事件発生後74年、今「南京大虐殺」について日本人が知らなければならないこと(3)
そもそも「南京大虐殺30万人説」が登場したのは、1946年7月から東京裁判における「南京大虐殺」に関する審判が始まってからで、検察側は最終論告で「6週間に南京市内とその周りで殺害された概数は26万ないし30万」と主張しました。しかし、1947年3月の判決は、次のようになっていました。(要約) 南京暴虐事件(昭和23年11月4日) 二、占領後日本の兵隊は、中国人の住民男女子供を無差別に殺した。その数は占領後に、三日の間に少なくとも一万二千人に達した。 三、幼い少女や老女を含む多数の女性が強姦され、殺され、死体は切断され、占領後の最初の一ヶ月間の強姦事件は約二万件に達した。 四、日本軍は欲しいものは何でも住民から掠奪し、店舗、倉庫、住宅を計画的に放火し、全市の約三分の一が破壊された。 五、一般男子の大量殺戮は、中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民に混じり込んでいるという口実で一団にまとめられ城外で機関銃と銃剣で殺害された。兵役年齢にあった中国人男子約二万が殺害された。 六、日本軍は、城外(南京から約66マイル以内)の人びとにも城内の住民と同じような仕打ちをし、5万7千人以上が収容され飢餓と拷問に遭い、多数のものが死亡し生き残った者の多くは機関銃と銃剣で殺された。 七、城外で武器を棄てて降伏し捕虜となった約3万人の中国兵は裁判の真似事さえ行われず殺された。 八、こうして日本軍が南京を占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺された一般人と捕虜の総数は二十万以上となった。これらの数字には死体を焼き捨てられたり揚子江に投げ込まれたり、その他の方法で処分された人びとは計算に入っていない。 ところが、松井石根に対する判決書(昭和23年11月12日)に述べられた罪状は次のようになっていました。 「この犯罪の修羅の騒ぎは、1937年12月13日に、この都市が占拠されたときに始まり、この六、七週間の期間において、何千という婦人が強姦され、十万以上の人びとが殺害され、無数の財産が盗まれたり焼かれたりした。」 つまり、南京事件における殺害数と強姦数は、前者は二十万と二万人以上となっていたのに、後者では、十万以上と何千という数字に減らされていたのです。おかしな所はこれだけではありません。次に、その罪状をその後判明した事実関係と照らし合わせて見ます。 一、南京に残った住民数は約二十万であるにもかかわらず、これが約五十万に水増しされている。また、 中国軍の守備兵力は約5万であり、その大部分は撤退するか、武器と軍服を棄てて国際安全地帯に避難したと言っている。 二、住民男女子供一万二千人が無差別に殺害されたというがそんな事実は全くない。 三、幼い少女や老女云々とか二万件の強姦なども全くのデマ宣伝で、当時安全区の警備・掃討に当たったのは第16師団歩兵第七連隊(金沢)の人数は約1,400名に過ぎず、それ以外の兵士の出入りは禁止されていた。 四、日本軍の入城後数日間は食料や家具類の徴発はあったが、日本軍兵士による放火は考えらない。 五、安全区に逃げ込んだ中国軍兵士は指揮官の指揮下に投降したわけではなく、軍服を脱ぎ平民服に着替え、さらに武器を隠し持ったまま安全区に潜入したものが多く、便衣兵と言うより捕虜の資格なき不法戦闘員と見なされてた。そのため、城内の戦闘を終わらせ安全を確保するためには、彼等を摘出する必要があった。その数は『南京戦史』によると約7,000人弱であるが、その内何人が処断されたかははっきりしない。第七連隊の戦闘詳報には刺射殺数として6,670という数字が上げられているが、実数はその1/3 程度ではないかと見られる。 六、これは幕府山に近い上元門付近の殺害数とされているが、この地域にいた日本軍部隊 は第13師団歩兵六十五連隊(会津若松)山田支隊約2,200人であった。この部隊に12 月14日、約15,000人の投降兵があった。そこで、その中に含まれていた非戦闘員を解 放し捕虜約8,000人となった。