南京事件(5)―― 安全区に潜伏した便衣兵による後方攪乱を日本軍の暴虐として告発した宣教師たち

2012年4月19日 (木)

*引き続きティンパーレ『戦争とはなにか』の記述内容を検証します。

第二章 掠奪・殺人・強姦
○(本章を書いたのは、上掲書(『日中戦争史資料8』)では「マギーの日記による記述」とされているが、東中野氏の調査によるとジョージ・フィッチ)

⑨ 12月17日、金曜日。掠奪・殺人・強姦は衰える様子もなく続きます。ざっと計算してみても、昨夜から今日の昼にかけて1000人の婦人が強姦されました。ある気の毒な婦人は37回も強姦されたのです。別の婦人は五ヶ月の赤ん坊を故意に窒息させられました。野獣のような男が、彼女を強姦する間、赤ん坊が泣くのを止めさせようとしたのです。抵抗すれば銃剣を見舞われるのです。

*この事件はアメリカや中国が南京事件を映像化mする時必ず出てくるシーンらしく、一万人以上の難民女性を収容していた金陵女子文理学院に日本兵が侵入して起こした大強姦事件とされるものです。しかし事件当時この学院の責任者であったミニー・ヴォートリンは、この日のことを日記(『南京事件の日々』)に次のように書いています。

 「12月17日7時30分・・・彼女たちの話では、昨夜は恐ろしい一夜だったようで日本兵が何度となく家に押し入ってきたそうだ。(下は12才の少女から上は60才の女性までもが強姦された。夫たちは寝室から追い出され、銃剣で指されそうになった妊婦もいる。日本の良識ある人びとに、ここ何日も続いた恐怖の事実を知ってもらえたらよいのだが)・・・

 (金陵女子文理学院に)審問を装って兵士三、四人が中国兵狩りをしている間に、他の兵士が建物に侵入して女性を物色していたのだ。日本兵が十二人の女性を選んで、通用門から連れ出したことを後で知った。すべてが終わると、彼らはF・陳をつれて正門から出て行った。・・・連れ去られる女性たちの泣き叫ぶ声がしていた。みなが押し黙ってそこにいると、ビッグ王がやってきて、東の中庭から女性二人が連れ去られたことを知らせた。」

 ところが同じ事件について、ヴォートリンがアメリカの金陵女子文理学院理事会に送ったレポートには、この事件は17日の午後9時から10時に間に起こったことで、ヴォートリンは陳氏は銃殺されるか刺殺されるに違いないと思っていたが、しばらくして陳氏は解放されたことを知った。さらに彼女たち(日記には12人となっているがここでは6人となっている)も翌朝5時には無傷のまま戻って来た、と書かれています。(『正論』2012.3「南京の平穏を証明するアメリカ人宣教師たちの記録(下)」)

 これが16日と17日の夜に起こったとされる事件の全てで、「昨夜から今日の昼にかけて1000人の婦人が強姦されました」などとはどこにも書かれていません。そもそも、日本軍兵士の夜間外出は禁止されていましたし、朝夕点呼もありました。また、安全区内の掃討を命ぜられた金沢七連隊が14日に出した命令には「掃討地区内では歩七(歩兵七連隊)以外の部隊の勝手な行動を絶対阻止せよ」となっており、要所には歩哨が立って他部隊の兵士の進入を防いでいたのです。

 また、17日は日本軍の入場式、翌18日は慰霊祭であり、各部隊はそれに向けて戦場整理を行ったり、衣服を整えたり、また銃器の手入れをするなど多忙を極めていました。従って、その前日、前々日の夜に、あえて安全区内の避難所となっている外国施設を選んで、日本軍兵士がこのような強姦事件を引き起こすなど到底考えられません。

 実は、この間に発生した、安全区内における夜間の略奪、放火、強姦などの犯罪行為は、安全区内に避難した難民自身やそこに潜んだ便衣兵の仕業であった疑いが濃厚なのです。南京陥落後城内に潜んで攪乱行為を指揮した郭岐の『陥京三月記』には、「一般に生計が苦しく度胸がある難民たちは、昼は隠れて夜活動するというねずみのような生活をしていた。夜の間は獣兵(日本兵を指す)は難民区の内外を問わず、活動する勇気がなく、兵隊の居住する地区を守る衛兵がいるだけで、この時が活動の機会になった。」と書かれています。

 また、国際委員会が作成して日本大使館に提出し、またアメリカ国務省にも転送された「市民重大被害報告」(殺人、強姦、略奪の事例が記載されたもの)について、ドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長は2月10日の日記に「第一、暴行事件といっても、全て中国人から一方的に話を聞いているだけではないか」(『南京の真実』ラーベP246)と書いています。ヴォートリンの書いている少女の拉致や強姦の話にしても伝聞に過ぎません。

⑩ 12月19日、日曜日。完全に無秩序の一日。兵士達の放火によって大火事がいくつか発生し,今後さらに起こる模様です.米国旗が多くの場所でひきずりおろされされました。

