それで、
「北支那の資源と云ったって、北支那にある資源は満州にいくらでもあるじゃないか」
「いやあ満州のは足りない」

 
 「君は満鉄の宮崎という調査委員の材料を基にして話しているんだろう。満鉄の調査なんていうのは、まだ狭い満鉄の付属地から覗いたことであって、満州の科学的調査というものはまだちっともできていないんだ。満州を占領してからわずか数年じゃないか。この間に科学的調査ができるわけはない。ぼくが東満で勤務していた時、資源は無限にある、という感じを持っているんだ。これは、これから科学的調査によって得られるので、よそに兵隊を持って行ってまでやる必要はないじゃないか」と云った。

 「まあしかし、そんなことを云うけれど、満州の調査によると満州だけじゃ国防資源は足りないから」と云う。とにかく
「ボクは兵隊を動かし、威圧の下にそういうことをやることは、非常に不同意だ」といって石原と別れたことがある。(『秘録 永田鉄山』p68)

 つまり、石原の頭には「最終戦争論」にいうところの「東洋文明vs西洋文明」対立史観があったのです。その最終戦争に向けて高度国防国家を作ることが、石原の最終目標だった。それが、満州問題の解決において満州事変という「奇道」を採らせただけでなく、華北分離工作という「国防資源欲しさ」の侵略的行動をも採らせることにもなったのです。これが中国には華北の「満州化」と受け取られた。

 蒋介石は、昭和10年(かっての革命外交を反省し)、広田外相に対して(一)日中両国は相互に、相手国の国際法上における完全な独立を尊重すること、(二)両国は真正の友誼を維持すること、(三)今後、両国間の一切の事件は、平和的対抗手段により解決すること、の三項目を提示し(2月26日)、日中親善の関係改善を図ろうとしました。これに対して広田外相も「蒋介石氏の真意にたいしては、少しも疑惑を持たない」と言明し、中国の対日態度転向は天佑である、などと述べました。

 これに対して陸軍は、外務省の対華親善政策を批判し、中国の対日態度転換は欺瞞だといい、国民政府をして親日政策を取らざるを得ないようにするためには、「北支那政権を絶対服従に導き」、それと日本との「経済関係を密接不可分ならしめ、綿、鉄鉱石等に対し産業開発及び取引を急速に促進」する必要があるとしました。

 そして、政府の日中親善政策を妨害するため、昭和10年6月の天津の親日新聞社長らの暗殺事件を口実として、露骨な武力的威嚇により中国に、「梅津・何応欽協定」(国民党勢力の河北省からの撤退:昭和10年6月10日)、「土肥原・秦徳純協定」(国民党のチャハル省からの撤退、長城線以北からの宋哲元軍の撤退:昭和10年6月27日)を押しつけました。

 こうした日本軍の妨害活動にもかかわらず、中国は対日親善方針は不動であるとして、先に広田に示した三原則の実現により、日支両国が真の朋友となり、経済提携の相談もでき、さらに「共通の目的」のため軍事上の相談をなすこともできるといいました。最大の難問は満州問題ですが、これについては「蒋介石は同国の独立は承認し得ざるも、今日はこれを不問に付す(日本に対し、満州国承認の取り消しを要求せずと言う意味)」と説明しました。

 しかし、この蒋介石の日中親善を求める交渉は、日本陸軍の反対に遭って挫折しました。結論的に言えば、日本側の対案である「広田三原則」からは「中国側三原則」に対応した文言が消えてしまったこと。また、外務省と海軍が主張した「本件施策に当り、わが方の目的とするところは、支那の統一または分立の助成もしくは阻止にあらずして、要綱所載の諸点の実現に存す」というような「華北分離工作」をしない旨の文言も消えてしまったのです。