山田支隊はこれを上元門郊外の建物に収容したが十分な 給養ができず、その取り扱いについて、翌15日南京の16師団司令部に問い合わせたと ころ、「ミナ殺セトノコトナリ」(おそらく山本七平の言う「私物命令」で16師団参謀 長勇の言葉ではなかったかと推測される)という意見だった。 しかし、山田少々はこれをはねつけ、両角連隊長もこれを支持した。しかし、16日 午後12時半頃、放火・暴動が発生し約4,000人が逃亡、その際約2,000人をやむなく揚 子江岸で射殺した。残り2,000人の処理については、揚子江「北岸」の草鞋州(ソウア イス)に船で渡して解放することとし、17日夜捕虜を軽舟艇に乗せて中流まで行った ところ、揚子江北岸の支那兵が敵前上陸と勘違いし銃撃を始めたため、捕虜は処刑され るものと錯覚して逃げだした。これを制止しようとして日本兵が銃を乱射したことから、 捕虜に多数の死傷者を出すことになった。(中国兵の 死者数百名?)この際護送した 日本兵にも若干の死傷者を出した。 七、六の5万7千人というのは、あたかも城外の一般住民であるかのように書いているが、実際は城内から脱出後幕府山付近で投降した兵士たちであった。従って、七の城外で武器を棄てて降伏し捕虜となった約3万人と言うのがこれにあたる。(5/3下線部訂正) 八、一から八までの数字を合計すると、約127,000人となるが、これに揚子江に流される などしたその他の死者を加えて、「日本軍が南京を占領してから最初の6週間に、南京 とその周辺で殺された一般人と捕虜の総数は二十万以上」とされた。 これらの数字のうち、二から四に上げられた数字は、実はマンチェスター・ガーディアン紙中国特派員ハロルド・ティンパーリ記者が南京在住の訪米人(匿名だったが南京金陵大学教授マイナー・ベイツと宣教師のジョージ・フィッチ)の原稿を編集して、昭和13年7月にイギリスのゴランツ社から発行した『戦争とはなにか――中国における日本軍の暴虐』の記述に基づくものでした。五の中国男子二万人というのは、南京駐在米副領事エスピーの推測に基づく証言によるもの。六の城外の人びと五万七千という数字は魯甦という中国人によるデタラメ証言、七の捕虜三万人以上は、むしろ六の根拠数と考えられる。そして、これらを合計した127,000人に、その他の揚子江に流されるなどしたその他の死者を加えて二十万以上としたのです。(5/3下線部訂正) では、なぜ東京裁判はこのような不確かで誇大な数字を積み上げて「日本軍が南京を占領してから最初の6週間に、南京と その周辺で殺された一般人と捕虜の総数は二十万以上」としたのでしょうか。言うまでもなくその背後には、東京大空襲、広島、長崎原爆による非戦闘員虐殺の罪を覆い隠そうとしたアメリカの思惑があったこと。また、国民党には、日本の敗戦後中国国内で熾烈化しつつあった中共とのヘゲモニー争いにおいて、中共が、国民党の日本軍宥和政策を激しく非難したことから、これに対抗するため、抗日戦における日本軍の残虐性をアピールする必要に迫られたのかもしれません。 その結果、中支那方面軍司令官であった松井石根は、日本軍の南京における暴虐を防止するための努力を怠ったという、いわゆる「不作為」の罪に問われて、A級戦犯として起訴され、訴因第五十五号(通例ノ戦争犯罪及ビ人道ニ対スル罪)について有罪となり絞首刑に処せられました。 東京裁判で、戦時中に日本軍がこのような残虐行為を犯していたと聞かされて、日本国民は半信半疑ながらも、中国に対して深刻な贖罪意識を持つようになりました。ところが、このナチのホロコーストにも匹敵すると宣伝された南京大虐殺は、その後中国においても、有罪の判決を下した連合国においても、日本においても、それが話題に上ることはありませんでした。そのため、昭和50年に発行された教科書『詳説日本史』(山川出版)の日中戦争に関する記述にも「南京大虐殺」に関する記述はありませんでした。(『南京事件 国民党の極秘文書から読み解く』p8) それが全ての教科書に「南京大虐殺」として記述されるようになったのは、9171(昭和46)年8月から朝日新聞が「中国の旅」を連載し始めて以降のことでした。