南京事件(9)―― 満州事変以降「二重化」した日本外交への不信が「南京大虐殺」を生んだ

2012年6月17日 (日)

 河村名古屋市長の「南京大虐殺」に関する発言が、国内のマスコミで余り大きな問題とならないのは、『南京戦史』(平成元年)以降、中国側の主張する「30万人虐殺説」を支持する勢力が国内にほとんどいなくなったことを意味します。朝日新聞の社説筆者も、平成3年2月2日の野村吾朗氏(富山歩兵三十五連隊第一大隊本部書記・軍曹)宛ての返書で、「三十万という数が正しいとは思いません。・・・中公新書『南京事件』(秦郁彦著)の見方が、現時点では妥当ではないかと考えます」と答えたそうです。

 この秦郁彦氏の「4万人説」は、日本軍の公式記録(戦闘詳報等)に記載された「捕われて殺害された中国兵の推計」3万人に、スマイス調査(修正値)による一般人の死者2.3万人の二分の一~三分の一(1.2万~8千)を足した3.8万~4.2万の中間値を取ったものです。これに対して『南京戦史』は、「我が軍に摘出逮捕された敗残兵・便衣兵」の総数3.8万人(戦闘詳報等)の内、処断された人数を1.6万(ただし、その当・不当の判定は保留)とし、それにスマイス調査による南京市部及び江寧県の死者・拉致数を1.6万、合わせて3.2万としています。

 ところで、このスマイス調査の数字についてですが、これには、戦闘員としての戦死、戦闘行為の巻き添え、中国軍による不法行為、中国軍の堅壁清野戦術による犠牲者が含まれています。また、南京市部における暴行による死者2,400や拉致4,200という数には、便衣兵と見なされて摘出、あるいは処断されたものも含まれていて、必ずしも日本軍により不法殺害された一般市民の数を表すものではありません。従って、その実数はこれよりかなり小さなものになります。

 板倉由明氏は、これらを考慮し『南京戦史』の中国軍兵士の処断数1.6万の二分の一~三分の二、つまり8千~1.2万を不法処断数とし、一般市民については、スマイス調査による1.6万の三分の一~二分の一、つまり5千~8千を不法殺害としています。合計すると、不法殺害された軍民の数は、1.3万から1.9万となりますが、板倉氏は、こうした推計はランクわけした方が良いとして、不法殺害数をおよそ「一万から二万」としています。

 これに対して、秦氏の4万人説は、我が軍に「捕われて殺害された中国兵の推計」を3万とし、それをそのまま不法殺害としています。また、スマイス調査(修正値)による一般人の死者2.3万については、その二分の一~三分の一(1.2万~8千)を不法殺害としています。しかし、この3万という数は、当時「日本軍の公表戦果が実数の二~三倍にふくらむのが常識」とされていたことをあえて無視したもので、また、2.3万という一般人の殺害数は、江寧県だけでなく南京近郊五県の死者数を累計したものです。

 しかし、板倉由明氏と秦郁彦氏には共通点があって、それは、両者とも、南京陥落後の城内およびその周辺地域における状況の把握において、ティンパーリの『戦争とは何か』の記述にかなりの信を置いているということです。そのため安全区に逃げ込んだ「便衣兵」の処断や、城外において大量の発生した投降兵の扱いについて、日本軍の責任をより重く追及する結果になっています。また、安全区内で頻発した掠奪・放火・強姦事件等の多くも日本軍兵士によるものとしています。

 こうした傾向は秦郁彦氏に特に強くて、第十三師団の山田支隊に投降した大量の捕虜がその後どう扱われたのかということについても、「当初は捕虜を釈放するつもりだったようだ」が、結果的には一万人前後の大量殺害となった、とか、「城内の病院(と臨時病院)には相当数の中国傷病兵が収容されていた」が・・・「彼らを目撃した証言はいくつかあるにもかかわらず、最終的にどう処理したかに触れた証言は見当たらない」などと、不法殺害を思わせる記述をしています。