 前回、二重化した日本外交に対する不信が、欧米人の日本に対する不信を招き、これが日本軍残虐宣伝を目的とする「南京大虐殺」の誇大宣伝を生んだ、ということを申しました。では、この時の日本外交を主導した軍の考え方の何が問題だったかというと、それは簡単にいえば「中国を「他国」と認識すること」ができないということ。つまり、東洋文明=王道文明という言葉で両国を「兄弟」と見なす考え方が、結果的に中国に対する侵略的行為を生んだということです。

 このことに日本も気づき中国を「主権を持った独立国」と認識して欲しい・・・その願いが、上記の中国側三原則、(一)日中両国は相互に、相手国の国際法上における完全な独立を尊重すること、(二)両国は真正の友誼を維持すること、(三)今後、両国間の一切の事件は、平和的対抗手段により解決すること、に現れていたのです。要するに、中国を独立主権国家として認め、両国間の一切の問題は、平和的外交手段により解決したいと云うことでした。

 中国にしてみれば、日本人の「東洋文明vs西洋文明」という考え方は、日中関係を兄弟視し、中国を日本の都合の良いように従順に従わせようとするもので、独善的かつ偽善的なものとしか映らなかったのです。また、西洋人にとっては、「西洋文明=覇権文明」という図式で、中国における彼らの権益侵害が正当化されているのですから、当然、日本の侵略に抵抗する中国に同情を寄せることにならざるを得ませんでした。

 もちろん、ここには日本側の問題だけでなく、中国側及び西欧諸国、特にアメリカに問題があったことも事実です。このことについては、昭和3年9月に日本政府の代表としてアメリカ政府との交渉にあたった内田康也(伯爵)の言葉に次のように表明されています。

○日本は地理的な必然性により、他の列強諸国に比べると経済的に、それ故にまた政治的にも中国へ大きく依存している。 

○日本は過去において、あらゆる障害を粉砕して、日本の意志を中国に押しつけたい誘惑に駆られてきた。

○ワシントン会議は、日本自身の最高利益がアメリカ政府の主張する共存・共栄の政策と一致することを、日本が納得する根拠と機会を与えた。

○その基礎の上に国際協調政策に全幅の信頼を抱き、日本はさまざまな主張を放棄したばかりか、東洋社会で重きを為す多くの威信もしくは”面子”も捨てた。

○このような国際協力は、ワシントン虚条約に対する全面的な支持を包含するものであるとするアメリカの考え方に、日本は、中耳つかる良心的に従って行動してきた。

○それにもかかわらず中国は約束した国際協力を忌避して、条約署名国、その中でも特に日本に対し敵意と無責任の政策をとり続けてきた。 

○もし中国が、自分の利益のために約束された国際協力を拒否したり不快視するなら、また協力しようとする諸国との良好な関係の樹立を排斥したり否認するなら、各国は少なくとも各国同氏で団結し、もっと冷静な時代に中国が喜んで承認した諸目的を達成するようにしなければならない。

○日本政府は、アメリカ政府が中国問題に関する国際協力理念の保証人であると認識している。我々が、中国をこの国際協力の枠組みに引き戻すよう決定的な影響力を、アメリカが放棄するのかどうかを日本は知りたいと願っている。

 この内田をアメリカに派遣したのは田中義一首相です。これで、彼の対中外交の基本方針は「ワシントン体制遵守」であった事が判ります。しかし、彼の行った三度にわたる山東出兵とその間に発生した済南事件、さらにその後の張作霖爆殺事件は、こうした国際協調の外交基盤を破壊することになった。そのことが反映したのでしょうか、こうした日本政府の問いかけに対するアメリカ政府の回答は、次のような冷淡なものでした。

 「中国がなした外国政府への約束と、外国の諸国民に対する義務の履行について、中国の国民政府が認める処理の仕方に関しては、米国政府は、国民政府が国際慣行の最高水準に従って行動しようとしているものと確信し、国民政府がその意図を行動で示すだろうと確信している」(『和はいかに失われたか』マクマリーp166~168)

