南京事件(8)―― なぜ、アメリカ人宣教師等は中国軍撤退作戦の失敗を日本軍残虐宣伝にすり替えたか

2012年5月31日 (木)

 これまで7回にわたって、「南京大虐殺」の情報発信源となった『戦争とはなにか』について、その真偽を検証してきました。この結果、この本に書かれた不法殺人、略奪、放火、強姦などの犯罪行為の中には、確かに日本軍兵士によるものも含まれているが、その多くは、難民自身による略奪や、安全区に潜入した中国軍便衣兵による後方攪乱であった可能性が極めて高いことが判りました。ティンパーリやベイツら数人の国際委員会委員は、これらを全て日本兵の仕業とし、日本軍の残虐性を国際社会に宣伝したのです。

 といっても、この本に挙げられた数は、「埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかって兵隊になったことのない人だった」であって 、これは、戦後、中国が主張するようになった30万人以上という数字と比べるとはるかに少ない数字です。

 また、この4万人という数字がどこから出てきたかというと、それは、昭和13年5月に終了した紅卍会の埋葬記録(四万三千余体)に拠るのです。ただし、これ以前の1月10日にベイツが書いた記事には、「一万人以上の非武装の人間(武装解除された元兵士)が無残にも殺されました。・・・さらに一般市民も、別に兵士であったという理由がなくても、かまわずに銃殺されたり、銃剣で刺殺されましたが、そのうちには少なからず婦女子が含まれています」となっていました。

 つまり、一万人以上プラスアルファーの数字が、紅卍会の埋葬記録の出現によって4万人となり、その約30%約12,000人が、婦女子を含む一般市民とされたのです。しかし、この4万という数字は、この埋葬作業を監督した当時南京特務機関員であった丸山進氏によると、少なくとも一万四千体以上の水増し(埋葬作業を急がせるため水増し賃金を払った)があり、実数は二万九千体以下であったといいます。それでも、この統計は、成年男子と女子と子供を区別していて、城内外区合わせて見つかった女子の死体は52体、子供の死体は29体に過ぎませんでした。

 ということは、この「一万人近くの非武装の人間」というのは、安全区に逃げ込んで摘出された便衣兵のことですから、便衣兵は国際法上捕虜としての資格を有せず処刑されても仕方がない。そこで、不法殺害となるプラスアルファー分を、「兵士であったことのない」一般市民や婦女子12,000人の殺害としたのです。しかし、便衣兵と間違われて処刑された一般市民の数は僅かであり、また、婦女子の遺体は合計81体(誰により殺害されたものであるか不明)に過ぎないのですから、この12,000人という数字が過大であることは明らかです。

 そこで、ベイツは、こうした数字では説得力に欠けると判断したのでしょう。「有能なドイツ人の同僚たちは強姦の件数を二万件とみています。私も8,000件以下であるとは思われません。・・・金陵大学構内だけでも、11才の少女から53才にもなる老婆が強姦されています。他の難民グループでは、醜いことにも、72才と76才になる老婆が犯されているのです。」などと、証拠なしに伝聞証言だけで日本軍の残虐性を訴えることのできる強姦に焦点を移すことにしたのです。安全区に潜んだ便衣兵が後方攪乱をするにしても、これが最もやり易くまた効果的だったと思います。

 この安全区の役割について、南京陥落時に500名の部下とともに安全区に潜入した郭岐は、自らの回想録で次のように述べています。

 「第四に、このような集団がここ(=安全区)でしっかりと団結しており、加えて軍人が大半を占め、銃器が至る処で手に入るというのであれば万が一チャンスがあったなら、内外から呼応し南京は再び我々のものとなるのではないか。このために、日本人の傀儡自治会は夜もおちおち寝ていられなかった。彼らは針のむしろに座っているかのように神経を尖らせており、一触触発といった状況であった。」(「南京陥落後の悲劇」『南京事件資料集2』p236)

 こうした動きが実際にあったことが、ラーベの日記(1月8日)にも次のように印されています。

 「今日、中国人の間で、中国兵たちが南京を奪い返そうとしているという噂が、またもやひろまった。それどころか、市内で中国兵の姿を見かけた、という話まで出ている。まず、安全区の家々に飾られていた小さな日の丸がそっくり姿を消した。日本の腕章も中国人のほぼ全員がつけていたのだが。そしてつい今し方、ミルズが教えてくれたところによると、相当数の難民が日本大使館を襲おうと考えていたという。この時ささやかな暴動に加わった人たちは死刑になった。」(『南京の真実』p171)