その翌年の日中国交回復の年には本田勝一著『中国の旅』(本多勝一著)が出版されベストセラーになりました。これは当時高度成長下の日本で平和を享受していた日本人に大きな衝撃を与えました。さらに、その翌年には、この大虐殺が本当にあったことを裏付ける資料として、先に紹介した『戦争とはなにか』(英語版の翻訳)が洞富雄教授らによって紹介されました。 そこには、南京陥落後の南京において日本軍が犯したとされる、東京裁判における第二から四までの罪状に相当する殺人、強姦、略奪・放火事件が、当時南京において実際に見たというアメリカ人の証言のもとに記録されていました。その後、この証言者は、南京の金陵大学教授であり宣教師であったベイツ他だったことが明らかとなりました。その結果、こうした第三者的立場にあったアメリカ人宣教師らが”嘘をつくはずがない”と信じられたことから、「南京大虐殺」は日本人に真実と受け取られるようになり、それ以降、ほとんどの教科書に、この事件が記載されるようになりました。 一方、このような、日本人が中国において犯したとされる残虐事件を中国人の視点から日本人に紹介した本多勝一氏の「中国の旅」について、疑問を呈する人も現れました。まず、イザヤ・ベンダサンが、「中国の旅」の中の「競う二人の少尉」(昭和46年11月5日)=「百人斬り競争」の記事をフィクションだと断定したことから、本多勝一氏との間で論争が始まりました。次に鈴木明が、同様の疑問から「南京大虐殺のまぼろし」を『諸君』に掲載し始めました。さらにそれを受け継ぐ形で、実際の軍隊経験を元に検証作業を始めたのが山本七平でした。(「私の中の日本軍」) この結果、「百人斬り競争」については、この記事を書いた東京日日新聞の記者浅海一男記者が、戦意高揚記事を書くため両少尉に”やらせ”の証言をさせ、それを記事にしたものであることが立証されました。これに対して、「南京大虐殺」を真実と主張するいわゆる「自虐派」の人びとは、「百人斬り競争」は実は戦闘行為ではなく捕虜の「すえもの斬り」だったとする主張するようになりました。同時に「南京大虐殺」を証拠づけるための資料の発掘に尽力しました。その成果が、『日中戦争資料集』第八巻(極東軍事三番南京事件関係記録S48)や第九巻(「戦争とはなにか」「南京安全区檔案」「南京における戦争被害」「T・ダーディン記者報道」S48)及び『南京事件資料集』のアメリカ編と中国編(1992年)でした。 この間、旧日本軍人の間でも、この事件の真相を解明しようとする動きが始まり、その結果、本稿の冒頭に紹介した偕行社による『南京戦史』(平成元年)及び『南京戦史資料集Ⅰ(平成元年)、『南京事件資料集』Ⅱ』(平成5年)が刊行されました。こうした資料収集と実態解明の努力が進められた結果、東京裁判判決の基礎資料となったティンパーリの『戦争とはなにか』に記載された、「外国人の見た日本軍の暴行」における記述内容は、必ずしも実態を正確に反映したものではなく、意図的に日本軍の残虐性を強調することで、欧米人の支援を得ようとした中国の宣伝文書ではないかと言うことが疑われるようになりました。 その嚆矢となったのが、この本の著者ティンパーリが、国民党中央宣伝部の顧問だったことが鈴木明によって発見されたことでした。(「国民党政府は彼を英米に向けて派遣し宣伝工作に当たらせ、次いで国民党中央宣伝部の顧問に任命した。編著に『中国における日本人の恐怖』(1938年)一書がある」『近代来華外国人名辞典』)(『新「南京大虐殺」のまぼろし(1996)』P292)。また、北村稔氏は、この裏付けとなる資料を、国民党の国際宣伝処の組織と活動の研究書『中国国民党新聞製作之研究』(王凌霄著台湾で発行)における南京事件に関する次のような記述に発見しました。 「日本軍の南京大虐殺の悪行が世界を震撼させた時、国際宣伝処は直ちに当時南京にいた英国のマンチェスター・ガーディアンの記者ティンパーリとアメリカの教授スマイスに宣伝刊行物の《日軍暴行紀実》と《南京戦禍写真》を書いて貰い、この両書は一躍有名になったという。