 また、南京城内における掠奪行為については「市内全域の無数の家が、人が住んでいようがいまいが、大小かまわず略奪されました」とか、「南京での略奪品目は・・・ピアノ200台」に及んでいました、というベイツの証言を事実であるかのように紹介しています。また、放火については「南京国際救済委員会の調査によると、城内のメインストリート地区で損傷した建物2828棟のうち、軍事行動によるものはわずか2.7%で、放火が32.6%、略奪に起因するものが54.1%にのぼった」と紹介し、あたかも日本軍が南京城内の建物の大半を焼き払ったかのような記述をしています。

 さらに「強姦および強姦殺害」については、「はなしはんぶんとしてもラーベ国際難民区委員長の二万人強姦説(東京裁判の判決でも採用)は当たらずといえども遠からずであろう」といい、その証人として「曽根一男の告白」を紹介し、「クーニャン狩りに独特の嗅覚を持つ兵士たちは・・・獲物を見つけるのに余り苦労しなかったようだ」と総括しています。(その後、曽根一男は歩兵分隊長ではなく砲兵馭者であり、その「告白」は「虚偽の体験記」であったことが板倉由明氏によって暴かれた。)

 さらに、昭和59年8月5日付けの『朝日新聞』で紹介された都城二十三連隊兵士の日記の記述「近ごろ徒然なるままに罪も無い支那人を捕まえてきては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり木片で叩き殺したり」という記述を引用し、「こうした無差別殺人に走った日本兵士の行状は、まさに鬼畜の所行というべく、同じ国民の一人として唯恥じ入るほかは無い」と慨嘆しています。結局、この日記は史料批判もなされないまま、朝日新聞が「連隊は南京大虐殺と無関係」というお詫び記事を出すことで終結しました。

 秦氏ほどの歴史研究者が、史料批判もなしにこれらの「告白」を事実と信じ込むのも不可解ですが、それだけ、『戦争とは何か』による「日本軍残虐宣伝」の呪縛が強かったということが言えると思います。その後、秦氏は、2007年に増補版の『南京事件』を発行しています。しかし、本文は旧版のままで、それに「南京事件論争史」を加える中で「1,国民党中央宣伝部の役割」、「2,虐殺写真の検証」、「3、データーベースによる解明」を紹介し、『戦争とは何か』における殺人・強姦・放火に関する記述の誇大を認めています。

 その上で、残された論点として、「1,難民区の便衣兵狩り」の当・不当については、「全然審問を行わずして処罰をなすことは、現時の国際法規上禁ぜられる所」(立作太郎『戦時国債放論』1931)と解釈するのが妥当かと思われる」と総括しています。また、「2,幕府山の捕虜たち」については、「これを計画的殺害とみるか、・・・釈放の意図を誤認しての反抗から生じた突発的事故なのか、見解は依然として分かれている」と見解を保留しています。1,2,ともいささか往生際の悪さを感じますね。

 ただ、従来4万としてきた犠牲者総数については、「この二十年、事情変更をもたらすような新資料は出現せず、今後もなさそうだと見極めがついたので、あらためて四万の概数は最高限であること、実数はそれをかなり下まわるであろうことを付言しておきたい」としています。この4万という数は、先述した通り「日本軍の公表戦果が実数の二~三倍にふくらむのが常識」だったことを一切無視したものである上に、南京近郊五県における彼我の責任不明の死者数を加えたものですから、あくまで最高限の数字だと断ったわけです。

 つまり、秦氏における実数は、板倉氏(一般人の死者数は江寧県のみ算定)の1万から2万というランク付けとほぼ一緒だと言うことです。しかし、これらの数字は、「難民区の便衣兵狩り」を不当とし、さらに、「幕府山の捕虜たち」の計画的殺害の可能性を認めた上での数字ですから、前者を合法とし、後者を突発的事故による捕虜の暴動と見る立場に立てば、その数は、さらに小さなものにならざるを得ません。この観点をさらに詰めた数字は上杉千年氏より提出されていますが、そこでは、兵士の不当処断4,400、江寧県を含めた市民の被害2,500の範囲内となっています。(『作り話「南京大虐殺」の数的研究』)

