南京事件(6)―― 便衣兵処断を一万人の一般市民虐殺といい、さらに三万人の捕虜虐殺を加えた「戦争とは何か」

2012年4月30日 (月)

 *引き続き、『戦争とはなにか』の記述内容を検証します。

第三章 約束と現実
○(金陵大学における難民登録において2,300人の元兵士が自首して出た件についての記述。ベイツによって1938年1月25日に書かれたもの)
㉑ 12月20日・・・登録の実際の指揮は将校達に任されていたが・・・彼等は比較的慎重で分別のある人たちであった。・・・指揮官その他は、登録開始に当たって不必要な恐怖を引き起こすことを避けようと極力骨を折った。・・・名乗り出なかった者も含めて残りの男達の中から、兵隊たちが1,000人近くを取り調べのために選び出したにもかかわらず、・・・将校たちはこの1,000人のうち一人をのぞいて全員を釈放して登録することを許可した。

*住民分離のための住民登録の開始は12月24日からおおむね二十日間続きました。従って、その開始を12月20日としているのは間違い。この平民分離を指揮したのは第16師団歩兵第30旅団長の佐々木到一少将で、城内より摘出した敗残兵二千を外交部に収容したとその「手記」に書いています。『読売新聞』(昭和13年1月10日)の記事には「敗残兵1,600名とその他の者」が市民として認められたとあります。(『「南京虐殺」の徹底検証』)また、敗残兵は苦力(クーリー)として雇われ給与を支給されたともあります。

㉒(そこへ階級の上の二人の将校がやって来て、警備兵の丁重な態度に不満を抱き、2,300人を二つのグループに分けた・・・という記述があり、その後に、その彼等がその後どうなったかについての「生き残ったという中国兵によるその殺害の証言」が記されています。「彼の言うには、昨夜連行された2,300人のうち、仲間がほとんどが(漢西門外の運河の堤防に連れて行かれ機関銃で)殺された」と。

*この時摘出された兵士の大半が市民として認められたのは上述した通りです。ただし、漢中門外においては、12月13日下関から脱出してきた約二万の中国兵と、鹿児島四十五連隊第十一中隊が衝突し激戦が行われ多数の中国兵が戦死しています。また、この段階では埋葬は行われていませんので、多数の中国兵の死体が放置されたままになっていたものと思われます。

㉓ この事件はここ二週間にわたって続けられた一連の同様の行為の内の一つに過ぎないが・・・ともかく元兵隊と認定されたものの集団虐殺となったということだ。ここは、捕虜の生命はさしせまった軍事上の必要以外においては保障されるという国際法の条文を語る場所ではないし、日本軍もまた、国際法など眼中になく、いま南京を占領している部隊の戦友を戦闘で殺したと告発した人間に対しては復讐すると抗弁と言明したのである。

*安全区に潜伏した兵士が捕虜として認められないことは国際委員会も承知していましたので、その議論には深入りしないまま、日本軍は国際法など眼中にないといい、その処刑の動機を復讐と言って違法処刑を匂わせようとしています。

㉔ 埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかって兵隊になったことのない人びとである。こうした状況に私が特に関心を抱くのは次の二つのことが原因である。
つまり第一には、約束しながらそれをみすみす破るという甚だしい背信の故に、多数の人間が自ら死地におもむく破目になってしまったことである。第二には、我々の資産・職員・女性の被保護者(難民)の運命が、この恐ろしい犯罪のさまざまな段階に極めて密接に結びついていたことである。

*この『戦争とはなにか』と同時に漢訳本『外人目睹中之日軍暴行』が出版されていますが、ここでは、「4万人近くの非武装の人間が殺され、その内約30%がかって兵隊になったことのない人びとである」という記述は省かれているそうです(『南京事件国民党秘密文書から読み解く』p204)。また、その後国民党が開いた記者会見でも一般市民の殺害や捕虜の不法殺害=「南京大虐殺」が訴えられたことは一度もありませんでした。しかし、ベイツはこれと同様の証言を東京裁判で行っています。後段は、自分たちの財産が損なわれたとの訴えですね。

㉕ また、殺害の方法・場所・時間に関する全体的な証拠は、男が集団で拉致され、二度と帰ってこなかった若干の他の事例よりもむしろ多い。しかし、こうした事例については、我々は断片的情報しか持っていないのである。他の場所から集められたグループと一緒にされた若干のものを含めて、安全区から連行された男たちの大多数はその夜のうちに殺された、とはっきり断言できると思う。