 このことに関わって、当時、南京特務機関員として紅卍会の埋葬業務等の監督に当たった丸山進氏は、一体なぜ唐生智が南京陥落直前に「敵前逃亡」したのかについて、次のような「大胆な推測」を披露しています。

 「唐生智ほどの武将が意図的に激戦中の南京市から離脱する以上後に何らの策をも残さなかったとは考えられない。況して側近中の側近と見なされる龍大佐と周大佐が唐司令官から与えられた秘密命令がどのようなものであったかはおおかた推測することができる。」

一、残されている南京城内の家屋と建設物は安全区を除き一件も残さず灰燼に帰すること。
一、住民に対しては略奪、強姦、殺害等を行いその罪をすべて日本軍の将兵になすりつけること但し国際委員会には気づかれないように注意する。
一、日本軍が安全区に潜入している組織に気付かずに主力部隊を南京市城内外から撤退させるのを待って一斉に蜂起して首都奪還を図ること。(「ラーベの日記を読んで(上)」)

 事実、唐生智が「敵前逃亡」で処刑されたという当時の新聞報道は誤りで、氏は戦後も生き延びていて、1949年以降中共軍に寝返り、湖南省で指揮官、および知事になったことが確認されています。このことは、先の丸山氏の推測を肯わせるものですが、例のアイリス・チャンの『レイプ・オブ・ナンキン』には、唐生智が「敵前逃亡」するに至った経緯について、次のように記されています。 

 「しかし、もっと悪いニュースが唐を待っていた。そして、今回の悪いニュースは敵の成功によるものではなく、蔣自身の側から届けられたものだった。二一月一一日正午、唐の本部に顧祝同将軍からの電話が入った。顧は唐配下の軍団の全面退却を命じ、これは蒋からの直接の指示であると通告した。唐自身は、川の対岸にあり、渡河船と鉄道の終点である浦口に直行すると、待機している別の将軍が彼を安全な場所に移動させるということだった。

 唐の表情に衝撃が走った。自分の軍団を見捨てるという、およそ指導者として不名誉な選択を要請されている事実はおくとして、彼は別の非常に深刻な問題を抱えていた。その時点で、彼の軍は、苛烈な戦闘の最中にいた。彼は顧に、日本軍がすでに前線に突入していて、退却命令の実行は不可能であると説明した。それは実際には潰走に転じることになる。

 顧は言った。「それについて憂慮する余裕はない。とにかく、貴殿は今夜中に退却しなければならない」。

 突然かつ性急な退却がもたらすと思われる結果について唐が再度説明すると、顧は、蒋が個人的に唐に「今夜中に渡河する」よう命令していることを思い出させた。必要ならば部下を残して状況に対処させろ。しかし「貴殿は今夜中に川を渡らなければならない」。顧は繰り返した。

 不可能だ。唐は言った。どんなに急いでも、揚子江を渡ることができるのは明日の夜になる。顧は、敵との状況が切迫した事態に発展しているので、可能な限り早く市を離れるよう警告した。

 その日の午後、唐は命令を促す蒋の電報を受け取った。「唐司令長官、戦況を維持できないのならば、将来の反攻に備えて、[軍を]保存し、再編成するために、退却の機会をつかむべきである。十一日」。その日のうちに、窮迫する唐のもとへ、蒋からの二通目の電報が届き、再び退却を迫った。

 戦線を維持できず、圧力をかけられ、唐は従うことにした。それは中国の軍事史上最悪の結果のひとつをもたらすことになる決定だった。」(上掲書p92~93)

 つまり、唐生智は勝手に「敵前逃亡」したわけではなくて、それは蒋介石の命令によるものだった、と言うのです。また、チャンは、それによって中国軍民間に引き起こされた悲劇的についても、その情景をリアルに描写しています。また、「敵前逃亡」した唐生智やそれを命令した蒋介石の責任について彼女はどう考えているのかというと、これについては次のような見解を表明しています。