⑪ 12月20日、月曜日。蛮行と暴力は止まるところなく続いています。市の全域が組織的に焼き払われているのです。午後五時にスマイスと一緒に私は車で出かけました。城内最大の繁華街である太平路一帯は炎上しておりました。

*日本軍は12月7日発令の「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」の三で「別に示す要図に基づき外国権益特に外交機関には絶対に接近せざるはもとより・・・中立地帯(安全区)には必要の外立入を禁じ所要の地点に歩哨を配置す」、五「掠奪行為をなし又不注意と雖も火を失するものは厳罰に処す。軍隊と同時に多数の憲兵補助憲兵を入城せしめ不法行為を摘発せしむ」と厳命していました。厳しすぎると苦情が出たほどでした。

⑬ 12月23日、木曜日。農村師資訓練学校にある我々の収容所から70人が拉致されて銃殺されました。全くデタラメです。兵隊たちは怪しいと思ったものは誰でもひっつかまえます。手にタコがあるとその人が兵隊だったという証拠になり、確実にあの世行きです。
・安全区国際委員会が設置した収容所にも多数の敗残兵が紛れ込んでいたということです。

*兵士であるかどうかの見分け方ですが、兵士の中には周辺の農村から拉致された農民や城内で徴募された住民や少年など軍隊訓練をほとんど受けたことのない雑兵も多く含まれていました。また難民区に逃げ込んだ兵士は軍服を脱いで便衣に着替えていましたので、敗残兵の摘出に際して、住民との区別がつきにくいという事情もあったようです。ただ、摘出されてもその後市民と認められたものは帰されています。

 また、良民か中国兵かを区別するための審問もいろいろな方法で行われています。さらに、摘出された中国兵が全て処刑されたかというと、必ずしもそうではなかったようです。ラーベ委員長の16日の日記には「晩に岡崎勝男上海総領事が訪ねてきた。彼の話では、銃殺された兵士が何人かいたのは確かだが、残りは揚子江にあるシマの強制収容所に送られた」と書かれています。(以下『再現「南京戦」』東中野修道他参照)

 また、12月13,14日に中山門から市内に入った榊原主計少佐〔上海派遣軍後方参謀〕は、城内の「俘虜は相当あるのではないかと思いましたが、支給する食料や収容場所などが決定しなかったので、『取り敢えず各隊で持っておれ、移管の時期は速やかに示す』こととしました。・・・無錫の倉庫で米約6,000袋を押収したとの報告を受け、又刑務所や監獄が使用できるようになったので、入場式の前後に俘虜の移管を受けた記憶があります。中央刑務所に収容された俘虜は約四~五千であったと思います。それは翌年一月、上海地区の労働力不足を補うため、多数の俘虜を列車で移送し、約半数二千を残したように記憶しております。」(「証言による南京戦史」⑪P8)と答えています。

 なお、陸軍歩兵学校「対支那軍戦闘法ノ研究」(秘)の中の「其六 捕虜ノ取扱」の項には次のような興味深いことが書かれています。
甲、武装解除に関する着意
一、支那軍は欺瞞的投降を装うことあるを以て不用意にこれを許すは危険なること多し。
(通説甲第七項参照)
二、捕虜はその場に武器を放棄せしめたる後これを監視容易なる地域(捕虜の種類及び兵数により地域の数を定む)に逐い込み且要すれば之を三乃至五人毎に聯縛スルを要す。
乙、捕虜の処置
四、捕虜は他列国人に対する如く必ずしも之を後送監禁して戦局を待つを要せず、特別の場合の他之を現地または他の地方に移し釈放して可なり。
支那人は戸籍法完全ならざるのみならず特に兵員は浮浪者多くその存在を確認せられある者少なきを以て仮に之を殺害または他の地方に放つも世間的に問題となること無し。

 こういう中国的事情を考慮した上での処置もなされていたということですね。ただ、安全区の掃討に当たった金沢七連隊の戦闘詳報には、一、消耗弾 小銃5000発 重機関銃2000発、二、刺射殺数(敗残兵)6670と書かれており、この数字が一人歩きしているわけです。しかし、上記の榊原主計少佐の証言とは食い違っていますし、掃討に当たった兵士の証言も実際の処刑数ははっきりしない。一説には、6670という数字は補充弾の数に合わせただけともいいます。

⑭ 12月24日 金曜日。中国人の登録は今日はじまりました。軍部の言によれば、まだ安全区には二万人の兵士がおり、これらの”化け物ども”を一掃しなくてはならないというのです。100人残っているかどうか私は疑問に思います。

*日本軍が、非武装地帯である安全区から、便衣に着替え潜伏した中国軍兵士を摘出しない限り治安の安定化は図れないと考えたのは当然です。また、住民数を正確に把握し食糧問題に対処する必要もありました。そこで、日本軍は城内の全住民に指定された場所に出頭し住民登録を行うことを求め、一人一人に「安居之証」を手渡すという方法で、兵民分離を進めることにしたのです。

⑮ 中国人の自治委員会が・・・一昨日結成されましたが・・・しかしすでにスパイどもが仕事を始めています。我々はここでその一人を捕まえました。・・・彼は絞首刑にされるのではないかと思いますが、それでもうかつなことはするなとはいっておきました。