*安全地帯からの兵士の摘発については、その任にあたった第七連隊に「掃討実施に関する注意」が12月13日に発令され、「青壮年ハスベテ敗残兵マタハ便衣隊ト見ナシ、スベテコレヲ逮捕監禁スベシ。青壮年以外ノ敵意ナキ支那人民特ニ老幼婦女ニ対シテハ寛容之ニ接シ、彼等ヲシテ皇軍ノ威風ニ敬仰セシムベシ」とされました。しかし、15日午後8時30分発令の「歩兵第7連隊策命甲111号」には、二、連隊ハ明16日全力ヲ難民地区ニ指向シ徹底的ニ敗残兵ヲ補足殲滅セントス」となっており、敗残兵撃滅を目的とした掃討に切り替えられています。

 この理由は、その頃はまだ、13日に南京を脱出した中国軍大兵力による上海派遣軍司令部の襲撃が行われるなど、南京一体の治安は不穏な情勢であり、かつ、これらの城外兵力と安全区に潜んだ敗残兵が策応するとの懸念があったこと。安全区の敗残兵は逐次摘出されてはいるが、将校はほとんど逮捕できず、しかもかなりの武器、弾薬が発見されたため、安全区内に潜伏した敗残兵を「戦意も抵抗力もない非戦闘員」と見なし得る状態ではなかったこと。そんな状況の中で、17日の入場式までに城内の治安を確立すべき任務が、歩七連隊に与えられたためではないかと『南京戦史』は推測しています。

 これらの処断された敗残兵の数は、歩七の戦闘詳報では12月13日から24日の間に6,670とあり、その大部分は16日に処断されたとなっています。その情況を下関碼頭付近や漢中門外で目撃したという記録も残されています。こうした処置について、歩七参戦者は、昭和60年末の聞き取り調査で、「今にして思えば、連隊長の当時の状況判断については痛恨の情に堪えない」と答えています(『南京戦史』p331)。ただし、⑬で紹介したような証言もあり、その時処刑された正確な人数は判りません。ただ、南京陥落後まだ戦闘が終熄したわけでもないのに、なぜ17日に入場式を強行しなければならなかったのか不思議です。

 また、佐々木少将が行った「平民分離」の結果摘出された敗残兵約二千は、旧外交部に収容し、また、外国宣教師の手中にあった支那傷病兵は捕虜として収容したと、その『私記』に書かれています。従って、㉕に言う平民分離に際して「安全区から連行された男たちの大多数はその夜のうちに殺された、とはっきり断言できると思う」というベイツの言葉は単なる憶測に過ぎません。

第四章 悪夢は続く
○((ベイツが日本軍の南京占領一ヶ月後の実情を1月10日に書かれた手紙の中で述べたもの。従って、前章の記事が書かれた1月25日より以前の記述)

㉖ 元旦以来、満員の安全区内では事態がかなり緩和されましたが、これは主として、日本軍の主力部隊が出発したからです。”軍紀の回復”はまったく微々たるものであり、憲兵でさえ強姦・掠奪をはたらき、自分の義務を怠っている有様です。

*城内に入った軍隊は、京都16師団の久居33(下関)、奈良38(中山北路、中央路間)、京都9と福知山20(中山路、中山東路間)の4連隊。金沢9師団は金沢7(安全地帯)、富山35と敦賀19(中山東路、中正路間)の3連隊。宇都宮114師団は高崎115連隊(中華路東部)、熊本6師団は熊本13、大分47(第3大隊のみ)、都城23(漢中路、中正路、中華路間)の3連隊で、これらの部隊が、城内の指定された()内の地区の掃討を行いました。

 この時、第9師団第7連隊(約1,400人)以外の部隊が安全区に入ることは厳しく禁じられました。26日以降は、この地区の警備担当は第16師団の佐々木到一少将の指揮する部隊に代わりました。元旦には自治委員会が正式に発足し、これにより、南京城の治安維持は国際委員会の手から自治会、つまり日本軍の管理下にある自治委員会組織の手に移ることになり、安全区内の事態がかなり緩和されて来ました。  

㉗ 一万人以上の非武装の人間が無残にも殺されました。信頼のできる私の友人の多くは、もっと多くの数を上げることでしょう。これらの者は追いつめられた末に武器を放棄し、あるいは投降した中国兵です。さらに一般市民も、別に兵士であったという理由がなくても、かまわずに銃殺されたり、銃剣で刺殺されましたが、そのうちには少なからず婦女子が含まれています。

