事件発生後74年、今「南京大虐殺」について日本人が知らなければならないこと(4)

2012年3月31日 (土)

 前回、東京裁判において「日本軍が南京を占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺された一般人と捕虜の総数は二十万以上」という判決が下されたこと。そうした数字の積み上げにおいて基礎資料(一次資料)となったものがティンパーリーの『戦争とはなにか』であったこと。その本の副題は「外国人の見た日本軍の暴行」となっており、その第一章から第四章に、日本軍が南京において上記期間内に犯した「殺人、強姦、略奪・放火」事件の記述があったこと。さらに「南京暴行報告」等の具体的資料が付されていたこと、等について説明しました。

 次に、それらの記述内容の内主なものを見てみます。(以下『日中戦争史資料9南京事件』に掲載された「戦争とはなにか」により)*印の付された文章は、直前の記述に対する私のコメントです。

戦争とはなにか――中国における日本軍の暴虐――

H・J・ティンパーリー編

第一章 南京の試練
○(ティンパーリによる記述。ティンパーリは国民党中央宣伝部顧問であった)
① 華中の会戦だけでも、中国軍の死傷者は少なくとも30万に及び一般市民の死傷者も同じぐらいであった。
*これは華中戦区全体(揚子江デルタ地帯)における住民の死傷者数は30万とするものですが、この数字はジャキノ神父が推測した数字を借用したものです。これについてベイツは、3月3日のティンパーリへの手紙で『戦争とはなにか』の編集方針に関して、「戦争における野蛮な行為を(南京だけでなく)もっと広範に地域にわたって(書いた方が)全体的に見て、ずっと信憑性がある」と提案しています。これに対してティンパーリは「上海付近の民衆に対する日本軍の暴行については、確実な証拠がほとんど見つかりません」と答えています。

 注意すべきは、この30万というのは南京戦における死者数ではなく、上海から南京までの華中戦区全体での戦闘に伴って発生した死傷者数(死者数ではない)だということです。もちろん、兵士の30万については、通常、戦傷者は戦死者の2倍から3倍いるといわれますから、戦傷者20万人とすれば死者は10万人になります。当然、一般住民の死傷者の比率も同様のものと考えていいと思います。また、仮にこれらの数字が妥当なものであるとしても、これが日本軍の暴行によるものであると証明できる確実な証拠はほとんどないとティンパーリは言っているのです。

○(次は、南京の金陵大学教授であり南京安全区国際員会の委員をしていたベイツの「メモ」による記述。その後の調査でベイツは中華民国政府顧問であったことが明らかとなっている。)

② 「南京では日本軍はすでにかなり評判を落しており、中国市民の尊敬と外国人の評価を得るせっかくの機会さえ無にしてしまいました。・・・日本軍の入城によって戦争の緊張状態と当面の爆撃の危険が終結したかと見えたとき、安心した気持ちを示した住民も多かったのです。少なくとも住民たちは無秩序な中国軍を恐れることはなくなりましたが、実際には、中国軍は市の大部分に大した損害を与えずに出て行ったのです。

*ここでベイツは、唐生智の直前の逃亡により中国軍がパニック状態に陥り、⑧に記すような大混乱となったことにはまるで触れず、整然と退却したかのような言い方をしています。しかし、いわゆる「南京大虐殺」は、南京防衛軍司令官であった唐生智が部下将兵に南京死守を命じながら、自らは南京陥落直前の昭和12年12月12日20時に南京城を脱出し浦口へ逃れた。そのために中国軍兵士はパニック状態に陥り、無統制のまま、南京城の攻略を目指して攻め上る日本軍との絶望的な戦いを強いられた結果、発生したものなのです。

 ある者は南京城を脱出しようとしてその混乱の中で圧死または墜死し、あるいは督戦隊に射殺され、ある者は揚子江を渡ろうとして溺死、あるいは江上を攻め上ってきた日本軍砲艦に殲滅され、ある者は陸上の三方から攻め上ってくる日本軍の囲みを破って脱出しようとして殲滅、あるいは大量投降した後暴動を起こして銃殺され、ある者は武器を棄て、あるいは隠し持ったまま、軍服を脱ぎ捨てて便衣となり、安全区に逃げ込んだ後、摘出されて処刑されたりしました。

