南京事件(7)―― 『戦争とは何か』が宣伝本だったことで明らかとなった日本軍残虐報道のウソ

2012年5月 3日 (木)

 これまでに見てきたように、「南京大虐殺」の核心は、南京陥落後に大量に発生した「便衣兵」や捕虜の処断が、戦時国際法に照らしてはたして適正なものであったかどうか、ということです。この点については、松井大将は、12月7日に「南京城攻略及入城ニ関スル注意事項」を全軍に次のように示達しています。

 二、部隊ノ軍紀風紀ヲ特ニ厳粛ニシ支那軍民ヲシテ皇軍ノ威風ニ敬仰帰服セシメ苟モ名誉ヲ毀損スルカ如キ行為ノ絶無ヲ期スルヲ要す

 三、別ニ示ス要図ニ基ヅキ外国権益特ニ外交機関ニハ絶対ニ接近セサルハ固ヨリ特ニ外交団カ設定ヲ提議シ我カ軍ニ拒否セラレタル中立地帯(安全区)ニハ必要ノ他立チ入リヲ禁シ所要ノ地点ニ歩哨ヲ配置ス

 四、入城部隊ハ師団長カ特ニ選抜セルモノニシテ予メ注意事項特ニ城内外国権益ノ位置等ヲ徹底セシメ絶対ニ過誤ナキヲ期シ要スレバ歩哨ヲ配置ス 五、掠奪行為ヲナシ又不注意ト雖モ火ヲ失スル者ハ厳罰ニ処ス 軍隊ト同時ニ多数ノ憲兵補助憲兵ヲ入城セシメ不法行為ヲ摘発セシム

 としていました。

 また、「和平開城ノ勧告文」において、「・・・日軍ハ抵抗者ニ対シテハキワメテ峻烈ニシテ寛恕セサルモ、無辜ノ民衆オヨヒ敵意ナキ中国軍隊ニ対シテハ寛大ヲモッテシ、コレヲ犯サス、・・・」としていました。しかし唐生智が南京陥落直前に部下に敵の包囲を突破して脱出することを指示したまま、浦口に逃れたために、大量の捕虜や「便衣兵」が生まれることになりました。日本軍は便衣兵については、上海戦より中国に対して警告を行ってきましたので、彼等を捕虜としては扱わず、人目につくところでも公然と処刑しました。

 ところが、南京の安全区に逃げ込んだこれらの「便衣兵」の中には、正規兵の他に周辺農村から拉致されてきた兵士や、南京城内で徴兵された少年兵士など一般人と区別のつかない雑兵が多数含まれていました。そのため、日本軍によるそれら「便衣兵」の摘出・処断は、それを目撃した在南京の外国人達には、一般難民や武器を捨てた兵士を平気で殺害する残虐な日本軍、かわいそうな中国人というイメージを強烈に印象づけることになったのです。また、南京陥落後、安全区内の外国人居住区に対して、繰り返し行われた掠奪・放火・強姦事件は、日本軍の暴虐と無統制を証拠立てるものとされました。

 『南京戦史』では、中国兵の捕虜総数を(最大で)2万8千と見積もり、収容6千、釈放3千、逃亡3千、処断1万6千としています。そして、この1万6千の処断の当不当については、『南京戦史』は当時の状況が分からないとして、その判断を保留しています。

 こうした『南京戦史』の推計に対して、ティンパーレ(オーストラリアの市民権を持つ「マンチェスター・ガーディアン」の中国特派員で、鈴木明によって国民党中央宣伝部顧問であったことが判明した)の『戦争とは何か――中国における日本軍の暴虐』(昭和13年6月発行)は、「南京城内または城門の付近で殺された四万人近くの非武装の人間の内30%つまり12,000人を、かって兵隊になったことのない人びとである」としました。

 しかし、『南京戦史』によると、武装解除された中国兵の内処刑されたものは主に「便衣兵」であって、その数は7,000名弱に過ぎませんでした。また、この場合の「便衣兵」とは、投降しないで軍服を脱ぎ捨て、あるいは武器を隠匿して一般民衆に偽装した兵士であって、A指揮者の存在、B(兵士であることの)特殊標章の装着、C公然たる武器の携行、D戦争の法規の遵守という捕虜の資格要件を欠くため、戦時重犯罪人として処刑を含む重罰に処されても仕方がありませんでした。

