事件発生後74年、今「南京大虐殺」について日本人が知らなければならないこと(2)

2012年3月 6日 (火)

 野田首相は衆院予算委員会で自民党議員の質問に答える形で南京大虐殺について語り、「どれくらいの規模だったかは諸説ある」と述べた。また、、「名古屋市と南京市の間で適切に解決されるべき問題で、早急に解決されることを期待する」と述べ、政府として静観する姿勢を示した、そうです。なかなか落ち着いた対応ですね。地方自治体間の議論を国家間の議論にはしない、そう言ってボールを中国に投げておく。もし中国が動けばそれに応じた対応をする・・・。ま、中国は不用意には動かないと思いますが。

 というのは、この事件は、もともと日本と蒋介石国民政府との戦いの中で起こったことであって中共は直接関係ないからです。もちろん、中共としては、これを、今、国民党つまり台湾との「統一戦線」形成に利用しようとしているらしいので(『新南京大虐殺のまぼろし』参照)、簡単にこれを手放すことはないと思います。しかし、その後の日本側の研究の進捗によって、それが「戦争プロパガンダ」であったことがネタバレしていますので、あまりこの問題を深追いすることはないと思います。

 では、以下、その「南京大虐殺」の「戦争プロパガンダ」としての謎解きを、南京事件研究の諸著作を参考に、進めてみたいと思います。

 まず最初に、中国は、現在この「南京大虐殺」をどのようなものと認識しているかを見てみます。

 「1937年7月7日、日本軍国主義は盧溝橋事変を起こし、全面的な中国侵略の戦争を発動した。同年8月13日、日本軍は上海を攻撃し、上海を南京攻略の第一歩とした。11月12日、日本軍は上海を占領し、その後、兵を三つのルートに分けて南京へ向かった。12月13日、日本軍は南京を占領したあと、公然と国際公法に違反して、武器を手放した兵士と身に寸鉄も帯びない平民たちを大量虐殺した。その期間は六週間にもわたり、犠牲者総数は30万人以上にも達した。その期間に、南京の三分の一の建物が破壊され、市内で起こった強姦輪姦などの暴行は二万件以上にのぼり、数多くの国家財産と個人財産が略奪され、文化の古都は空前の災禍に見舞われ、南京城は人間地獄と化してしまった。この世のものとも思われない悲惨なこの歴史事件は、日本軍が中国侵略期間中行った数え切れない暴行の中でも、もっとも際立った代表的な一例である。この大惨禍は永遠に人類の文明史上に記されるであろう。ここに展示されている写真、資料、映像と実物はすべてゆるがぬ歴史的証拠である。」

 これが「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」いわゆる「南京大虐殺記念館」の入り口に掲げられた「前書き」です。つまり、これが歴史的事実であることを証明するために、この記念館が建てられた、というわけです。では、これが建設されるに至った経緯はどういうものかというと。これは、wiki「南京大虐殺記念館」に次のように説明されています。

 「日本社会党委員長を務めた田辺誠は1980年代に南京市を訪れた際、当館を建設するよう求めた。中国共産党が資金不足を理由として建設に消極的だったため、田辺は総評から3000万円の建設資金を南京市に寄付し、その資金で同紀念館が建設された。3000万円の資金のうち建設費は870万円で、余った資金は共産党関係者で分けたという。また記念館の設計は日本人が手がけた。」

 「1982年、田辺の再三の建設要求と破格の資金提供に対し、中国政府の鄧小平ならびに中国共産党中央委員会が、全国に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立して、愛国主義教育を推進するよう指示を出した。この支持を受けて、1983年、中国共産党江蘇省委員会と江蘇省政府は南京大虐殺紀念館を設立することを決定し、中国共産党南京市委員会と南京市政府に準備委員会を発足させた。」

 おそらく、日本社会党委員長の田辺誠氏は、上記の「南京大虐殺」を事実だと思い込み、中国への贖罪意識と共に、こうした残虐事件を引き起こした日本人と自分とを切り離すべく、中国に対してこのような働きかけをしたのだと思います。それにしても田辺氏らは、かって日本の兵士が、6週間の間に、無抵抗の中国人を30万人も殺し、2万件以上の強姦事件を引き起こした、などということを、本気で信じたのでしょうか。

 そこで以下、それが事実であったかどうかを検証して見たいと思います。幸い、その後の日本側の粘り強い研究の積み重ねによって、これは、中国国民党による「戦争プロパガンダ」だったということが次第に明らかになって来ています。以下、そのことをできるだけ分かりやすく説明したいと思います。

 なお、こうした結論を導くに際して、一つの画期となったのは、私は、新旧日本軍人の「親睦・互助・学術研究」団体である「偕行社」によって、『南京戦史』がまとめられたことではないかと思っています。その「刊行の目的」には、次のように述べられています。

1,本刊行の第一の目的は、南京攻略戦、及びその占領後南京およびその占領直後南京およびその周辺に於いて、我軍は如何に行動し、何をしたかを明らかにして、会員各位に南京戦および所謂「南京事件」の実相を、把握していただくことにあります。