 日本軍はこうした思いがけない状況に、部隊ごとにバラバラの対応をすることになりました。なにしろ、中国軍の最高指揮官は逃亡して不在であり、その最後の命令は日本軍の囲みを破って脱出することだったのですから、戦闘状態は継続したままだったのです。そのため、日本軍の敗残兵、捕虜、便衣兵等の取り扱いが厳しくなり、それが、難民の保護にあたっていた安全区国際委員会のメンバーだったアメリカ人宣教師等の眼には、非情かつ残虐なものに見えたのです。

 一方、日本軍の残虐性を欧米世界に宣伝することで、中国に対する欧米諸国の支援を獲得しようとしていたベイツ等にとっては、こうした日本軍の厳しい対応は、格好の宣伝材料となりました。彼等は、安全区国際委員会を組織し安全区の難民を保護するという名目で、日本軍の南京占領の「暴虐」を告発しようとしました。こうした行為を根拠づけ正当化したものが、日本軍の南京占領後、城内において頻発した、日本軍兵士によると思われる不法殺人、掠奪・放火、強姦事件の数々でした。

 これらが、先に紹介したティンパーリ著『戦争とはなにか』に列挙されているわけですが、読んで見ると、にわかには信じられないとは思いつつも、その余りのひどさに、暗澹たる気分にさせられます。しかし、はっきり日本兵の仕業と確認されたものはごくわずかで、事件当時上海派遣軍法務官であった塚本浩が、東京裁判で行った証言では十件内外となっています。では、その外の事件は誰によるものかというと、その大半は、安全区に潜入した便衣兵による後方攪乱あるいは難民自身によるものであった疑いが濃厚です。

③ しかし、二日すると、度重なる殺人、大規模で半ば計画的な掠奪、婦女暴行をも含む家庭生活の勝手きわまる妨害などによって、事態の見通しはすっかり暗くなってしまいました。市内を見まわった外国人は、このとき市民の死体が多数転がっていたと報告しています。・・・死亡した市民の大部分は、十三日午後と夜、つまり日本軍が侵入してきた時に射殺されたり、銃剣で突き殺されたりしたものでした。・・・その過酷さはほとんど弁解の余地のないものでした。南京安全区でも他と同様に、このような蛮行が行われており、多くの例が、外国人及び立派な中国人によって、はっきりと目撃されています。

*ベイツは、死亡した市民の大部分は13日午後と夜、つまり日本軍が侵入してきた時、としているわけですが、この描写は、南京城内の安全区とそれ以外の地区を区別していません。日本軍が13日午後4時30分過ぎに南京城に入った時は、難民のほとんどは安全区に避難しており、その他の地区は、北部の獅子山付近や市の北部で若干の戦闘があった外はほとんど無人に近い状態でした。金沢第七連隊が残敵掃討の下調べのため安全区に入ったのは、その日の夜午後6時から8時でした。

 ラーベの13日の日記には、昨夜(12日)の状況として、中国軍の野戦病院があった「外交部に行く道ばたには死体やけが人が一緒くたになって横たわっている」「上海路(安全区内)へと曲がると、そこにも沢山の市民の死体が転がっていた」とありますから、日本軍入城以前の安全区には、「沢山の市民の死体がころがっていた」ことになります。ただ、13日の夜に行われた金沢第七連隊による安全区掃討下調べでは、「敵の軍人らしき者」が拘束され、12月14日に処刑されています。もちろん、拘束された者が全て処断されたわけではなく、解放された者やクーリーとして使役された者も多かったのです。なお、戦闘詳報に記された処断数にしても、戦果として誇大な数字が書かれる傾向があり、司令部ではその1/3程度を実数と見ていたと言います。