このように中国人自身は顔を出さずに手当を出す等の方法で、『我が抗戦の真相と政策を理解する国際有人に我々の代言人となってもらう』という曲線的宣伝方法は、国際線伝書が戦時最も常用した技巧の一つであり効果が著しかった」。 さらにその極めつけとして、北村氏は、蒋介石に委任され、日中戦争開始以前から上海で外信の検閲に従事していた曽虚白の『自伝』に次のような記述を発見しました。 「我々が検討した結果、戦局が全面的劣勢に陥った現段階で明らかにすべき最も重要な事柄は、第一には戦闘にたずさわる将士たちの勇敢に敵を倒す忠誠な事績であり、第二には人民に危害を加える人道にもとる凶悪な敵の暴行であった。物事は信じがたいほど都合よくいくもので、我々が宣伝工作上の重要事項としてて易の暴行(の事例)を探し求めようと決定したとき、敵のほうが直ちにこれに応じ事実を提供してくれた」。 この「事実」とは、東京日日新聞が伝えた「百人斬り競争」の報道と、日本軍は「怒濤のごとく南京城内に殺到した」という読売新聞の掲げた見出しでした。そして前者は『戦争とはなにか』に収録される際、「Murder Race(殺人競争)という表題がつけられ、いかにも戦闘以外での殺人を伴う戦争犯罪であると言う装いがなされ」ました。そこには「かくて我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した」とも記されていました。(『「南京事件」の探求』p43) この事実は、東中野修道氏によって、台北の国民党党史館にあった国民党中央宣伝部資料の極秘文書中の「対敵課工作概況」の中の「(一)対敵宣伝本の編集制作」の中の次の記述によっても確認されました。 1、単行本 また、この本に匿名で記事を載せたベイツは中華民国政府の顧問であり、もう一人のこの本の著者フィッチも、彼の妻が蒋介石夫人の宋美麗の親友であったことも、同氏によって明らかにされました。なお、英語版の『戦争とはなにか』の漢訳本が『外人目賭中之日軍暴行』であり、これは英語版と同時出版されていました。(『南京事件――国民党の秘密文書から読み解く』P20) 私は、この『戦争とはなにか』の第一章「南京の生き地獄」、第二章「掠奪・殺人・強姦」、第三章「甘き欺瞞と血醒き暴行」、第四章「悪魔の所為」や、付録の「南京の暴行報告」「国際委員会の(日本側との)書簡文」「百人斬り競争」(以上訳文は日本版『外国人の見た日本軍の暴行』による)などを読んだ時さすがに暗澹たる気持ちになりました。これらの報告をしているのは欧米新聞記者やアメリカ人宣教師や大学教授であり、また、これらの暴行事例が日本側にも知らされていたことなどを考えると、誇張があるにしても、ここには相当の事実が含まれているのではないかと思わざる得なかったからです。 しかしこうした疑念も、その後の阿羅健一氏や板倉由明氏等による『南京戦史』の刊行、北村稔氏『「南京事件」の探求』、東中野修道氏「南京事件 国民党秘密文書から読み解く」、冨沢繁信氏『南京事件の核心』などの著作によって、その真相が次第に明らかになってきました。その結果、ティンパーリの『戦争とはなにか』に記載された日本軍の暴行記録には、便衣兵による後方攪乱や、単なる伝聞証言あるいは安全区の難民自身によるものが多く含まれることが分かってきました。ベイツ等国際委員会のメンバーは、それを検証もせず日本軍兵士の仕業と決めつけ、これを日本軍の残虐行為を告発するための宣伝に利用していたのです。 しかし、それにしても、南京は日本軍が占領していたのであり、第三国人が運営する安全区国際委員会のこのような中国側に立った虚偽の告発について、日本側はなぜそれを実地検証をするなどして事実確認をしなかったのでしょうか。残念ながら、これらの事件の内どれが日本軍兵士によるものかは、『南京戦史』にも具体的な記述がありません。しかし、冨沢繁信氏は、南京事件に関する一次資料の全てをデーターベース化しそれを様態別に集計することによって、事実と認定できるものと単なる伝聞であって信用できないものとを、区分することに成功しました。 次回は、その分析結果を見ながら、さらに、「南京大虐殺」の真相に迫りたいと思います。 |