*この「スパイども」というのは一体誰のことでしょうか。おそらく、安全区国際委員会の委員、とりわけフィッチやベイツは彼等の素性とその活動を知っていたのではないでしょうか。国際委員会の委員長であったラーベも、そのことに薄々は感づいていたようでしたが、彼等との友情を信じてあえてそれを問いただすようなことはしなかったのです。しかし、やはり騙されていたと知って『ラーベの日記』には次のようなことが書かれています。

 「二月十二日 南京陥落直前しばらく泊めてくれと頼みにきた人たちの中に国民政府の幹部二人がいた。私は承知した。二人はトランクにいっぱい金を持っていて、うちの使用人に何かにつけてチップをはずんだが、その額ときたら、いくらなんでも程度を越えていた。・・・ある日、書斎の机に五千ドルの札束を見つけた・・・そこにはメモが添えてあり、『哀れな人びとを救う貴殿の誉れある行為に』とあった。」

 二月十五日 昨晩、龍と周の二人がわが家を去った。今日発つという。どうやって家に帰るのかは知らない。計画を打ち明けられなかったし、こちらも聞かなかった。残念ながら我々の友情にはひびが入った。それはともかく、二人が無事に香港に戻れるよう祈る。けれどもまた会いたいとは思わない。」

⑯ 12月27日 月曜日。兵隊は依然としてまったく統制がとれず、軍と大使館の間には何らの協力もありません。軍は、大使館が発足させた自治委員会の承認さえも拒否し、委員会のメンバーは故意に無視されています。中国人は被征服民族であり、何らお情けを期待してはならないと彼等はいわれているのです。

*安全地帯を掃討した金沢九師団は12月26日に南京を離れ、南京の警備は京都十六師団に引き継がれました。その司令部及びその直轄部隊と歩兵三十旅団(佐々木支隊)主力が南京の警備を担当しました。そして、12月24日から、南京の秩序と安寧を回復するための「平民分離」を開始しました(1月5日まで)。「平民分離」では、城内の子供や老女を除く中国人は各自指定された場所に自ら出頭して市民登録(安居ノ証交付)することを命ぜられました。

⑰ 12月29日、水曜日。登録は極めて非能率に続きます。・・・さらに多くの難民が敗残兵として拉致されます。婦人や老人がやってきて、ひざまずいて泣きながら、夫や息子をとりかえすのに手を貸してくれとわれわれに頼むのです。二、三の場合はうまくいきましたが、軍はわれわれが口出ししようものなら憤慨するのです。

*つまり、安全区の管理が国際委員会の手を離れて自治委員会の手に移るのを彼らはいやがっているのです。しかし、「平民分離」によって南京の治安は次第に回復し、自治委員会は翌1月1日に発足しました。その際「軍司令官殿より金一万円下賜」がなされています。おそらく、国際委員会は日本の外務省と出先軍との間に確執があることを知っていたので、自治員会の発足に際してそれを利用しようとしたのでしょう。

 実際のところ、ラーベをはじめとする国際委員会の委員は、先に紹介したように、南京陥落後安全地帯に逃げ込んだ中国軍将校を匿っていた可能性が大きい。その結果、安全区は彼らによる後方攪乱の基地と化していたのです。12月28日には、こうした後方攪乱のための掠奪・扇動・強姦に携わっていた中国軍将校23名と下士官54名、兵卒1498名が日本軍憲兵隊に摘発されています。日本軍がこうした国際委員会の活動を問題視したのは当然です。

⑱ 12月31日、金曜日。比較的平穏な1日。夜間に暴行事件の報告がなかったのは初めてのことです。日本側は新年の準備でいそがしがっています。

*「平民分離」によって、次第に治安が回復してきたことの証拠ですね。

⑲ 私は以上の説明を何ら復讐の気持ちをもたずに書いてきました、戦争は残酷なものであり、征服のための戦争はことに残酷であります。この中で私が経験したこと、・・・キリスト教的理想主義をまったくもたない日本軍は、今日非道な侵略軍となっており、東洋ばかりでなく,他日は西洋をも脅かすことになろうということがうかがわれ、また世界はこの現実の真相を知るべきであると思われるのであります。

*ラーベもこれと同じように、この戦争は日本軍の征服戦争、侵略戦争であるといい、他日は西洋をも脅かすことになろうと警告しています。こうした日本軍に対する不信感と警戒心は、欧米の新聞記者や知識人の共通認識となっていたようです。日本軍も記者会見を行いましたが、中国側の記者会見には多くの記者が集まるが、日本軍の記者会見には記者はほとんど集まらなかったといいます。

⑳ 中国人は多くの長所に加えて、苦難に耐える卓越した能力を持っております。最後には正義が勝つに違いありません。とにかく、私は彼等と運命を共にしたことをつねにうれしく思うでありましょう。

*中国人の忍耐力を称讃し、彼等を正義と認め、彼等と運命を共にできたことを喜んでいるのです。このことは、それだけ日本軍に対する不信感と警戒心が強かったということで、これが、「南京大虐殺」という虚報を生み出す彼らの心理的動機となっていたことは間違いありません。