 しかし、いずれにしても、これ以降16日までの三日間に行われた安全区の残敵掃討によって拘束され処刑された者は、軍服を脱いで安全区に逃げ込んだ兵士(不法戦闘員と見なされ捕虜としての資格を認められなかった)であって市民ではありませんでした。このことについてベイツは後に、「4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかって兵隊になったことのない人びと」、つまり、この三日間で市民約12000人が殺害されたと主張したのでした。

 言うまでもなく、それは、処刑された者が「不法戦闘員」と見なされた元兵士たちであれば、これを国際法違反として告発することはできませんから、そこで「その内の30%はかって兵隊になったことのない人びと」=一般市民としたのです。ベイツの目的は、日本軍がいかに暴虐であるかを西欧世界に宣伝し、中国への同情と支援を得ることであり、従って、15日の段階では③のような描写に止まっていたのです。しかし、『戦争とはなにか』をまとめる段階で、このような誇大な記述を挿入したのです。

 しかし、こうした記述は、南京陥落時の先に述べたような実情を知るものにとっては、その信憑性のなさは一目瞭然でしたので、『戦争とはなにか』に挿入されたこの部分の記述は、これを中国語に翻訳した書籍(『外人目睹中之日軍暴行』外)の中では、全て削除されました。

④ もと中国兵として日本軍によって引き出された数組の男達は、数珠つなぎに縛り上げられて射殺されました。これらの兵士達は武器を棄てており、軍服さえ脱ぎ捨てていた者もいました。・・・難民区内のある建物から、日本兵に脅迫された地元の警官によって、400人が引き出され、50人ずつ一組に縛られ、小銃を持った兵隊と機関銃を持った兵隊にはさまれて護送されてゆきました。目撃者にどんな説明がなされても、これらの人びとの最後は一目瞭然でした。

*ここでは、難民区に軍服を脱ぎ便衣に着替えて逃げ込んだ中国軍兵士たちについて、「これらの兵士達は武器を棄てており、軍服さえ脱ぎ捨てていた」ので、当然捕虜として取り扱われるべきだった、ということを言っています。こうした主張を、国際委員会は12月21日に第九号文書で、南京の日本大使館宛提出していますが、これ以後は同様の主張を行っていません。その主張が無理なことが分かったためで、それ以降は、敗残兵の見分け方の杜撰さなどを指摘するに止まっています。

⑤ 目抜き通りでは、中国兵が主として食料品店や保護されていないウインドウなどからこまごました略奪を行っていましたが、それが、日本軍の将校の監視の下で店先から店先へと組織的破壊にとって代わられました。・・先ず食料を求めたのですが、やがて、その他の日用品や貴重品もやれました。市内全域無数の家が、人が住んでいようがいまいが、大小かまわず中国人の家も外国人の家もまんべんなく略奪されました。・・・日本軍は(アメリカなど外国の)旗の引き下ろしてから自動車や他の財産を強奪しました。婦女強姦・凌辱の例も数多く報告されていますが、まだそれを細かに調査している時間がありませんでした。

*日本軍の入城直後は、兵站の遅れで食糧が不足していたため、食料の徴発が行われました。また、司令部等を設置するために家財等を徴発したこともありました。食料については兵站部隊が追いついてすぐに問題が解消されました。また、家財等の徴発については、司令部や集団宿泊施設の設置のための徴発が行われましたが、その旨通知がなされ対価も支払われました。ただし、外国資産の徴発については厳しく禁じられていました。しかし、個人的な徴発もあったらしく、これらについては現物返還または保証金によって解決し、犯人は処罰されています。(『日中戦争資料集9』所収「東京裁判記録」p252)

 この件に関し、中支那方面軍司令官松井石根は、第十六師団司令官中島今朝吾を「家具等の徴発を行ったこと」でもって厳しく叱責しています。ただ、ハーグ陸戦法規第五十二条の「徴発と課役」には「現品徴発及ビ課役ハ、占領軍ノ需要ノタメニスルニアラザレバ、市区町村又ハ住民ニ対シテコレヲ要求スルコトヲ得ズ」となっており、戦争中に軍が「占領軍の需要の為」に第三者の所有物を取り立てる「現品徴発」は不法ではありませんでした。(『再現南京戦』東中野修道p263)