 つまり、『南京戦史』で処断されたとする総数1万6千のうち、7,000弱はこうした「便衣兵」の処断であって、その摘出に当たっては「靴づれのある者、面タコのある者、きわめて姿勢の良い者、目つきの鋭い者」等をよく検討し後は放免した、としています。歩兵第七連隊第一中隊・一等兵の「水谷荘日記『戦塵』」(『南京戦史資料集1』所収)によれば、12月16日の掃討では百数十名を引き立てその内36名を銃殺しています。「抗日分子と敗残兵は徹底的に掃討せよとの、軍司令官松井対象の命令が出ているから、掃討ははきびしい」「多少の犠牲者は止むを得ない」と記しています。

 つまり、こうして処断された者の中に「兵隊になったことのない」一般住民が少数含まれていた可能性があるとしても、それは、上記の便衣兵の摘出のときだけであって、処断された「便衣兵」の総数は最大限見積っても7,000弱(先述したようにこの数字も過大)なのですから、そこに一般住民の犠牲者が12,000人含まれていた、などということはあり得ません。つまり、こうした記述は、日本軍の残虐性を印象づけるための「戦時プロパガンダ」に過ぎないのです。

 この本の著者であったティンパーリと、南京国際委員会委員であったベイツ(この人も最近中華民国政府顧問であったことが明らかになった)が、この本(『戦争とは何か』)の出版をめぐって交わした手紙(1937年3月)には、次のような興味深い会話が残されています。

 「ミルズ(北部長老伝導団)、スマイス(金陵大学教授)と私(ベイツ)の三人は考えうる善悪とを比較して検討した結果、責任を持って本の刊行を進めることを了承しました。急いで仕事を進めることによって、この紛争の今後の行方を大きく支配することを願ってやみません――もちろん、西側諸国各国の特殊な状況と全ての軍事ゲームの持つ残虐性の両方に、注視することを願っています。しかし、このことは、フィッチや私、そしておそらくスマイス等にとっても、深く関わってきたライフワークのおわりとなるかもしれません。」

 そしてティンパーレから送られてきたこのこの本の原稿の問題点の一つとして次のような指摘をベイツが行っています。(ベイツからティンパーレへ、1938年3月21日)

「16残念ながら、関係部隊についてはまだ資料がありません。私たちとの接触者は、真の姿が伝わるとは限らないが、確かに(占領=筆者)統治で権力を振るっていた、山本、中島部隊について広範囲に及ぶ生々しい記憶を語ってくれました。・・・」「17上海について記述がないのはどうだろう?上海は君の庭も同様のところだし、上海のことは君が考えているほど海外の一般の人たちにはまだ知られてはいない。松江や嘉興については?」

これに対してティンパーレは、1938年3月28日のベイツ宛の返信で次のように回答しています。

「なぜ私が上海、松江、嘉興を放っておくのかとのお尋ねですが、七章を読んでいただければ分かるかと思います。この点を調べていくと、上海付近の民衆に対する日本軍の暴行については、確実な証拠がほとんど見つかりません。日本に対して申し立てられた事件は主として南駅の爆撃とか攻撃機から民衆を機銃掃射するといった一連の空爆が主なのです。・・・」「嘉興の記事は、外すことにしました。・・・難民区から数ヤードしか離れていないところに、対空砲が設置されているからです。・・・」

ここから分かること、それは、この本の著者であるティンパーレやその編集に関わったベイツ、フィッチ、スマイス等は、日本軍の残虐性を西側諸国に宣伝するためのあるライフワークを共有していたということ。また、この本で日本軍の住民虐殺事件が南京に偏りすぎると、彼等の勤める「(南京の金陵)大学でのキリスト教教会の活動に対する重大な排斥」につながりかねないので、上海など他の地域での虐殺事件を取り上げたかったが、確実な証拠がほとんど見つからず、また、難民区の側に対空砲が設置されていたため、それを断念したということです。

 これで、南京大虐殺を世界に広めることとなったこの『戦争とはなにか』という本がどういう目的を持って書かれたものであるか、ということがわかります。ちなみにこの本の付録として掲載された記事の一つに「南京の『百人斬り競争』」があったのです。この本は1937年6月に出版されましたが、その翌月には『外人目睹中之日軍暴行』として漢口の国民出版社から刊行されています。いかに、ティンパーレ等と国民党中央宣伝部とが連携してこの宣伝工作を行っていたかが分かります。

 さらに、1038年4月12日の「ベイツの回状――『中国における日本軍の暴虐』の出版予告」には、次のような記述があります。

 「私にはこの出版企画に対する法的な責任はないのですが、最初からこの企画に関係し、編集プランや進行上のさまざまな段階でチェックを行ってきました。完全にそろった最終原稿も点検致しました。さらに言うならば、その本には、十二月十五日に、当日南京を離れようとしていた個々の新聞記者に利用してもらおうと、私が準備した声明が掲載されています。・・・」