 問題は、南京城陥落時の包囲殲滅や残敵掃討や便衣兵の摘出が、どのような情況下で行われたかということですが、これについては、前回までの論考で紹介した通り、安全区に逃げ込んだ万余の中国兵の中には、後方攪乱を企図する将校等が多く含まれていて、武器を隠匿し便衣となって潜んでいたということ。さらに、それを欧米人で組織する国際委員会の委員らが黙認していたということ。その上で、城内で頻発した略奪・放火・強姦等を全て日本軍兵士によるとして抗議を繰り返していたという事実。

 ということは、南京城内に設置された安全区は、中国軍兵士の潜入を防ぐどころか、その後方攪乱基地になっていたということで、つまり、戦闘は依然として継続中だったということになります。つまり、安全区からの便衣兵の摘出は、武装解除された無抵抗の兵士の摘出ではなくて、まさに便衣兵として後方攪乱中の戦闘員の撃滅処断だったということです。そういうことであれば、彼らが「審問を行わずに処分された」としても、これを不法ということはできませんね。

 同様のことは、城外において大量に発生した敗残兵や投降兵の処置についても言えます。彼らは、あくまで南京城に向けて攻め上る日本軍の包囲を突破することを命じられていたのです。その絶望的な戦いの中で多くの兵士の命が失われ、一方で、日本軍部隊の兵員数をはるかに上回る万余の投降兵が発生したのです。その典型的な例が幕府山事件であって、これは、武装解除された大量の投降兵が突発的事故を契機に暴徒と化し鎮圧されたもので、これも、捕虜の不法殺害ということはできません。

 もちろん、日本軍がこうした事態をあらかじめ予測し、大量の投降兵が発生した場合の処置について国際法にかなった基準を各部隊に周知徹底し、かつ捕虜収容所や食料の準備に万全を期していたら良かった。しかし、日本軍の南京城攻撃は、中国軍の全面撤退につられて勢いでなされたもので、こうした準備はほとんどなされていなかった。そんな状態の中で、日本軍各部隊は、無統制状態に陥った中国軍への個別の対応を迫られた。その結果、多くの中国兵の命が無駄に失われたわけで、その責任は中国側により重しとしなければなりません。

 にもかかわらず、本来中立の立場を堅持すべき安全区国際委員会は、こうした事情を一切無視して、日本軍に対する「敵対行為」とも思える宣伝行為を行いました。それは、その委員会に属するアメリカ人宣教師の内の数人が、国民党中央宣伝部のエージェントだった、ということにもよりますが、問題は、そうした中国支援の雰囲気が、当時の欧米人とりわけアメリカ人に支配的だったということを意味します。その結果、国際委員会による日本軍残虐宣伝が功を奏することになったのです。

 それにしても、南京は日本軍の占領下にあったわけで、日本軍は安全区を正式承認していたわけではないのですから、彼らの敵対的宣伝行為について、直ちに調査を行いその真偽を糺すべきでした。それをしなかったのは、一つには、日本の外務省と軍が敵対関係にあったためだと思います。このことは、ラーベの日記を見れば判りますが、国際委員会と南京の日本領事館員とは日本軍に対して一種の「共闘関係」にありました。当時外務省東亜局長だった石射猪太郎が、国際委員会の日本軍残虐宣伝を真に受けたのもそのためです。

 こうに見てくると、なぜ、「南京大虐殺」という虚偽の虐殺宣伝が、その後「事実」として世界に通用するようになったか、その根本原因が判ると思います。その第一の原因は、当時の日本の対中国外交姿勢が、国際社会におえて全く支持されていなかったということです。第二に、日本外交が外務省と軍との間で二分していて、実質的な敵対関係にあったということです。先の石射局長などは、その頃「日本は行く処まで行って、行き詰まらねば駄目と見切りをつけ」ていました。(『外交官の一生』p328) 

 ではなぜ、南京事件当時の日本はこのように、国際社会の敵意を一身に受けるような存在になっていたのでしょうか。実はこれが、日本人が「南京大虐殺」を考える際に忘れてはならない最も重要な観点なのです。確かに「南京大虐殺」は国民党中央宣伝部が仕組んだ「戦争プロパガンダ」でした。しかし、それをプロパガンダたらしめ、その後、虚実ない交ぜの日本軍残虐宣伝が世界に流布することになったのは、こうした日本軍に対する敵意が、欧米の宣教師やジャーナリストの間に偏在していたということ、この事実を確認しなければなりません。