*印のついたパラグラフは私見。  

 「一一月に蒋介石が南京から政府のほとんどを疎開したときに、蒋が彼の軍を引き上げて都市を無防備な状態にしていたならば、恐らくあの大がかりな虐殺は避けられたのではないかという仮説は、よく語られ、説得力がありそうに見える。しかし、少し考えてみれば、この議論の弱点が見えてくる。いずれにしろ、日本軍はその数ヶ月前から、南京へ進軍する経路で組織的に村や都市を破壊し、同じような虐殺を他の場所でも行っていたのである。明らかに、彼らは自らの行為について、中国人の挑発を必要としていたわけではないのである。」

*南京から中国兵が完全撤退して南京城がオープンシティーにしたとしても、日本軍が南京へ進撃する経路で行った組織的破壊行為や虐殺行為を見れば、同じことが南京でも起きたはず、というです。しかし、それはチャンの勝手な思い込みであって、事実に基づくものとは言えません。また、この文章は、この時の唐生智の「敵前逃亡」が「中国人の(日本軍による虐殺を招くための)挑発」となる可能性を認めていたことをも示しています。

 「中国兵がまったくいなくなった都市は、少なくとも、民間人の中に隠れている兵士を取り除くために系統的な処刑が必要だったという日本人の言い訳の根拠を奪ったということだけは確かに言えるだろう。しかし、それによって彼らの行為が変わったという根拠は何もないのである。」

*この記述は、アイリス・チャン自身、安全区に逃げ込んだ「便衣兵」は、摘出され処刑されても仕方ないと認めていたことを示しています。ということは、南京城内の中国人はほとんど安全区に避難していて、そこに中国兵が軍服を脱ぎ捨て、武器を捨てあるいは隠して潜り込んだのですから、日本軍によるその摘出処断は合法と認めたことになります。

 「また、蒋介石が意味のない南京からの退却命令を出さず、最後の一人まで市の防衛のために戦っていたら市の運命は違うものになっていたかもしれないという仮説も語られがちである。しかし、我々はここでも慎重にならなければならない。一対一の白兵戦は機能しなかっただろう。日本軍ははるかに優れた武器を持っていたし、よく訓練されていたのだから、遅かれ早かれ中国軍を打ち負かしたはずである。しかし、遊撃戦の戦術に基づく長期の戦闘を引き伸ばせば、日本軍の士気を喪失させ、中国軍のそれを高揚させることができたかもしれない。少なくとも、もっと多くの日本兵が中国兵との戦闘で死に、激しい抵抗によって彼らの中国兵に対する傲慢さが封じられることにはなっただろう。」
 

*唐生智が逃亡せず、日本軍に市街戦を挑めば、南京城内は安全区も含めて激しい戦闘が繰り広げられることになったでしょう。しかし、当時の中国軍の非正規兵を多く含む戦力では、いずれ降伏を余儀なくされる。それでは、その戦闘で生じた中国軍民の死に対する責任は中国軍が負わなければならなくなる。だから、「降伏」を避け、「将来の反攻に備え[軍を]保存し、再編成するためには、あえて唐生智を「敵前逃亡」させる必要があったということです。

 それによってはじめて「虐殺」の責任は日本軍に負わせることが出来るわけで、そこで蒋介石はこのような「高等戦術」を採ったのではないでしょうか。だが、こうした解釈はヒューマニストのチャンには耐えられないので、唐生智には「逃亡」せず部下将兵とともに日本軍と徹底抗戦する戦術を採って欲しかったと言っているのです。

 しかし、非情ではありますが、蒋介石の取った戦術の方が、アメリカの同情を買う上ではより効果的でした。ティンパーリの『戦争とはなにか』や、アメリカの国民大衆を熱狂的な中国ファンにしたエドガー・スノーの『アジアの戦争』や、スメドレーの作品はここから生まれたのですから。

 なお、この間の事情について、秦郁彦氏は中国側文献によるとし、その経過を次のように説明しています。(増補版『南京事件』p310)

 「当初は死守方針を明示していた唐生智司令官が、前日に受けた蒋介石からの指示によって軍長、師長以上の高級指揮官を招集、主力は南方へ、一部は北へ渡江して日本軍の包囲を突破せよとの撤退命令を伝達」、その結果、「第八十八師の一部が下関へ向かい退却に移ったのが他部隊へも波及して、夕方には全軍壊乱の様相を呈した。しかも司令部の幹部やスタッフが早々と逃散(午後八時頃に渡江)して通信が切れたこともあって、整然たる正面突破の退却作戦は不能となってしまう」