 なんと、南京が陥落した1037年12月13日の二日後の12月15日にベイツは、避難のため南京を離れようとしている西側諸国の新聞記者に次のような「ベイツレポート」と呼ばれるメモを手渡しているのです。

 「南京では日本軍は既にかなり評判を落としており、中国市民の尊敬と外国人の評価を得る折角の機会さえ無にしてしまった。中国が佐藤曲の不面目な瓦解と南京地区における中国軍の壊滅によって、ここに残った多くの人びとは、日本側が公言している秩序と組織に応じようとしました。・・・少なくとも住民達は無秩序な中国軍を恐れることはなくなりましたが、実際には、中国軍は市の大部分にたいした損害も与えずに出て行ったのです。

 しかし、二日もすると、度重なる殺人、大規模で半ば計画的な掠奪、婦女暴行を含む家庭生活の勝手きわまる妨害などによって、事態の見通しはすっかり暗くなってしまいました。市内を見まわった外国人は、このとき、通りには市民の死体が多数転がっていたと報告しています。南京の中心部では、昨日は一区画ごとに一個の死体が数えられたほどです。死亡した市民の大部分は、13日の午後と夜、つまり日本軍が進入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き殺されたりしたものでした。

 元中国兵として日本軍によって引き出された数組の男達は、数珠つなぎに縛り上げられて射殺されました。これらの兵士達は武器を捨てており、軍服さえ脱ぎ捨てていたものもいました。・・・難民区内のある建物から、日本兵に脅迫された地元の警官によって、四百人が引き出され、五十人ずつ一組に縛られ、小銃を持った兵隊と機関銃を持った兵隊にはさまれて護送されていきました。目撃者にどんな説明がされても、これらの人々の最後は一目瞭然でした。

 日本兵は・・・先ず食料を求めたのですが、やがて、その他の日用人や貴重品もやられました。市内全域の無数の家が、人が住んでいようがいまいが、大小かまわず、中国人の家も外国人の家も、まんべんなく掠奪されました。・・・大学付属の鼓楼病院職員は直接、現金や時計を奪われ、また看護婦宿舎からもその他の所持品が奪い取られました。・・・夫人強姦、陵辱の例も数多く報告されていますが、まだそれを細かに調査している時間がありません。・・・」

 これは、南京陥落後三日間の記録ですが、後に伝えられることになる30万に及ぶ婦女子を含む住民の虐殺ほどではありません。また、これと同時期に「ニューヨーク・タイムス」のマクダニエル記者が、パナイ号救援たため南京に到着した米砲艦オアフ号から発信した記事は次のようになっています。

 「十二月十六日、南京発(米砲艦オアフ号より無線、AP」。かってその繁華を謳われた中国の古都は、今や町が被った砲爆撃と激戦により殺された防衛軍兵士および一般人の屍体が散乱するありさまだ。町中に軍服が散らばる。潰走する中国兵が脱ぎ捨てて平服に着替え、日本軍の手による死を免れようとしたものだ。

 日本軍の猛攻に中国軍の防衛が崩壊し、南京から退却する間、少数の中国兵による散発的掠奪があったが、彼等が去った後は少数の日本兵による掠奪が行われた。日本側は、在南京のアメリカ人、ドイツ人の主唱によって成立した安全区に砲爆撃をしないよう努めてきた。十万以上の中国人が地区内に避難した。

 中国軍の安全区退去が遅々としてしていたにもかかわらず、日本軍は地区内を攻撃しなかった。迷い弾が少々落下し、数名が死んだだけであった。・・・」(上掲書P37)

 ただ、12月15日にオアフ号に乗って南京を離れようとしたとき、マクダニエル記者やダーディン等は、下関の揚子江岸のバンド(停泊地)で200人の男性(便衣兵)が処刑されるのを見ています。つまり、日本軍はこうした便衣兵の処刑行動を軍隊行動として少しも隠そうとなかったのです 

 また、確かに日本軍の兵士による食料品を中心とした掠奪行動(日本軍はこれを徴発と言ったが、南京入城に際しては司令官名で厳禁とされていた)や強姦事件もあったようです。しかし、「中国軍自身が略奪行為を犯した事も紛れもない事実なのです。中国兵は気も狂わんばかりに軍服を脱ぎ捨て、そして民間服を得ようとして市民の服欲しさに殺しまでやったのです。」(南京アメリカ大使館エスピー報告)(上掲書P55)との報告もなされています。