○(『日中戦争史資料9南京事件』に掲載された「戦争とはなにか」の解説では、次の記述(手紙)はアメリカ聖公会布教団マギー師によるもの、とされていますが、イエール大学所蔵のベイツ教授作成の履歴書には第一章と第二章は、上記のベイツの「メモ」の部分を除き、ジョージ・フィッチが書いた、とされているそうです。(『南京事件 国民党の秘密文書から読み解く』東中野P141)

⑥ (中国軍の)総退却はその日の午後早くから始まっていたに違いありません。兵士たちが南方から市内に流れこみ、そのうちの多数が安全区を通過してゆきましたが、彼らのふるまいはりっぱで整然としていました。唐将軍は、日本軍と休戦協定を結ぶために、われわれの援助を求めてきました。スパーリング氏が旗と伝言をたずさえてゆくことに同意したか、時すでにおそすぎたのです。

*唐生智は12月9日の日本軍の降伏勧告を拒否しました。ところが、12月12日になって、三日間の休戦協定(この間に中国軍は撤退し、日本軍に町を明け渡す)を日本軍と結びたいので、国際委員会に仲介して欲しいという依頼がありました。しかし、蒋介石の承認は得られなかったれしく、そこで唐は、「休戦願いは我々国際委員会の一存だと見せかけ」ようとした。「要するに・・・蒋介石や外交部がこわいから」で、「だから国際委員会、ないしはその代表者である私、ラーベに全責任を押しつけようとしたんだ。汚いぞ!」とラーベは12月12日の日記に書いています。

⑦ 彼(唐)はその夜(20時)逃亡し、その知らせが広まるとすぐに全市が混乱におちいりました。みんなが下関へ通じる城門や川(揚子江)の方へ行くさいに恐慌状態がおきました。道路には彼らが棄てていったライフル銃・弾薬・ベルト・制服・自動車・トラックなどが何マイルにもわたって散乱していました。それらはすべて軍用品でした。動きのとれなくなったトラックや自動車が転覆し、火に包まれていました。

*この件に関し、『ニューヨークタイムス』のダーディンは、中国軍は撤退を一切考慮しておらず、日本軍に「ねずみ吐露の中の鼠よろしく捕らえられ・・・木っ端微塵にするような状況に進んでおかれることを選んだわけは、中国人を感動させるように英雄的に振る舞いながら、日本軍の南京占領をできるだけ高価なものにしようと意図していたことであることは疑いない」。ところが唐生智将軍が陥落直前に逃亡したためこの中国軍の計画は頓挫した、と述べています。

 そのことを証するかのように、12月18日に「軍事裁判の結果(唐生智将軍に)死刑宣告」との情報が流されました。この『戦争とはなにか』の中のフィッチの記述にも「唐将軍は、最近処刑されたと聞きました」とあります。ところが、実際には、唐将軍は処刑されていなかったのです。このことは、1966年に香港で出版されたWho's Who in Communist China に唐生智が「1949年に国民党を棄てて共産党に走り、戦後も共産党政権下で湖南省副所長などを歴任した」ことが記されていたことで判明しました(『南京事件 国民党の秘密文書から読み解く』東中野修道p102)。ということは、唐生智逃亡は蒋介石の承認を得ていたのではないか、ということが疑われます。

 というのは、国民党中央宣伝部は、前回紹介したような「編集課工作概況」報告に基づき、「首都陥落後の敵の暴行」を宣伝しようとしていましたから、唐が南京に止まって市街戦を行った後降伏したということになれば、国際法に基づく日本軍の南京占領となって、日本軍の暴行を宣伝することができなくなるからです。そこで、あえて唐生智を陥落直前に逃亡させ、中国兵をパニック状態に陥れて、日本軍の捕虜殺害などの虐殺行為を誘発させる。また、一部将校を安全区に潜伏させて後方攪乱を行い、日本軍の無統制や暴行を宣伝しようとしたのでないか、ということが疑われるのです。