 有能なドイツ人の同僚たちは強姦の件数を二万件とみています。私も8,000件以下であるとは思われません。・・・金陵大学構内だけでも、11才の少女から53才にもなる老婆が強姦されています。他の難民グループでは、醜いことにも、72才と76才になる老婆が犯されているのです。神学院では白昼、17名の日本兵が一人の女を輪姦しました。実に強姦事件の三分の一は日中に発生したのです。

*「南京大虐殺」はこの記述から生まれたと言っても過言ではありません。しかし、この記述は、南京防衛軍司令官唐生智が南京陥落直前に逃亡し、パニック状態に陥った中国軍兵士の多くが、軍服を脱ぎ捨て便衣に着替え、武器を捨てあるいは隠して安全区に潜んだ、という事実を隠しています。それ故に、彼らは戦争法規上捕虜の資格を有しない不法戦闘員と見なされたわけで、従って、摘出され処刑されても、当時国際法上問題とされなかったのです。

 こうして難民区から摘出された中国兵は、『南京戦史』では約9,000人となっていますが、「処断」と記録に残っているのは歩七の6,670人です。しかし、この数字は、⑬㉕にも言及しましたが、いささか誇大な数字ではないかと思います。というのは、下関埠頭で刺殺あるいは銃殺したという目撃情報もありますが、兵士の証言も照らし合わせて見ると、処刑されたものは「悪性の敵性分子」と見なされたものだけで、実数はその数分の一程度ではないかと思われます。

 こうした敗残兵の処理については、各部隊の指揮官の判断によるところが多く、この歩七を指揮した伊佐連隊長は、17日に予定された入場式迄に城内治安を確保する必要もあって、その厳重処分を行ったものと推測されます。同様の判断が、幕府山周辺で大量の捕虜を得た第13師団65連隊の捕虜の扱いにも反映していたように思われます。そうなると問題は「17日の入場式の強行」ということになりますね。(5/3挿入)

 なお、後段の、一般市民や婦女子が無差別に殺害されたと言うような目撃情報はなく、また、二万件という強姦件数もほとんどデタラメです。こうしたそれに類する他の記述も、ことさら日本兵の醜さを強調するために挿入されたもので、プロパガンダというしかありません。これについては冨沢繁信氏の『南京事件の核心 データベースによる事件の解明』により、一層明らかとなりました。

 というのは、ベイツが「南京事件」の事例が全部集まっているという『南京安全地帯の記録』や、その他の一次資料に記録された強姦件数を全て足しても、二ヶ月間で243件しかなく、これは一日平均4件であること。さらに、これらの事件の中から、文責者不明、被害者名不明、被害場所不明のものを除いた「事件らしい強姦事件」は5件に過ぎないこと。確かに、日本兵による強姦事件等も憲兵隊により摘発されていますが、その件数は10件程度です。

㉘ 市内では事実上すべての建物が日本兵により繰り返し掠奪を受けました。その中には、アメリカ・イギリス・ドイツの大使館や大使公邸も含まれていました。外人住宅はかなりの割合で被害を蒙っています。掠奪の対象となった主なものはあらゆる種類の車両・食物・衣類・寝具類・現金・腕時計・絨毯・絵画、その他貴重品です。掠奪はいまでも、特に安全区の外では続いています。

 商店の多くは、立ち入り御免の破壊とちょろまかしの後で、トラックを使って行動する日本兵の集団による(しかもこれはしばしば将校の監視と指揮の下に行われたが)、計画的な略奪が行われ、それから放火されたのであります。現在でも毎日数件の火事があります。住宅街のほとんどは故意に焼き払われました。われわれは日本兵が放火の目的で用いた化学薬品の見本を数種持っていますし、その手口の一部始終も調査しました。

*こうした事件の申し立てについても、前項で紹介した冨沢氏の研究によると、『南京安全地帯の記録』やその他一次資料に記録された全ての殺人、強姦、拉致、略奪、放火、傷害、侵入等の総数517件の内、「事件らしい事件」は二ヶ月間で95件しかなく、さらに、その内の13件は日本兵の外出が禁止されていた夜の事件です。なお、この95件という件数は、人口二十~二十五万の都市としては大変治安のよい都市ということになります。(ちなみに同程度の人口の新宿区における平成10年の反正件数は年間で8,753件、検挙件数3,269件だそうです)(上掲書p89)

㉙ われわれは、あらゆる出来事に目や鼻を働かせては、難民に食と住を与え、交渉し保護し抗議をする一般的な仕事をするほかに、多く略奪を阻止したり、強姦中の者あるいは強姦の目的で群れをなしてやって来る日本兵を説得したり、すかしたりして追い払いました。ある日本大使館員の話によれば、軍は中立国人の監視の下で南京占領を完了しなければならなかったことを憤慨しているとのことです。世界史においてこんなことはいまだかって正しかったためしがないというのです(もちろん何も知らない者のいうことです)。