2,第二の目的は、学校の教科書等に記載されている「南京事件」の誤った記述を、是正してもらう根拠を提供することであります。

3,(略)

 また、その編集方針には、

「戦史、すなわち歴史書として、後世の史家の批判にも耐え得るよう、可能な限り学術的に価値ある本とする、ということ」「史実は一つしかありません。・・・私たちは一つしかないその一つを、再現することに全力を尽くしました。すなわち最も信憑性のある第一次資料によることを第一の条件と致しました。そのため我々としては公表を憚りたくなるようなものも、あえて採り上げ収録致しました。」

 と述べられています。

 そこで、この『南京戦史』によって総括的に把握された、南京戦における中国軍の兵力や死者数についてですが、それは、各種資料を総合して、中国軍の総兵力を最大7万6千、その内3万を戦死、渡江による脱出1万5千、陸上突破3千、残り2万8千を南京城内外での敗残兵・捕虜・便衣兵と推定しています。この内、日本軍によって処断された者を1万6千、残りの約1万2千を、釈放・収容・逃亡と推定しています。なお、処断された者1万6千の内便衣兵で処断された者は約7千ですから、その他の約9千は南京城周辺の戦闘で敗残兵として掃滅されたり、また、捕虜となったが、何らかの事情で処断された者ということになります。

 また、当時、第三国人が推計した中国軍総兵力は約5万で、ニューヨーク・タイムスのダーディン記者は、1938年1月9日の記事で、殲滅された3万3千の内戦死1万3千、捕虜や敗残兵で処断された者2万としていました。また、イギリスの12月17日付「マンチェスター・ガーディアン・ウイークリー」は、7万5千強の兵が実際に南京付近に駐屯したとするのは疑わしい。・・・最終攻撃には、たかだか2万の中国軍と戦ったこと、それも南京防衛軍の兵士ではなく、陳江からの撤退組であった・・・」との認識を示していました。(『南京事件資料集Ⅰ』p523~524)

 
 これを見ると、『南京戦史』の数字は、想定された「最大値」に近いものではないかと思います。私の印象としては、特にその処断数の見積もりに、いささか過大なものがあるように思われますが、このことは後述することとして、当面は、この数字をもとに論述を進めたいと思います。

 
 そこで、なぜ、これだけの大量の敗残兵・捕虜・便衣兵が発生したかということですが、そこには次のような事情がありました。

一、南京は、東・南・西の三方からの包囲が可能で、しかも北面は揚子江によって退路が阻まれており防衛戦には向かない。従って、無用の犠牲は生まないよう「南京放棄論」が当時の中国軍首脳の間では大勢を占めていた。しかし、蒋介石は、首都防衛の面子や漢口に首都機能を移すための時間稼ぎのため、それに唐生智が南京固守を主張したこともあって、彼を南京防衛軍司令官に任命し、南京死守を決定した。

二、また、一説には、長期持久戦に備える観点から、あえてここで防衛戦をやることで、できるだけ敵兵力を消耗させる。それとともに、その結果生ずる城内の混乱状況を利用して、「埋伏の兵」による後方攪乱をやる。つまり、安全区に便衣兵を潜ませ、安全区内の難民区や外国人居住区において事件を引き起こし、それを日本兵の仕業に見せかけることで、日本軍の残虐性を世界に宣伝する。それによって、中国に対する国際社会の支援を取り付けようとした。

 こうして、唐生智による南京防衛戦が始まったわけですが、(当然のことながら)彼は、昭和12年12月9日の日本軍による降伏勧告を無視して、部下に徹底抗戦を命じました。にもかかわらず、唐生智は、昭和12年12月13日の南京陥落の直前12月12日20時に、「各隊各個に包囲を突破して、目的地に終結せよ」との命令を発して、城内に5万?の将兵を置き去りにしたまま、揚子江北岸に逃れました。

 その際、直系軍の主力は渡江脱出させましたが、残りの兵(周辺農村から拉致した農民兵や、南京城内で徴兵した少年兵などの雑兵が多く含まれていた)は、三方より南京城に迫る日本軍の囲みを破って脱出しようとし、脱出路となった挹江門で圧死・墜死した者、あるいは揚子江を渡ろうとして溺死した者、督戦隊によって射殺された者、あるいは軍服を脱いで便衣に着替え安全区に逃げ込んだ者などがあり大混乱に陥りました。また、指揮官の指揮下に便衣に着替え安全区に潜入した者もいました。

 これが南京陥落時の中国軍の状況ですが、ここで問題となるのは、こうした混乱状態の中で、敗残兵や捕虜となり、あるいは便衣兵となって安全区にもぐり込んだ中国兵は、その後どうなったかということです。敗残兵の多くは、南京城に東方、南方、西方より攻め上る日本軍と遭遇し殲滅されました。しかし、投降して捕虜となった者も多かったのです。彼等の中には、一旦収容された後釈放されたり使役されたりした者もいましたが、暴動を起こして射殺された者もいました。