⑧ 市の城門では、さらに多くの自動車がひしめきあい、焼き払われていました。恐るべき全燔祭です。足もとには死体が累々としていました。城門は閉鎖されているので、恐怖に狂った兵士たちは、城壁をよじ登り、綱とか、つながあわせたゲートルやベルトとか、衣服をひきさいたものとかを使って、向こう側におりてゆきました。落ちて死んだものも多数いました。揚子江はわけても凄惨な光景でした。

 一隊の帆船があるにはあったのですが、北岸に渡ろうと狂気のようになった群集にはそれではまったく役に立ちませんでした。超満員の帆船は転覆し、沈没しました。何千人という人が溺死しました。河岸でいかだを組んで渡ろうとしたものも大ぜいいましたが、同じ運命をたどっただけでした。うまく逃げられたものも多数いたでしょうが、このうちの多くのものも一日か二日後には、おそらく日本軍の飛行機に爆撃されたことでしょう。

*これが唐生智逃亡後に起こった中国軍のパニック状態です。

⑨ 14日の火曜日に、日本軍、つまり戦車や大砲や歩兵やトラックが、町になだれ込んできました。恐怖時代が始まったのです。その後の10日間は日に日に激しさと恐怖が増していきました。日本軍は中国の首都、憎い蒋介石政府の所在地の征服者であり、彼等は好きなように振る舞うことができたのです。・・・彼等の”誠意”の見せ方というのは、強姦・掠奪・殺人を意のままに行うことでした。我々の難民収容所から男達が群れをなして連行されました。その時は労働に使われるものとばかり思っていましたが、その後なんの音沙汰もなく、これからも音沙汰はないでしょう。・・・

*このあたりのフィッチの記述は、国民党政府顧問であったベイツの先に紹介した記述に似て、日本軍が南京城に征服者としてなだれ込み「強姦・掠奪・殺人を意のまま」に行ったとしています。フィッチは、その妻が蒋介石夫人宋美麗の友人であったこともあり、ベイツと協力して『戦争とはなにか』の編集に参加しました。こうして、唐生智が逃亡したことによって生じたパニック状態に伴って発生した日本軍の敗残兵処理や捕虜の取り扱いは、彼等が日本軍の暴虐を宣伝する上での格好の材料をなりました。彼等は、こうした宣伝を安全区国際委員会の名によって行ったのです。

 こうしたフィッチやベイツの宣伝行動に対して、国際委員会の中には軽快する動きがあったようで、1938年3月3日のベイツからティンパーレへの手紙には次のようなことが書かれています。

 「ここにいる外国人のグループのある者は、全ての伝導団が南京から追放されないように、当局に対して徹底的に報告を行ったり、抵抗したり、あるいは間接的に宣伝することはやめるよう懇願し続けています。それはスマイスやミルズに対してもある程度行われ、フィッチがここにいた時は彼に対しても行われました。以上のことは、しばらくの間、用心深くする必要があることを示唆するために触れました。」(『南京事件資料集アメリカ編』p358)

⑩ その日(16日)の朝から強姦事件が報告されるようになりました、我々の中でも100人以上の婦人が兵士に連行されましたが、その内7人は大学の図書館の職員でした。しかし、自宅で強姦されたものはその何倍もいたに違いありません。

*17日は、松井石根中支那方面軍司令官の南京城入場式が行なわれた日でした。そのため、日本兵は13日の南京陥落以降、城内掃討や清掃その他の準備に忙殺されました。また、その翌日の18日は戦没者に対する慰霊祭が行われました。従って、この記述にあるような、16日の朝から100人以上の婦人を連行して強姦するなどといった行為を行う余裕が、当時の日本軍兵士にあったとは思われません。また、日本軍兵士は夕方も点呼が行われ、夜間外出は禁止されていました。従って、これらは、日本軍による城内掃討を攪乱しようとした、便衣兵の仕業であったことが疑われるのです。