 だが、これまでの「南京大虐殺」論争において、この点に注意が払われたことはほとんどありません。ここには「大虐殺派」、「まぼろし派」、「中間派」があり、今日では「中間派」から「まぼろし派」の中間あたりがその主流を形成しつつあります。しかし、その主たる論点は、日本軍あるいは日本の兵士が残虐であったかなかったかに帰結しがちで、この事件が、なぜ第三国の宣教師等によって誇大に宣伝され流布していったかを問うものはほとんどありません。

 中には、これを人種問題として解釈する意見もあります。また、当時のアメリカ政府の日本の自然的条件(領土、人口、資源・エネルギー)の厳しさの認識や、日本が極東において果たしている安全保障上の地位や役割に対する認識の甘さを指摘する意見もあります。だが、人種問題については、一方で中国人が熱烈な支援を受けているし、後者については、幣原喜重郎が日本の外交を司っていた間は、極東における日本の地位や役割は十分尊重されていて、これが失われたのはその失脚後です。

 こうなると問題は、当時の日本の政治体制やそれを支えた国民思想はどうだったか、それは日本の大陸政策にどう反映したか、国際社会はそれはどのようなものと受け止めたか、等を問う必要があります。いうまでもなく「南京大虐殺」は、山東出兵以降の日本の大陸政策の延長上に起きたことであって、この観点を抜きにしては「南京大虐殺」の真因を掴むことはできません。もちろんその前に、その虚偽宣伝による心理的呪縛から日本人を解き放つことが必要で、ようやくそれに成功しつつあるのですが・・・。

 しかし、こうした謀略宣伝は国際政治にはつきものであって、日本人もこうした情報戦に耐えるだけの冷静さと知力を持つ必要があります。実は、このあたりのことを、この「南京大虐殺論争」に関して最も早く指摘したのが、イザヤ・ベンダサンでした。

 その言わんとするところは、「日本は11月7日トラウトマン和平工作で三条件(1.満州国承認、2.日支防共協定の締結、3.排日行為の停止その他)を中国側に提示した。これに対して中国側は12月2日に、この条件を基礎とした和平会談の開催を提案してきた。と同時に、その後情勢は変化しているが日本側の提案に変化はないかと、念を押してきた。これは当時の中国にとっては「無条件提案受諾」であり、これに対して日本側は条件に変化なしと通告した。戦争は終わった・・・。

 というのは、日本は百パーセント目的を達した。中国が満州国を承認すれば、全世界の国々の「満州国承認の雪崩現象」が期待できるであろう。これで、「満州領有確認戦争」は日本の一方的な勝利で終わったわけであった。何よりも満足したのはナチス・ドイツ政府であったろう。これで蒋介石軍の崩壊は防がれ、日蔣同盟が中ソ国境の脅威となり、ドイツの東方政策はやりやすくなる・・・ところがここに全く想像を絶する事件が起こった。12月8日に日本は中国が日本の提案を受託したことを確認した。しかし日本側は軍事行動を止めない。それのみか12月10日、南京城総攻撃を開始した。なぜか?

 通常こういう場合の解釈は二つしかない。一つは、日本政府が何らかの必要から、中国政府をも、トラウトマン大使をも欺いたという解釈である。これは大体、当時の世界の印象で、これがいわゆる「南京事件報道」の心理的背景であり、また確かにそういう印象を受けても不思議ではない(というのは、他に解釈の方法がないから)が、どう考えてもこの解釈は成り立たない。

 結局、当時の世界の、この事件へのやや感情的な結論は、「日本人は好戦民族なのだ」ということであった。これに対する日本人の反論は、常に「歴史上、日本人ほど戦争しなかった民族はない、だからそうは言えない」ということであった。しかしこれは反論にならない。(つまり)これへの反論では、まず南京総攻撃、およびそれ以後の戦闘の理由を説明しなければならない。それができないのならば、「戦争が好きで、これを道楽(ホビー)として、たしなんでいたのだ」と言う批評は甘受せねばならない。