 このような中で、南京陥落の翌日12月14には、南京城内に残った一般住民の安全を確保するため、ドイツ人やアメリカ人を中心に15名で構成する「南京安全区国際委員会」の活動が始まりました。先ほど出てきたベイツ、スマイスは南京金陵大学の教授、フィッチはY・M・C・A、後に出てくるマギー師はアメリカ聖公会伝導団の牧師です。なお、この委員会の委員長に選ばれたのがドイツ人ラーベ(中国に武器を売っていったジーメンス社の社員)で、その頃の日本とドイツの関係を考慮して選ばれたものと思われます。

 この「南京安全区国際委員会」と日本軍の関係ですが、先に紹介したベイツ、フィッチ、スマイス等が含まれていることから容易に想像できるように、国際委員会は日本軍にとってほとんど安全区に潜り込んだ便衣兵の隠れ蓑のような存在になりました。そして、この委員会は、その後安全区内において頻発した掠奪、放火、強姦事件を、その事実関係を少しも検証することなく、全て日本軍兵士によるものだと決めつけて抗議文書を突きつけたのです。

 しかし、冨沢繁信氏の『南京事件の核心』によると、12月13日に日本軍が南京に入城して以降の『安全委員会記録』に印された殺人件数は26件合計人数53人です。また、市内で頻発した略奪、放火、強姦などについても、その多くが日本兵によるとの訴えがなされましたが、確かにそうした不心得な日本兵もいたようですが、その多くは安全区内の空き家になった裕福な人々の住宅を狙った難民自身による略奪・放火、あるいは、潜伏便衣兵による後方攪乱によるものでした。

 ただし、『安全委員会記録』他一次資料に記録された12月12日以降の全期間におけるこれらの事件の一日平均の件数は、上掲書では、強姦5件、掠奪4件、放火0.5件に過ぎないとされています。それが『戦争とは何か』では、「昨日白昼及び夜間強姦された婦女はすくなくとも一千人」とか「南京の外国人の財産はほとんど日本軍の掠奪に遭っている」「日本兵による放火がなかった火は一日もない」などと記述されているのです。

 さらに、上記の一次資料に記録された全事件の89%は、伝聞記録であって、外人で組織された国際委員会が、中国人より聞いた事件を検証することなくタイプしたものが大半だったようです。南京のドイツ大使館シャルフェンベルク事務長も、「暴行事件といっても、全て中国人から一方的に話を聞いているだけではないか」(『南京の真実』p246)といい、国際赤十字南京委員会委員のマッカラムも「中国人の中には、掠奪や強姦、放火は日本軍の仕業ではなく、中国軍がやったのだといわんばかりのものもいる」(『南京事件資料集アメリカ編』p266)と嘆いていました。

 ところが、国際委員会は、日本軍への敵対心から、これらの事件を全て日本兵によるものとしました。しかし、これらの多くが難民自身による略奪・放火、あるいは、潜伏便衣兵による後方攪乱によるものであったことは、南京戦当時の指揮官であった郭岐の回想録にも明らかです。彼は、南京失陥後、500人の部下を便衣に着替えさせた後イタリア大使館に逃げ込み、それから難民区に入り込んで部下と共に後方攪乱活動を行ったと、その手記に記しています。

 また、1938年1月4日のニューヨーク・タイムスには、「中国軍大佐1名とその部下の将校6名が、南京の金陵大学にかくまわれていたことが発覚したこと。彼等は南京で掠奪したこと、ある晩などは避難民キャンプから少女達を暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲った風にしたことを、アメリカ人達や他の外国人のいる前で白状した」という記事が掲載されていたことを、阿羅健一氏が発見しています。(『南京大虐殺への大疑問』村松俊夫)

 以上、南京城内で発生した事件について述べてきましたが、実は、先に紹介した『戦争とは何か』の著者ティンパーリは、国民党中央宣伝部顧問であり、その意を受けて日本軍の南京における暴状を世界に宣伝するため、この本を出版したのです。また、ベイツは中華民国政府顧問であって、東京裁判では「城内で一万二千人の男女及び子供が殺されたことを結論と致します」「これは中国の兵隊であり、あるいは中国の兵隊であった事のある何万もの男の虐殺を全然含まないのであります」とウソの証言をしています。