*ここには、難民区国際委員会が、その本来の「安全区」の管理という役割を越えて、日本軍の南京占領を住民を味方につけて妨害する役割を果たしていたことが明白に示されています。では、なぜ日本がこうした国際委員会の妨害活動を黙認したのかというと、一つは戦時物資の供給をアメリカに頼っていたこともありますが、もう一つは、パネー号撃沈事件でアメリカに平身低頭していたためです。また、当時の外務省と軍部が対立関係にあったことも、国際委員会の宣伝活動に有効に対処できなかった原因の一つだと思います。

㉚ 我々は時にはうまくいかないことがありましたが、うまくいった割合は、我々の努力に十分見合うだけ大きいものです。・・・日本大使館が間に入って軍部と外国人の利益を和らげようという努力を大いにしてくれたので大変助かったこと、領事館警察も比較的丁重であった(これは少数であり、全部がそうであったわけではない)という点は認めなければならないでしょう。また、この仕事に当たった主な人物が三国防共協定加盟国のドイツ人でもあり、またアメリカ人でもあったのですが、アメリカ浅薄に野蛮な攻撃が加えられた後で、おとなしくしていなければならないために、仕事がやりやすかったことも認めねばなりません。

*国際委員会は、上述したような活動に対する日本軍の干渉を防ぐため、このように軍部と外務省の対立関係を利用していたのです。また、ドイツ人であるラーベを委員長としたのも、そのためでした。さらに、「パネー号撃沈事件」をもうまく利用していたこともここで判ります。

㉛ 中国軍は高級将校の敵前逃亡・軍の統制・決断を欠いていたという点では不面目でした。しかし、比べてみれば兵士一般は日本軍よりずっと立派でした。
 いうまでもないことと思いますが、この手紙は日本人に対する憎しみをかき立てるために書いたのではありません。もし事実が、ある近代的な軍隊、それも虚偽の宣伝を行って自分の罪悪行為を隠しているような軍隊の、不必要な残忍な行為を語っているなら、その事実に語らせようではありませんか。私にとって重大なことは、この征服戦争による計り知れない知れない悲惨、放縦と愚行により倍加され、未来にまで暗い影を投げる悲惨です。

*日本軍は虚偽の宣伝を行い、自らの罪悪行為を隠そうとしている残忍な軍隊であり、それが未来に暗い影を投げかけているので、それを暴くことが我々の務めだといっているのです。それを、日本人に対する憎しみからではなく、事実を語っているだけだと公平を装っています。

第八章 組織的な破壊
結論(ティンパーリーによる総括)
㉜ 戦争といいうものはすべて惨禍を引き起こしてきたのだという陳腐ないいわけでこれらの事実を弁明しようとする人びとは、主として日本こそ国際信義に違反して中国で戦争を行っているという事実をともすれば忘れているのである。・・・日本軍が中国で起こした暴行はただ勝利の熱に浮かされた軍隊の無軌道な結果に過ぎないのか、それともどの程度まで当局の計画的恐怖政治の政策を表していたものかという疑問をいだいた読者もおられるであろう。

㉝ (日本という)近代的工業国家は、厳しい現実の中では、封建的軍閥の媒体にすぎないし、それが日本の姿である。日本の一般民衆は、農民であれ工場労働者であれ、日本の歴史においていつの時代でもそうであったようにとなったように、現在も自らの運命の支配にほとんど発言力を持っていない。国の経済生活を支配している大財閥と結託した軍国主義者が日本を支配している。議会が無力であるゆえに、人民は民主的権利も自由も全然持っていないし、言論の自由も出版の自由も存在しない。

㉞ 侵略戦争は日本の支配階級が社会的手不満に対してとる昔ながらの治療法である。安易な征服によって繁栄がもたらされるという作り話が信じられている限り・・・権力者の間には一致した目的がある。

㉟ しかし、もし侵略が危険でもうけのないものとなれば、そして特に、イギリスとアメリカから経済的圧力が日本に加えられるならば、軍国主義と財閥の間には亀裂が生じることはほとんど確実であろうし、それによって日本人民は自由を獲得し、戦争を已まさせることにもなろう。日本の大衆はこの戦争で、何ら得るところがなく、逆に失うところが大きいのである。