 ここでは、「蒋介石の指示による整然たる正面突破の退却作戦」と言っていますが、こうした土壇場での退却作戦がうまくいかないことは唐には判っていました。だから、「退却命令の実行は不可能・・・それは実際には潰走に転じることになる」と、蒋介石の命令に抵抗したのす。しかし、最終的には、上述したような蒋介石の作戦を受け入れて、「自分の軍団を見捨てるという、およそ指導者として不名誉」というほかない”敵前逃亡”をあえてやったのです。

 結果的には、これが功を奏したのですね。日本軍は、このような中国兵の「安全区への大量逃げ込み」や「便衣兵の計画的潜入」、それに幕府山付近で発生したような大量の投降兵の出現などを全く予測していませんでした。また、こうした事態に対応するための法的・外交的・宣伝的準備も全く出来ていませんでした。とりわけ、日本軍に敵意を持つ欧米人によって構成される国際委員会が安全区を管理し、中国軍便衣兵を匿い、意図的な日本軍残虐報道を展開するとは思ってもいませんでした。

 実は、今までの「南京大虐殺」研究で欠落している観点がこれです。つまり、日本の軍事行動に対する欧米人の敵意がなぜこれほどまでに高かったか、ということです。実は、この欧米人の日本軍に対する敵意こそが、「南京大虐殺」と言う戦時プロパガンダを生む心理的基盤となっていたわけで、このことについての自覚が日本軍には欠けていたのです。(このことは今も言えるかも知れません)

 このことについて、昭和12年12月17日に南京入りした憲兵准尉(当時)的場雪雄氏は次のように回想しています。

 当時、欧米人外交官や新聞記者で「日本に対して(敵意はあっても)好意を持ったものは一人おらなかった」。欧米人の言うことは「みな日本軍の悪口ばかりだった」。「当時、日本はどこの国からも好意を持たれたことがないんです。常に日本を憎んで考えていたという人ばかりでした。日本を取り巻く世界はね。」私は虐殺とか略奪や放火事件とか婦女暴行とかが事実あったことは認めます。しかしそれは「極めて小規模なものです。それを大規模に膨らませたのが日本に敵意を有する外人なんです。」

 また、質問者の「例えば軍は不法行為を見ていながら、不問に付したということはなかったか、との問いに対しては、

 「松井司令官が入城する前に厳重な布告、えっと、「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」を出しておりますね。この布告に反することは、例え師団長とか旅団長であっても、それは出来ない」。「これに反する不法行為を見逃すことはしなかったですね・・・そこに憲兵の辛さがある・・恨みを買いますよ。軍紀を保持するためには処罰は絶対に仕方がないとです」(『南京「虐殺」研究の最前線(平成15年度版)』)と答えています。

 では、こうした、当時の欧米人の日本に対する敵意はどうのようにして生まれたのか、と言うことですが、大方の日本人はこれを人種的なものと解釈しています。私はそれも一理あると思いますが、その第一の原因は、やはり、満州事変以降の日本の行動、それを推進した軍部、そのため日本外交が二重化したこと。それによって日本は、国際社会での外交的信用を失ってしまったことにある、と思っています。

 この点に関して、昭和13年2月11日、国民党の社説「敵軍の規律問題の本質について」には、この問題を考える上で実に興味深い指摘がなされています。

 「甲・・・だから簡単に言えば、このたびのこと(=南京事件)は日本の少壮軍官の精神が徹底的に破産し、権威を失ったことを証明しているのである。あのように国内で飛揚・跋扈し、日本を改造し世界を征服すると標榜していた少壮派の軍官は、本来、このように無規律で非人道的で、淫にして貪な一軍だったという本質が暴き出されたのである。おたずねするが、何の面目があって死去した犬養〔毅〕・高橋〔是清〕にまみえ、何の資格があって中国を征服すると語ることができようか。」(『南京事件資料集(2)』p39)

 「南京大虐殺」が、蒋介石の決意によって開始された「上海事変」の延長であることは論を待ちませんが、その蒋介石をして抗日戦争を決意させたものが、実は、こうした日本における「少壮軍官の跳梁・跋扈」だったと言うのです。この文の末尾「おたずねするが、何の面目があって死去した犬養〔毅〕・高橋〔是清〕にまみえ、何の資格があって中国を征服すると語ることができようか。」は実におもしろい。五・一五事件と二・二六事件で日本は何を失ったか、と問うているのですから。