 こうしたアメリカの回答が、日本政府に「アメリカ人は結局”中国びいき”なのであり、中国の希望に肩入れすることにより、協力国の利害に与える影響を無視してでも自らの利益を追求しようとする」との印象を抱かせたのです。そしてこのような状況の変化が、ワシントン会議以来の日本政府の穏健な政策に対抗して、満州での”積極政策”を唱えていた陸軍閥を台頭させることになったのです。

 「協調政策は親しい友人達に裏切られた。中国人に軽蔑してはねつけられ、イギリス人と我々アメリカ人に無視された。それは結局、東アジアでの正当な地位を守るには自らの武力に頼るしかないと考えるに至った日本によって、避難と軽蔑の対象となってしまったのである。」とマクマリーは言っています。

 では、なぜアメリカは「中国の領土保全と門戸開放、中国及び太平洋諸島に関するワシントン諸条約において、全ての関係諸国の同意を得て公式化され正式に承認された」国際法に基づく善隣友好の原則を、中国の革命外交に肩入れすることで無視する行動に出たのでしょうか。こうしたアメリカ政府の行動の背後には、次のような「中国に対する米国民の広範な親近感があった」とマクマリーは言っています。

 「この親近感は、米国政府が、利己的な国々から中国を守ってきてやったのだと信ずる若干恩着せがましい自負の念と、わが国の協会組織が、中国での布教活動に支えられて、数世代に私中国との好ましい関係を育ててきた事績に負う所が大きかった。この時点で布教活動の指導者達は、自分たちの仕事は、中国の政治的要求を支持する政策によってもっと発展すると確信していた。」

 「アメリカにおける宗教組織の強力な党派性は、新聞論調にも反映された。中国国民党は1776年(アメリカ独立の年)の愛国精神と二重写しにされ、蒋介石は中国のジョージ・ワシントンと目されることが少なくなかった。このような動きは、アメリカの議会と行政府の双方に対し、かなりの圧力となって作用した。」この結果、「国際協調政策は、利己的な他の諸国の身勝手で反動的な目標に奉仕しているだけであると、広く非難」されるようになったのです。(上掲書p122~125)

 こうしたアメリカ人の中国に肩入れする心理が、満州事変以降日本外交を二重化することで武断的大陸政策を推し進めつつあった日本軍に対する警戒心と相まって、国際委員会の宣教師等に、国民党中央宣伝部による「南京大虐殺」という謀略宣伝に肩入れさせることになったのです。

 そこで、これらを総括して、日本人はこの「南京事件」から何を学ぶべきか、ということですが、それは、ワシントン体制下において国際協調路線を採った日本外交の基本姿勢を崩すべきでなかったということ。しかし、満州事変という奇策は、こうした日本の外交姿勢を一変させ、それを独りよがりなものに変えてしまった。その結果、日本外交は二重化し、華北分離工作という中国の主権侵害行為をもあえてさせ、日中戦争を不可避としたのです。

 南京事件・・これを「南京大虐殺」とする謀略宣伝は、こうした日本軍の無統制な行動に対するアメリカ人宣教師等の敵意に根ざしたもので、その淵源を尋ねるなら、それは、そこに至るまでの日本軍の行動が国際社会の支持を得なかったということに尽きると思います。もちろん、こうした日本外交の孤立を誘発したアメリカ外交の失敗もあったし共産主義勢力の謀略もありました。しかし、日本外交が統一を失わなければ、これを乗り切ることができたはずです。

 この意味で、日本外交が最も大きな困難に直面したこの時代、国際協調路線でこれを乗り切ろうとした幣原外交を再評価することが、「南京大虐殺」という謀略宣伝に振り回された戦後67年を総括する上でも、極めて重要ではないかと私は考えています。氏は、満州問題の解決のために仮に武力を使うことがあるとしても、国際社会の支持をとりつけることが絶対に必要だと考えていましたから。

おわり