㊱ 中国で発生した事態、依然として発生しつつある事態は、我々全員(集団安全保障を擁護する者も孤立主義者も含めて)が関心をもつべきことである。私が強く望むことは、中国の現在の苦難の物語、特に各章でそれぞれの体験を語った南京その他に住む高潔な男女の物語は、国際正義の大義を心にいだくあらゆる人びとに一つのはげましとなることである。確かに中国が屈服することは許されない。もし屈服することにでもなれば、人類は今後、何世代にもわたって善悪のけじめをつける権利を放棄することになろうし、現在、中国が体験している言語に絶する惨禍を自ら繰り返す危険をおかすことになろう。

 こうした本文に続く付属資料として、
A 第二、三章にかんする暴行事件の報告
B 第五章にかんする暴行事件の報告
C 一九三八年一月十四日から一九三八年二月九日にいたる暴行事件の報告
D 安全区委員会と日本透谷との公信など
E 揚子江デルタ諸都市を攻略した日本軍部隊
F 南京の「殺人競争」
G 南京の状況に関する日本側報道
 が付されています。

 以上が、ティンパーリの『戦争とはなにか』のポイントとなる箇所を摘記したものです。いささかうんざりされたことと思いますが、この本の狙いは、つまり、中国で起こっている戦争に「我々全員(集団安全保障を擁護する者も孤立主義者も含めて)が関心をもつべき」であり、中国が屈服しないよう西洋諸国は中国を支援すべきであるということ。「もし中国が屈服することにでもなれば、人類は今後、何世代にもわたって善悪のけじめをつける権利を放棄することになろうし、現在、中国が体験している言語に絶する惨禍を自ら繰り返す危険をおかすことにな」ると、西欧世界に警告を発するためだったのです。

 つまり、そのために、日本軍がいかに暴虐であるかを世界に宣伝しようとしたわけで、それを宣伝するために、㉔「埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかって兵隊になったことのない人だった」 と、㉗「強姦の件数を二万件とみています。私も8000件以下であるとは思われません。・・・金陵大学構内だけでも、11才の少女から53才にもなる老婆が強姦されています。他の難民グループでは、醜いことにも、72才と76才になる老婆が犯された」という誇大な記事を作成したのです。

 前者については、ラーベは東京裁判での証言で、これを「最初の三日間に生じた」事件といっていますので、それは、日本軍が難民区の掃討と処刑を行ったことを指しています。では4万という数字は何を根拠としたかというと、紅卍会による埋葬記録(城内1,793体、城外41,279体)によるとしています。

 しかし、この埋葬作業は昭和13年2月1日から始まり3月15日に終了していますので、この数字はこの作業が終わった後に書き込まれたものと考えられます。つまり、㉗の「一万人以上の非武装の人間が無残にも殺された」(1月10日)が、ここでは「四万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され」となり、かつ、その約30%12,000人は「かって兵隊になったことのない人」=一般民衆となっているのです。

 しかし、埋葬死体を全て虐殺された者とするのもおかしいですし、城外の兵士の死体は軍衣ですが、安全区に逃げ込んた兵士は便衣に着替えていたわけですから、それが兵隊であったか一般民衆であったかを見分けることはできなかったはずです。従って、この埋葬記録でもって上記のような断定をすることはできません。

 さらに、紅卍会の埋葬記録も、自治委員会のと通してそれに協力した丸山進氏の証言によると、その4万3千の総埋葬量も「厳密に検討すれば少なくとも14,000体以上の水増しがあると考えられるので総計は29,000体以内であると見られる」こと。さらに、この埋葬記録では、城内の総死体2,830(上海戦以後負傷し南京に後送された後死亡した兵士を含む)の内、女子は48体、子供29体となっています。(「私の昭和史(22)―南京事件の実相」)

 こうした誇張された記述についてベイツは、3月21日付けのティンパーリへの手紙で、「この本はショッキングな本とならなければなりません。もっと学術的取り扱いをすることによって、ある種のバランス感覚をとるやり方もできるでしょうが、ここでは劇的な効果を上げるためにも、それを犠牲にしなければならないと思うのです」と提案しています。その1週間後の3月28日には、ティンパーリはベイツへの返書に「21日付けの手紙は、原稿と一緒に詳しい変更内容も、ともに受け取った」としていますので、この時、この部分の挿入がなされたものと思われます。(『南京事件資料集 アメリカ編』p371、国民党の秘密文書から読み解く』p183)

 なお、後者の記述も、「劇的な効果を上げるため」つまりこの本を「ショッキング」なものとするためにあえて挿入されたものであることはいうまでもありません。