 ベイツの証言を裏付けるものとして、,紅卍会の埋葬記録(兵市民の区別はない)が示されていますが、紅卍会による埋葬が始まるのは2月1日であって、ベイツの一万二千という数字は、それ以前の1月25日にベイツによって唱えられていました。なお、紅卍会による埋葬者数は、この埋葬作業を監督した特務機関の丸山進氏によると、水増し分を引いた実数で、二万九千体であったといいます。もちろんこの数字には戦死した兵士や上海戦以来の戦闘で負傷し南京に後送され死亡した兵士も含まれます。

 以上で分かることは、ティンパーレの言う、城内外における12,000人の婦女子の虐殺などは全くなかったこと。また、三万の非武装の兵士といっても、これらは武器を捨てて安全区に潜り込み「便衣兵」として摘出された者や、南京城外で降伏して捕虜となった者だったことが分かります。前者については、捕虜とは見なされず不法戦闘員として処刑された者が多かった。後者は、揚子江内の中州に解放するため移送の途中、暴動が発生し射殺された者がその主なものであること。この両者の総数が『南京戦史』では16,000人となっているのです。

 こうして、昭和13年6月には、ティンパーレの『戦争とは何か』が出版されました。しかし、こうした宣伝にもかかわらず、この事件は、アメリカ国務省をはじめとする政界やマスコミでもほとんど関心を呼ばず、こうした状態は日本の敗戦まで続いたそうです。ところが、東京裁判において、突如、この事件がナチスのホロコーストに匹敵する大虐殺事件として告発されることになりました。

 ではなぜ、蒋介石は、戦後の東京裁判においてこの事件を大虐殺事件として取り上げたのでしょうか。また、なぜアメリカは、このあまりにも誇大に誇張された事件を、東京裁判において取り上げたのでしょうか。

 それは、中国国民党にとっては、抗日戦争終結後の中国大陸における中共とのヘゲモニー争いの中で、日本軍の残虐性を中国国民に印象付けることで、抗日戦に果たした国民党の役割を印象づける必要があったこと。そして、アメリカにとっては、日本各地の都市への無差別爆撃や、広島及び長崎に対する原爆投下による無差別殺人の罪を、希薄化し相対化する必要があったということです。

 しかし、こうして東京裁判で採り上げられた「南京大虐殺」も、東京裁判が終了した後は、取り立てて問題とされるようなことはありませんでした。ところが、日中国交回復期の昭和46年に朝日新聞に連載された「中国の旅」を契機に、日中戦争における日本軍の犯した残虐行為が、再び喧伝されるようになりました。ここには、中国に対する日本人の贖罪意識を高めることによって、日中国交回復交渉を有利に進めようとする中国政府の思惑があったとされます。

 ところが、こうした中国政府の意向に沿う形で朝日新聞が採り上げた日本軍の残虐行為の内の「百人斬り競争」について、これをフィクションとするイザヤ・ベンダサンと、この記事を書いた本多勝一記者の間で論争が始まりました。同時に、鈴木明の「南京大虐殺のまぼろし」が書かれ、続いて、山本七平の「私の中の日本軍」が書かれました。これによって、この事件が、戦意高揚を狙った従軍記者による”ヤラセ記事”がであったことが明らかになりました。

 その後、日本国内において、いわゆる「自虐派」と「まぼろし派」それに「中間派」を交えて、激しい「南京大虐殺論争」が繰り返されることになりました。その過程で「自虐派」は中国へのご注進を繰り返し、また、当時の社会党は中国政府に「南京大虐殺記念館」の建設を持ちかけ、あるいは資金援助した結果、この記念館が大虐殺があったとされる南京西郊の江東門に建設されることになったのです。

 では、それが今日中国にとってどのような意味を持っているか、ということですが、鈴木明の『新・南京大虐殺のまぼろし』によると、現在の中国の最大の外交課題は、台湾国民党との関係を修復し、それを将来の中国統一に結びつけることであり、そのための最も有効な手段が、「南京大虐殺」を民族統一のシンボルに担ぎ上げることだといいます。つまり、そのための統一戦線作り=「統戦」のシンボルが「南京大虐殺」だというのです。

 以上、「南京大虐殺」がどのようにして生まれ、今日に至っているかについて概略説明しました。では、日本人としては、今後これにどのよう対処して行けばいいのでしょうか。

 実は、私はあまり慌てる必要はないと思っています。というのは、今までも時間はかかりましたし、また、これからもかかるでしょうが、なによりも事実関係が確実に明らかになってきているということです。こうなると、中国も、いつまでも虚偽の宣伝を繰り返すわけにはいきませんので、その内、片が付くのではないかと思っています。問題は、私たち自身が、この事件から何を学ぶかということです。次回は、このことについて総括的に論じて見たいと思います。(以下の論考は次回に回します。)