 特に問題だったのは、便衣兵の存在で、日本軍は上海戦以来便衣兵によるゲリラ戦法に悩まされてきましたので、これらは厳しく処断しました。ところが、南京戦においてはこの便衣兵を含めて捕虜が大量に発生したのです。なにしろ、幕府山付近では日本兵を遙かに上回る1万4千の投降集団があったといいます。そのため、これらの捕虜等の取り扱いは、戦闘が継続中であった事もあり、各部隊指揮官に任されました。その結果、それぞれの状況に応じた対応(釈放・収容・処断)が採られることになりました。

 なお、これに先立って、南京城内に居住する難民を保護するため、南京に残留した外国人宣教師等によって、安全区が設置されました。その運営は彼等を中心に15人の西欧人で組織する国際委員会があたりました。国際委員会は、安全区に逃げ込んだ敗残兵の取り扱いについて、武器を捨てたのだから戦時捕虜として扱うよう日本軍に要求しました。しかし、これが拒否されると、便衣兵と一般市民の選別が基準が杜撰であり、罪のない民間人が多数処刑されたなどと、日本軍の処置を激しく非難しました。

 しかし、便衣兵は、ジュネーブ条約第四条に謳う①指揮官の存在、②特殊標章の装着、③公然たる武器の携行、④戦争の法規の遵守、という合法戦闘員としての資格を満たしていないため、捕虜としては扱われませんでした。また、南京の場合は、中国軍は全軍そろって降伏したわけではなく、便衣兵が難民区に潜り込んでいる限り戦闘は継続中と見なされましたので、その戦闘を終わらせるためにも、一般市民に紛れ込んだ兵士を摘出分離する必要がありました。

 ところが、前述した通り、便衣兵の中には周辺農村において拉致されたり、南京城内で徴兵された少年兵など雑兵も多数含まれていたため、国際委員会の目には一般市民と兵士との区別はつきませんでした。しかし、体つきを見れば兵隊と一般市民は直ぐ区別がついたらしく、そこで「自治委員会の中国人と一緒に相談をしながら分離作業をやった」。従って、一般市民を狩り立てるようなことはなかったと、平民分離にあたった陸軍省通訳官は言っています。(『南京戦史』p387)

 しかしながら、そうした日本軍による便衣兵の摘出・処断は、国際委員会を構成するのアメリカ人宣教師等に、「武器を捨てた兵士を平気で殺害する残虐な日本軍、かわいそうな中国人」というイメージを強烈に印象づけることになりました。また、便衣兵の摘出が一段落した12月16日以降、安全区内の難民区や外国人居住区において、掠奪・放火・強姦事件が頻発しましたので、彼等は、これらは全て日本兵が引き起こしているものと思い込みました。

 そこで彼等は、安全区で発生するこれらの事件を逐一記録し、それを日本大使館や日本軍に提出して改善を求めました。それを記録した「安全地帯の記録」には517件の事件が記録されていますが――これらをデータベース化した冨沢繁信氏によると、その中で文責者、被害者及び被害場所が記されている事件はわずか95件しかなく、これは20万都市で二ヶ月間に起こった事件の数としては、それほど多くないといいます。。(以下『データーベースによる南京事件の核心』参照)

 つまり、国際委員会が日本人による犯行として訴えた事件の大半は、実は、中国人の訴えを検証することなくそのまま記録されたり、日本兵の格好はしていたが、日本兵であることが確認されたわけではない事件がその大半を占めていたのです。また、その発生頻度をグラフにして見ると、日本軍が南京城に入城した時と、住民を国際委員会の管理する安全区から自治委員会(つまり日本軍)の管理する安全区外の居住区に帰還させた時期(1月23)が極端なピークになっています。

 これは、安全区が日本軍の進駐によって「地獄」と化したことを証明するために、この時期に事件を集中させたものと見る事もできます。また、後者は、住民が安全区を離れて、自治委員会(つまり日本軍)の管理する城内の他の区域に居住するようになることを、その区域で事件が多発していることを示すことで、それを阻止しようとしたようにも見えます。では誰がこのようなことをやっているか、と考えると、安全区において行動の自由を得ている或るグループの存在が疑われます。

 また、国際委員会の主要メンバーであったベイツが、マンチェスター・ガーディアンの記者だったティンパーリと共に1938年7月に出版した『戦争とはなにか』には、南京城内で発生した517件の事件の内305件を不採用にし、212件のみを収録しています。この時不採用となった305件の内の226件は、1月23日以降、安全区以外の居住区で発生したものです。それが外されたということは、ベイツ等も、その信頼性に自信が持てなかったのではないかと冨沢氏は推測しています。

 ともあれ、国際委員会のメンバー達は、日本軍が南京を占領して以降、城内で掠奪・放火・強姦事件が頻発しているとして、それを西側新聞記者等を通じて世界に宣伝しました。それは、便衣兵に対する先に言及したような同情もあったと思いますが、彼等の間に日本軍に対する反感が根強く存在したことを物語っています。まあ、この点は後述するとして、ではこうした国際委員会の行動が、果たして「良心」にのみ基づくものであったか、というと、実はそうではなく、それは一部の委員によって、きわめて綿密かつ巧妙に計画され実行されたものであったことが、近年ようやく分かってきたのです。

(つづく)