 このようなベンダサンの見方に対しては、日本軍の南京城攻撃の目的は、敵の首都である南京城を落とせば”戦争は終わる”と考えていたからで、そもそもこの戦争は蒋介石が始めたものであるから、それ以外に戦争を止める方法はなかった、とか、蒋介石は三条件を基礎に話し合うと言っただけで吞んだわけではない、等の反論がなされています。また、トラウトマン和平工作における和平条件が加重されたことについては、蒋介石の回答が遅延したためで、日本軍はすでに南京城周辺に迫っておりその間相当の犠牲も払っているのであるから当然とする意見もあります。

 しかし、これは、満州事変以降の日本の対中外交における基本政策は何だったか、ということを忘れた議論です。それは中国に「満州国を承認させる」ことに尽きていた。であれば、蒋介石が南京陥落直前これを認めたのですから、当然のことながらこれで戦争は終わりのはずです。ところが、日本軍はこうした外交の経緯をまるで無視し、12月9日には南京城を守る中国軍に降伏勧告を行い、それが拒否されたとして南京城総攻撃を開始したのです。

 実はこの件について、当時参謀本部戦争指導課員であった堀場一雄が、このトラウトマン和平工作を主導した広田弘毅を厳しく批判した文章があります。これは、12月7日に蒋介石がディルクセン大使を介し、「日本側提示の条件を和平会談の基礎とすることに同意する」ついては先に示された条件に変化はないか、と問い合わせてきたのに対し、広田が当初これを受け入れながら、その後条件を加重したことを、次のように厳しく批判したものです。

一、念を押したる上の回答を無視する本措置は、国家の信義を破ると共に日本は結局口実を設けて戦争を継続し侵略すと解釈するの他なし。これ道義に反す。

二、成し得べくんば支那側今時の申出を取り上げ交渉に入るべし。交渉に入らば折衝妥協の道自ずから開くべし。

三、本条件絶対に容認し難しとせば、我が欲する条件を明確に示すべし。その条件はすでに久しく用意あり・・・群衆は常に強硬なり。解決条件は寛大なるを要す。いわんや日支大転換を企図するにおいてをや。・・・
*ここで「その条件はすでに久しく用意あり」とするその条件とは、「積極論を保障事項に封じ妥結最良を委せしむると共に、具体問題に関し先の受諾条件に近接せしめたる所に苦心存す」としたもので、基本的には広田が示したものと同じ。
    
 だが、こうした参謀本部の苦心も、先に述べた通り、外交交渉より南京占領を優先させたため、蒋介石の日本に対する不信をさらに決定的なものにしてしまいました。従って、その後条件加重された第二次和平提案でも、翌1月15日以降交渉を継続していれば蒋介石の妥協を引き出せたのではないかとの意見もありますが、私はその可能性はゼロだったと思います。というのも、蒋介石の日本に対する不信は、外交上の信義が、既成事実の積み重ねの上に簡単に破られる、ということにあったのですから。

 つまり、このように日本外交が二重化し、その主導権を軍が握り、かつ、その軍内でも参謀本部と陸軍省の見解が対立しており、さらに、軍中央が出先軍の暴走を止め得ないような状況では、まともな外交交渉が行われるはずもなかったのです。こうした日本外交に対する不信が、満州事変以降華北分離へと突き進む中で蒋介石に次第に高まっていた。そして、それを決定的にしたものが、このトラウトマン和平交渉における外交を無視した南京城総攻撃だった、というのです。

 こうした、日本人の行動は、欧米人にはまるで理解しがたいものだった。その結果、日本軍は「戦争が好きで、それをホビーとしてやっている」というような解釈が生まれ、また、それを実証するように、南京陥落後、武器を捨て安全区に逃げ込んだ兵士や、投降兵に対する、日本軍による公然たる大量処刑が行われた。これが、宣教師等の眼には、日本軍の理解しがたい残虐行為と映り、それが国民党中央宣伝部の工作を経て、虚偽かつ誇大な日本軍残虐宣伝へと発展していった。

 どうも、このような日本軍の、いや日本人の”既成事実の積み上げで交渉条件を次々に加重していく”・・・こうした日本人の感情優先の外交姿勢が、日中戦争のみならず大東亜戦争の根本原因になっていたような気がしますね。